あらすじ
「電灯のスイッチを切って扉を後ろ手に閉めるまでの長い時間、僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」東京で友人と小さな翻訳事務所を経営する〈僕〉と、大学をやめ故郷の街で長い時間を過ごす〈鼠〉。二人は痛みを抱えながらも、それぞれの儀式で青春に別れを告げる。『風の歌を聴け』から3年後、ひとつの季節の終焉と始まりの予感。「初期三部作」第二作。
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Posted by ブクログ
鼠と僕、ビール、そしてピンボール。ただただピンボールをやり、そして店ごとなくなった。それは、ただ終了しただけのような、予定されていたかのようにふと消えることがある。ゆっくりと、ただ自分と向き合う主人公。そして、双子の女の子たち。
ジェイズバーで、街の中にいる自分を外に持っていく決心をつける。一歩進む、その大事な、大切な一歩を推してくれたのは変の兆しを与えてくれたなんでもないもの。日常の本当に小さな何か、なんの変哲もない、何かが人生を変えることもある。じっくり、もっとじっくり読まなくては、、と思いながら流して読んでしまった。
Posted by ブクログ
青春小説だと思います。
やるせない悲しみや逃げられない辛さに直面した鼠と主人公、二人を描いています。
彼女に何も伝えず苦しみ抜いて街を出る鼠。何も生み出さないピンボールに多くの時間を費やした主人公。
二人が具体的に何に苦しみ、悲しでいたのかは書かれません。おそらくそんな必要はないのでしょう。
ただ美しい情景描写、印象的な会話、いくつかの感情表現が話を綴ります。
ーこの土地には雪こそほとんど降らなかったが、そのかわりにおそろしく冷たい雨が降った。雨は土地に踏み入り、土地を湿っぽい冷やかさで被った。そして地底を甘味のある地下水で満たしたー
ー時折、幾つかの小さな感情の波が思いだしたように彼の心に打ち寄せた。そんな時には鼠は目を閉じ、心をしっかりと閉ざし、波の去るのをじっと待った。
夕暮れ前の僅かな薄い闇のひとときだ。波が去った後には、まるで何一つ起こらなかったかのように、再びいつものささやかな平穏が彼を訪れたー
ーねえ、誰が言ったよ。
ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。
鼠はジェイに向かって微笑み、ドアを開け、階段を上る。街灯が人影のない通りを明るく照らし出している。鼠はガードレールに腰を下ろし、空を見上げる。そしていったい、どれだけの水を飲めば足りるのか、と思うー
ー僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバーソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして1日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもが透き通ってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だったー
何ももう苦しまなくていいんだ。全て過ぎ去ったことなんだ。全ては追憶なんだ。
そんな安らぎを読者に与えてくれる稀有な作品だとおもいます。
村上春樹の小説の中で1番好きな作品です。
あなたにとってのピンボールはなんですか?
Posted by ブクログ
迷わずにfive stars
短い小説ではあるが、付箋だらけになった。
ノルウェイの森と鼠三部作の関連性ははっきり言及されていないと思うが、先に読んだノルウェイの森の直子と本作品の直子がどうしても重なってしまう。直子と井戸について同時に言及されているので、尚更そう感じる。
倉庫の中での「スペースシップ」との再会と別れは、語り手が手放せずにいた直子の死や過ぎ去った過去(人、街、文化)に別れを告げたことを象徴するのではないか。
そしてその別れと共に、語り手の時間は少し動き出したような気がした。
けれどそれは成長というよりは、生きている限り、時間は進み、同じ場所に留まることはできないということなのかもしれない。
「見知らぬ他人が出会い、そしてすれ違う、それだけのことだった。それでも鼠の心は痛んだ。」
Posted by ブクログ
どことなく寂しさが漂う作品。しかし彼の文章は心の凝りを溶かしていくような温かさがある。鎮痛剤のようなものだと感じる
毎日寝る前にちまちまと読んでいた。読み進めるごとに不安が薄まっていくような感じ。
少し寂しい。
Posted by ブクログ
こちらを読み終わり、すぐに「羊をめぐる冒険」に行こうと思う。
そう思っちゃうくらい、この世界観がたまらなく好き。
舞台が日本なんだけど、日本じゃないような雰囲気で、その曖昧さが何とも言えないハルキ特有の感じで良い。
アメリカとかヨーロッパの雰囲気が漂いながらも急に「熱い日本茶」が出てきたりするから、「日本だ」って安心感が戻ってきて、でもやっぱり日本文学の雰囲気とは違う、海外文学とも違う、独特のこの雰囲気がやっぱり私は好きなんだな〜。
ずっと静かに進むストーリーの中で、最後の方にはっきりとしたクライマックスが来る。
ピンボール・マシンが並ぶところ。
ぞくっとした。
ハルキの季節や情景の描写に出てくる比喩も好きだし、服装の描写も好きだし、美味しそうなパスタとかクッキー、熱いコーヒーや冷たいビールの登場の仕方も好きだし、何なら煙草や紙ねんどのようなパン、ぬるいビールさえもが美味しそうに思えてくる。
ただ毎度のことだけど、ハルキの小説で女性が担っている役目の部分がどうしてもモヤモヤ。
昔のピンボール•マシンに描かれていた女性たちを読んだところで、もしやハルキの小説の女性たちも、この描写が合うのでは…?と思ってしまった。
以下引用。
「誰もが素晴らしい乳房を誇らしげに突き出していた。あるものはボタンを腰まで外した薄いブラウスの下から、あるものはワンピースの水着の下から、あるものは先の尖ったブラジャーの下から…。彼女たちは永遠にその乳房の形を崩さぬまま、確実に色あせていった。」
Posted by ブクログ
「僕」が双子と暮らし、ピンボールを見つけ出し綺麗に別れることで直子との過去も断ち切り、(ピンボール=直子)
鼠は「進歩や変化は破滅の過程に過ぎない」とのことを言っていたが、街をでる決心をし、現状を変えようとしていた(=破滅の道へ)
過去をたちきり前へ進む「僕」と、
変化を求め破滅とされる前へ進む鼠
(同じ方向を向いてるようで2人は互いに逆方向へ)? 東と西に、右に左に、上に下に、
Posted by ブクログ
テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るのは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとて僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。
Posted by ブクログ
「風の歌を聴け」を読んだ勢いで2作目も読みました。本当にいい小説です。村上春樹作品で5本の指に入ります。人の出会いと別れ、街の風景、時代とともに移り変わるもの、それらが過度にセンチメンタルになることなくさらさらと流れるように綴られて気持ち良く読めます。しかしこの作品はやはり秋に読むべきだった!村上春樹は季節の描写も見事なので、季節を違えて読むと目の前の風景と合わずもったいない気がします。
春樹ワールドから遠く遠く離れて
30年以上も前、初めて読んだ80年代の十代の自分と、そのもっと前の時代1970年代…言葉で表現出来ない思いが込み上げてくる。ずっとずっと昔、ハルキストなんて言葉がなかった時代に村上春樹を読んでいた人にもう一度読んで見て欲しいと思う。
Posted by ブクログ
他の人の感想にあった、鼠のところに現れた双子は、鼠の分身なのではないかという見解。
双子の女の子が、自分の両脇にいるというファンタジーにほぼ近いような状況
解離性障害とも読み取れるような彼
最後は双子とさようならをするのは、自分の中の幻想と一度さよならをして自分を取り戻しに違う街に出るのか。
ピンボールの描写も直子も、ジェイも不思議だった
鼠は僕とイコールなのか
高校生の自分が読んだらつまらないと思うかもしれない作品、22の自分は楽しめた。
Posted by ブクログ
何年か振りの再読。
かつての私は突然出てきた双子の存在に戸惑いながらも、現実と空想の入り混じったその世界観に憧れていた。日常の隙間に顔を出すファンタジー。そんな捉え方をしていた。
そして、こんな世界に住んでみたいな、とさえ思っていた。
今回、双子が僕の元から去っていく場面を読んで、双子は「僕」の幻覚なのではないかと唐突に思った。
【幻覚】げん-かく
実際に感覚的刺激や対象がないのに、あるように知覚すること。幻視・幻聴など。
これは、ファンタジーや空想の世界などではなく、僕が実際に体験している幻覚だとしたら。
物語りの捉え方は一変する。
そういった違和感を僕はしばしば感じる。断片が混じり合ってしまった二種類のパズルを同時に組み立てているような気分だ。(略)
目を覚ました時、両脇に双子の女の子がいた。今までに何度も経験したことではあったが、両脇に双子の女の子というのはさすがに初めてだった。
講談社文庫 1973年のピンボール P12
「断片が混じり合った二種類のパズルを同時に組み立てるような気分」
自分の中に現れるもう1人の自分。その2人は決して混じり合うことはなく、同時並行的に違う思考を持ち、別の行動をしようとする。
一見、解離性同一症(多重人格)のような印象を受ける。しかし、同時に二種類のパズルを組み立てることができるということは解離性同一症ではない可能性が高い。解離性同一症の場合、他人格が出現している時には主人格にはその記憶がないことが多いからだ。
「今までに何度も経験したことではあった」
何を経験していたのか。これは目を覚ました時に側に誰かがいるということ。
実際に誰かがいるはずはない。先の「違和感」からもこれは僕に幻覚があったことを示唆している。
幻覚があり、二種類のパズルを同時に組み立てるような違和感を持っている 「僕 」。
これらを併せると思い浮かぶのは統合失調症だった。
これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、「僕」たちは七百キロも離れた街に住んでいた。
講談社文庫 1973年のピンボール P26
これは統合失調症である「僕」と「鼠」の物語、ということになる。
僕=鼠
なのか
僕≠鼠
なのか
七百キロという距離は何を意味しているのだろうか。
鼠はかつての僕の親友で、僕が鼠から直子を奪ってしまったために、2人の友情が壊れたという説がある。
ピンボールが直子のメタファーだとしたら、2人がピンボールで叩き出したスコアは直子からの採点になるのだろうか。
いつも女の子を霊園へデートに誘う鼠。本来ならそこは避けたい場所である。
霊園を好む鼠は、実は初めから死んでいるのではないか?
鼠が死んでいるとすれば、鼠=僕 も成立しえる気がする。僕の中で死んでしまったもう1人の僕。
208と209と呼ばれる双子、ゴルフ場、壊れた配電盤、池。
双子はピンボール、配電盤は鼠のメタファーなのか。
この一冊の中にどれだけのメタファーが散りばめられているのだろう。
沢山の人がそれぞれの解釈を述べている。
物語には余白が必要だ、とゴダールも言っていた。
解説本が出るほど研究され、人々の憶測が色々と飛び交う氏の作品は、それだけ余白があるということだろう。
ただ書かれている事を読めば物語が理解できるというものではない。出てきた余白をどのように埋めていくのかで、その密度は変わってくる。
改めてこの作品の奥深さを感じている。
Posted by ブクログ
村上春樹、再読。
レビューを読むとわたしと同じように「再読」と書かれている方がちょいちょいいて、ニヤニヤ。
読み返して確認してみたくなる作家さんなのかな。
二作目もたいしたことは起こらず。
けれど主人公たちの語られてはいない内面は深く暗い。
語られてはいないんだけど、過去に何かがかならずあっただろうと思わせる描き方で、
想像できないのにずしんと来る。
村上春樹の小説で好きなところはそういった部分と
あとは比喩が豊富なところ。
とてもユニークで、その場面やその時のにおいまでもが感じられるようなたとえが良い。
全体的に暗いストーリーの中、そこだけちょっと空気がほんわかして、明るい気分になれるところが好き。
話自体はすっかり忘れていたけど
終盤、タイトルにもなっているピンボールの登場シーンには圧倒された。
ほんとにすっかり忘れていて、
初めて読んだ気分だったけど。
再読は続く。
Posted by ブクログ
恐ろしく孤独に満ちた生活と、浸り続けたビール、促すようなレコード、そしてピンボール。囚われた者らが1種の脱走を図るのだと思った、何故かは彼ら、彼女にしか分からない。そこが居場所では無いのかもしれないし、そこが居場所では無くなったのかもしれないし、新たな居場所が現れたのかもしれない。僕自身も読破した瞬間双子のように手を振りたくなったよ。
Posted by ブクログ
中編にここまで時間をかけたのはいつぶりか
初めて本を手にしたそんな時のような読書の方法で読んだのは最近の生活が忙しかったからだ
パン屋再襲撃という短編集で,消えた双子の謎 という短編を読んだが,それはこの1973年のピンボールの続編だったのか
風の歌を聞けで別れた2人を平行して描く本作.
何かを求め続けたものと,何かを諦めたもの
二人の中にある哀愁と,二人の中に秘めた思い出のような煌めきはとても虚しい
時より語られる2人の話はまるで遠い過去のように聞こえる
とにかく比喩が多く,全ての表現に村上春樹の哲学が詰まっているように思えた
ピンボールとの会話.それはピンボールではなくてもいいのだろう.自分自身のそこの深く,(村上春樹でいうなら井戸だろうか)との会話だ.自分自身が見る本質的な自分との会話は人間にとって連続的だと思える時の非連続性を思い出させた.
悲しそうに笑った練習をする(していただろう),鼠の愛人.彼女のことが本当になんで言ったらいいのかわからないほど切ない.
鼠という人間にとっても,彼女にとっても二人の関係は曖昧で言語的でなくそれはまるで双子と僕のように賞味期限付きのものであったのだろう.
秘書といい,僕といい,彼女といい,鼠といい,とにかくどこかに雨が降り注ぐかの如く急に心に現れる焦燥感や悲壮感が若者特有のもので素晴らしい.
そんなものを言語化せずにただシャワーを浴びたがり,ただ眠たがり,ただ話したがる.
そんなことを繰り返してこそ飽きてしまってこそ人間という形がより正確に形成されていくのだろう
海の音を聞きに行く鼠,自分自身の位置を確認するように双子と過ごす僕,彼らはやはり似たもの同士であり,それでも本質的に異なる二人の村上春樹なのであろう
Posted by ブクログ
「僕」と「鼠」の話が交互に描かれるが、本作は鼠が逡巡し故郷をあとにする流れが深く残った。僕も含めて街から人がいなくなり、かつ彼自身は金持ちの家にうまれていることから生活上の切迫感もない中で、何かに突き動かされるように鼠は街を出ていく(結局、ジェイにはっきりと別れを告げることもなく)。
捉えどころのない焦り、無力感、不安等…二十代なりに抱える何かが描写されている
特に印象に残った箇所は以下
・多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなる。それだけのことだ(p.63)
・卒論の指導教授がうまいことを言う。文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがない、と(p.87)
・さあ考えろ、と鼠は自らに言いきかせる、逃げてないで考えろよ、二十五歳……、少しは考えてもいい歳だ。十二歳の男の子が二人寄った歳だぜ、お前にそれだけの値打があるかい?ないね、一人分だってない。ピックルスの空瓶につめこまれた蟻の巣ほどの値打もない。……よせよ、下らないメタフォルはもう沢山だ。何の役にも立たない。考えろ、お前は何処かで間違ったんだ。思い出せよ。……わかるもんか(p.117)
・テネシー・ウィリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ(p.181)
Posted by ブクログ
「僕」と「鼠」の話。風の歌を聴けとは違って二人が一緒にいるわけではなく、それぞれが別の場所でのお話。
一回読んだだけではちょっと難しかった。でも話の中で主人公は指導教授に『文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがない』と言われたシーンがある。まさにそれを表すかのような小説だったように感じた。
1作目の爽やかで駆け抜けるような感じとは違い、ちょっと暗くてジメっとしているなあと個人的には思った。
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2026年2月 再読。☆3→4
前回初めて読んだ時は正直ピンとこなかった。感想にも書いてあるとおり文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがないと指導教授に言われたように。でも今回再読して感じたのは「面白いな、これ。」という感想でした。3年近くも経てば何かしら自分も変わってるはずで小説に対する見方というか読み方も同じように変わってくる。あの時ピンと来なかったものも今は違う。そういう発見に嬉しさも感じながら読んでいました。
Posted by ブクログ
独特の世界観を楽しめた。 非常に描写が多く、情景を想像しきれない部分は多かった気がする。
それでも風変わりなキャラクターや意味深な掛け合いは、村上春樹の描く独特の世界観に特有のもので、いつのまにか本の世界に引き込まれた。
他の作家ではなかなか味わえない感覚であり、また著者の本を読みたいなと感じた。
Posted by ブクログ
処女作『風の歌を聴け』の続編。生きるため、新しい一歩をふみだすために清算された過去の残骸。生きることの難しさが、哀しいほどにユーモアたっぷりの軽妙な文体で描かれています。
Posted by ブクログ
村上氏の青春3部作2作目
大学中退の鼠さんのお酒浸りの退廃した?生活ぶり、翻訳業をして私生活では双子を養う主人公がピンボール(昔の入れ込んだ彼女)を探して再会するストーリー、、
私には新鮮すぎる、自由が恐ろしいとはこういうこと、と思った
煙草にお酒に音楽、手に入る女性の温かみ、、昭和40年代後半の時代の男性の青春とはこんな感じだったのかなぁ
まだまだ私はあまり村上氏を知らないので、、読書会に出てたくさん勉強してこよう
Posted by ブクログ
30年ぶりの再読。
自分の生年が表題に入っているので、何となく特別感があったものの、あらすじはまったく覚えてなかった。実際、すじと言えるほどのすじはないのかもしれない。
「僕」の話と「鼠」の話が交互に続く。
読んでいる途中、「鼠」の彼女と、「僕」が学生時代に電話をよく取り継いだ2階の女性が同一人物なのか? 同時並行と見せつつ、実は鼠の話は数年ズレているのか? とミステリー読み的な穿った見方をしてしまったが、村上春樹さんはもちろんミステリー作家ではなく、伏線回収もしないので、ただの気のせいだった。僕と鼠は同じ「ジェイ」のバーに通っていて、お互い面識もあるようだし。
ピンボールが何かのメタファーなのかよく分からなかったが、考察サイトを覗いてみると、(ノルウェイの森にも登場する)直子のことを何度も何度も「僕」が思い出す行動の暗喩説があるよう。
学生時代、この本を読んだ後、一時期ピンボールに嵌っていたことを懐かしく思い出した。最高スコアは6桁ではないけれど。
双子の女の子とやった配電盤の葬式の祈りのことばがかっこよかった。
P103
「哲学の義務は」と僕はカントを引用した。「誤解によって生じた幻想を除去することにある。•••• 配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ」
Posted by ブクログ
風の歌を聴けに続きとても世界観に引き込まれた。
ただ難解。何も意味が無いようで全てに意味がありそうな、、、
また読み返そうと思う。読み返す度に違う感想が出てきそうなそんな話でした。
Posted by ブクログ
初期三部作の2作目。
まだ村上春樹感は薄め、というかこの頃は色々模索しながら書いていたような感覚を受ける。
正直面白い、面白くない、意味が分かる、分からない、という評価をすること自体がナンセンスな気がする。
この文体(リズム)を楽しむものなのだと思う。音楽のようにこのリズムが合わない人は一定数いて当然だと思うが、この作品以降、村上春樹っぽさはどんどん強くなる。個人的にはそれが好きなんだけど。
あと前作もそうだったけど70年代って当たり前だったの?というほど飲酒運転のシーンが出てくるのでちょっとモヤモヤする…
Posted by ブクログ
初期3部作2部目、個人的には1のが好きだったかな〜概念すぎて後半ちょっと冷めた、あと転がり込んだ双子という設定がどうも好きじゃない
やっぱり春樹は個人的にただ読んでる時間を楽しむ系、比喩がめちゃくちゃで読んでて楽しくて何度か笑った
後半いまいちだな〜置いてかれた笑
『多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなる。それだけのことだ』
私は違いすぎると悲しくなるし、似すぎたら腹立つタイプ
Posted by ブクログ
青春三部作の2作品目。
「風の歌を聴け」のほうが好きだったけど、特に序盤と終盤は「すげえ」と呟いてしまうほどの描写だった。
田舎町の駅と犬、双子のシリアルナンバー、配電盤の葬式、ピンボールのスペースシップとの会話、鼠とジェイの会話、耳鼻科が好きだった。
Posted by ブクログ
全体を通して、読みやすいスタイリッシュな文体で読み始めて最後まで一気に読み終わってしまった。
20代前半の将来に対する不安、新たな出会いと別れ、読み終わった時に秋の夕暮れ時のどこか寂しい哀愁を感じさせるような作品だった。
Posted by ブクログ
振り返ってみたら鼠三部作(というか四部作?)を読むのは10年ぶりらしい。...新鮮な気持ちで読みました。笑
それぞれの方法で過去を清算して、未来へ進む直前の話。手放し方も立ち直る方法も人それぞれ。
あと鼠って25歳だったのか、もっと年上のイメージだった。
読みながらこの時代に生きていたらもっとこの本を興味深く読めたんだろうなぁとどうしようもないことを思ったり...。次回作にどう繋がっていくのか楽しみ。
Posted by ブクログ
初期は特に物語に流れも感じられずかなり読みにくい…!
うーんしかも三部作の2と3を読んでしまったからなおさら頭混乱して難しかったなあ。
なんかやはり作品を書き続けるにつれ進化・深化していくというのはあるんじゃないか。
Posted by ブクログ
何十年振りだろう?再読。
確かに、20から30にかけて、自由は奪われ、セックスは自分の遺伝子のコピーを作る儀式となる。
しかし、長い年月を経れば自由はまた戻って来る。
妻への責任というちょっとした荷物は残るが、悪くない荷物だ。それに、人の世に生きていれば、完全な自由は無い。