あなたは、看護師になりたいと思ったことはなかったでしょうか?
進学情報サイト「スタディサプリ進路」が2024年に実施した“高校生のなりたい職業ランキング”の第三位にランクインしたという看護師は昔から”なりたい職業”の上位に位置付けられる職業のひとつです。2024年末で136万3,142人という就業看護師の数の一方で、高齢化社会によって看護師不足は年々深刻化している現状もあるようです。
私たちの命を預ける存在でもある看護師。しかし、そんな看護師になるには国家試験に合格する必要があります。また、国家試験を受験するためには『看護学校』に通う必要もあります。私は看護師ではありませんし、当然、『看護学校』でどのような学びが行われているかも存じ上げません。命を預かるにはどのような学びがそこに用意されているのでしょうか?
さてここに、『看護師になるつもりなど微塵もな』いままに、『看護学校』に入学した一人の女性を主人公にした物語があります。看護師になるための学びを見るこの作品。命を預かることの意味を知るこの作品。そしてそれは、自らも看護師である藤岡陽子さんが看護の現場を描くデビュー作な物語です。
『おはよっ』、『予習してきた?』と、山田千夏(やまだ ちなつ)に『後ろから背中を叩かれ』、『ああ…おはよう』、『演習ってベッドのシーツ交換でしょ。予習のしようがないじゃない』と答えるのは主人公の木崎瑠美(きざき るみ)。『看護師になるつもりなど微塵もなく、とにかく手に職をという親を納得させるためだけに受けた』『都心にある看護学校へ』と通う瑠美は、『きょうこそは担任に退学の意思を伝え、手続きをしよう』と考えています。『じゃあ前に出てやってみて』と言う教員は『名簿に視線を落と』すと、『一組の山田さんと佐伯さん』と指名します。『こわごわとシーツを摑んでいるがどう扱えばいいのかわから』ず苦戦する千夏は、『予習をしっかりしてこいと教員に注意を受け』てしまいます。そして、『各々練習を始めた』学生たち。『瑠美は佐伯と遠野、そして千夏と同じ班にな』り練習を進めます。そんな授業も終わった放課後、『ねえ。やめるなんて言わないでよ。せっかく入った学校じゃん』と、『千夏の大きな声が』教室に響きます。『もともと私、看護師になりたかったわけじゃないし』と言う瑠美に『そんなこと言わないで。いずれやめさせられるかもしれないんだし、それまで残りなよ』と返す千夏は『この学校って入学した数の六割くらいしか卒業できないんだよ。四割の学生はやめさせられるか、自分からやめちゃうんだって』と話します。『一人娘の瑠美の進学先が決まり、ほっとしていた両親の顔』を振り返る瑠美は、『仕事をやめていた父も、数ヶ月前から二十四時間営業の焼肉屋の店長として働き始めたところ』で、『成人するまではと慣れない勤めに出ていく姿を前にすると、自分の思いを言えなくなる』という今を思います。『学校をやめたところで次に自分が何をすればいいか、本当はわかっていない…大学に行ったからとて何者になれるかはわからない』と思う瑠美。
場面は変わり、『夕食を一緒に食べようと言』う千夏と学校を出て『JR新橋駅に向かって』『並んで歩』く瑠美。『瑠美はほんとはどこを志望していたの』と訊かれ、『受験した大学名と学部を口にすると』、『そりゃ難しいわ』と、『大げさに溜め息をつ』く千夏。『あなたは?看護学校だけ?受験したの』と反対に訊く瑠美に、『あたしは看護の専門学校だけだよ。大学はいちおう防衛大も受けたけど。なんちゃって受験だよ、なんちゃって。記念、記念』と答える千夏は『小さい頃からずっと看護師になると決めていた』ことを説明します。『親がそうしろって言い続けてたから』と言う千夏は、『あたしは農耕牛のようにでかいし、器量も良くないし、要領も悪いし、男受けはしないだろうって…ひとりで生きていけるようにしとけって』と父親に言われて育ったと話します。それを聞いて『えらくひどいことを言う父親だなと思ったが、本人はさほど傷ついてもいないように見える』と感じる瑠美。そんな中、『うちで夕飯をごちそうしまあす』と言う千夏は、『山田家の食卓にご招待。まあちょっと遠いんだけど。うち和光市だから、埼玉の』と説明します。『なに、あなたのうちで?』と驚く瑠美に『心配しなくても大丈夫』と言う千夏に連れられ山手線に乗った瑠美。『電車を乗り継いで』和光市駅へと降り立った二人。『あたしんち、あれ。見える?高野豆腐みたいなのが並んでるでしょ』と言う千夏は、『官舎なんだ』、『あたしの父親、自衛官だから。その官舎』と説明します。『小学校二年の時に病気で』母親が亡くなり、『父と、三つ違いの妹との三人で暮らしている』と補足する千夏。『瑠美は、姉妹いるの?』と訊かれ『私はひとり』と答える瑠美に『へえ、そうなんだ。愛情いっぱい育てられたって感じだもんね』と言う千夏は『物怖じしないというか、マイペースというか、あたしから見れば羨ましいとこあるよ』と続けます。それに『我慢できない性格なだけよ』と言う瑠美。そんな瑠美に『うちまで来てくれてありがとう。誘うのけっこう緊張したんだよね』と言う千夏は『あっさり断られるかな、と』思ったと話します。『私こそありがとう…という言葉がうまく出てこなくて』口ごもる瑠美は、『本当は、千夏が声をかけてくれて嬉しかった。入学してから今日まで、瑠美の近くに寄ってくるのは千夏だけで、彼女がいなければひとりきりの学校生活を送っていただろう。朝、教室に入ると一瞬のうちに千夏の姿を探していることを、彼女は知らない』と思う瑠美。『入学式の時からずっと、瑠美と友達になりたいと思ってた。強い人といれば自分も少しは強くなれるかな、とか思ったりして』と言う千夏に『かいかぶりよ』と返すと、『そう…かな。でも瑠美となら繋がれるとか群れるとかじゃない友達になれるような気がして。本物の友達っていうか…。ってあたし大げさかな』と言われた瑠美。『何か言おうとして、でも今話すと声が震える気がしたので、黙って千夏の目を見』る瑠美。『看護師になるつもりなど微塵もな』いという中に『看護学校』で、さまざまな経験を積みながら卒業のその日を目指して歩んでいく瑠美の姿が描かれていきます。
“大学受験失敗と家庭の事情で不本意ながら看護学校へ進学した木崎瑠美。毎日を憂鬱に過ごす彼女だが、不器用だけど心優しい千夏との出会いや厳しい看護実習、そして医学生の拓海への淡い恋心など、積み重なっていく経験が頑なな心を少しずつ変えていく…。揺れ動く青春の機微を通じて、人間にとっての本当の強さと優しさの形を真っ向から描いた感動のデビュー作”と内容紹介にうたわれるこの作品。同志社大学文学部をご卒業後、報知新聞社に就職、その後留学などの経験をされた後、専門学校に通われ看護師資格を取得された作者の藤岡陽子さん。この作品はそんな藤岡さんが2009年6月23日に発表されたデビュー作になります。
2018年4月には、新川優愛さん主演でテレビドラマ化もされているこの作品は、藤岡さんのご経験を描くかのように『看護学校』をその舞台としています。看護師になるには、大学もしくは、3年制の短期大学か専門学校を卒業し、その後、看護師国家試験に合格する必要があります。主人公である木崎瑠美は、高校卒業後、『国立大学』を受験するも不合格、『すべり止め、看護学校だった』と『本人の希望ではなく親の勧めで』『地下鉄三田線の御成門駅から徒歩二分、都心にある看護学校へ』通うようになります。詳細は記されていませんがおそらく3年制の看護専門学校が舞台になっているようです。看護師を主人公に看護の現場を描いた作品としては医師が本業の南杏子さんの「ヴァイタル・サイン」があります。一方で看護師が本業の藤岡さんの作品では、若干飛び道具感が強い「晴れたらいいね」しか私は読んだことがありません。この作品の主人公の瑠美は看護を現在進行形で学ぶ立場であり、看護師を主人公とした小説ではありませんが、普段なかなか目にする機会のない『看護学校』の現場を見ることができることは貴重です。では、そんな現場での学びについて少し見てみましょう。
『ここで下着以外、着ているものをすべて脱いで。ロッカーは一番端から四つを使って。術着はここ。帽子、靴下も忘れずに着けてきてね』
看護師の指示に従って術衣に着替える面々。『手術の見学をするために系列の大学病院』へとやってきた瑠美たちは、『手術を見るのなんて初めてのこと…』、『大丈夫かしら、血とか見るんでしょう?』と戸惑いながら『手術室』へと向かいます。『患者の命すべてが、医師と看護師に預けられている』ことを実感する瑠美という手術室の見学では、『結構倒れる子いるのよ。ここ』という現実もあるようです。
『実技試験の内容は、ベッドメイキング、洗髪、全身の清拭、浣腸、足浴の五課題で、その中からひとつ試験される』。
学びを進める中で避けることができないもの、それが『試験』です。『ある程度準備して臨める学科にくらべて実技は運に左右される』という『実技試験』に臨む瑠美たち。『どの課題に当たるかは、今日、いわゆる試験当日までわから』ないというやり方で実施されるようです。『自分の不得手なものに当たった学生は不運』というその内容は、命を預ける側から見れば仕方ないかなとは思います。しかし、あくまで学生視点から見ることができるところが興味深いです。
『看護学生の木崎瑠美でございます。本日が臨地実習の初日でありまして、至らぬとは思いますが、どうぞよろしくお願いします』。
そんな挨拶からスタートするのは『週明けから、いよいよ初めての臨地実習が始まった』というリアルな医療現場へと足を踏み入れる場面です。個室へと入り、『剝き出しの命と死の気配に、膝が震える』という瑠美の様子が描かれていく場面は読んでいて間違いなく緊張が走ります。物語では、『あの人、難しいから』、『手を焼いてるの。あの人には』と看護師が噂する患者と向き合っていく瑠美の戸惑いが描かれます。学校での授業の場面と違って命を預かる看護師ならではの実習の様子を見ることができ、物語の面白さも増してきます。看護師になるのも大変だということが改めてよくわかる中、とても興味深く読ませていただきました。
そんな物語は、主人公の瑠美の他、同じ班となる四人の学生たちを中心に展開していきます。そんな四人をご紹介しておきましょう。
・木崎瑠美: 『国立大学』受験に失敗し、『すべり止め』として親が希望した『看護学校』に入学。『看護師になるつもりなど微塵もな』い。『二クラス合わせて九十七名の中で、二番の成績』
・山田千夏: 瑠美の同級生で同班。自衛隊に勤める父と三つ違いの妹と官舎に暮らす。『モアイ』とあだ名をつけられている。日野瞬也の幼なじみとして育つ
・佐伯典子: 瑠美の同級生で同班。二人姉妹の母親。『社会人枠』で看護学校に通う。横浜市青葉区の一戸建てに暮らす。夫は建築士
・遠野藤香: 瑠美の同級生で同班。『妹が手術中に命を落とし』、それをきっかけに家族は離散。妹の死の翌日に病院で医師が笑っているのを見て『自分自身の手で、復讐するしかない』と考える
以上の四人を軸に、そして、上記した『看護学校』での学びを描きながら物語は展開していきます。とは言え、二十歳前後の青春を描く物語である分、瑠美が出会う男性についての淡い恋の物語など、必ずしも看護一辺倒で描かれるわけではありません。しかし、どこまで言っても看護の学びを深めていく瑠美の心の有り様が描かれていく物語はやはり魅力的です。
『瑠美は、たった一ヶ月で人はこんなに弱っていくものだということを知った。病魔が巣くうということは、死臭を帯びるということはこういうことなのだ』
同じ医療職と言っても医師と看護師では役割が異なります。それぞれの患者の疾患に向き合っていく医師に対して、患者が生活の場とする病棟を守っていくのが看護師です。そんな看護師になるために学びを深める瑠美は、その学びの中で人が弱っていく姿を目にしていきます。それは、教科書や参考書に書いてあることではありません。自分の目の前で、毎日通う実習の場で、本物の人間が弱っていく様子を見ることになるのです。『病魔』の恐ろしさを感じる一方で、それでも患者と誠実に接していく瑠美の姿は作品冒頭からは大きく変化しています。
『自分が資格を持った看護師であれば、患者の力になることもできるけれど、学生という身分では患者からもらうばかりで、自分は何ひとつ返すことができず、それがまた苦しい』
人が弱っていく現場にいるにも関わらず、一人の学生として何もできない歯痒さを思う瑠美。『実習を経験した者にしかわからない』というその苦しみは将来、看護師になり現場を守っていくためには、必ず経なければならない通過点なのだと思います。この通過点の中で得ることのできる学びの大きさも理解できるところです。しかし、その経験の辛さは簡単に言い表せるものでもないのだと思います。
『看護学生にとって実習より大切なものはなく、また実習より辛いこともない』。
そんな大切な時間を経験していく瑠美。物語は、『看護師になるつもりなど微塵もな』いと退学を考えていた瑠美が看護の現場へと向かって力をつけていく様を描いていきます。その中では、同級生の四人にもさまざまな苦難が襲いかかります。そして、至る物語の結末には、人として誠実に、看護の現場に、人の命に向き合っていく看護師たちの物語が描かれていました。
『白は何色にも変わる』。
白衣姿で命の現場に向き合っていく看護師。そんな看護師になるために学びをすすめていく看護学校の学生たちを描くこの作品。そこには、”本当の強さと優しさ”とは何かという問いを求める主人公たちの姿が描かれていました。看護の学びを興味深く見るこの作品。恋も友情も描く”青春物語”でもあるこの作品。
看護師の世界に興味がある人だけでなく、多くの方に読んでいただきたい、人の命に向き合う貴さに胸打たれる物語でした。