Posted by ブクログ
2021年09月06日
「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」
「さあね、癖なんだよ。いつも肝心なことだけを言い忘れる。」
「忠告していいかしら」
「どうぞ。」
「なおさないと損するわよ。」
p.92
かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した...続きを読む。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
p.113
「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」 p.121
私は17歳で、この三年間本も読めず、テレビを見ることもできず、散歩もできず、……それどころかベッドに起き上がることも、寝返りを打つことさえできずに過ごしてきました。この手紙は私にずっと付き添ってくれているお姉さんに書いてもらっています。彼女は私を看病するために大学を止めました。もちろん私は彼女には本当に感謝しています。私がこの三年間にベッドの上で学んだことは、どんなに惨めなことからでも人は何かを学べるし、だからこそ少しずつでも生き続けることができるのだということです。
私の病気は脊椎の神経の病気なのだそうです。
時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫びだしたくなるくらい怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいのです。夜中の3時ごろに目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。そして実際その通りなのかもしれません。
嫌な話はもうやめます。そしてお姉さんが一日に何百回となく私に言いきかせてくれるように、良いことだけを考えるよう努力してみます。それから夜はきちんと寝るようにします。嫌な事は大抵真夜中に思いつくからです。
病院の窓から港が見えます。毎朝私はベッドから起き上がって港まで歩き、海の香りを胸いっぱいに吸い込めたら…と想像します。もし、たった一度でもいいからそうすることができたとしたら、世の中が何故こんな風に成り立っているのかわかるかもしれない。そんな気がします。そしてほんの少しでもそれが理解できたとしたら、ベッドの上で一生を得たとしても耐えることができるかもしれない。
さよなら。お元気で。
p.147
夕方仕事が終ると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるなら、港から君の病室も見えるはずだものね。山の方には実にたくさんの明かりが見えた。もちろんどの明かりが君の病室のものかはわからない。
実にいろんな人がそれぞれに生きてんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきたんだ。泣いたのは本当に久しぶりだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。1度しか言わないからよく聞いておくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。
あと10年も経って、この番組は僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕の今言ったことも思い出してくれ。
彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」。
この曲が終わったあと1時間50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
ご静聴ありがとう。
p.149