養老孟司のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
『バカの壁』(2003年、新潮新書)以前に書かれた著作では、著者の代表作といえる本です。
著者は、「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう」と述べています。ただし唯脳論は、「世界を脳の産物だとするものではない」と注意が付されています。こうした誤解は多かったようで、「解説」を執筆している澤口俊之も、本書が「世界は脳の産物だ」という主張をしているものと誤解をしていたことを告白しています。なお、この点についての著者の主張を正確に理解していたのは池田晶子で、『メタフィジカル・パンチ―形而上より愛をこめて』(2005年、文春文庫)のなかで的確な批評が提示されています。
「唯脳論」の中心的な主張はむしろ、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という著者のことばに、明確に示されているといってよいと思います。いわゆる心脳問題については、心臓と血管系の機能が循環であるように、脳の機能が心であるという主張が語られており、そうした立場から視覚系の機能と聴覚系の機能を区別して、人間の言語についての独自の考えが展開されていますが、心の哲学などでかまびすしく論じられている問題についての唯脳論の立場からのくわしい議論が提出されているわけではありません。
たとえば著者は、「われわれは、背中がカユイ時に、背中のことについてなにかを知っているのではない。脳についてなにかを知っているのである」と断言しますが、「脳についてなにかを知っている」にもかかわらず、それを「背中についてなにかを知っている」のだという思い込みが生じている以上、われわれは「背中についてなにかを知っている」ということがどのようなことであるのかを理解しているはずです。心の哲学では、志向性をめぐる議論においてこのような問題がさかんに論じられているのですが、本書にこうした問題のこたえを見いだすことはむずかしく、「文系と理系の対立を脳に還元してみる」という著者の企図はかならずしも成功しているとはいいがたいように思います。 -
Posted by ブクログ
著者の主著である『唯脳論』が書かれる以前に発表されたエッセイをまとめた本です。
著者は「文庫版あとがき」で、「はじめの部分は、『唯脳論』に至る軌跡をあるていど表わしている。こちらに収録した文章のほうが、私の最初の考えかたをよく示しているものもあるので、興味のある方は両者を並べてお読みいただくと、あるいはよく理解していただける点があるのではないか、と考えている」と述べています。ただわたくしの印象では、前著である『ヒトの見方』(1991年、ちくま文庫)のほうが、解剖学的な議論から『唯脳論』へとつながる著者の思索の軌跡がよく示されているように感じられます。
本書はむしろ、とりあげられているテーマの多様性に目を惹かれます。ゲーテの『ファウスト』の時間論や、モンテーニュの孤独論についてのエッセイもあり、著者は「勝手読み」だと謙遜していますが、著者ならではの斬新な視点が示されていて、個人的には興味深く読みました。かと思えば、「毛だまり」やウオノメの形成についての生物学的な解説もあり、ヴァラエティに富んだ内容となっています。 -
Posted by ブクログ
養老孟司(1937年~)氏は、東大医学部卒、東大大学院基礎医学博士課程修了、メルボルン大学留学、東大教授、東大総合研究資料館館長、東大出版会理事長、北里大学教授等を経て、東大名誉教授。専門の解剖学に加えて脳科学などの見地から多数の一般向け書籍を執筆しており、『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞(1989年)、2003年に出版した『バカの壁』はベストセラーとなり、累計出版部数は400万部を超える戦後日本の歴代4位となっている。尚、現在までに「壁」シリーズとして、『死の壁』、『超バカの壁』、『「自分」の壁』、『遺言。』、『ヒトの壁』の計6巻を刊行し、シリーズ累計の出版部数は660万部超。(『バカの壁』出版時はシリーズ化など考えていなかったはずだが、出版社の商売とはこんなものである)
私は新書を含むノンフィクションを好んで読み、興味のある新刊はその時点で入手するようにしているが、今般、過去に評判になった新書で未読のものを、新・古書店でまとめて入手して読んでおり、本書はその中の一冊である。(『バカの壁』だけは以前読んだ)
本書では、前著で「人生の問題には正解はない」と書きつつも、人生でたった一つだけ確かなことは「死ぬこと」だという養老先生が、「死」に関して日頃考えていることを徒然に語っているのだが、前著と同じく聞き書きであるために、前著やエッセイ集『神は詳細に宿る』と重複する部分があるし、必ずしも整然と論理が展開されているわけではない。(こういう作りの本は、人によっては読み易いのかもしれないが、私は正直あまり好きではない)
それでも、大きく以下の2点については、印象に残った。
◆人間とは日々変化するもので、「死」も当然その延長にあって、昔は死の基準も曖昧なものであった。近現代では、(脳死のような)死の基準や安楽死といったテーマが表で議論されるようになりつつも、なかなかコンセンサスが取れないが、それは、そうしたテーマがこれまではそれぞれの共同体における(グレーゾーンの)暗黙のルールで処理されてきたためである。どこかで意識化・明文化できない領域というのがあると考えることも大事だろう。
◆「一人称の死」はイメージでしか存在しないものであり、我々の考えるべきは「二人称の死」「三人称の死」(特に前者)である。「死というのは勝手に訪れてくるのであって、自分がどうこうするようなものではない、・・・だから自分の死に方については私は考えないのです。無駄だからです。」
「二匹目のどじょう」感は拭えず、今敢えて読む意味については少々疑問ありか。。。
(2022年8月了) -
Posted by ブクログ
ネタバレ気になった一文のメモ
・国家とは政治体制ではない。実質的には供給能力の総和である。(45)
→食糧、医療、コロナワクチン、そういった「供給」がどれだけ国民に提供できるかが国家の力なのかもしれない
・世界と見る時に、神学の位置付けは意外に大切である。(55)
→人の歴史に神(神学)ありきだと思うので、神学の位置づけを知っておくことは教養として必要
・「そうだったのか」と「理解」は向こうからやってくるが、「解釈」はもともとこちらの都合(71)
→理解は感覚の延長で、解釈は運動の延長。解釈は「わかったこと」にできる。
・「意味は外部(の体系、システム)を召喚すること(78)
→意味そのものが独立して存在するのではなく、社会的な行為はお金にならなkれば意味がない。つまり、経済という体系、システムが暗黙に召喚されている
・社会的には理性は学者で、学者は世界を理解しようとする。自由意志は政治家や資本家で、両者は世界を自分の思うように、なんとかしようとする(89)
・二人称の関係、親身になるとはそういうこと。相手と三人称関係であれば、いわば赤の他人(139)
・人間関係で社会停に適切な上手にとることができない。社会てが「わかっていない」。客ではなく、カウンターの内側に入ってしまうタイプ(140)
・伊藤祐靖(いとう・すけやす)『邦人奪回』(143)
→明白な意志をもって行動することは、現代日本社会ではほとんどタブー
・日本の神話である記紀で多用されるのは「なる」。創るより「なる」を優先するらしい(155)
・実際には自然に関わる官業はどこからで自然に復讐される。原発事故を見ればわかる。モノを相手にしていたら、どこかでからなず「想定外」の事態が発生する。現代人はこれを嫌う。だからすべてが人工、つまり意識の産物であるAIに向かう。(156)