おもしろかった。
終わり方と、節々に出てくるユーモラスな文章が好きだ。(京都タワーは京都のジョニーとか)
はじまりの方は割と危なっかしい感じを覚えながら読んでいたが、読み進めるにつれ惹き込まれ、
最後にはなんとも言えぬ情緒と余韻が残る。
どんなに考えても、この物語の結末がわからない。
こうも読めるし、ああも読める。
読者の判断に任せているような気もする。
「結局自分がどう読みたいのか」で読めばいいんじゃないかと思った。
かなり文学性が高い要素が多く、ちゃんと読もうとすると、何度か読み返して、いくらか考えなければならなそうだ。
例えば、「太陽の塔」や「夢」、「ええじゃないか」、そして最後の結末の謎なども含めて、すべてを総合して考える必要がありそうだ。
難しい。しかしその分魅力的でもあった。
内容に踏み込んでちょっと自分なりに考えてみる。
ここからは大胆なネタバレも厭わない。
神経質な未読者は退散すべし。
「太陽の塔」は何を意味するのか。
「太陽の塔」は、この地球では生まれてそうもない「宇宙の遺物」だ、などのように「私」に捉えられる。そして「私」の元カノの水尾さんはこの「太陽の塔」にどんどん惹き込まれて行く。「私」も「太陽の塔」の存在感、偉大さについては認めている。そして途中、「私」と、水尾さんを狙う他の男・遠藤が彷徨いこむ、「水尾さんの夢の世界」の舞台も、「太陽の塔」聳え立つ万博公園である。
思うに、この「太陽の塔」は「人間には敵わないモノ」を象徴する、「超越的な何か」であり、これを前にしては、人はどうこうできるものではない。
水尾さんのような乙女はこれを最高に魅力的なモノと認識し、完全に惹き込まれる。
そして水尾さんが「太陽の塔」に惹かれるのを、「私」や遠藤は動揺して周りをウロウロすることしかできない。そして「私」は、水尾さんが「太陽の塔」に惹かれるのを、これにはさすがに自分も敵わない、とちょっと諦めているところがある。これはラストのシーン・「私」の水尾さんに対する失恋(と私は解している)のところにも繋がる。とにかく、「私」は水尾さんへの思いをずっと諦めきれないでいるが、「太陽の塔」を前には「敵わない」と思ってしまう。
水尾さんの「夢」に迷い込む「私」と遠藤。
夢の世界にまで「太陽の塔」が現れるのは、「太陽の塔」が水尾さんにとっての憧れであるだけでなく、「太陽の塔」が「現実」世界のものでない、非現実的存在物であることの「しるし」ではないか。
「私」と遠藤は、水尾さんの夢に迷い込むも、どうすることもできない。ただ「太陽の塔」だけが水尾さんにとって別格の存在であることを思い知るだけだ。「私」は夢の中で水尾さんへの思いを諦め始め、目の前の遠藤に後を託し、ライバルに恋のエールを送り始める。付き合っていた頃から水尾さんの「太陽の塔」への思いを見てきた「私」は、「太陽の塔」を前には無力なのだ。
クリスマスイブ、彼女なしの男どもによる四条河原町での「ええじゃないか」騒動。
飾磨が発端としてはじまり、「私」もそれに乗ずるが、「ええじゃないか」「ええじゃないか」の波の中に消えゆく水尾さんを見て、「私」は諦めきれない自分の気持ちを直視する。水尾さんを追いかけるも見失い、追いつかれた飾磨に「ええじゃないか」と言われた「私」は、「ええわけない」と拒絶する。騒動をはじめた張本人の飾磨も「ええわけないわな」と同調する。(飾磨も、物語の途中、「いい加減早く幸せになりたい」気持ちを吐露する。「私」には「聞かなかったことにしてくれ」と言うのだが。)
「ええじゃないか」という言葉は、男たちの諦観だ。
本音を言えば、この現実に満足してるわけはない。
でも、「(今のままでも)ええじゃないか」と言うことでしか、自分を、《今》を認められない。
しかし、大勢を巻き込んで、「ええじゃないか」「ええじゃないか」の言葉が乱発されることで、「(今のままでも)まあいいか」と言う気持ちは強まるばかりか、「このままでええわけない」という本音を強く意識する。それは、飾磨も、「私」も同じだった。
そして飾磨は現実へと帰り、「私」は水尾さんのもとへ急ぐ。そこには、「太陽の塔」が描写されるラストシーンがあった。
解釈の別れるラストシーン。
「ええじゃないか」騒動から抜け出し、水尾さんを追ってきた「私」は、どうやら再び水尾さんに思いを伝えたようである。しかしその描写は、ぼかされ、代わりに描かれたのは、「太陽の塔」の下にいた彼女のもとに、歩み寄る「私」であった。そして、物語は、「大方読者の想像通り」であると告げられて幕を閉じる。一読者としての私の感想としては、「想像通り」なんてとんでもない。結末は全く想像つかなかった。そして、考えれば考えるほど、「復縁」を読もうと思えば読めるし、「失恋」を読もうと思えば読める終わりだ。
しかし、今まで考えてきたことを踏まえて、
私はこの物語の結末を、「失恋」として読みたい。
何度も言うように、「私」が水尾さんに再び思いを告げる時、その代替として選ばれた描写には、「太陽の塔」がいた。今まで見てきた「太陽の塔」の象徴を考えれば、この告白の結果は「敵わない現実」を暗示しているのだろう。そして「私」は「太陽の塔」を前に、自惚れていた自分を認め、「敵わない存在」を知る。そして、この失恋を通して「私」は少しだけ大人になるのだろう。これがこの物語の結末である。
また、「私」が本当に再び水尾さんと結ばれようと思って、再び思いを告げたのかはわからないところがある。「私」は水尾さんと「太陽の塔」を前に、何度も諦観を感じていたし、どこか自分には敵わないことがあることを自覚していた。
では「私」は何がしたかったのか。
「失恋のやり直し」だ。
もう一度、「別れのやり直し」をしたかったのだ。
「私」は、水尾さんと別れたとき、部屋できちんと話し合って、握手をして、さっぱり別れた。でもこれは、「私」が彼女に対して縋り付くのはみっともないという思い、こういう時は男児たるもの堂々とするべきだという思いからの、「気取った」態度だった。「私」は、「本音」で話せてなかったのだ。この別れのとき、水尾さんへの「私」の思いを、きちんと話してはいなかった。
「私」がやり直したかったのは、
その「別れのやり直し」だったのではないか。
もう一度、「振られ直す」ことだったのではないか。
そして、「私」と水尾さんの最初の別れのシーンは、物語のラストシーン、「私」が水尾さんに歩み寄るシーンで、再び回想される。「私」としても、水尾さんに歩み寄りながら、「心残りの記憶」として思い出しているのではあるまいか。
そして物語は、物語の冒頭の言葉を回収する形で、完全に幕を閉じる。
冒頭からラストにかけて。
「何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。」
「何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
そして、まあ、おそらく私も間違っている。」
このように、最後の一文が綺麗に変わる。
この変化は、「私」が再び水尾さんに振られることでしかありえないのではないか、と思う。
「私」は、きちんと水尾さんに向き合わずに別れてしまい、自分の間違いには気づけなかった。それどころか、水尾さんに執着し、ストーカーにさえなってしまった。
「私」は、水尾さんに再び振られ直したことで、ようやく自分の間違いを認められるようになる。彼女を尊敬するからこそ、「彼女が偉大な私を軽んじた」という傲慢な考え方は、捨てる。そして、「私」は、普通の人と同じように、「太陽の塔」を前にして、ある意味身の丈を知り、平凡に間違いを犯す人間のあり方を、自分のあり方として認める。
この「精神的成長」こそが、「私」が失恋という結末を通して、そして「太陽の塔」という教師から、得たものなのだと思う。