あらすじ
コロナ禍以降、社会は置き配的なものとなった――
「紀伊國屋じんぶん大賞2025 読者と選ぶ人文書ベスト30」の1位に輝いた気鋭の批評家が放つ最初にして最高の2020年代社会批評!
群像連載の「言葉と物」を単行本化。酷薄な現代を生き抜くための必読書!
「外出を自粛し、Zoomで会議をし、外ではマスクを着け、ドアの前に荷物が置かれるのに気づくより早く、スマホで通知を受け取る。個々人の環境や選択とはべつに、そのような生活がある種の典型となった社会のなかで、何が抑圧され、何が新たな希望として開かれているのか。そうした観点から、人々のありうべきコミュニケーションのかたちを問うこと、それがこの本のテーマです。(中略)
つまり、狭義の置き配が「届ける」ということの意味を変えたのだとすれば、置き配的なコミュニケーションにおいては「伝える」ということの意味が変わってしまったのだと言えます。そして現在、もっとも置き配的なコミュニケーションが幅を利かせている場所はSNS、とりわけツイッター(現X)でしょう。保守とリベラル、男性と女性、老人と若者、なんでもいいですが、読者のみなさんもいちどは、彼らの論争は本当に何かを論じ合っているのかと疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。
(中略)置き配的な社会を問うことは、書くことの意味を立ち上げなおすことにも直結するはずです。」(本文より)
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Posted by ブクログ
置き配という言葉が、従来の届けるという意味から変わり、単なるメタデータの共有という風になったという著者の視点から、ありとあらゆるモノやコトが、この置き配の事例のように従来持つ意味が失われ、社会が「置き配化」しているという主張(たぶん)。その中で、本来の「言葉」の意味や力をどう取り戻していくのか(たぶん)。
東浩紀といったゼロ年代の批評家からデリダ、ドゥールズ、フーコーといった哲学・現代思想まで幅広く引用し、批評していく。中盤くらいから完全に追いついていけずで、かなり斜め読みしてしまった。
また改めて読み直してみようと思う。
Posted by ブクログ
新進気鋭の哲学者、福尾匠の話題書。
本書『置き配的』は私の聴いている人文系Podcastで名前が次々と挙げられ、日々の暮らしで意識せざるを得ない状況に追い込まれていた。なので、遂に手に入れた高揚感でワクワクしながら読み始めた。
いやはや、これは高難易度である。
令和人文主義界隈の執筆家たちのような手取り足取りのガイドを勝手に想像していたが、引用される著作やアートがほぼ分からない。前提とされる概念を把握していないので、文字を追っても目が滑り容易に理解しがたい。
強敵であることを早々に察知し及び腰になってしまったが、それでも読む手が止まらない。著者の論考をいっぺんに理解することは難しいが、取り扱う題材の魅力と著者の流麗な文体が読むこと自体を楽しませてくれる。不思議な作品である。
〈密〉と〈疎〉の論考は、いろいろなメディア媒体で解説や批評がされているのでそちらに譲るとして、ここでは第10回の論考に触れたい。ほとんど唯一履修済みであった村上春樹『TVピープル』より『眠り』を絡めた論考は個人的に読み応えがあった。
主人公の女性が原因不明の不眠症により、夜の時間丸ごとプライベートに費やすことができるようになる。その特異な生活を過ごす中、昼と夜の分割を皮切りに義務と私空間、頭と身体といった具合に徐々に境界が遊離し、現実感そのものが揺らいでいく。そのおどろおどろしい描写を改めて思い出した。
この作品批評を援用し、著者は疎外=譲渡される限りのものとしてしか私の固有性はありえないという結論へと導く。『眠り』の主人公は不眠症を通して一見自由な時間を謳歌できる幸せを獲得したかに見えたが、反面昼間の現実=義務を強く意識することになりその狭間で自己が遊離していく。著者はこの遊離を責めるのではなく、疎外=譲渡によるズレの中でしか自己は成立しえないのだと示している。
本書は主に前半は東浩紀の論考との対比を行い、後半はドゥルーズ&ガタリの論考を下敷きに書者自身の思想を展開していく。繰り返すが正直私には難しかった。ただ同時代の著者が繰り出した重厚な批評に触れられたことに、大きな満足がある。
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「しかし私的な消費における豊かさは公的なものの再創造に直接的には寄与しないだろう」
これ刺さる。置き配的を受けた創造を通して、公的なものを再創造することが自分にできるんだろうか。
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この手の現代思想本で困るのは、前提とする思想の概念等を求められる水準まで把握、理解できていないため、思考の流れを浅くしか理解できていないと思われる点だと思う。私の勉強不足。
それを差し置いても、一読の価値があると思った。テーマも方向性も身近で、置き去りにされるようなことはない。
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コロナ禍以降顕著になった、現代を渦巻く息苦しい「置き配的」(置き配的、とは換喩的でありコミュニケーションのフリをした内向きのパフォーマンス)な世の中に抵抗する方法を模索する一冊。
今の世の中を鋭く観察しておりとても面白いが、前提知識がないとイメージするのが難しい部分も多く上手く読み進めなかったのが悔しい。もう一周して理解を深めたい。
Posted by ブクログ
「置き配的」って、なんだそりゃ?
タイトルに惹かれて読んでみたんだけど、
これがなかなか面白い。
置き配って、考えてみれば不思議な仕組み。
配達する人と受け取る人が、直接会わなくても
成立する。
相手の顔を見なくても、言葉を交わさなくても、
ちゃんと何かが届く。
この本を読んで考えさせられたのが、
「人とつながる」って、必ずしも直接向き合うことだけじゃないんだな。
僕は普段、いろんな人と会って、話して、飲んで、そこから何かが生まれるのが好き。
だから、人間関係って直接会ってこそ!と
思っているところがある。
でも、ちょっと考えてみると、
誰かがSNSに何気なく書いた言葉に救われたり。
何年も前に読んだ本の一節が、突然自分の中で
意味を持ったり。
自分が発信したことが、知らない誰かの行動に
つながっていたり。
そこには、直接的なやり取りがなくても、
確かに何かが生まれている。
相手の反応を求めずに、何かを置いておく。
これって、今のSNSや人間関係にも
通じる考え方だなと。
僕らはついつい、
反応が欲しい。
評価されたい。
理解してほしい。
ちゃんと伝わってほしい。
と思ってしまう。
でも、発信した言葉や自分の行動が、
いつ、誰に、どう届くかなんて分からない。
だったら、
「どう受け取られるか」を気にしすぎず、
自分が届けたいものを置いておく。
そんな関わり方があってもいいのかもしれない。
ビジネスでも人間関係でも、相手の反応をコントロールしようとするから疲れることがある。
もちろん、直接会って話すことの価値は
変わらない。
でも、
「つながること」と「常につながっていること」は
違う。
人との距離感にも、もっといろんな形が
あっていいんだろうな。
そんなことを考えさせられた一冊。
当たり前のように誰かに何かを伝える時、
相手の反応を求めすぎていませんか?
Posted by ブクログ
私や私の友人たちはもう20代が終わりかけているか、あるいは30代になっている。幸せそうな人はあまり思い浮かばない。不幸を嘆いているというよりは、背中に焦燥感と閉塞感が滲むという感じ。
この世界についての閉塞感をどうにかする足しになったら良いなと思いながらこの本を読んだ。ツリー的で体系だった密な形式の文章ではなくて、リゾーム的で断片的な疎の文章だから、生き方の指針は強くは示されていなかった。でも、そのような文章のスタイルが大事だというスタンスは理解できた。この世界の閉塞感を正面から密に論じてしまうことは、結局同じ世界の中に取り込まれることになる。例えば、マークフィッシャーは、密な世界を密に(真面目に?)論じたが故に袋小路に入っていったのではないか。
「平和と愚かさ」の問題にもかなり通じる。平和とは考えないことである。であるならば、平和について密に考え、声を上げ、行動することは、既に平和ではないということになる。平和は思考できない。
将棋のように、相手の王を詰ませようと向かっていく密なスタイルでは、窒息するほかない。
私は囲碁を打つから著者の囲碁と将棋の比喩を面白く思った。囲碁棋士は、解説するときに、よくわかりません、とよく言う。私はそれがかなり好きで、かなり疎だなと思う。もちろん囲碁棋士は常人では理解が及ばないほどとんでもない数の手を読んでいる。その上で、どの可能世界(盤面)が良いのか判断がつかないために、出てくる言葉は、わからない、となる。囲碁はどこまで強くなっても、ゲームそのものの複雑性に人間の知性が追いつかない。解説という役割は、ゲームの状況を理解可能な言葉にして観客に伝えるということだが、囲碁棋士はその役割からヌルっと降りてしまう。だから、囲碁の解説は解説というより、どのように考えると良さそうかをリアルタイムで見せる行為に近い。こうしたらどうか、ああしたらどうか、と。
多少はわかる回と、かなりわからない回がある。
7回がかなりわからなかった。4回も。
全体的に言えば、前半より後半の方がわかりやすい気がする。6回から後、疎と密(置き配的)の対比がある程度はっきりしたあたりから少し読みやすい?
前半は置き配的なことがどのようなことが書こうとするパートだが、なにをしようとしているのか最初よくわからなかった。第一回も読み直したらすごく緻密だと思ったけど、柄谷と東を対比的に出してきて、どちらかに肯定的な評価をしながら論じるのかな、と思ってたら、どちらも置き配的(=パフォーマティブ)として、批判されていた。二者の対比があって、両者とも批判されるというのは少し珍しいような気がした。
それにしても、著者は要約が綺麗だ。
8回のラトゥールの要約とかめちゃわかりやすい。3回のオースティンとバトラーの要約とか。そう思えるのは、多少自分で読んだことがあるからで、全然読んだことのないクラウスとか出てくると難しい。現代美術の話題もわからない。
この本は議論をきちんと理解するための本ではなくて、生活で出会う言葉や出来事を、並べる一例を見学するみたいな感じがする。フーコーやドゥルーズの議論をもう少しきちんと理解したいが、それは非美学のほうを読めば良いのだろうか。
Posted by ブクログ
本書で提示された「疎密」の視点は大事だ。なぜならば、それは全てを因果性で捉えてしまう密の次元だけでは、息苦しすぎて、緩やかさ、因果不能性の疎の次元をもってして初めて、生は価値を持ってくるからだ。
第3回、第4回:批評空間ではなく、感想空間の立ち上げ直し。「言葉」を真に受けるための条件の再設定。バトラー的、オースティン的な閉じ込めから逃れられるか。身振りのパフォーマンス化。ここでは呪術性が抜けてしまっている。
Posted by ブクログ
筆者の考えや思考を全て自分のものとして噛み砕いて理解できたわけではない。きっともう一回読んだら別のところが印象に残る気がします。
一番印象に残ったのが「バイラルなものに対してその換喩としての個人を操作の対象とし、そしてその個人を置き配的なネットワークの末端=端末にすること」というフレーズ。
あくまで私の解釈だか、“バイラルなもの"は操作不可能な他者を指しており、それを換喩としてメタデータを操作(=批判)の対象とすることで、コミュニケーションが置き配的、個人を端末にする(=コミュニケーションが通知を鳴らす/通知が鳴ることが目的になる)ことなのかなと。
そして、それは蛙化現象の事例で見られるように、自己の心身を分離させ(=メタデータと実存を分け)、それを相手に投影させている、と私は捉えた。
これはあくまでも感想。この置き配的なコミュニケーションに抗うには、他者をメタデータと実存に分けずに向き合うことが求められているのかなと感じました。
Posted by ブクログ
前提知識をAIで補いながら、それでも理解が追いつかない難しい本だった。それでも、わからないなりに読み応えのある面白い内容だった。
「置き配的」というタイトルが絶妙で、現在のコミュニケーションのあり方は「伝える」ことや「届ける」ことに重きを置いていないという問題提起にはっとさせられた。
昨今のSNSは「他者」の手触りが抜け落ちているからこそ刺々しい言葉が飛び交っているように思っていて、その個人的な課題感を一緒に考えながら伴走してくれるような本だった。
Posted by ブクログ
難しかったけど、なるほどね〜と唸ってしまう文で溢れていた。
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「伝える」ことは「言っておく」ことになる。
誤解には誤解だと言えばいい。しかしこういう誤解が可能ですよねと言われても、究極的にはそうですねとしか言いようがない。
感想はいまや、「もしも私に語彙力があったなら伝えられただろうもの」という、反実仮想を介してしかその存在を認められないかのようだ。
結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかと思う。
Posted by ブクログ
置き配とSNSにおける議論をアナロジーとして読み解くのはおもしろかった。
それまで対面でのコミュニケーション込で届けられていたものが、ただ玄関前に置かれ、そのことが証拠写真とともに配達完了の通知が来るだけに。
SNSでの議論も、コミュニケーションというよりも、言った、言ってやったという言質の確認になりつつある。
後半の議論が一読だけではうまく読み解けなかった。
もう1回くらい読んでみたい。
もしSNSの投稿の文字数がX(旧Twitter)のような140文字以内でなく、1000文字以上だったら、SNSはまったく違うコミュニケーションツールだっただろうというのが、印象に残った。
そもそも流行ってないんじゃないかはともかく、今とはまったく違うコミュニケーションとか議論の形があったかもしれない