【感想・ネタバレ】ひとまず上出来のレビュー

あらすじ

生きることって永遠の微調整!

ベストじゃなくても、ひとまず上出来ならOK! 令和を生きるネオ中年の私たちにジャストサイズな、元気が湧き出るエッセイ集。文庫版ボーナストラックもあるよ!

いいことも悪いことにも、私たちは慣れてしまうし、忘れてしまう。人間の順応性の高さに簡単します。だからこそ。ちょっとベターを目指したくはある。
ベストじゃなくても、ひとまず上出来。そうやってこれからも生きていきたいと思います。(文庫版あとがきより)

単行本 2021年12月 文藝春秋刊
文庫版 2025年9月 文春文庫刊
この電子書籍は文春文庫版を底本としています。

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Posted by ブクログ

ジェーン・スーさんの紡ぐ言葉にはいつもハッとさせられます。明日を生きるための力、わかる!って感じでした。

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2026年08月29日

Posted by ブクログ

ネタバレ

◾️record memo

自身を粗末に扱う生き方を自暴自棄と呼びますが、先を見越して好きなことを忌避してばかりの人生もどうなのでしょう。それはそれで、ちょっとつまらない気もする。と同時に、後先考えぬ行動で、未来の私が取り返しのつかない後悔をするのも恐ろしい。私は未来の私に対して責任がありますから

とは言え、だ。膝を開いていようが閉じていようが、「女」という属性を背負っているだけで、舐めてかかってくる人はいます。威圧感のある強い女になりたいわけではないけれど、なんでも言うことを聞く都合の良い女とは、絶対に思われたくない。

問題は、「新たなジャストサイズ」を探し当てるのにも、それなりの負荷がかかるってこと。今度は「脳」にではなく「心」にですが。選択の失敗で死に至ることはないけれど、前髪を切り過ぎたとか、いつもと違う柄物のワンピースを買って着てみたらやっぱり変だったとか、そういう積み重ねで布団から出られなくなるぐらいのダメージを受けることはままありますもの。回避策はなく、尻込みせずに、試してみるしか方法はないのだけれど。

たとえばランチ、住んでいる街、洋服やコスメ。「私にはこの辺が妥当」と半ば思考停止でジャッジしていることを、めんどうくさがらずに変えてみる。すると、八方塞がりなモヤモヤが晴れ、自己肯定感が高まることもあるやもしれず。本当の居心地の良さを見栄や卑下で放棄するのは、もったいないことです。「違うな」と思ったら、元に戻せばいいだけの話ですし。

頻繁に使うようになったハンドソープは、思い切って海外ブランドのイソップやジョーマローンなどを使うようになってから、なんだか楽しい気分。
目が飛び出るくらいお高いけれど、ここだけは贅沢をする価値があると、いまの私が判断しました。旅行にも出かけられないんだから、いいじゃない。

二十代の頃は、聞こえが楽しそうなイベント、たとえば友達の友達(つまり知らない人)の家で催されるホームパーティーや、新しいクラブのオープン、レストランで珍しい料理を食べる機会があると、少し無理をしても出かけていました。いや、かなり無理をしてでも行っていた。出向いた先で期待していたほどは楽しめなかったとしても(たいてい楽しめないんだけど)、誘いがあれば、懲りずにまた足を運んでいたような。

「その場でしか味わえない楽しみを、自分だけが逃すのはイヤ」という強迫観念に駆られていたのでしょう。約束されてもいない楽しい時間を逃すのがなにより怖かったなんて、私は自分に自信がなかったのだなあ。

いまだって、楽しい出来事は楽しいのです。しかし、楽しさを他人に喧伝することは、二十代の頃より私を幸せにしなくなりました。楽しいことは、自分で楽しんでいれば十分なのだよ。

ならば、私はなにを手放したら、取り返しのつかないことになると思うのだろう。
《私は弱いから、ラクなほうに流されてしまうかもしれない。でも、働くことと稼ぐことを誰かの手に委ねてしまったら、取り返しのつかないことになる。だから踏みとどまって、自分を奮い立たせ鞄をもち仕事場に向かってきました。》
驚くほどしっくりきます。寿木さんにとっての「作ることと食べること」は、私にとっての「働くことと稼ぐこと」。そこを変えただけで、言葉が矢のように胸に突き刺さってきました。

誰かにとっての、「取り返しのつかなくなること」は、非常にパーソナルな領域に宿るのでしょう。手放したらマズイと感じるものこそが、その人をその人たらしめているのだな。

たとえば「なんでわかってくれないの?」問題とか。
そういうことが起きるたび「わかる!わかる!」と沸き立ち、共通の仮想敵ができたような気分になってしまう。よく考えたら不健康だね、これは。依存先を変えているだけのような気がしてきました。

セレブだって、短い腕と生きている。たいていのことは工夫と気にしない精神で乗り切るのが中年だ。

人生に起こる予想外のドラマを、存分に楽しんでいる様子が眩しすぎます。楽しそうな方向へ素直に引っ張られるためには、「自分にはなにが起こっても大丈夫」と信じられる胆力が必要。彼女はそれを持っているのだな。

旦那さんは二度目の結婚だそうで、付き合い出した当初は、経済的な不安がないとは言い切れない状態だったらしい。それでもポーンとジャンプできたのは、彼女が仕事で得た自信を持っているからでしょう。自分のことは自分でどうにかするんだよ。もうひとりくらい、どうにかなるんだよ。

私はこんな風に自由でいられるかしら。楽しそうなハプニングに、素直に引っ張られることができるかしら。どこかで自分を型に嵌めようとしないかしら。
現時点では、まだまだ先入観に囚われているのが現実。「普通」が私に保証してくれることなんて、なんにもないのにねえ。

一筋縄ではいかない女が好む髪型と言えば、これですよ。反骨の証ではないけれど、「私は私の人生を生きるよ」という強い意志を感じさせます。

不測の事態に慌てふためかず、世間では年甲斐もないとされることにも怯えず、自分が楽しいと思ったほうに引っ張られて、自分で自分を幸せにしなきゃ。
自分を不幸せなところに置いたままにしない。自分で選択したことの責任を取る。大人の責務って、この二つくらいだものね。

でも、まぁこんなもんかとは思えるようにはなりました。なんとか持ちこたえた自分、えらい。

いまよりもう少し、マシな人間になりたい。精神が健康な時、その欲望は向上心に姿を変えますが、不健康な時は私から自己肯定感を奪っていく。自分がどんどん嫌いになっていく。そんな時こそ、ふて寝です。だって、疲れている時にポジティブになれるほど、私はおめでたい人間ではないもの。

常に他者の身になって考えられる人は、かなりの確率で愛されます。男女問わず、こればかりは間違いありません。
相手の願いや欲望を瞬時に汲み取り、「やってあげるよ」とか「どう?気が利いてるでしょ」という自己顕示をせず、それを差し出すことができる人。
恋愛だけでなく、仕事でもこういう人は好まれますね。面白いとか容姿が美しいとか、気が合う、なんて人よりもずっと好機に恵まれる。

人を喜ばせるのが好きな人、ならゴマンといるんですよ。でもねぇ、そういう人は私と同じく、エゴの取り扱いがうまいとは言えないことも少なくない。相手が喜ぶことだけを真剣に考え、楽しみながら実行できる人とは、根本的に違うんです。私たちのように、アツアツの女子校あんかけをかけ続けるような祝い方は、やはり稚拙なのだな。

林檎は続けます。《だって写真になっちゃえば あたしが
古くなるじゃない》と。そうかもしれないね、若い頃ならね。でも歳を取って写真に写る人がこの世からいなくなっちゃったら、写真をぎゅっとするしかなくなっちゃうのよダーリン。

肩で風を切って東京のど真ん中を歩く女にも、空からタライのように災難が降ってくることがあります。つらいよねえ。そんな時は映画『グレイテスト•ショーマン』の主題歌「ディス•イズ•ミー」が働く女の支えになるでしょう。日本語字幕がついた公式リハーサル動画がYouTubeにありますので、是非観て欲しい。
私らしさって何だろうと悩んだ時は特に、自分を奮い立たせる気つけ薬のようなエンタメを常備しておくことをオススメします。傷ついても負けない女のアンセムとして、「ディス•イズ•ミー」が私の「女を奮い立たせるソングリスト」に加わりました。後輩ちゃん、日和ったワシが悪かった。今夜はあんたの「ディス•イズ•ミー」に乾杯だ。

これからの男に必要なのは、自分の体や生活の慈しみ方を覚えること。女は経済的自立。男も女も、旧来型の「らしさ」に囚われると命が危うい!

以前に比べて人の話に素直に耳を傾けるようになった(ように見える)彼を見て、改めてこう思います。自己否定に熱心な時は、誰でも簡単に馬耳東風モードになってしまう。そして、自己否定を解除するには、少しでいいから自分を好きになる必要があるということを。

自分の肉体を好きになるのって、自己肯定にかなり効果があります。私の経験上、なんでもかんでも無理して受容するより、変えたいなと思ったところを変える工夫をして、もっと自分を好きになるほうが、好ましい結果を生む場合が多い。それは肉体ではなく、考え方だっていいんですけどね。

肉体にしろ精神にしろ、変わるも変わらないも本人の自由。しかし、自分の身を粗末に扱う自暴自棄と不足があってもそれで良しと自己受容する朗らかな諦観はやっぱり別物で、その違いは「自分のことを好きか」ではなく、「自分に好きなところがあるか」なのかもしれません。

すごい。みんな堂々とキラキラしてる。やりたいことを素直にやって、その見返りをいまの自分に値することとして、しっかり真正面から受け止めている。

褒められるのは嬉しいが、注目されるのは嫌。キラキラしたいけれど、あんまり見ないで欲しい。わがままが過ぎますね。やりたい私と、やったあとを恐れる私。やった私を咎める私、なんてのも未来にはいるでしょうね。もう家に帰りたい。

私には、キラキラした存在に対する憧れよりも、キラキラ欲を隠さず、スポットライトを浴びた自分を楽しみ、拡張していける精神に対する憧れがあります。キラキラを思う存分に味わえる健全な精神が欲しいのです。

お仲間が庇い合って不正をなかったことにするのも、オーバーキルが横行するのも、私が望む社会ではない。立ち返れば、性別や人種や国籍、性的指向といった自分の意思では変えられないことに由来する差別、不当ないじめやハラスメントを放置しないことがなによりの原理原則でしょう。

「そのキャラを失うのが怖いんだろ?失ったら、キャラクターの陰に隠れていられなくなる。自分の足で立たなきゃいけなくなるからね」
なんとも耳の痛い台詞。ネガティブなキャラクターでさえ自身のアイデンティティになってしまうこと、私にも何度かありました。自己憐憫にはもってこいなんですよね、その手のキャラクター。自分で自分を被害者ポジションに勾留すると、ささくれを剥かれるような不愉快な痛みと、ぬるま湯に浸かっているような居心地の良さの両方が同時にもたらされたことを思い出します。

あれ、不思議ですね。最初は心の底から傷ついていたはずなのに、一日も早くこんな自分とはオサラバしたいはずなのに、だんだんと「傷ついている自分」を手放せなくなっていく。手放したら、自分がそこにいた痕跡すらなくなるのではないかと不安で仕方がなくなってしまう。正しい弔いが終わってないからなんでしょう。

でもそれ、周りの人にはバレバレなんですよ。あなたが思い出地縛霊になっていること。自己憐憫と自己陶酔のかけ合わせは、泥酔して風呂に浸かるような危険行為。どこかでエイヤッと見切りをつけなければなりません。

「はじき出された妻の役はごめんよ!」
なんとも力強い。演じるジュリアン•ムーアの格好良さったらないわよ。傷ついていないわけではもちろんないけれど、ジョーゼットは型に嵌められ憐れまれることをハッキリ拒絶しているのです。

被害者「ヅラ」とまではいかなくとも、被害者「役」なら、誰に頼まれたわけでもなく勝手に引き受けていること、誰にでもあるような。
家庭、職場、恋愛で損な役回りばかりと感じるなら、押しつけられた役なのか、手放せない役なのか、一度じっくり考えてみる必要がありそうです。

かけがえのない存在は、意外なところにいるもんです。自分に低い価値をつける人に囲まれてると感じるなら、その場からいなくなるのもネガティブキャラを捨てる方法のひとつ。

すべてを笑い飛ばす必要はないけれど、すべてをトラウマにする必然もない。明日はあなたのために来るのだから。

残念ながら、不均衡は一朝一夕には是正されません。だからと言って、「どうせ私は頑張っても無駄。社会が悪い」と、未知の可能性を自分で潰すのはもったいない。それこそ、新自由主義の思う壺だもの。自分たちの仲間以外はすっこんでろってのを、手を替え品を替え言ってくるのが彼ら彼女らのやり方。

頑張りたいのは、手に入れたいものがあるからでしょう。ひとまず、そこを凝視しようではありませんか。努力は後ろめたいことではないのだよ。

私は「己の欲望を舐めるな」とも思うのです。誰かのせいにしても、そんなに簡単に、その胸に灯る火は消えませんよ。

「そこまで頑張りたくない。過剰に頑張らずとも、普通に暮らせればいいのに」
と願う人もいます。
そりゃそうだ。私も同意見です。けれど、それこそ生まれ持った属性由来の不均衡が当たり前の社会では、叶わぬ夢。

ということは、私も無自覚に雑加工した「私にとっての現実」を世に放っている可能性が大いにあるわけだ。むしろ認知できるすべては、私の脳の中で既になんらかの加工が施されていると仮定しておいたほうがいいのでは。
これは真実と事実の違い。事実はひとつしかないけれど、真実は人の数だけ存在するってやつ。

忘れてはならないのは、主観をベースに導き出された真実には「事実とほぼほぼ一致している真実」と、「事実から遠く離れた真実」があって、自分の本心に気づかないでいると、「事実から遠く離れた真実」のほうに気持ちが転びがちになること。それが、「え?」の違和感を生む。

私にも当然、無自覚な差別意識があります。思わぬところでヒョコッと偏見や差別意識が顔を出し、顔面蒼白になったことは一度や二度ではありません。だから、日々学んでいかないといけないのだけれど。

ついこの間までの当たり前は、今日の非常識。突然ルールが変わったのではありません。以前からダメだったことが、はっきりダメと認識されるようになったという話。

「インポスター症候群」という言葉をご存じでしょうか。成し遂げた結果に対し、自分に実力があったから当然の結果だったとは、どうしても思えない現象を指します。
褒められても、昇進しても、なにかの賞をもらっても、たまたま運が良かったからだとか、自分には分不相応だとか、そういう風に考えてしまう。たとえ、その人の能力あってこその結果だった、というデータが目前にあったとしても。自己評価が低いのですね。

これ、結構厄介な話なのですよ。女は控えめなほうがいいという刷り込みを社会から受けた我々は、結果的にいつまで経っても自分には成し遂げる力があると信じられないばかりか、将来の可能性も信じられなくなってしまうのだから。はっきりNOが言えないのも、問題っちゃ問題だし。

社会的に期待される役割からはみ出すと、不遇という罰を受ける場面があるのは不条理だけれど、強制的に割り当てられた役割ではないのも忘れてはならないところ。沁みついた奴隷根性のシミ抜きは、自分でやらなきゃ誰がやる。できるかどうかではなく、やりたいか、やりたくないか。

そこを曖昧にしておけば、周囲に好感は持たれるかもしれない。しかし、あなたに好感を持った人が、あなたを幸せにしてくれるわけではないのですよ。

なにも入らない二十万円のバッグを買う愚行も、三⚪︎⚪︎円のネックレスを買う楽しさも、どちらも中年の贅沢と言えましょう。
とにかく、好きにやっていこう。それしかない。

過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。人を人とも思わなくなる瞬間が簡単に訪れる。愛情の多寡で言い訳できることではない。単なるファンとの違いはここだ。自他の境界線が曖昧になる対象が推し。推す側の人間性が顕わになるのが推し活。

みんながみんな、我が推しが生きる世界こそが究極だと信じている。私はとても幸せな気持ちになった。世界は「私のナンバーワン」で溢れている。推しのいいところを歌にしたら歌詞は一⚪︎⚪︎番まで続くだろうが、それを万人に楽しんでもらえるとは思わない。でも、それでいいのだ。

大なり小なり、誰もが心に重しを抱えて生きている。それを軽くできるのは自分だけだが、推しやエンターテインメントの存在がなければ、私にその力は湧いてこない。推しが後ろ盾となり新しいものの見方を覚え、私はとても豊かになった。金品と異なり、これは誰にも奪えない豊かさだ。ありがとう。

板の上に立つ者はそこに立ち続ける限り、光となり誰かを照らす。素通りされたり泥団子を投げつけられたりしても、あなたが自信を持って輝き続けることを祈る者の存在を、ゆめゆめ忘れないで欲しい。
あなたは尽きぬ魅力という銀の匙を咥えて生まれた、私の人類最オキニなのだ。

そんな私がいま住んでいるのは、まさに港区です。ここは働く女の野戦病院みたいな場所。港区といえども広いので一概には言えませんが、夜遅くまで開いているスーパーは複数あるし、ケータリングも充実しているし、ちょっと歩けばよそ行きの服も買える。なにしろ、私のような中年女がひとりでぶらついていても、目立たない。ファミリー向けのマンションではないから殺伐とはしていますが、ここに住んでいる限り、さみしくなることはないとも思います。なんというか、みんな戦っている。

でも、雑な住人がいることが、私の心に幾ばくかの安堵を生んでいることも事実です。要は、終の棲家にしようとしている人が誰もいないのです。みんな、ここは止まり木でしかないと思っている。エレベーターに乗ったら挨拶ぐらいはするけれど、住人同士仲良くしようというムードもありません。誰もが自分以外には無関心。それが心地よくもあるのです。

新卒で働き始めてからおよそ四半世紀、とにかく仕事を頑張らなくちゃと、私はメンタルを鍛えに鍛えぬいて生きてきました。なにがあっても、私なら乗り越えられると自分のお尻を叩き、無駄と思われる感情を切り捨ててやってきたことは否めません。

生きることって、永遠の微調整です。年を重ねるごとにそれを痛感します。好ましい地点でピタッと定まることなんて、絶対にないもの。理想形やベストの状態なんてのも絵に描いた餅で、足りないところをありもので埋めたり、余分なところを手でちぎったりしながら、グラグラと揺れつつベターを目指してやっていく。時にワーストになってしまうこともあるけれど、自分で自分を諦めたらお終いだと肚を決めて、そこからまた歩き出す。その繰り返しです。やっぱり、明けない夜はないんです。

いいことにも悪いことにも、私たちは慣れてしまうし、忘れてしまう。人間の順応性の高さに感嘆します。だからこそ、ちょっとベターを目指したくはある。ベストじゃなくても、ひとまず上出来。そうやってこれからも生きていきたいと思います。

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2026年08月20日

Posted by ブクログ

ポッドキャスト「となりの雑談」を、愛聴すること数年。深いけれど軽さとパワーのあるスーさんの言葉に、頷いたり、驚かされたりするのが心地よくて、スーさん個人の本を読みたくなった。

精神的にめためたにやられている時に、掴んだ藁のようなこの一冊は、大声で笑いながら、笑い涙を拭きつつ、膝をバシバシ叩いて読むという、人生で初めての経験をした本になった。

40代に突入し、情緒が安定している時などほとんどない。この苦しさと鬱陶しさを言葉に表そうとすると、しみったれてしまいそうなのに、重みを残しつつ、軽快に押し出してくれるスーさんに感服。

ポッドキャストだけでは足りなくなったときにも、音がうるさく聞こえるような疲れている時でも、開けられるのが本の良いところ。

独身、40-50代の憂う女性、そして、その年代のパートナーの居る男性にも、お勧めしたい一冊。
でも、スーさんは、元々のパワーがある人だからね!という、付箋をつけて。

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2026年02月06日

Posted by ブクログ

とうとうジェーン・スーさんのエッセイに手をつけました
文章が面白い、楽しい、1人でニヤッとしちゃう
あー楽しく生きてこーって明るい気持ちになれる、あー楽しかった

「ジャストサイズを更新せよ
本当の居心地の良さを見栄や卑下で放棄するのは、もったいないことです。
下着だけじゃなくさまざまな自分のジャストフィットは常に変化していくもの。」

「私は何を手放したら、取り返しのつかないことになると思うのだろう。」

「自分を不幸せなところに置いたままにしない。自分で選択したことの責任を取る。大人の責務って、この二つくらいだものね。」

「生きることって永遠の微調整。」

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2026年01月30日

Posted by ブクログ

2025/09/03予約1
頑張れないなら「頑張らない」と言い直す。できるできない、ではなくやるやらないに置き換える。
筋トレはムキムキ、ダイエットのためでなく明日の自分を生きるため。
いいなあ〜ラジオもポッドキャストも聴いていますが、さすがスーさん。この本は単行本で読んでるけどおまけエッセイがあり嬉しかった。

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2025年09月30日

Posted by ブクログ

鋭い感性 ああ、なるほどと思うコメントが多く、読み飽きない。とりあえず、毎日等身大に頑張っていればよいか、と思えるような気軽に読めて笑える一冊。

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2026年01月12日

Posted by ブクログ

自分って駄目だなぁと少し凹んでいる時に読むといいかもしれません。 印象に残ったのは「変えたいなと思ったところを変える工夫をしてもっと自分を好きになるほうがいい。」という文章。 自分のどんなところが好きかも知るほうがいいですよね。

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2025年09月28日

Posted by ブクログ

うまいねえ! 私は酒井順子とジェーン・スーの間くらいに生まれているので(やや…だいぶ順子寄りか)、いずれ劣らぬ透徹の批判アイズとリズミカル文章に拍手を送るのみだが、わかる!心酔したくなる!

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2025年09月12日

Posted by ブクログ

1月に出た最新エッセイ作では全編通して敏感すぎるフェミニズム主張に付いていけなくて少し距離を取ろうと思っていたけれど、今作は2021年単行本化なこともあり、序盤からこれが私が好きだったジェーンスーさんだと思った。
日々の出来事を絶妙に毒の効いたワードチョイスで語り笑いに変えてくれるところ、特に先を生きる先輩として前向きにさせてくれるところ。
最新作のような作風が刺さる読者もいると思うけど、また今作のような作風で書いてくれることを期待。

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2025年09月07日

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