村上春樹のレビュー一覧
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迷わずにfive stars
短い小説ではあるが、付箋だらけになった。
ノルウェイの森と鼠三部作の関連性ははっきり言及されていないと思うが、先に読んだノルウェイの森の直子と本作品の直子がどうしても重なってしまう。直子と井戸について同時に言及されているので、尚更そう感じる。
倉庫の中での「スペースシップ」との再会と別れは、語り手が手放せずにいた直子の死や過ぎ去った過去(人、街、文化)に別れを告げたことを象徴するのではないか。
そしてその別れと共に、語り手の時間は少し動き出したような気がした。
けれどそれは成長というよりは、生きている限り、時間は進み、同じ場所に留まることはできないということなのかもしれない。
「見知らぬ他人が出会い、そしてすれ違う、それだけのことだった。それでも鼠の心は痛んだ。」 -
Posted by ブクログ
読書によってこんな体験ができるのか…。
私は、フカエリやその他の強制性交を天皇制を軸とした侵略戦争による日本人としての傷みと捉えて読んだ。そういった傷みを見つめることが、新しい通路を開く。「声を聞く」なんて玉音放送みたいじゃないか。
しかし、この作品はそのような歴史的視点の導入だけで安易に読み解かれるものではない。核心的な部分はここだ。
「心という作用が、時間をどれほど相対的なものに変えてしまえるかを、その光の下で天吾はあらためて痛感する。」
時間は乗り越えられる。心という作用によって。
ここに文学作品の必要性と人間が持ちうる資質への言及がある。苦しみを乗り越える資質を、私たちは持っている。そこには他者と出会うこと、他者とともに生きることの可能性も重要な要素として組み込まれている。
青豆や天吾、牛河やタマルらの生き方から学ぼうとすれば、可能な限り理知的に生きること、その上で心の声を注意深く聞き、自らの生き方を選択すること。現代に足下をさらわれることがない生き方を、1Q84は提示していた。
最後に、醜さをもった牛河から空気さなぎが作られ、描かれることのない何かが生まれようとしていること。これからの衆院選の後に生まれる悲劇とつながってなければいいのだが。 -
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最近は対談集をよく読んでいる。この本もその流れで買った。村上春樹と河合隼雄。小説界と心理学界の大御所対談。やはり面白く、読むたびに自分のなかで立ち上がる何かがある。
「深く病んでいる人は世界の病いを病んでいる」という言葉が印象的だった。
病むということは、その人が病んでいる、というよりも、世界や社会、時代の病いをその人が引き受けている、というニュアンスで書かれており、なるほど確かにそうかもしれないと唸らされた。
私はこれまで社会と個人を分けたものとして考えていたかもしれないが、それは渾然一体としているのかもしれない。
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このレビューを書いている現在、衆議院選挙が行われている。政治について、あまりにも状況が複雑化していて、どこからどう考えればいいか、私は分からなくなっていた。
けれどもこの本を読み、もしかすると、私個人、もしくは目の前にいる個人について考えることが大切なのかもしれない、と思うようになった。
私のなかの井戸を深く掘っていったとき、そこには時代に共通して流れる水脈のようなものがあるのではないか。
もっといえば、社会的課題とされる、ときに目を背けたくなるようなドロドロとしたものが、認めたくないけど、自分のなかにもその欠片みたいなものが確かにあって。そのことを認めたうえで、ではそれをどう社会と共存可能な形で、表現していくかなど。
つまりは、自分と向き合うことが、そのまま社会や世界について考えていくことにほかならないのかもしれない、と考えるようになった。
うまく言葉にはまだできないけれども、個人と社会の関係性について、新たな視点を得ることができた一冊である。 -
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私事ではございますが、投稿が500冊となりました。
これからも日々、本のある生活を過ごしていきたいと思います。
自分の三大欲求は「食欲・睡眠欲・性欲」ではなく、「本欲・筋トレ欲・コーヒー欲」ですが、コロナのせいでその一角が崩れてしまいました。筋トレです。
幽遊白書でいうと雷禅です。
コロナのせいで完全に弱りました。
その中で、猛烈にランクを上げてきたのがウィスキーです。
もうウィスキー愛が止まりません。
著書に書かれているウィスキーは一通り飲みましたが、飲んだだけでアイルランドやスコットランドに行ったような気持ちになりました。
ただ、個人的には水が肌に合うのか、日本のシングルモルトが1番好きです。
「村上春樹×ウィスキー」、言葉でウィスキーの良さが伝わるのと、実際飲んで味で良さが伝わるのとダブルパンチで最高です。
毎晩、良いウィスキーを飲みながら、読書する生活が加わってしまい、筋トレは何処に…。
このコロナ渦が収まったら、筋トレを含め、4大欲求として続けていこうと思います。 -
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ランナーとしての村上春樹のメモワール。
元競技者であり、同じくひとりのランナーでもある立場から読んだ。深く同意するポイント、春樹はこんなことを考えるんだと新鮮に感じられるポイント、いろんな発見があった。
特に2、4、6章は定期的に読み返したいものです。
p90の景山氏の「村上さん、ほんとにマジでコースを全部走るんですね」という発言が、春樹の小説であまりで出てこない表現だったので新鮮だった。まあ、メモワールだから当然なんだろうけど…
以外、印象に残った箇所を引用。
p61. 学校というのは入って、何かを身につけ、そして出ていくところなのだ。
→とある善き期間とは心地よいものであるが、その先にある自ら道を切り拓かなければならないときにうまく活かせて、はじめて意味が与えられる。
p120.才能にそれほど恵まれていない〜作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として使うことを余儀なくされる。
p151.肉体は時間の経過とともに否応なく滅びていく。遅かれ早かれ敗退し、消滅する。肉体が滅びれば、(まずおそらく)精神も行き場を失ってしまう。
→まず肉体という精神の器があり、その中に健全な(一部はやましい不健全な)精神があってはじめて、人間は日々の営みができる。ホワイトカラーの仕事をしているとつくづく感じるが、近現代は肉体を蔑ろにしすぎている。 -
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BOOK3 前編ではほとんどストーリーが進まずこの最終巻も特に何も起こらず終わるのでは...?と思いながら読みはじめたが、いい意味で予想を裏切られた。
完全には回収されない伏線のようなものが結構あったが、それもいいかも。リトル・ピープルはなんだったんだろう。最後に階段を上った後の世界はまた別の世界なのだろうか。安達クミは天吾の母親の生まれ変わりなのか。
ところどころにあった別の人物のパートで同じものを描いているところが表していたものは何か。読んでいる時は色々思うことがあったが忘れてしまった。またメモしながら読み返したい。
天吾の父親が NHK 集金人をしていたのが「いちばん上手にできることだったから」というところがなんとなく残っている。登場人物の生き方はそれぞれ異なる部分を大切にしているが、共通するところもある。 -
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ネタバレ走ることを本格的に始めたのは、
専業小説家となった時、『羊をめぐる冒険』を書き終えたとき、33歳。
つまり、村上春樹さんにとって、書くことと走ることが一体化している。
書き方は走り方に例えられ、走ることを通して自らの生き方を深めていっている、そんな一端を知ることができました。
身体、というか肉体、というか、
思考を深めることと身体的経験が一体化していることを、
とても意識的に自らを実験場としてその過程を書き記している記録みたいな部分もあり、
ある程度そんな感じはするけれど、ここまで突き詰めることはないから、
検証結果の精密度が高いというか、信憑性が高いというか、
何だかよく分からないけど全体的にいろいろと納得させられる…。 -
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本当に好き。ページを捲る手が止まらない。
色んなことが繋がってくる。全てが伏線に思える。「物語の中にいったん拳銃が登場したら、それはどこかで発射されなくてはならないの。」
BOOK2 の前編でも思ったが、何のために生きるのか、みたいなことが様々な人物を通して語られている。タマルが旧友の話をしながら「言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きていると思われる節がある。」と言っていた部分とか。
BOOK2からBOOK3の発売までは1年あいているらしい。その時代に戻りたい。まだBOOK3が存在していないところでゆっくりと最初から読み直したい。でも目の前に続きがあるから読まずにはいられない。というわけで楽しく続きを読みます。 -
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二人の物語が交わってきた。ものごとには二つの側面がある、みたいなことが色々な場面で言及されている。
自分が文体に慣れてきたからなのか、物語が進むにつれて意図的に行われていることなのかわからないが、比喩表現が増えて頭にスッと入るようになってきた。何度か読み直したい。
不思議なことが起こり、ストーリーが面白い。一方で、それぞれの風景の描写は美しく、メッセージ性を感じるようなところもある。例えば、「人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。」という言葉は印象的だった。 -
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世間一般で言うところの「不倫もの」なのだけど、当作をそれだけで括ってしまうのはあまりにも短絡的すぎる。人間は決して完全ではないし、抑え切れない思いを抱いてしまうことは誰にでも起こり得るはずだ。(自分は村上春樹自身もそうであると信じている。それでなければこれだけの描写はできないと思う)
少年と少女が大人になり再会した、幼かった当時では明確に表現できなかった気持ちをはっきりと認識した、そして苦しい思いを抱きながら全てを捨てる決意までしかけた、というストーリーを村上春樹は繊細なタッチで綴っている。リストのピアノ協奏曲とか、スター・クロスト・ラヴァーズとか、登場する楽曲からも想像力を掻き立てられる。当作は決して下世話ではない、人間の性を描き切った秀作だと思う。 -
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原文と照らし合わせながら、村上春樹訳の文章を時間をかけてじっくり読んだ。表題作だけ読んだ。
読み終えた後、泣き出したい気持ちになった。ホリーはbelongできる場所(ホリーはそれを「ティファニーのような場所」と語る)を見つけられたのだろうか。それは天の上にしかないのではないか、そんな考えに駆られた。実際この物語の中には「天」や「神」を彷彿とさせる言葉がたくさん出てくる(冒頭でジョーベルが作ったカクテルの名前は「White Angel」だし、サリー・トマトの弁護士と連絡を取っていた場所、そしてドク・ゴライトリーと話したのも「ハンバーグ・ヘブン」というお店だった。他にも天や神を思わせる単語はたくさん出てくる。「僕」はホリーが「アフリカに足を踏み入れていない」と確信している。
ホリーは自由奔放(性的にも開放的)な、この物語の時代の女性のジェンダー規範とは異なる女性像として描かれる。ホリーは「ティファニーのような場所」(資本主義の象徴)を求め、さすらいながら(Traveling)生きている。そこは「いやったらしい赤」(共産主義の象徴)(ホリーはこれを怖がっている)の気持ちを落ち着けてくれる場所である。この「赤」は過去の自分の象徴でもある。物語の最後でホリーは自分が共に生活していた猫を手放した後で、自分と赤毛の猫がお互いに「belonged」な存在であったことを悟る。捨てたはずの過去の自分も自分の一部だったのだ。
ホリーは自分の居場所(belongできるhome)を探しながらさすらう(Traveling)。ホリーは何にも縛られず、自由気ままに生きているように見えるが、そこには不安が常にあること、ホリーが今いる場所(traveling)は「ものごとが消え失せていく場所」であることが語られる。
私にはホリーにとってのティファニーみたいな場所はあるだろうか。今家族と同居している実家は、表面上は温かいけれど、その「表面」を私が少しでも壊してしまうと、途端に安心できない場所になる。東京に行きたい。でも東京にも「ティファニーみたいな場所」は見つからなかった。一生見つからないかもしれないと思う。東京に住んでいた時も、家にいるのに家に帰りたい(それは実家ではない場所)と思っていたから。
「belonged」な関係ってなんだろう。大切な人と私は一つになれる、あるいは一つのようになれるんだろうか。アロマンティックでクワロマンティックな私が、大切な人とそんな関係になれるだろうか。
O.Jがホリーのことを「本物のまやかし(real phony)と表現していた。phonyという言葉は『The Catcher in the Rye』で何度も出てきた言葉であり、主人公のホールデンが嫌っていたものだった(村上春樹訳では「インチキ」と訳されていた)。ホリーの愛情は「自然」なものではなく、「訓練」された(trained)ものであったし、それはホリーのキャラクターにも言える。確かにphonyだった。でもそんなホリーを昔の自分と重ねているところがあった。実際、今の自分だって、「本当の自分」ではないのかもしれない。「本当の自分」って何?
『BUTTER』で、梶井は自分の生活を「『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーのような生活を送っていた、私は旅行中(traveling)だった」と語った。里佳はそれを、映画のホリーのことだと考えるが(小説のホリーはフェミニズム的な部分があって、映画はそれと内容が違う)と考えるが、梶井は原作(小説)の方を読んでいたんじゃないかと思う。実際、梶井の実家の部屋の本棚には様々な本が保管されており、読書が好きだったと語られている。梶井がどこまでフェミニズム的でクィア的な文脈を理解したかは分からないけど。
大学の授業で精読して以来(その授業が私は大好きだった)、ずっと読み返せてなかったから、読めて良かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ前提として、少女への強制性交などの極悪非道な現象が、我々の住む現実世界に存在することを認知しなければならない。そのような認知を現実の新聞等から得ている人以外は、胸糞悪すぎて読めない可能性がある。だが、村上春樹は真剣に「オウム真理教的な宗教」を掛け合わせつつ、物語でしか伝えられないことを伝えようとする。
村上春樹はこの小説によって一作家としての捨て身の挑戦を行っている。本当の倫理を書くためには、肉が切られることを許すほかない。文学史に名を残す作家が60歳で生涯をかけて語らねばならぬと決意(たぶんしたはず)した作品は常に新しい。これほど女性視点から思考を展開した春樹作品はない。