久しぶりに一穂ミチさんの作品を読んだ。タイトルや表紙を目にしたときから、私の期待感は高まっていた。本作は2編から構成されており、最初の物語は「恋とか愛とかやさしさなら」。
中心人物は、結婚披露宴の会場でシャッターを切るカメラマンの新夏(にいか)。幸せに満ちあふれた描写が続き、さらに彼女には神尾啓久(ひらく)という恋人がいた。その啓久から突然プロポーズを受け、新夏が自然に応える場面までは、まさに幸福の絶頂といえる展開が続く。新夏の両親は離婚しており、彼女は写真館を営む父に育てられ、自身も同じカメラマンの道を歩んでいた。プロポーズを素直に喜んでくれる父との関係は微笑ましい。しかし、その一方で定期的に食事を共にする実の母とは、どこかしっくりいかない関係が続いていた。
そんな平穏で幸せな日常の中、啓久が盗撮で警察に捕まるという急展開を迎える。読みながら思わず息をのんだ。あまりにも衝撃的な出来事に、「なぜ」という疑問を抱えながら先を読み進めることになる。
その後、事態は新たな局面へ向かう。新夏は啓久の実家で彼や両親と向き合うが、到底「謝って許せる」ような状況ではない。それは当然の反応だ。しかし、だからといってすぐに「関係を解消する」ともならない。そこに新夏の本音や、誰にも踏み込めない複雑な感情があるのだろう。啓久の姉・真帆子は新夏を思って別れを勧めるが、こうした局面では、誰の視点に寄り添うかによって見え方が変わってくる。ただ、啓久が盗撮をしたという冷厳な事実だけは変わらない。言い分はあるにせよ、決して許されることではないはず。
結局、すぐには結論を出せなかった新夏。彼女が講師の手伝いをしたカメラ講習会で、参加者の男性につきまとわれる場面では、彼女の怯えや不安が生々しく伝わってきた。そして新夏は、啓久の身勝手な行動によって、被害者の女性がどれほど怖い思いをしたのかに思いを馳せる。当事者ではない新夏が、この問題をどう消化していくのか、解決の難しさを痛感させられる。
さらに、冒頭の披露宴の主役であり、新夏の10年来の友人である葵との再会が描かれる。葵は啓久の事件を知っており、結婚を決断できない新夏に対して自論を展開して説得を試みる。しかし、新夏はその考え方を受け入れられない。それぞれの価値観が交わることはなく、葵が勧めれば勧めるほど、新夏の心に反発と不安が充満していく様子が痛々しい。
やがて新夏は、自らの誘いで啓久とレストランで会う。彼女が知りたかったのは、啓久が盗撮に至った「心の内」だった。だが啓久にとっては、それは「信頼されていないこと」の突きつけでもある。互いの言い分がすれ違う様子に、元の関係に戻ることは難しいのではないかと感じさせられた。さらに、啓久の母から浴びせられる言葉が新夏に追い打ちをかけ、読んでいるこちらの心まで暗くなっていく。
物語の結末への恐怖と、先を知りたいという好奇心。この相反する感情を抱かせるのは、一穂さんの巧みな構成と心理描写の妙だろう。
その後、定期的に会っている母から、新夏は初めて離婚の本当の理由を聞かされる。それはかつて父から聞かされていた理由とは全く異なるものだった。人間関係とはそんなものかもしれない。分かり合えないことの積み重ねが、決定的な亀裂を生むのだろう。
その直後、新夏は啓久を呼び出し、二人はラブホテルへと向かう。この時の私の心境は、戸惑う啓久と全く同じだった。「新夏は何を考えているのだろう」と。そこで彼女は、こちらの想像を遥かに超えた行動に出る。啓久が怒っても不思議ではない状況。しかし、啓久は新夏の言葉に従う。この極端な出来事が、結果として二人の距離を近づけ、互いの本音を響かせ合う呼び水となる。ドキドキしながらページをめくっていたが、どこか救われたような、ホッとする感覚を覚えた。
この話のラスト数ページの展開は圧巻だった。新夏が向かい合っている啓久の姿は、カメラのレンズ越しにある。カメラマンと被写体という関係でありながら、そこには確かに心が通い合う瞬間があった。この先の二人がどうなるのか、期待が膨らむ結末だった。
続く第二編のタイトルは「恋とか愛とかやさしさより」。こちらの中心人物は神尾啓久である。
舞台は駅へと移り、啓久に声をかけてきたのは、なんとあの盗撮の被害者である女子高生(すでに卒業し私服姿)の莉子だった。慌てる啓久。短い言葉を交わして立ち去るものの、彼の脳裏をよぎる不安がこちらにも伝わってくる。
そして読み進めるうちに、啓久と新夏がすでに別れていたことが明かされ、ハッとさせられた。前作のラストで関係が修復できたものと思い込んでいたからだ。あれから啓久は転職し、新しい環境でやり直そうとしていた。変わろうともがく一方で、周囲の目は常に気になり、自分が犯した「盗撮」という事実は重石のように彼を苦しめ続けている。彼にとっては一回限りの過ちだったとしても、だからといって許されるわけではない。世間の様々な反応に、彼の心は常に揺れ動いている。
被害者である小山内莉子が再び啓久に接触してきた理由。それは彼を糾弾するためではなく、莉子自身もまた、深い孤独を抱えていたからだった。莉子が啓久に自分の胸の内を打ち明けていく、不思議な対話が続く。
さらに読み進めるうちに、加害者と被害者という枠組みを超えて、彼らにとってこのように本音で話せる相手が見つかって本当に良かったのではないか、とさえ思えてくるから不思議だ。
ラストシーンでは、啓久と莉子の本当の心の叫びが伝わってきた。「これでよかったのだろう」と、すとんと胸に落ちるような、これまで味わったことのない独特の読後感が残った。
自分にとって決して身近ではない出来事や登場人物たちに一喜一憂し、何度も心を揺さぶられた。一穂ミチさんの構成や描写の魅力を改めて感じた一冊だった。