ジェーン・スーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
弱ってきた高齢の母がいる身として、大変リアルに興味深く読んだ。
「問題解決マニア」のスーさん、本の前半では馬車馬のごとく課題とその対応策を洗い出して実行に移していく。
大物アーティストとイベンター、ドライバーとピットクルー……父と自分の関係をユニークに例えて、どうにか自分の気持ちを鼓舞してサポートに当たるスーさんの頭の回転には舌を巻くばかり。
けれど相手は人間、それも血縁者の父親。
異性である故の理解できなさや、血縁者だからこそ「期待してしまうけど望む反応が得られない」ことのガックリ感や失敗もたくさん。
こんなに理論的に細部を詰めても、だめなときはだめ!と受け止めるスーさんの気持ちがとてもリアルだと思った。
中でも、
『心は常に「もっと正面から積極的に取り組んだほうがいいのでは?」と「いや、これで十分なはずだ」のあいだを行ったり来たりしている』
という一文が特に印象に残った。
誰かを支えているすべての人が、首がもげるほど頷いてしまう言葉だと思う。
支える相手にも感情があり、個人の考えがあり、全てが正解な訳ではない。
これだけ「優秀な娘」のスーさんでもエラーがある。
それでも試行錯誤しながら相手のそばに立つことをやめない(でも疲れちゃうからときどき離れる)、ということが大事だと改めて認識させてもらった。
しかし、スーさんの資金力で殴りつけるような解決方法もままあり、やっぱりさ〜お金かかりますよねえ!!という気持ちは拭えなかった。
お金、大事だな〜!!! -
Posted by ブクログ
ネタバレ◾️record memo
最近、なんにも報われない。自分をすり減らして頑張っても、どこからも「ありがとう」の言葉ひとつ返ってこない。必要な人だと思われたくて、東奔西走していたら、いつの間にかそれが当たり前になっちゃった。
残酷なことに、仕事ってこういうことの繰り返しだったりする。頑張りを誰にも理解してもらえず、涙がにじんでくるようなことの。自分が、どこにも配られない役立たずのチラシみたいな気分になってくる。私にも何度も経験がある。
こういうときは、自分のことをいつも以上に大切にしたほうがいい。感情が求めるものを、注意深く観察しよう。カラオケや、友達との弾丸トークで発散したいのか、それとも、傷ついた心にそっと毛布を掛けるように、癒されたいのか。
フルコースだっていい。たとえば金曜の夜は女友達と焼肉で発散し、土曜日にスーパー銭湯やスパで癒されて、日曜日は家で元気になる映画を観る。『ローラーガールズ•ダイアリー』なんかがオススメです。
本当は、元気になるまで誰かに丸ごとなぐさめてもらいたいところだけれど、話を聞いてもらったとしても、私の気持ちを完璧に理解してくれる人はいない。分散しようがなにしようが、どうしたって、受け止めてほしい気持ちは相手のキャパシティからあふれてしまうもの。
だから、自分で自分をなぐさめる方法をいくつか持っていよう。どうやったら自分が癒やされるのか、いろいろ実験してみよう。ベストなやり方が編み出せたら、次はもっとうまく凌げるはずだから。
今日もおつかれさまでした。
「人って、思いもよらない方向に変わるよね」
彼女が笑った。その通りだ。私たちだって、取捨選択を繰り返し、かなり変わったもの。
「変わってからのほうが、楽しいよね」
彼女が続ける。私は深く頷いた。
この二十数年で学んだことは、一歩踏み出せば結果的になんとかなる、ということ。
彼女も私も、踏み出したからこそ「これから先も、なんとかなる」と自分を信じられるようになった。
彼女も彼も、顔の見えない世間が作った規範にがんじがらめになってる。男はこうあるべき、女はこうあるべきってやつだ。だって、そのほうが婚活には有利な気がするもの。好き同士が結ばれることをヨシとしながら、社会的承認を伴わないとバツを付けられる、世間のストライクゾーンに収まろうとする彼女と彼を誰が責められよう。
「今日は、お高めのバスソルトを買いなさいよ」
そう彼女に伝えると、不思議な顔をされた。入浴が問題を洗い流すわけではないことは、私もよくわかっている。でも、「ああ、いい香り」とか「あたたかくて気持ちいい」とか、明るい気持ちになる瞬間を作ることは、暴飲暴食よりずっと自分にやさしいよ。
こうやって自分の浅はかさに幻滅したことは、一度や二度ではない。
ちゃんと正しく、ユーモアを持って寛大に生きたい。不用意に他者を傷つけることのない、思慮深い人になりたい。周りを見渡すと、私以外の大人はみなそれができているように思える。先の先を考え、相手を慮って行動しているように。どうして私はそれができないのだろう。どんどん気分が暗くなる。
周囲が私を好ましく思うかどうかなんて、自分にはまったくコントロールできないってことは、のちに手痛い失敗を繰り返してわかった。だから、私を低く見積もる人たちに囲まれたら、さっさと退散することにした。私のことを「いいね」と言ってくれる人たちのところへ移動するために。
いつからか、「なんのために生きるか?」という壮大な問いへの私の答えは「自分のことを好きでいるため」になった。好きになるために長生きするのではなくて、どうせ明日も明後日も生きちゃうんだから、自分を好きでいるほうが心地よい。
なんでこうなるのか、私はうすうす気づいている。視覚的な変化よりも、行動の変化によって「なりたい自分」を叶えることに価値をおいているからです。自分を好きになる方法なら、私はいくらでも知っている。できなかったことができるようになったり、得意なことで人から褒められたりすればいいだけだから。やみくもに頑張れば、できるようになるんじゃあないのよ。できそうなことを、褒められそうな場所でやる。都合のいいところに自分を移動させるのがコツよ。こうやって、少しの努力と工夫でありのままの自分を適度に受け入れられるようになると、心はたいてい平和でいられる。理想と現実の乖離に傷つくこともなくなる。
「なりたい自分」ってこれだっけ?私らしさの欠片もないこの女が、理想の私とは、どうしても思えなかった。つまり、余分と不足が私らしさってことだ。
矮小化。最近よく耳にする言葉だ。本質とは異なる部分をクローズアップして、取るに足らない些細な問題にすり変えてしまうこと。人の気持ちに対してやると、致命傷になる行為。
たとえば苦しみや悲しみや傷ついた気持ちを打ちあけたとき、「たいしたことじゃない、そんなに心配しなくてもいいよ」と言われたほうが、気が楽になることもある。だけど、その前に一度、こちらの不安を額面通りに受け取ってほしいときだってあるのだ。かかわってくる気があるなら、そんな簡単な言葉で、私の気持ちをなかったことにしないでほしい。
人の動きは、意外と簡単に止まる。心に不調をきたし、仕事を長く休んだことがある友達が、私には何人かいる。そういうときは、再び会える気力体力が相手に戻ってくるのを、待つともなく待つ。三か月だったり半年だったり一年以上だったり、人によってまちまちだ。
会うと決まったはいいが、いつまで経っても相手が待ち合わせ場所に現れず、すっぽかされたこともある。最初は驚いたけれど、いまでは慣れっこだ。腹も立たない。最初にすっぽかしてくれた友達には、感謝している。それくらい疲れることが人にはあるんだって、私に教えてくれたから。会いたいという気持ちに嘘がないのは、相手の人となりからわかっている。ただ、いまは調子が悪いだけ。
私の友達は、みな運がいいのだろう。十分に休んだあと、ほとんどが元の暮らしに戻っていった。まったく同じ場所ではないけれど、働きながら生活をするのに、なんら問題がない場所を見つけ、平和に暮らしている。だから、私はそんなに心配していないのだ、あなたのことを。気掛かりではあるけれど、闇雲に不安になるほどではないの。
愛情を持って「あいつダメだなぁ」と言う人がいる。私は「ダメなところもあるなぁ」と言い直す。それなら誰もがそうだから。あいつの場合、陰で徳を積む生真面目さが、今回は裏目に出ただけだ。
暗いトンネルの真っ只中にいる人に、掛けられる言葉は限られている。そう教えてくれたのも、最初に待ち合わせをすっぽかしてくれた友達だ。いまは元気に暮らしているが、当時、私は励ますつもりで、追い詰めるような言葉を投げかけていたに違いない。本当に申し訳なかった。
いまの私にできることは、トンネルの出口で待つ時間をたまに作ること。ずーっと待っているとうっとうしいから。時折、「お〜い、生きてるか?」なんて声を掛ける。トンネルの出口に誰かがいると、うっすら伝われば私はそれでいい。
ちょっとやりすぎなくらいが、ちょうどいいと思う。頑張り屋さんのスイッチは非常に固いから、思い切って力ずくでオフにするしかない。後ろめたくなる必要もない。非難されても耳を貸さないで。だって、あなたはいま休むことを頑張っているのだから。
自分を責めたくなるときは、休みが必要なとき。十分にチャージしたら、またランニングシューズを履いてトラックに戻ればいい。そのときは、休む前よりずっと楽しく頑張れるはずだから。
本当に、本当に、毎日おつかれさま。
さて、今年の私はいままでとちょっと違う。「完全にやめなければ、それは継続と見做す」と、都合よく考えられるようになったから。つまり、現状はあくまで「小休止」なのです。
残りの人生は、右から黒が、左から白が突進してきたとしても、衝突したあとのグレーやモザイクを楽しめるように努めたい。頑張ることがあるとすれば、それくらい。「残りの人生」は、さすがに大きく出すぎたかな。ひとまず、今年は。来年の目標は曖昧を愛すること。
余計なものが絡みついてはいるけれど、まあそれはそれ。じゅうたんは買い替えられるが、人生はそうはいかないもの。だから私はこれからも付き合っていくのだ、このうっとうしい毛足の長さと。
口に放り込んだそばからとろけていくリンドールの甘いチョコレート、ビヨンセのライブ映像、夜眠れなくなることなんかお構いなしの昼寝。転んでは立ち上がりを繰り返すなかで、不足エネルギーをチャージする処方箋をいくつか手に入れることができた。けれど、しんどさど真ん中での急速エネチャージは、私をもっとしんどくさせることも知った。充電のまえには、ワンクッションが必要なのだ。言うなれば、しんどさの放電。それを省くと、心がパンクしてしまう。
さまざまな感情を呼び起こす多層的なエンターテイメントは、心が健やかなとき、もしくは立ち直る準備ができたときにしか効かない。だから、そういうものに心が動かされないときはかえって注意が必要なのだ。自分でも気づかないうちに、心が疲れているかもしれないのだから。
最後に注意。「なんのために生きているか?」を「誰かから必要とされたい」に翻訳するのは、ちょっと危険だとも思う。誰かから必要とされながら苦しみに耐えることなんて、ザラにあるでしょう。そういうのからは、できるだけ早く逃げ出したほうがいい。生きる使命は誰かのためではなく自分のためにあったほうが、徹頭徹尾健やかでいられることも、私は過去の経験から知っている。
それにしても、さすが私の女友達だ。ねちねちやられた挙げ句に大きな声を出されても冷静だったなんて、惚れ惚れする。五年前なら相手が恥を掻く嫌味を言っただろうし、十年前なら怒鳴り返したに違いない。二十年前なら、慌てふためき泣いてしまったろう。どれも、相手の思うつぼ。こういうときは、絶対に同じ土俵に上がってはいけない。
失敗を繰り返しながら歳を重ね、私たちは嫌と言うほど組織という歪な生き物のことを学んだ。会社なんて、みんなとお互いを理解し合うための場所ではないのだよね。
記憶を記号化していくためのコツ、あるにはある。嫌な出来事があったら、物理的にそこからできるだけ遠くに離れるのだ。悪感情を更新し続けないのがポイント。嫌な人って、必ず二度三度と嫌なことをしてくるものだから。ダメージを受けているときに、それを克服しようなんて考えなくていい。まず、逃げる。
そりゃあ、すぐには逃げられないこともたくさんある。忘れたいのに忘れられないと悩む夜だってある。けれど、「いつかはここから逃げよう」と決めておく。それだけで、心は少し軽くなる。
雑然とした子ども部屋に置かれていた鼻がもげたクマのぬいぐるみ、実はまだ持っている。近いうちに、専門の修理屋さんに出すつもりだ。たぶん、ぬいぐるみ本体よりずっと値が張るだろう。それでいいと思う。たくさんのモノと記憶を捨てて、私はモノの価値を自分で決められるようになったのだから。
これからも私は他人の言葉を鵜呑みにし、外されたはしごの前で呆然とするだろう。過去の私と未来の私に「おつかれさん」と言ってあげたい、まぁ、仕方ないよ。そういう性分なんだから。
自分の人生を他者に明け渡さず生きていくなら、意見を持つのは大切なこと。と同時に、他者と意見が異なることそれ自体は悪ではない。これは大•大•大前提の話。ただ、そこに暑さや感情やアレコレが重なると、私はどっと疲れてしまう。赤の他人同士の意見が異なっているのを見るだけで、うまく距離が保てず気持ちがもたれてしまうのだ。フラフラと諍いに吸い寄せられることもある。同じように声を上げないのは大罪なのでは?と不安になることすらある。健やかな自信を保って暮らしていたはずだったのに、自分が正しいのかどうかわからなくなってくる。気づけば、私のなかに「私」がいなくなっている。
弱っているときは、世の中のいろんなことと自分の境界線がにじんでしまう。どこまでが私で、どこからが他者か、曖昧になるのだ。だから、無関係な出来事にグラグラ揺らされる。
気持ちを持ち直すことさえできれば、なにをしても許される人なんて、独裁者でもない限りそうそういないことが自然にわかる。単に、「なにをしても許される」ように私からは見えたというだけの話。なぜそう見えたかと言えば、わがままや失敗は、やってはいけないことだと私が私に固く禁じているからだ。
わがままや失敗は自分の価値を下げると信じ込み、それをやっている(ように見える)人たちをうらやみ、もし自分がああだったら大変なことになると、再び自分にそれを禁じる。なんて忙しないの。ひとり相撲にもほどがある。ホントにホントに、おつかれさんです。
愛される価値があるかどうかなんて相対的な話でしかないのだけれど、生きていると忘れてしまう瞬間が結構頻繁にやってくる。私がうらやむ人たちは、骨の髄までわかっているだけなのかもしれない。失敗してもわがままを言っても、それを拒絶されたとしても、自分の価値は揺らがないということを。
大人になってからわかったことはたくさんあるが、「なにを考えているかわからない相手はたいていなにも考えていない」もそのうちのひとつ。当時の男も、特別な考えがあって言ったわけではなかったのだろう。メランコリックな状況と酒に飲まれ、思わず口をついて出ただけ。それがわからなかった私は、ずいぶん長いあいだこのセリフを引きずってしまった。どうしてあんなことを言ったの?と。当時の私の肩を抱きかかえて言ってあげたい。「なにも考えていないからよ」。
ひとりで頑張れる自分を褒めてあげたい気持ちはあるが、ゆっくり少しずつやることも、自分の力ではどうにもならないこともあると知るのも大切だとたしなめたくもなる。硬いおでこ以上に、人間関係はそうだ。
大人になったいまでも、私はなにを考えているかわからない人に振り回されがちだ。一刻も早く答えを知りたくなってしまう。そういう人を無闇に触ったり強く押したりしても、望むアンサーは出てこない。いらぬ傷を負って、疲れてしまうことのほうが多い。
自分の比較対象になるすべてを遮断することもポイントだ。内側も外側も自分ひとりになって、SNS画面のスクロールや友達とのLINEもしばし休止する。
他人はアテにならないから、自分を慈しむことでボトムアップを測るしかない。言うは易く、行うは難しの典型だよね。でも、究極的にはそれしか手がないのよ。
友人は他者の期待を察知するのがとても上手な人だ。自分がどう振る舞えば仕事がうまく回るか、周りのことが恐ろしいほどよく見えている。特筆すべき能力ながら、会社というのは恐ろしいところで、自分を引っ込めてでも他人の期待に応えようとする人の元へ無理難題が集まってくるようにできている。まるで中州に落ち葉が溜まるかの如く。だから彼女は疲れてしまったのだ。
「彼女は善人すぎる」と人は言う。確かに、性善説が服を着て歩いているようなところがある。自分が頑張ればなんとかなるときは、必ず頑張ってしまう癖もある。そこは多少、矯正したほうが働きやすいだろうな。でも、他人の期待に応えたいという気持ちや、人一倍頑張れる性質って、本来ならありがたがられて然るべきものだ。処世のために失くしてしまうのは、あまりにも惜しい。
恋愛でも、「好意は示すが好かれようとはしない」スタンスって、天賦の才能に近い。そういうことができる人は、たいてい周囲から無条件に好かれるのだから、平身低頭の不器用組にとってはたまったもんじゃない。仕事でも恋愛でも、自分が相手の眼鏡に適うことを証明し続けなければ存在価値なんかないと、無意識に思ってしまう不器用組のみなさん、お元気ですか。
ちゃんとした場に化粧を施して行くと少し不安が紛れるならば、メイクは心の鎧ということ。よって、きちんと化粧をしている日ほど、落とすのが苦役に感じられる。メイク落としが面倒でソファに二時間も横になったままのあなた、今日も本当におつかれさま。最後の力を振り絞って、鎧を脱いでから寝ましょう。私もそうするわ。
私たちといると、数時間でパッと明るい顔になる。けれど、家に帰った途端、なんとも言えない表情が貼り付いたままになってしまうあの子のことが心配だ。心配したところで、私があの子の人生を変えることはできないのだけれど。
「必要とされていることを実感したい」と、あの子は言っていた。たいていの人にとって、異論はないだろう。人の役に立つのは楽しい。しかし、これには「本当に必要とされているのならば」という前提条件が付帯する。あの子は自信がないことに加えて人が良すぎるところがあって、「必要とされている」と「利用されている」の区別がつかないんじゃないかと思うときがある。そのふたつは完全に別物だ。
いろいろな理由があって、「自分の人生の主人公は自分だ」と気づくまでに時間がかかる人がいる。あの子もそのタイプだった。右に行くのも左に行くのも、前に進むのも立ち止まるのも、自分の自由にできるとは知らなかった。無意識に、誰かをいちばん怒らせないのはどんな行動か探っていた。常に、揉めないで済むやり方を模索していた。本来はそんな必要はないし、誰かが怒っても、不当な罪悪感を押し付けてきても、知らんぷりでいいんだよと言ったらびっくりしていた。「知らんぷり」を知らない子。無知の知ならぬ、無知の無知だ。
究極的には、実体験で学ぶしかないのかもしれない。偉そうに説いた私だって、背中から切りつけられるような痛みを人間関係で何度も味わった末に、暫定的な答えとしてここにたどり着いたんだもの。
それでも唯一確信して言えることは、一緒にいても自分が増えていかない相手といても、良いことなんて起こらないってことだ。それだけは、たぶん間違いがない。
神崎さんにも私にも、顔を覆いたくなるような数々の大失敗が自分を作ってきたという自負がある。そのせいで、いまでも癒えぬ傷もある。なんの因果か、同じ失敗を何度も繰り返したりもしている。それでも、やっぱり自分を作ってきたのは成功ではなくて失敗なのだと強く思う。
失敗は私にたくさんの果実を授けてくれたけど、それらが実るまで、どれほどしんどいかもよくわかっている。禍々しい大きな渦のなかにもう一度自分を放り込むわけにはいかない。一からやり直したところで、次は手痛い失敗を回避できるとも思えない。だって、私は私だもの。ぜったいに、同じことをやるに違いない。
次はうまくやれるという自信よりも、次も同じ失敗をする自信の方が100倍ある。私はそんな自分が大好きだ。
怒濤の三十代を経たあと、歩いてきた道を振り返って私が思うのは「私なんかが」と思って良い結果につながったことなど一度もなかったってことだ。人生にほとんど悔いはないものの、もう少し早く自分を信じてあげればよかったなとは、ちょっとだけ思う。
「私なんかが」のマジックワードは、処世術としては有効かもしれない。けれど、鏡を見ながら言うのはオススメしない。「私なんかが」はまるで呪文のように、自分からやる気も可能性も奪っていくから。己の傲慢さを制御したいのなら、シンプルに「おごるなかれ」のひとことでいい。鏡の中の自分を指さして言ってやれ。
誰もが常に正しく生きられるわけではないし、心の欠損を埋めるようなかたちの、「癖」に近い欲望が存在することは、ある程度仕方のないことだ。でも、嗜癖の道を極めたとしても、欠損は永遠に埋まらないことは覚えておかなきゃ。
あなたにいつも不満げだったり、条件をクリアしないと愛情を与えてくれなかったり、あなたにだけつらく当たってきたりしたのは、彼ら彼女らがあなたのしあわせを真剣に願ってくれなかったからだ。「おまえのせいで不幸になった」なんてとんでもない。あなたのせいでもなんでもない。向こうの問題だ。
ホッとするのと同時に、お互いのしあわせをまっすぐ願える、愛する相手を見つけるなんて桁外れの奇跡じゃないかと絶望的な気持ちにもなった。
ネオ真理への道は険しい。それでもやっていくしかない。
私には似合わないと決めつけていたものをひとつずつ試し、気分が良ければとり入れ、やはりダメだと感じたら手放した。そうやって、自分で自分に余計な負荷を掛けることを少しずつ止めていった。すると、これでもいいのだ、ひとまず上出来だと、自分を受容することができた。
社会にも、自分のなかにも、モヤモヤを解き放つ窓が足りない。
すぐのぼせるクセに銭湯で長風呂してみたり、いまだに美味しいのかどうかよくわかっていないビールを「やっぱ唐揚げにはこれっしょ!」とかいってグビグビ飲んで、それで酔っ払って、ひっくり返って、寝る。そうして薄れゆく意識の中で私はいつも思うのだ。「ほんとに、これで合ってる?」って。私のご褒美って、ほんとうにここにあるのだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ◾️record memo
自身を粗末に扱う生き方を自暴自棄と呼びますが、先を見越して好きなことを忌避してばかりの人生もどうなのでしょう。それはそれで、ちょっとつまらない気もする。と同時に、後先考えぬ行動で、未来の私が取り返しのつかない後悔をするのも恐ろしい。私は未来の私に対して責任がありますから。
とは言え、だ。膝を開いていようが閉じていようが、「女」という属性を背負っているだけで、舐めてかかってくる人はいます。威圧感のある強い女になりたいわけではないけれど、なんでも言うことを聞く都合の良い女とは、絶対に思われたくない。
問題は、「新たなジャストサイズ」を探し当てるのにも、それなりの負荷がかかるってこと。今度は「脳」にではなく「心」にですが。選択の失敗で死に至ることはないけれど、前髪を切り過ぎたとか、いつもと違う柄物のワンピースを買って着てみたらやっぱり変だったとか、そういう積み重ねで布団から出られなくなるぐらいのダメージを受けることはままありますもの。回避策はなく、尻込みせずに、試してみるしか方法はないのだけれど。
たとえばランチ、住んでいる街、洋服やコスメ。「私にはこの辺が妥当」と半ば思考停止でジャッジしていることを、めんどうくさがらずに変えてみる。すると、八方塞がりなモヤモヤが晴れ、自己肯定感が高まることもあるやもしれず。本当の居心地の良さを見栄や卑下で放棄するのは、もったいないことです。「違うな」と思ったら、元に戻せばいいだけの話ですし。
頻繁に使うようになったハンドソープは、思い切って海外ブランドのイソップやジョーマローンなどを使うようになってから、なんだか楽しい気分。
目が飛び出るくらいお高いけれど、ここだけは贅沢をする価値があると、いまの私が判断しました。旅行にも出かけられないんだから、いいじゃない。
二十代の頃は、聞こえが楽しそうなイベント、たとえば友達の友達(つまり知らない人)の家で催されるホームパーティーや、新しいクラブのオープン、レストランで珍しい料理を食べる機会があると、少し無理をしても出かけていました。いや、かなり無理をしてでも行っていた。出向いた先で期待していたほどは楽しめなかったとしても(たいてい楽しめないんだけど)、誘いがあれば、懲りずにまた足を運んでいたような。
「その場でしか味わえない楽しみを、自分だけが逃すのはイヤ」という強迫観念に駆られていたのでしょう。約束されてもいない楽しい時間を逃すのがなにより怖かったなんて、私は自分に自信がなかったのだなあ。
いまだって、楽しい出来事は楽しいのです。しかし、楽しさを他人に喧伝することは、二十代の頃より私を幸せにしなくなりました。楽しいことは、自分で楽しんでいれば十分なのだよ。
ならば、私はなにを手放したら、取り返しのつかないことになると思うのだろう。
《私は弱いから、ラクなほうに流されてしまうかもしれない。でも、働くことと稼ぐことを誰かの手に委ねてしまったら、取り返しのつかないことになる。だから踏みとどまって、自分を奮い立たせ鞄をもち仕事場に向かってきました。》
驚くほどしっくりきます。寿木さんにとっての「作ることと食べること」は、私にとっての「働くことと稼ぐこと」。そこを変えただけで、言葉が矢のように胸に突き刺さってきました。
誰かにとっての、「取り返しのつかなくなること」は、非常にパーソナルな領域に宿るのでしょう。手放したらマズイと感じるものこそが、その人をその人たらしめているのだな。
たとえば「なんでわかってくれないの?」問題とか。
そういうことが起きるたび「わかる!わかる!」と沸き立ち、共通の仮想敵ができたような気分になってしまう。よく考えたら不健康だね、これは。依存先を変えているだけのような気がしてきました。
セレブだって、短い腕と生きている。たいていのことは工夫と気にしない精神で乗り切るのが中年だ。
人生に起こる予想外のドラマを、存分に楽しんでいる様子が眩しすぎます。楽しそうな方向へ素直に引っ張られるためには、「自分にはなにが起こっても大丈夫」と信じられる胆力が必要。彼女はそれを持っているのだな。
旦那さんは二度目の結婚だそうで、付き合い出した当初は、経済的な不安がないとは言い切れない状態だったらしい。それでもポーンとジャンプできたのは、彼女が仕事で得た自信を持っているからでしょう。自分のことは自分でどうにかするんだよ。もうひとりくらい、どうにかなるんだよ。
私はこんな風に自由でいられるかしら。楽しそうなハプニングに、素直に引っ張られることができるかしら。どこかで自分を型に嵌めようとしないかしら。
現時点では、まだまだ先入観に囚われているのが現実。「普通」が私に保証してくれることなんて、なんにもないのにねえ。
一筋縄ではいかない女が好む髪型と言えば、これですよ。反骨の証ではないけれど、「私は私の人生を生きるよ」という強い意志を感じさせます。
不測の事態に慌てふためかず、世間では年甲斐もないとされることにも怯えず、自分が楽しいと思ったほうに引っ張られて、自分で自分を幸せにしなきゃ。
自分を不幸せなところに置いたままにしない。自分で選択したことの責任を取る。大人の責務って、この二つくらいだものね。
でも、まぁこんなもんかとは思えるようにはなりました。なんとか持ちこたえた自分、えらい。
いまよりもう少し、マシな人間になりたい。精神が健康な時、その欲望は向上心に姿を変えますが、不健康な時は私から自己肯定感を奪っていく。自分がどんどん嫌いになっていく。そんな時こそ、ふて寝です。だって、疲れている時にポジティブになれるほど、私はおめでたい人間ではないもの。
常に他者の身になって考えられる人は、かなりの確率で愛されます。男女問わず、こればかりは間違いありません。
相手の願いや欲望を瞬時に汲み取り、「やってあげるよ」とか「どう?気が利いてるでしょ」という自己顕示をせず、それを差し出すことができる人。
恋愛だけでなく、仕事でもこういう人は好まれますね。面白いとか容姿が美しいとか、気が合う、なんて人よりもずっと好機に恵まれる。
人を喜ばせるのが好きな人、ならゴマンといるんですよ。でもねぇ、そういう人は私と同じく、エゴの取り扱いがうまいとは言えないことも少なくない。相手が喜ぶことだけを真剣に考え、楽しみながら実行できる人とは、根本的に違うんです。私たちのように、アツアツの女子校あんかけをかけ続けるような祝い方は、やはり稚拙なのだな。
林檎は続けます。《だって写真になっちゃえば あたしが
古くなるじゃない》と。そうかもしれないね、若い頃ならね。でも歳を取って写真に写る人がこの世からいなくなっちゃったら、写真をぎゅっとするしかなくなっちゃうのよダーリン。
肩で風を切って東京のど真ん中を歩く女にも、空からタライのように災難が降ってくることがあります。つらいよねえ。そんな時は映画『グレイテスト•ショーマン』の主題歌「ディス•イズ•ミー」が働く女の支えになるでしょう。日本語字幕がついた公式リハーサル動画がYouTubeにありますので、是非観て欲しい。
私らしさって何だろうと悩んだ時は特に、自分を奮い立たせる気つけ薬のようなエンタメを常備しておくことをオススメします。傷ついても負けない女のアンセムとして、「ディス•イズ•ミー」が私の「女を奮い立たせるソングリスト」に加わりました。後輩ちゃん、日和ったワシが悪かった。今夜はあんたの「ディス•イズ•ミー」に乾杯だ。
これからの男に必要なのは、自分の体や生活の慈しみ方を覚えること。女は経済的自立。男も女も、旧来型の「らしさ」に囚われると命が危うい!
以前に比べて人の話に素直に耳を傾けるようになった(ように見える)彼を見て、改めてこう思います。自己否定に熱心な時は、誰でも簡単に馬耳東風モードになってしまう。そして、自己否定を解除するには、少しでいいから自分を好きになる必要があるということを。
自分の肉体を好きになるのって、自己肯定にかなり効果があります。私の経験上、なんでもかんでも無理して受容するより、変えたいなと思ったところを変える工夫をして、もっと自分を好きになるほうが、好ましい結果を生む場合が多い。それは肉体ではなく、考え方だっていいんですけどね。
肉体にしろ精神にしろ、変わるも変わらないも本人の自由。しかし、自分の身を粗末に扱う自暴自棄と不足があってもそれで良しと自己受容する朗らかな諦観はやっぱり別物で、その違いは「自分のことを好きか」ではなく、「自分に好きなところがあるか」なのかもしれません。
すごい。みんな堂々とキラキラしてる。やりたいことを素直にやって、その見返りをいまの自分に値することとして、しっかり真正面から受け止めている。
褒められるのは嬉しいが、注目されるのは嫌。キラキラしたいけれど、あんまり見ないで欲しい。わがままが過ぎますね。やりたい私と、やったあとを恐れる私。やった私を咎める私、なんてのも未来にはいるでしょうね。もう家に帰りたい。
私には、キラキラした存在に対する憧れよりも、キラキラ欲を隠さず、スポットライトを浴びた自分を楽しみ、拡張していける精神に対する憧れがあります。キラキラを思う存分に味わえる健全な精神が欲しいのです。
お仲間が庇い合って不正をなかったことにするのも、オーバーキルが横行するのも、私が望む社会ではない。立ち返れば、性別や人種や国籍、性的指向といった自分の意思では変えられないことに由来する差別、不当ないじめやハラスメントを放置しないことがなによりの原理原則でしょう。
「そのキャラを失うのが怖いんだろ?失ったら、キャラクターの陰に隠れていられなくなる。自分の足で立たなきゃいけなくなるからね」
なんとも耳の痛い台詞。ネガティブなキャラクターでさえ自身のアイデンティティになってしまうこと、私にも何度かありました。自己憐憫にはもってこいなんですよね、その手のキャラクター。自分で自分を被害者ポジションに勾留すると、ささくれを剥かれるような不愉快な痛みと、ぬるま湯に浸かっているような居心地の良さの両方が同時にもたらされたことを思い出します。
あれ、不思議ですね。最初は心の底から傷ついていたはずなのに、一日も早くこんな自分とはオサラバしたいはずなのに、だんだんと「傷ついている自分」を手放せなくなっていく。手放したら、自分がそこにいた痕跡すらなくなるのではないかと不安で仕方がなくなってしまう。正しい弔いが終わってないからなんでしょう。
でもそれ、周りの人にはバレバレなんですよ。あなたが思い出地縛霊になっていること。自己憐憫と自己陶酔のかけ合わせは、泥酔して風呂に浸かるような危険行為。どこかでエイヤッと見切りをつけなければなりません。
「はじき出された妻の役はごめんよ!」
なんとも力強い。演じるジュリアン•ムーアの格好良さったらないわよ。傷ついていないわけではもちろんないけれど、ジョーゼットは型に嵌められ憐れまれることをハッキリ拒絶しているのです。
被害者「ヅラ」とまではいかなくとも、被害者「役」なら、誰に頼まれたわけでもなく勝手に引き受けていること、誰にでもあるような。
家庭、職場、恋愛で損な役回りばかりと感じるなら、押しつけられた役なのか、手放せない役なのか、一度じっくり考えてみる必要がありそうです。
かけがえのない存在は、意外なところにいるもんです。自分に低い価値をつける人に囲まれてると感じるなら、その場からいなくなるのもネガティブキャラを捨てる方法のひとつ。
すべてを笑い飛ばす必要はないけれど、すべてをトラウマにする必然もない。明日はあなたのために来るのだから。
残念ながら、不均衡は一朝一夕には是正されません。だからと言って、「どうせ私は頑張っても無駄。社会が悪い」と、未知の可能性を自分で潰すのはもったいない。それこそ、新自由主義の思う壺だもの。自分たちの仲間以外はすっこんでろってのを、手を替え品を替え言ってくるのが彼ら彼女らのやり方。
頑張りたいのは、手に入れたいものがあるからでしょう。ひとまず、そこを凝視しようではありませんか。努力は後ろめたいことではないのだよ。
私は「己の欲望を舐めるな」とも思うのです。誰かのせいにしても、そんなに簡単に、その胸に灯る火は消えませんよ。
「そこまで頑張りたくない。過剰に頑張らずとも、普通に暮らせればいいのに」
と願う人もいます。
そりゃそうだ。私も同意見です。けれど、それこそ生まれ持った属性由来の不均衡が当たり前の社会では、叶わぬ夢。
ということは、私も無自覚に雑加工した「私にとっての現実」を世に放っている可能性が大いにあるわけだ。むしろ認知できるすべては、私の脳の中で既になんらかの加工が施されていると仮定しておいたほうがいいのでは。
これは真実と事実の違い。事実はひとつしかないけれど、真実は人の数だけ存在するってやつ。
忘れてはならないのは、主観をベースに導き出された真実には「事実とほぼほぼ一致している真実」と、「事実から遠く離れた真実」があって、自分の本心に気づかないでいると、「事実から遠く離れた真実」のほうに気持ちが転びがちになること。それが、「え?」の違和感を生む。
私にも当然、無自覚な差別意識があります。思わぬところでヒョコッと偏見や差別意識が顔を出し、顔面蒼白になったことは一度や二度ではありません。だから、日々学んでいかないといけないのだけれど。
ついこの間までの当たり前は、今日の非常識。突然ルールが変わったのではありません。以前からダメだったことが、はっきりダメと認識されるようになったという話。
「インポスター症候群」という言葉をご存じでしょうか。成し遂げた結果に対し、自分に実力があったから当然の結果だったとは、どうしても思えない現象を指します。
褒められても、昇進しても、なにかの賞をもらっても、たまたま運が良かったからだとか、自分には分不相応だとか、そういう風に考えてしまう。たとえ、その人の能力あってこその結果だった、というデータが目前にあったとしても。自己評価が低いのですね。
これ、結構厄介な話なのですよ。女は控えめなほうがいいという刷り込みを社会から受けた我々は、結果的にいつまで経っても自分には成し遂げる力があると信じられないばかりか、将来の可能性も信じられなくなってしまうのだから。はっきりNOが言えないのも、問題っちゃ問題だし。
社会的に期待される役割からはみ出すと、不遇という罰を受ける場面があるのは不条理だけれど、強制的に割り当てられた役割ではないのも忘れてはならないところ。沁みついた奴隷根性のシミ抜きは、自分でやらなきゃ誰がやる。できるかどうかではなく、やりたいか、やりたくないか。
そこを曖昧にしておけば、周囲に好感は持たれるかもしれない。しかし、あなたに好感を持った人が、あなたを幸せにしてくれるわけではないのですよ。
なにも入らない二十万円のバッグを買う愚行も、三⚪︎⚪︎円のネックレスを買う楽しさも、どちらも中年の贅沢と言えましょう。
とにかく、好きにやっていこう。それしかない。
過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。人を人とも思わなくなる瞬間が簡単に訪れる。愛情の多寡で言い訳できることではない。単なるファンとの違いはここだ。自他の境界線が曖昧になる対象が推し。推す側の人間性が顕わになるのが推し活。
みんながみんな、我が推しが生きる世界こそが究極だと信じている。私はとても幸せな気持ちになった。世界は「私のナンバーワン」で溢れている。推しのいいところを歌にしたら歌詞は一⚪︎⚪︎番まで続くだろうが、それを万人に楽しんでもらえるとは思わない。でも、それでいいのだ。
大なり小なり、誰もが心に重しを抱えて生きている。それを軽くできるのは自分だけだが、推しやエンターテインメントの存在がなければ、私にその力は湧いてこない。推しが後ろ盾となり新しいものの見方を覚え、私はとても豊かになった。金品と異なり、これは誰にも奪えない豊かさだ。ありがとう。
板の上に立つ者はそこに立ち続ける限り、光となり誰かを照らす。素通りされたり泥団子を投げつけられたりしても、あなたが自信を持って輝き続けることを祈る者の存在を、ゆめゆめ忘れないで欲しい。
あなたは尽きぬ魅力という銀の匙を咥えて生まれた、私の人類最オキニなのだ。
そんな私がいま住んでいるのは、まさに港区です。ここは働く女の野戦病院みたいな場所。港区といえども広いので一概には言えませんが、夜遅くまで開いているスーパーは複数あるし、ケータリングも充実しているし、ちょっと歩けばよそ行きの服も買える。なにしろ、私のような中年女がひとりでぶらついていても、目立たない。ファミリー向けのマンションではないから殺伐とはしていますが、ここに住んでいる限り、さみしくなることはないとも思います。なんというか、みんな戦っている。
でも、雑な住人がいることが、私の心に幾ばくかの安堵を生んでいることも事実です。要は、終の棲家にしようとしている人が誰もいないのです。みんな、ここは止まり木でしかないと思っている。エレベーターに乗ったら挨拶ぐらいはするけれど、住人同士仲良くしようというムードもありません。誰もが自分以外には無関心。それが心地よくもあるのです。
新卒で働き始めてからおよそ四半世紀、とにかく仕事を頑張らなくちゃと、私はメンタルを鍛えに鍛えぬいて生きてきました。なにがあっても、私なら乗り越えられると自分のお尻を叩き、無駄と思われる感情を切り捨ててやってきたことは否めません。
生きることって、永遠の微調整です。年を重ねるごとにそれを痛感します。好ましい地点でピタッと定まることなんて、絶対にないもの。理想形やベストの状態なんてのも絵に描いた餅で、足りないところをありもので埋めたり、余分なところを手でちぎったりしながら、グラグラと揺れつつベターを目指してやっていく。時にワーストになってしまうこともあるけれど、自分で自分を諦めたらお終いだと肚を決めて、そこからまた歩き出す。その繰り返しです。やっぱり、明けない夜はないんです。
いいことにも悪いことにも、私たちは慣れてしまうし、忘れてしまう。人間の順応性の高さに感嘆します。だからこそ、ちょっとベターを目指したくはある。ベストじゃなくても、ひとまず上出来。そうやってこれからも生きていきたいと思います。 -
Posted by ブクログ
考えすぎてしまう女性。女性として生きる事の恥ずかしさや女性性、1人で生きてきた自分を後ろめたさやコンプレックス。それでいて自分の行なってきた事を素直に認め再認識して楽しむ。すごく面白かった。自分の考えていたことや少し前に思ったことがまんま文章として登場して大いに共感した。自分は考えすぎるけど自分だけではないし、似た感性の人が文章面白くて良かった。最後小さい少女を慰めるっていう一度ぃれて受け流すけど、その時の自分の感情と向き合わないとのち大変になる自分の嫌だという気持ちを大切にしてあげるというのがすごく自分のことだった。すごく良かった。やっぱり出会うべく時に出会うべくして本に会ってる。積読やめたい
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Posted by ブクログ
ネタバレ自尊心を守るために、苦手を嫌いの文脈にスライドさせる。自分がうまくできなそうなものや面倒くさいものに対して、無駄というレッテルを貼ったり無関心を装う。あぁ、痛い痛い痛い、痛いところをつかれまくる。
何が無駄で何が無駄じゃないかなんて経験してからじゃないとわかるわけない。浪費も同じ。だから自分にとっての無駄遣いや無駄を把握する面でも、食わず嫌いをやめて色々やってみるのもアリでは?無駄を削るのはその後でも十分では?貯金残高は見なければ減らないので。
「加齢、本当に素晴らしいな。」と軽口で言ってのけるジェーン・スーの文章には常に触れ合っておきたいな、と改めて感じました。
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Posted by ブクログ
内容の概要はラジオ、ポッドキャストで一度は聞いたことがあるないようだったのだが、文章で読み直すのも面白い。
一点、初めてがっつり聞く情報(そうだろうなあとは思っていた)は、しっぽりが子持ちで離婚して戻ってきたということ。そうだよねー。だって、昔よく行ってた喫茶店で、お腹の大きい彼女と来ているところに一度遭遇したんだもんね。
昔の著作から今の著作、ラジオまで続けて聞いていると、その人の人生そのものを一緒に味わっているようだ。それが面白いとかではなく、コラムニストやエッセイストという職業のせいでもあるのだが、人生を切り売りしている作家さん、その分知人のような気分になっていることもあり、そんなに色々書いて大丈夫?あんなことこんなことあったのに大丈夫?と心配になってしまう。肝心なところはちゃんと伏せて、というところまで上手くやっているとは思うけれども、互助会員の心配でした。でも面白かった!