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Posted by ブクログ
再読。
5年くらい前に読んだ時は意味がわからなかったが、改めて読むと「喪失と回復」、「紐帯と疎外」をテーマにしていると感じられた。
気づいたら自分が「僕」と鼠の年齢を超えている。
自分はちゃんと痛みを乗り越えられているだろうか?然るべきタイミングで正しく傷ついて、出口に向かえていたのだろうか?
p15.物事には必ず入り口と出口がなくてはならない。
p30.ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
p172.「なあ、ジェイ、だめだよ。みんながそんな風に問わず語らずに理解し合ったって何処にもいけやしないんだ。こんなこと言いたくないんだがね……、俺はどうも余り長くそういった世界に留まりすぎたような気がするんだ」
p181.テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。
Posted by ブクログ
風の歌を聴けに続いて久しぶりに読んだ。
初めて読んだ当初は風の歌を聴けが衝撃的でそちらの方が好きで印象に残ったという感想だった気がするが、久々にどちらも再読した今はこちらの方がより好きだと思った。
ずっと読んでいたいと思うような世界観。
風の歌を聴けが青春の爽やかさを存分に感じられる作品であるのに対し、ピンボールは全体が物悲しい雰囲気でそれがなんとも心地よい。舞台になっている夏と秋、それぞれの季節を落とし込んだような文章。
僕のどこか冷めて達観しているけれど、双子に対して愛着とあたたかさを感じているところがよかった。素直に寂しいと言えるところも。
書き出しの一文がとても魅力的で引き込まれる。
1973年の僕と鼠、それより以前の僕、色々な場面・時間軸のシーンが織り交ぜられている点がよく、それが作品が短いながらに深みを持つ要因だと思った。
初期の村上春樹作品は特に比喩表現が多く、すべての文章が比喩を用いて語られているような印象で、それもすごく好きだった。
特に好きだったのは110ページから111ページにかけての僕と事務所の女の子が寂しさについて話すシーン。
なにが好きなのか表現したくて色々書いたけれど、結局なにがというよりこの作品の世界観と雰囲気自体がすごく好きだと思った。
Posted by ブクログ
青春小説だと思います。
やるせない悲しみや逃げられない辛さに直面した鼠と主人公、二人を描いています。
彼女に何も伝えず苦しみ抜いて街を出る鼠。何も生み出さないピンボールに多くの時間を費やした主人公。
二人が具体的に何に苦しみ、悲しでいたのかは書かれません。おそらくそんな必要はないのでしょう。
ただ美しい情景描写、印象的な会話、いくつかの感情表現が話を綴ります。
ーこの土地には雪こそほとんど降らなかったが、そのかわりにおそろしく冷たい雨が降った。雨は土地に踏み入り、土地を湿っぽい冷やかさで被った。そして地底を甘味のある地下水で満たしたー
ー時折、幾つかの小さな感情の波が思いだしたように彼の心に打ち寄せた。そんな時には鼠は目を閉じ、心をしっかりと閉ざし、波の去るのをじっと待った。
夕暮れ前の僅かな薄い闇のひとときだ。波が去った後には、まるで何一つ起こらなかったかのように、再びいつものささやかな平穏が彼を訪れたー
ーねえ、誰が言ったよ。
ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。
鼠はジェイに向かって微笑み、ドアを開け、階段を上る。街灯が人影のない通りを明るく照らし出している。鼠はガードレールに腰を下ろし、空を見上げる。そしていったい、どれだけの水を飲めば足りるのか、と思うー
ー僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバーソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして1日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもが透き通ってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だったー
何ももう苦しまなくていいんだ。全て過ぎ去ったことなんだ。全ては追憶なんだ。
そんな安らぎを読者に与えてくれる稀有な作品だとおもいます。
村上春樹の小説の中で1番好きな作品です。
あなたにとってのピンボールはなんですか?
Posted by ブクログ
迷わずにfive stars
短い小説ではあるが、付箋だらけになった。
ノルウェイの森と鼠三部作の関連性ははっきり言及されていないと思うが、先に読んだノルウェイの森の直子と本作品の直子がどうしても重なってしまう。直子と井戸について同時に言及されているので、尚更そう感じる。
倉庫の中での「スペースシップ」との再会と別れは、語り手が手放せずにいた直子の死や過ぎ去った過去(人、街、文化)に別れを告げたことを象徴するのではないか。
そしてその別れと共に、語り手の時間は少し動き出したような気がした。
けれどそれは成長というよりは、生きている限り、時間は進み、同じ場所に留まることはできないということなのかもしれない。
「見知らぬ他人が出会い、そしてすれ違う、それだけのことだった。それでも鼠の心は痛んだ。」
春樹ワールドから遠く遠く離れて
30年以上も前、初めて読んだ80年代の十代の自分と、そのもっと前の時代1970年代…言葉で表現出来ない思いが込み上げてくる。ずっとずっと昔、ハルキストなんて言葉がなかった時代に村上春樹を読んでいた人にもう一度読んで見て欲しいと思う。
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