注! インタビュー本なのでネタバレ設定にしていませんが、内容にかなり触れています。
年末(2023年のw)、本屋をブラブラしていた時、表紙のフクロウ(あ、みみずく…、ねw)が、なぜかミョーに気に入ってしまって、ついつい衝動買いしちゃった本。
ちなみに、フクロウとミミズクの違いは、羽毛が耳のようにちょこんと出ているのがミミズクで、頭が丸いのがフクロウということらしいけど。
ウチに時々やって来るのは頭が丸い方なせいもあって、ミミズクよりフクロウの方が好きだ(^^ゞ
……って、最近は、文章の終わりに「。」をつけたりすると怒られたり(ニュースで見た)、「、」や絵文字が多いと“おじさんの文章”とバカにされるらしい(『脳の闇』で中野信子が自分だってチューネンのクセに変に上から目線で書いていたw)が、今は多様性が尊重される時代だ(爆)
文章の終わりに「。」をつけるのは、自分にとっては長年の習慣だし。
また、あふれるネットの文章(情報)に、誰もがテキトーに読みがちなネットの文章だからこそ、書いている意図を少しでもわかりやすくするために「、」は、(読みにくかったとしても)あった方が意図が伝わりやすくていいと思う。
絵文字は、エラそぶって書いてるけど、所詮は普通のバカが書いていることだよw、とわかってもらうために、じゃんじゃん多用することとする(^^)/
(ま、例の「。」ハラは、あくまでLINE等、連絡アプリでの話なんだろうけどね)
ま、それはともかく(^^ゞ←だから、絵文字多すぎw
本を読むのが好きな人には、本そのものは好きだけどそれを書いた作家には特に興味を感じないという人も多いらしいけど、自分は作家の人となりや考え方にすごく興味を持つ方だ。
読んで面白かった作家は、「作家の読書道」に載ってないか必ず見て、その作家がどんな本を読んできたのかを知るのが楽しいし。
テレビ等で作家のインタビューがあると、知らない作家でもとりあえず録画して見る。
その作家がこれまでどんな風に生きてきたのかとか、世の中をどう思っているかとか、人生観や恋愛観、思想等々、興味があることはイッパイあるが、特にその作家の小説を書くスタイル…、つまり、普段どういう風に小説を作っているか?ということに、すごく興味をおぼえるのだ。
いや、ノウハウ云々ではなく(たぶん、小説を書くのにノウハウはない)。
その作家が小説をどういう風に書いているかの一端を知ることで、あの小説のあの急展開はどの時点で決まったんだろうか?とか、この小説はどんなことを意識して書いていたんだろう?といったことを想像するのが楽しいのだ。
ついでに言うと、その作家が、まがりなりにも作家としてメシ食ってけるまでの苦労話や、業界、さらに読者への恨みつらみの話も大好きだ(^^ゞ
ただ。
村上春樹のそれに興味があるか?っていうと、まー、ない(爆)
もちろん、それは自分が村上春樹の小説に興味がないからなんだけどさ。
とか言って、実は村上春樹は、例の『1Q84』が出た時、世の中の大騒ぎがすごく不思議で、逆に興味を覚えて何冊か読んだ。
ちなみに、今、ウィキペディアを見ながら確認してみると、その時読んだのは、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『スプートニクの恋人』、『アフターダーク』、『海辺のカフカ』。
あと、短編集の『中国行きのスロウ・ボート』、『カンガルー日和』、『螢・納屋を焼く・その他の短編』、『回転木馬のデッド・ヒート』、『パン屋再襲撃』、『レキシントンの幽霊』、『東京奇譚集』だったから、まぁー、そこそこ読んだ。
その時に思ったのは、村上春樹って、面白いのは面白いんだけど。『1Q84』が出た時の、あのバカ騒ぎする面白さというよりは、物語として普通に面白い小説を書く人なんだなということだった。
だから、あのバカ騒ぎっていうのは、(メディアを含めた)騒ぎたい人たちの騷ぎたい人たちによる騒ぎたい人たちのためのネタってことか…、と気付いた。
ていうか、なんであんなに騒いでるんだろう?という不思議さはどーでもよくなって、(バカ騒ぎしていた人たちではなく、たんに)村上春樹の小説を面白く読んでいる人はこれらの小説のどこをどういう風に面白いと思っているんだろう?という興味に変わった記憶がある。
というのは、自分にとって村上春樹の小説っていうのは、面白いのは面白んだけど、でも、妙に「つるんとした小説」なんだよね。
面白く読めるんだけど、触感が「つるん」としているから印象に残らない。
印象に残らないから、頭の中にある好きな本、好きな作家の棚に入らない。
変な話、村上春樹の小説には「ペ●ス」って言葉がよく出てくるけどw、読んだ触感が「つるん」とした感じがするというのは、その語感とどこかダブっている気がする(^^ゞ
だってさ。日常で、あるいはエッチの場面で、それをその言葉で言う人っている?
いや、他の人がエッチしている時にそれをどんな言葉で言っているかなんて、わかるわけないんだけどさw
でも、なんとなく、エッチの時にその言葉を口にしている人っていなさそうな気がしない?
そんな言葉を言われたら、むしろ恥ずかしいっていうか、生物学用語で会話しながらエッチしている気がしちゃうっていうか(・・;
とにかく、村上春樹の小説っていうと、その言葉の音感も相まって、「つるんとした小説(てろんとした小説って言った方がいいかもしれないw)」というイメージが強い。
それは、不思議なくらいコーフンを催さないエッチのシーンのあの感じと大いにダブるしw
また、小説って、読んでいると頭の中にその情景が自然にバァーっと浮かんでくるものだけど、村上春樹の小説の場合は、それが昔の漫画のような画(藤子不二雄みたいな画?)で浮かんでくる、あの感覚ともダブる。
そんな村上春樹だけど、デビュー作の『風の歌を聴け』は、出た当時、本屋に並んでいたのを見て、妙に引っかかったのを憶えている。
それは、本屋で村上春樹のそれを見た時、1979年というその時代の空気を感じたからだ。
つまり、(そのタイミングで自分が読んでいたかどうかは定かではないが)同じ群像新人賞の中沢けい『海を感じる時』のような、いわゆるその当時の一般常識での「文学」とは全然異なるもののように見えたのだ。
だから、本屋で『風の歌を聴け』を見ても、手にとろうとはしなかった。
1979年当時のあの時代に流行っていたものと同じもの、今で言う「シティポップ」とか、やたらと目にしていたカリフォルニアや海辺のリゾートをイメージしたイラストとか、CMに出てくる渡辺貞夫や浅井慎平、なにより当時人気だった片岡義男っぽいアホバカなカッコつけや気取りを感じて、子供ながらに「ダッセーっ!」のひと言で片付けた(爆)
そんな流行りっぽくて「ダッセーっ!」のひと言で片付けた村上春樹wが、ミョーに一昔前の文学っぽさをまとった『ノルウェイの森』を出した時は呆気にとられたのを憶えている。
『ノルウェイの森』は1987年くらいだっけ?
ウィキペディアで見てみると、87年の9月とあるけど、自分が読んだのは年明けだった記憶があるから、ということは、88年の初めだったのかな?
もちろん、上下で赤と緑という、やたら当時っぽいクリスマスカラーな表紙も相まって、秋には本屋に置かれているのを見て気づいていたけど、それにしても9月には出ていたんだ。
その時、『ノルウェイの森』を読んだのは、もちろん流行っていたからだ(^^ゞ
ただ、今思い返すと、それよりも、その当時の自分のミョーにうら寂しかった毎日になんかしら彩りが欲しくて、あの赤と緑を手に取ったのかもしれないな?なんて思う(爆)
87年の秋っていったら、個人的には大貫妙子の「スライス・オブ・ライフ」と、やたら地味だったスプリングスティーンの「トンネル・オブ・ラブ」なのだが。
そうか。それらと『ノルウェイの森』って、なーんか、それにある何かと通ずるものものがあるような、ないような……w
その『ノルウェイの森』だが、内容は全然憶えていない。
憶えているのは、読み終わった後、友だちにビートルズの「ノルウェイの森」ってどんな曲だっけ?と聴かせてもらって。
なんだ、それならウチにある「ビートルズ・バラード・ベスト20」に入ってたじゃん、と思ったことだけだ。
ただ、読み終わって、悪い感想を持ったわけじゃないんだろう。
だから、ビートルズの「ノルウェイの森」が気になって、どんな曲だっけ?って聞いたんだと思うのだ。
でも、今となっては、「ノルウェイの森」を読んでその時どう思ったか?なんて全く憶えていない。
確かなのは、村上春樹の他の小説を読んだりはしなかったことくらいだ。
そんな村上春樹(の小説)が自分の人生に登場(?)するのは、社会人になって3、4年も経った頃だったと思う。
同僚に、やたらと優秀なヤツがいたんだけど、彼は某国立の文学部出身で。
ある時、彼が村上春樹を語りだしたのを聞いていて、「なんだ。コイツって、村上春樹とか好きなダサいヤツだったんだ」と、心のなかでほくそ笑んでしまったのだ(爆)
(ちなみに言っておくと、後に彼は親しい友人になったw)
村上春樹のイメージを自分史的に見るとそんな感じだ(^^ゞ
面白いのは面白いんだけど、なんか「つるんとした小説」か「てろんとした小説」を書く人で。
それがあるから、読み終わった後、「あぁー、面白かったぁーっ!」と、素直に言う気にならない(なれない?)作家。
だから、村上春樹本人にも何の興味も感じない。
言ってみれば、「ジャズファンなんでしょ? なら、ジャズでも聴いてればぁ?」って感じ?←ジャズ嫌い(^^ゞ
そう、あと、『1Q84』の大騒ぎで村上春樹の本を読んだ時、ウィキペディアを見たら、レディオヘッドが好きみたいなことが書いてあって。
(レディオヘッドが大嫌いな自分としては)ダッサぁ〜とか思っちゃったこととかw
そんな自分が村上春樹を見直しちゃったんだから、この本はスゴい!(爆)
なにがスゴいって、P145にある、“物語というのは、解釈できないから物語になるんであって、これはこういう意味があると思うって、作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなもの面白くもなんともない。(中略)作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている”は、目ウロコで、ものすごくエキサイティングだった。
バカな話だけど、村上春樹のイメージが540度くらい変わった。←180度でいいだろ!w
そう。そういう意味では、この本は第二章に入ってからの方が面白い。
第一章は、インタビュアーの作家がファンであるがゆえに、村上春樹を奉りすぎちゃってて、言ってみれば「村上春樹さまからご託宣を聞く」みたいになっちゃっているのに対して。
第二章以降は、村上春樹 > ファンの関係は引きずりつつも、なんとかかんとか、村上春樹 vs 作家・川上未映子の話として形になっているように思う。
というのは、読んでいると、村上春樹が大人気(オトナゲねw)を出して、少しでもこのインタビューが形になるようにと、インタビュアーの反応を見ながら発言しているように感じるんだよね。
変な話、へぇー、村上春樹って、こんな風な人だったんだ…、と意外な気がしたって言ったらいいのかな?(^^ゞ
もっとも、第一章にも面白いところはある。
小説(フィクション)におけるリアリズムへの意識の差…、未だ”今”を意識することから逃れられないことにジレンマを抱える川上未映子と、批判されることで"今”を解脱してしまった村上春樹の意識の違いは興味深いし(ま、現在の日本の本の世界において、村上春樹は絶対神になっちゃったからっていうのもあるのか?w)。
初期の頃、たぶん批判に嫌気がさして海外にいっちゃう前の村上春樹が持っていた、"前の時代に対する反抗心”なんかは、ちょっとワクワクする。
こんなことを書くと怒り出す80年代アレルギー過多の人wもいるかもしれないけど、村上春樹というのは、戦前からずっと引きずっている日本の文学(純文学?)にあった、あの「貧乏=正義」ではなく、(70年代の終わり〜)80年代以降今に続く、日本の現在の豊かなライフスタイルの肯定で小説(文学)を書き始めた作家のように思うのだw
ただ、それと同時に、戦後の進歩的文化人的なあの感覚(=それまでの日本文学)から逃れられない人でもあるような気がするんだよね。
その、60年代でもなく80年代でもない、言ってみれば、宙ぶらりんな70年代的な位置?、視点?、基点?こそが、今の豊かな暮らしを享受しつつも80年代を全否定する人(というよりは時代?)の感性にすごくフィットするんだと思うのだ(^^ゞ
そんなことを書くと、「村上春樹は海外にもファンが多いじゃん」と言う人もいるかもしれないが。
そっちは、「都市化」や「中産階級化」が進むと、村上春樹の小説の感覚がフィットするようになるってことなんじゃない?
それは、今、都市化や中産階級化が進んでいるアジア諸国で「シティ・ポップ」がウケているあの感覚と同じだと思う。
あまりいい例えではないけれど、イスラエルには村上春樹のファンはいるけど、パレスチナにはおそらくいない。
そういうことだと思う。
そういえば、終わりにある「文庫版のためのちょっと長い対談」で、インタビュアーだった川上未映子がインタビュアーではなく川上未映子として、“『ノルウェイの森』の世界観や時代みたいなものを、30歳くらい年の違う私が10代で読むわけです。私たちの青春とは違うのに、なぜか自分の話として読めてしまうところがあります。文化的なディティールは共有できないのに、不思議ですよね”と言ってるんだけど。
それなんかは、まさにそういうことのような気がするかな?
ただ、川上未映子はその後、“逆に90年代について書かれている小説も結構あるんですけど、まったく自分の青春として読めないのも不思議なんですよね。渋谷とか、ファッションでもいいんですが、90年代の文化ってあるじゃないですか。私が本当に18、19でリアルに聴いた音楽とかリアルなものがリアルに思えない”と言っているように。
村上春樹の書く小説にある、60年代でもなく80年代でもない、ある意味、宙ぶらりんな70年代的なナニカが今の時代にフィットするのは、それは、あくまで村上春樹を読む(好む)人の感覚、さらには、本を読むのが好きな人の感覚であって。
インタビュアーと同世代だけど本を読まない人からしたら、『ノルウェイの森』よりも、自分が90年代にリアルに体感してきたものにこそ、自分の青春を感じるんじゃないのかな?
それは、第三章のP277でインタビュアーが、“(『風の歌を聴け』が出た時)最初から若い読者が興奮した、という話をよく聞きます。「来たな、俺たちの時代が来たな」と激烈に感じた人が、今の50代半ばくらいに多いです”と言っているのを見てもそう思う。
1979年頃といったら、一般的な感覚としては文学の本なんて読んでいたら、即「ネクラ(←死語w)」とバカにされた時代だ。
そんな時代に『風の歌を聴け』を読んで興奮していたような人は、大学生等、ごく一部のスノッブな文学ファンのはずだ。
おそらく、インタビュアーは作家であるがゆえに、業界の人の話を聞くことが多いんだろう。
でも、業界の人=一般の人ではないし。
もし、今の50代半ばくらいの一般の人に、『風の歌を聴け』が出た時に“俺たちの時代が来た”と感じた人が多いのだとしたら、それは、今の世に「村上春樹のファンであることは、なぁ〜んかカッコイイこと」という情報(空気)がネットに蔓延しているからにすぎないんじゃないのかな?w
それは、渋谷陽一がなにかにつけて言っている、「当時はビートルズファンはマイノリティだった」っていうのと同じだと思う。
ていうか、インタビュアーが、『ノルウェイの森』を世代が違うのに自分の話として読めるのが不思議だ、と言っていたことに戻るけど。
メールだ、連絡アプリだ、チャットだ等々、いくらコミュニケーションが便利に密に出来る、今の時代になっても、恋愛がうまくいかないものであるのは、昔と変わらないわけだ。
人間関係が、今も昔もギクシャクしがちなのも同じだ。
つまり、世の中がどんなに変わって便利になろうとも、人間そのものは結局同じで。
『ノルウェイの森』の世界観を文化的なディティールは共有できないのに、自分の話として読めるのを“不思議”だと感じるのは、いつの時代にもある、その時代の人による昔への上から目線にすぎないように思う(^^ゞ
ま、それはともかく。
今の村上春樹の人気っぷりっていうのは、今が”何をするにもまず情報”という面が前提としてあるのは確かだと思うけど、なにより今の感性や感覚に合うってことが大きいんじゃないのかな?
だからって、村上春樹を好まない人が、今の感性や感覚からズレているっていうことでは決してなくて。
村上春樹を好まない人というのは、今の感性や感覚に内包される60年代的なもの、あるいは80年代的なものといった、村上春樹の小説にある特定の要素に過敏に反応してしまうってことのように思うんだよね。
60年代も、80年代も、ある意味どちらもスノッブだから(爆)
すごくスノッブであり、その反面、スノッブでない、今みたいな世の中を生きているからこそ、同じ感性や感覚を持っていたとしても、ある人は村上春樹の小説にあるナニカが心地よくフィットするし、ある人は受け入れられないっていうのはあるんだと思う。
それこそ、村上春樹の小説を読んで「面白かった」という人、「面白くなった」という人に、なぜそう思ったのか?を聞くことで、その人が「今の世の中」をどう捉えているか、あるいはライフスタイルや消費スタイルが見えてくる…、みたいなマーケティング的な指標をつくることだって出来るかもしれない。
そういう意味では、村上春樹っていう人は、今を解脱しちゃったようでいて、実はその時代の影響をものすごく受けてしまうタイプの人なんだと思う。
村上春樹がマスコミ等のインタビューを受けないようにしている等、(たぶん)意識して自分が世の中に露出しないようにしているのは、自らにそういう面があることをわかっているからなのかもしれない。
繰り返しになるが、第二章にある、“物語というのは、解釈できないから物語になるんであって、これはこういう意味があると思うって、作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなもの面白くもなんともない。(中略)作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている”という、言ってみれば、いい意味での読者への突き放し発言wは、ものすごくエキサイティングだった。
それは、やっぱり第二章で、“「これは出産のメタファーだな」と考え出したりしたら最後だから”、“頭を使って考えるのは他の人に任せておけばいい。それは僕の仕事じゃない”と語っているように。
村上春樹っていうのは、もしかしたら、作家がやることは、あくまで物語を書くことであって。
物語を「文芸」にしてはならない。それを「芸」とするのは他の人、つまり、評論家や読者に勝手にやらせておけばいい、という考え方なんじゃないだろうか?
それは、元々ファンであり、なにより、インタビュアーとして、このインタビューの前に過去の作品を念入りに復習してきたであろう川上未映子の追求wに、あっさりと「忘れたよ」と答えたのをみてもそんな気がする。
インタビュアーとしては、あるいは、この本を企画した編集部、さらにはファンからしたら、あの小説のここはどんな意味があるのか?とか、あの小説のこれはどんな意図で書かれているのか?という村上春樹本人による「正解」を期待していたところなんだろうが。
書いた当の本人からしたら、場面場面での意図や意味は瞬間的に頭の中にあったとしても、それは、あくまでその瞬間にあった意図や意味にすぎなくて。
そんなものは、書いた当の本人ですら、時期やタイミングによって全然変わる、言ってみれば、後付けの正解(のようなもの)にすぎないってことなんだろう。
そういえば、篠田節子が、“小説は書き終えるまでは100%作家のもの。書き終えた瞬間、100%読者のもの”みたいなことを言っていたけど、それは村上春樹の「忘れたよ」に通じているんだろう。
ていうか、自分が書いた小説をそういう風につき離せるか否かが、作家の一つの分かれ目なのかもしれない。
そういう意味でも、村上春樹に好感を持った。
自分が文学を読んだのは、せいぜい大学生くらいまでで。
それ以降は、海外ミステリーを中心にエンタメ小説ばかり読んできたわけだが、村上春樹のそれによって、自分がいかにエンタメ小説のお決まりやルールこそが小説(物語)の常識だと勘違いしてきたかを思い知らされた気がする。
物語の中で語られてきたパーツ、パーツが一つ、一つ、収まるべきところに収まっていった結果、読者が今まで見えてなかった大きなストーリが見える、もしくは、読者が思ってもみなかったストーリーに変わるみたいな小説っていうのは、もちろんそれはそれで面白いし、自分もそれを楽しんできたわけだが。
でも、そういう小説っていうのは、本来は小説の中の一つのタイプにすぎないわけだ。
そういうタイプの小説こそが優れた小説だという価値観は、(読者によって)それはそれでアリなんだろうけど。
そういう小説じゃない、読者それぞれに捉え方が違う、あるいは、同じ人が読んでも、読んだ時期やタイミングで印象が違ったり、全然別の捉え方が出来る小説があるというのは、子供の頃、小説を読み出していた頃はおぼろげながらに知っていたはずなのに。
面白い小説、面白い小説と求めている内に、いつの間にか忘れてしまった小説の楽しみ方を思い出させてくれたような気がするかな。
表紙のフクロウ(みみずくねw)で衝動買いしてしまったこの本だけど、そういう意味では、とっても有意義な衝動買いだったと言える(^^)/
そんなこの本は、全体については村上春樹についての本であり、部分的には『騎士団長殺し』についての話であり、また、作家同士の裏話だったりもするわけだけど。
読みようによっては、これからの時代に人は仕事にどう向き合っていったらいいのか?というヒントが書かれている本でもあるように思う。
働き方改革がどんなに進もうと、IT技術によって仕事がどんなに省力化効率化されようと、それは仕事だ。
必死こかなきゃ、お金は貰えない。
なにより、必死こかなきゃ、仕事は絶対面白くならない。
村上春樹の小説が面白いのは、村上春樹が面白くなるように必死こいて書いているからだと思うんだけど、そういう意味でこの本は、「村上春樹流、仕事で楽しく必死こくヒント集」として読んでも面白いように思う(^^ゞ
それは、インタビュアーである川上未映子(と出版社の担当者)がこの村上春樹へのインタビューを面白いものにするために、いかに必死こいたか?ということにも通じている。