養老孟司のレビュー一覧
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藻谷浩介さんは、「経済成長」ありきの社会設計に疑問を呈する人。
私も同じ考えで、成熟社会の維持継続を目指す政策に切り替えるべきだと思っている。
「成長とは何だったのか」の藻谷さんの意見を聞きたかったのだが、話題が発散しすぎてよく分からなかった。
本書は藻谷浩介さんが持論を語り、養老孟司さんに問いかけるというパターンで進む。
藻谷さんの主張が養老さんに軽くいなされる場面がしばしばあって面白い。
何故か、養老さんの振りで、南海トラフ巨大地震や富士山噴火の話題になる。
コロナで今の社会の仕組みの不備が表面化しても、一部の軌道修正がなされただけで一気に改変する動きはない。
もっと壊滅的な危機に遭遇しないと、根本的な考え方は変わらないというのが養老さんの意見。
例えば、首都直下型地震で東京や神奈川が致命的なダメージを受けて初めて方針転換できるのだろうと。
養老さんの「本気で考えるためには、本気で困らなければ無理ですよ」という達観した意見はその通りだと思った。
環境問題にしろSDGsにしろ、自分の生活に影響が薄いうちは誰も真面目に考えない。
教育論でも養老さんは面白いことを言う。
東大医学部には医学を学ぶモチベーションがなくても、偏差値が高かったからという理由だけで入学してくる人がいっぱいいるのだそうだ。
○○大学○○学部卒という肩書だけが欲しい人にはすぐに辞めて貰い、勉強したい人だけが残るのがいい。
なので、「大学に合格したら、すぐに卒業証書を与えよ!」と。
私は「経済成長」は、目先の利益だけを計算して、後々の維持や保守のコストは無視した都合のいい考えだと思う。
現在、日本は人口がどんどん減り、8軒に1軒が空家だというのに、近所でもマンションがバンバン建つ。
とりあえず売れる時に造ってしまえば儲かるからだ。後先のことは考えていない。
我が家もマンションだが、2度目の大規模修繕が近く、建築物は年月が経つと傷むことを実感している。
東京に住んでいると、高層ビルの老朽化が心配事の一つ。
コンクリートの中の鉄筋もさびるが、水の配管などが先にダメになる。
赤坂プリンスホテルは38年で取り壊されたが、ホテル中に張り巡らされた排気管の老朽化を直すより壊す方が安かったからだという。
もっと古い京王プラザホテルは大金をかけて修復工事をやったそうだ。
新宿の高層ビル群は40~50年になるので大丈夫なのかなと見るたびに思う。
築30年程の都庁も雨漏りしてるし、新宿駅も大雨が降ると雨漏りで水浸しになっている。
30年後に悲惨な状態になりそうなのがタワーマンションらしい。
高額な修繕費用がかかることが分かっているのに修繕積立費は低く抑えている。
つまり、ほとんどのタワマンは補修費が全く足りていない。
30年後には住民も高齢になり、修繕や取り壊しにお金を出す人はいないだろうと言われている。
他にも高速道路や橋など、バブルの時期に作られたものが作りっぱなしのまま多数存在している。
養老さんが言うとおり、「大地震が来て壊滅的な状況にならないと何も変わらない」のでしょう。
「日本の進む道」は、悲しい結論になってしまった(-_-; -
Posted by ブクログ
『バカの壁』『超バカの壁』『死の壁』と、養老さんの壁シリーズは都度読んで参りました。毎度毎度あ〜分かるぅ〜、納得ぅ〜っと言う記憶だけあって内容は全く覚えておりませんので、偶に読み返すのも必要だと思いますね。あ、『人の壁』は未読か。
特に年齢を重ねる毎に壁シリーズの面白さと言うか、筆者の捉え所の良さを実感します。
脳、人生、医療、死、情報、仕事について筆者の考えが方が相変わらず面白い、いや、そうなって欲しいと思いますが、経営者の立場としては仕事については些か賛成出来ない事もありました。
ま、昆虫好きの学者さんですから浮世離れしている所も散見できすし、それがまたいいんでしょうか。
この猛暑の中、クーラーの効いた部屋で昼寝を狙って読むには最高の本ですね。
次の壁は何でしょうか。私としては『信用取引の壁』と言うのを一筆お願いしたい、そうです、今年信用取引で大損した私です。株は現物に限ります、そこテストに出ますからね。Twitterの煽りに乗せられてんじゃねーよ、このバカ、バカは私か。やはりバカの壁を越えられない私です。 -
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『動物たちは何をしゃべっているのか?』というシジュウカラの言語を研究している鈴木俊貴さんとゴリラ研究家の山極さんの共著がこの度出版されると聞き、山極さん関連でこちらの対談本を思い出し読んでみた次第。
まず、タイトルと装丁が良い。とてもシンプルでド直球。
そして出だしのプロローグから対談がいきなり始まっている。助走無しのスタートダッシュ。
それでいてストイックに生物学的な話だけが語られるかと思えば、社会論、教育論、日本人論などに話が及ぶ。タイトルに反して、人間について語ってることの方が多い。最早何でもあり。
虫やゴリラに関する知識を通して、我々人間を見つめ直す対談。ご年配のお二人だからか、「今の若い人は…」「今の世の中は…」と嘆き節が多く飛び出す。でも、知の巨人が子ども教育を憂えている姿は、その真剣な眼差しは、老人の戯言のように扱っていい類のものでは無い気がする。
これはなかなか予測のつかない本だった。 -
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ネタバレ日本人は、具体的な生活に関係ないことは何でも言えると思っています。そんなことは生活に関係がない。だから、どういう解釈をして議論をしても構わない。これがふつうの考え方なのです。
日本にとって必要な思想は、全部、無意識のほうに入っているのです。
会社の中で、なにか新しい提案があったとします。それをつぶされる場合には、おく、こんな台詞が出てくるはずです。
「それはまずいでしょう」
それがなぜ、どういう理由で、どのへんがまずいか。その理屈は、いちいち言語化されない。誰も説明しない。でも、「まずい」のは「当たり前」なのです。それは無意識で共有されている。
思想というのは一種の理想であり、現実に関与してはいけない。これが、日本における思想の位置です。現実を動かしているのは無意識のほうにある世間のルールです。世間のふつうの人は、「思想家」と称する人たちの思想について、どこか現実離れしたものだと受け止めていることでしょう。それは性質上、当然のことです。
もちろん、思想の中には現実に生かしたほうがいいようなものもあります。戦後、それを上手に吸い取って現実化してきたのが、自民党です。別に自民党をほめているのではありません。自民党は世間の代表だ、という意味です。
この構造は、日本から無くすことはできない。そのことを私はかつて『無思想の発見』(ちくま新書)の結論として書きました。
日本では、へんに思想が突出するとかえって危ないことになります。それが太平洋戦争につながったわけです。日本で思想が先に立って成功した稀有な例は、明治維新くらいでしょう。
戦後、「何よりも自己が大事だ」というように前提が変わってしまった背景には、もちろん戦争への反省という面があります。
問題は、かつて親孝行を教えていた側も、もともとの意味を深く考えていたわけではない、という点です。
そのせいで、いつの間にかその教えが単なるルールやタテマエになってしまって、それをタテに無理をいう人が出てきました。「当たり前でしょ」と言って本当の意味を考えぬまま、絶対的なルールのように押し付けてくる。「お前はお前だけのものじゃないよ」という真の意味を教えるのではなくて、「とにかく親を大事にしろ。問答無用だ」という押し付けになってしまう。これが、このての古い考え方の問題点です。
人間の脳は、勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っています。一般化してしまう、とも言えます。
柳の下にドジョウがいたのを見た人は、「柳の下にはドジョウはいるものだ」と勝手に思ってしまう。本来は「自分が見たときに、この柳の下に、このドジョウがいた」という一つの視覚情報を得ただけなのに、勝手に一般化して法則にしてしまうのです。メタメッセージを受け取るということは、自分の頭の中で、下(具体的な事象)から上(一般的な法則)を勝手に作ることです。
風邪を引いたときに、秘書が「先生、このクスリを飲んだらどうですか。私、これを飲んだら翌日には治りましたよ」と言ってきたことがありました。
彼女は、「クスリを飲んだら治った」と勝手に一般化しているわけです。
「クスリが効いたのか、その前に食べた焼き肉が効いたのかはわからないでしょ」
これが私の考えです。
一つの例を見て、一般化を進める思考法はたいてい間違えます。このことを、まともな科学者はよく知っています。こういう思考法では九九パーセントが間違える、といってもいいくらいです。
新聞の社会面やテレビのニュースばかりを見ていると、日本では凶悪な少年犯罪がどんどん増えているようにしか思えません。そういう恐怖を口にする人もいます。しかし、実は凶悪犯罪は減っていることをデータが示しています。個々の事件のニュースでは、少年犯罪の増加を伝えているわけではありません。○月○日に、少年が犯罪を起こした、ということを伝えているだけです。それなのに「増加している」と受けて側は勝手に受け止める。
新聞を読んでいたら、大きな事件が連続して起きているように思いますが、そんなことはありません。たいていの人にとっては、大きな事件のない、いつもと同じような平穏無事な日なのです。ほとんどの人が平穏無事な日を過ごすために努力をしています。だから、世の中何とかなっています。自動車を運転する人は事故を起こさないように努力をしていて、その努力はほとんどの人にとって実を結んでいます。でも、新聞に出るのは事故だけです。「今日も三○○○万人がハンドルを握りましたが、さいわいほとんど皆無事でした」ということは伝えられません。
社会が暗くなった、閉塞感で覆われている、と感じている人の中には、ニュースを見すぎ、読みすぎというケースもあるのではないでしょうか。
だから私は前々から、テレビのニュースで「今日はニュースがありませんでした」という放送をやってみればいい、と言っているのです。それが無理ならせめて、全てのニュースを伝えた後に、「……とはいえ全部済んでしまったことです」と締めくくってみてはどうでしょうか。 -
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解剖学者であり、『唯脳論』(ちくま学芸文庫)や『バカの壁』(新潮新書)などで独創的な思索を展開してきた著者が、人間について総合的な考察をおこなっている本です。
「われわれは自分についてなにを知っているのか。それを考えてみたい。それが「人間科学」の基本である」と著者は述べています。ただし著者のいう「人間科学」は、人文科学の領域に限定されるものではなく、自然科学的な知見を大きく取り込んだものです。たとえば著者は、「われわれが知っている世界は脳のなかだけだ」といいます。とはいえ、著者の「人間科学」は、単純に脳科学に還元されるといいきることもむずかしいように思われます。なぜなら著者は、「じゃあ脳の外に世界はないのですか」という質問に対して、「その質問を発するのも脳なら、答えているのも脳なのである」といい、「質問も答えも脳のなか」で「グルグル回し」になると述べています。さらに著者は、脳によって理解される「同一性」が人間社会の「脳化」を推し進め、それによって時間のなかで変化しつづける身体が忘却されてきたという主張にもとづいて文明批評的な議論が展開されていきます。
こうした議論は、『唯脳論』以来著者がくり返し論じてきた主題であり、著者の本をいくつか読んできた読者にはよく知られているのではないかと思います。ただし本書では、「「同じ」と「違う」という世界を、脳は自分で同時に作り出す」ということについて、やや立ち入った考察が展開されており、著者の思想と池田清彦の「構造主義科学論」の近さについて、これまで以上にはっきりした見通しを得ることができたように感じています。 -
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著者は、現代の多くの人は生者と死者を別物、同じ共同体の仲間かそれ以外であるように考えている、と主張するが、自分は特にそう考えていなかったことに気付かされた。
というか、死というものがいかんせん身近な者でないため、意識の上ることすら少ない。
これまでの半生で恩師や祖父や同級生が亡くなったこともあったし、自分は介護職をしていたことから第一発見者になったり、長年介護していた利用者様が亡くなったりしたケースも経験はしている。
が、やはり事故や災害、戦争における死は身近であるはずなのに隠蔽されていて、接することがない。
精神に対する負荷を下げるためということは分かるが、生物としての実感がどこか薄れてしまうのは、その代償だ。
ガンツや進撃の巨人のようなグロテスク描写のある過激なマンガ、
ウォーキング・デッドやゲーム・オブ・スローンズのような容赦のなく登場人物が死んでいくドラマが人気になったりするのは、そういった希薄化した生への実感を無意識に求めているからからなのかもしれない。