村上春樹のレビュー一覧
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サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を村上春樹さんが翻訳していること、併読している『ギンガムチェックと塩漬けライム』(鴻巣友季子著)で初めて知りました。そして、本書に辿り着きました。
村上さん、『キャッチャー』(『ライ麦畑』)を大絶賛でした。翻訳という大変なお仕事をするのですから、当然といえば当然ですが。『キャッチャー』(『ライ麦畑』)を読んだら、(どちらかでも)本書は必読だと個人的に思います。
村上さんの翻訳を巡っての柴田さんとのお話は、とにかくおもしろい! 野崎訳『ライ麦畑でつかまえて』を読み、ちょっと理解が難しいところが、こんがらがった糸がほどけたように分かり、すっきりしました。そして何より、村上さん柴田さんの翻訳観を知り得たこと、大きな収穫でした。言葉の訳し分けの細かいところまで、突っ込んで説明されています。翻訳の繊細な部分を感じ取れました。
契約上、「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」という縛りがあったとのこと。本書には村上さんの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の解説、柴田さんの「Call Me Holden」が掲載されていてお得です。
早速、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、読んでみようと思います。 -
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ネタバレ三宅香帆の著作で人生を狂わす作品として紹介。
だいぶご無沙汰な村上春樹でした。初出誌が生まれ年の1989年というのに親近感。
標題作品の『TVピープル』を始め、全編不気味な雰囲気を纏っている。少し常識から踏み外した世界観から、私たちの日常生活への小さな歪みみたいなものを抉り出される感覚。
『眠り』の舞台設定が我が身と類似点があり、1番ゾワっとした。眠りを超越し、傾向的な消費から解放され自分の時間を過ごしている。そこに自分の人生を生きているという充実感を覚える。反面、昼間の生活に対する不信感や、踏み込んだ嫌悪感を意識してしまうに至る。夫と息子の寝顔を見ながらの感情の吐露は凄みがある。
さらに、「死」とは終わりではなく、暗闇の中で永遠に続く覚醒かもしれないという気づき。眠りの延長線上でしか「死」を意識していないのは私も一緒で、この考究はある種の絶望を与えられた。
ラストの誰でもない誰かに迫られる恐怖。深夜という非日常な世界における異質さと無秩序な空気感がおどろおどろしいわ。
村上春樹の奥深さと、やっぱり好きかもという懐古。勢いに任せて『ノウウェイの森』文庫を購入。久しぶりにこの代表作を読んでみよう。
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ネタバレ父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを-息子である僕が部分的に継承したということになるのだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?【P63】
たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てにいったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきりと思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ。【P106】
村上春樹さんの物語で、私の物語だ。ささやかなものごとの集積。ストンと、納得できた。 -
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暴力、そして『ねじまき鳥クロニクル』の副読本
ユングとか河合隼雄とかの怪しさは、いったん脇に置いておく。
村上春樹の無意識的・形而上的な創作技法が、多少なりともつまびらかにされてをり、それは氏にしては珍しく赤裸々に開陳されたものだと思ふ。
特にこの対談のメインとなるのは、暴力についてだ。それは氏が『ねじまき鳥クロニクル』を書き終へたばかりといふこともあり、身体から出てきた(頭で考へただけではない)物語だからだ。
同じく暴力を扱った作家として、村上龍と大江健三郎の名前もすこし出てくる。
河合隼雄の心療経験の話が面白く、それがうまく村上春樹と噛み合ってゐる。河合が接した患者の心療経験から導きだされる普遍的らしい真理に、こちらも惹かれてしまひさうになる。
もちろん眉に唾をつける話もある。
たとへば河合さんは、日本の私小説は世界に受け入れられないと書いてるわけだけど、それは違ふと思ふ。なんとなれば、最後の方で河合さんは、みづから矛盾したことを言ってゐるわけだから。《あと、ぼくの場合は、一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことを考えざるをえなくなってくるんですね。結局、深く病んでいる人は世界の病いを病んでいるんですね。》
なにより、村上氏の政治的スタンス(むしろそれは暴力にたいするスタンス)は、ほかの文学者と乖離した価値観があった。反核宣言も、だれも痛みを引き受けてゐない。とかれは言ってゐる。
要するにそこには、他者の痛みを自分のものとして一旦捉へる、さうして納得できてはじめて行動できる。といふ態度だ。
現在の村上氏の、のらりくらりとした対談の状況(それはたとへば川上未映子氏との対談だが)をみれば、☆5にする価値はあるのではないか。とさう思った。 -
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ああああー。。めちゃめちゃ!!面白かった・・・
実は最初に書き上げたのは第一部で、そのあと寝かせているうちに「これでは終われない」と感じ二部、三部と書いたんだって(ご本人によるあとがきより)。
一部で終わるのと、三部で終わるのでは意味合いがかわるよな。。
終わり方としては、めっっっっっちゃ私この終わり方が好き。好み。めっちゃいい。良すぎる。終わった後でいろんなことや可能性をたくさん考えてしまう・・考える余地が残っているというのかな?半分はファンタジーと言えると思うけど、心理的な要素も強くて(どこからどこまでが?)その曖昧さがとって!も!いい。今までよりカフカよりもずーっと現実的ではなくなったかもしれないけど、いやこういうことでしょう!私もそう思う!そうだよね!そうだよ!って大興奮しながら読んじゃった。
それと、どうしても村上さんご本人と重ねて読もうとするからか?
なんだろう・・空気感は今までと変わらないんだけど、今までより、人間臭さがはっきり文章にされてたように思う。主人公の心の動きや心理や考えていること(もちろん自分でもはっきりとわからないこと)を、言葉にしようとしているさまが文章で書かれていて・・いい意味で「普通」になったというのかな?物語における婉曲な(すぎる)比喩とか置き換えとか象徴的エピソードとかが多すぎなくて(笑)すごくいいなと思った。
主人公が涙を流して泣いたり、人生を振り返り気づきを得たりする。はっきりと文章で書いてある、待つことについて。あとは・・出てくる女性と一度もことに及ばなかった(というか、及べなかったのだ!)、異世界に行く、のではなく、目の前で現実が(これが現実ならばということだが笑)はっきりと混ざって歪んだり、女性を誘う時「誘った」っていう描写じゃなく「もしいやじゃなかったら、うちに来ないか?」って誘いのセリフがあったり?
今までの作品と根っこの構成要素は同じであり、言っていることは、言葉も物語も違えど同じ物を含んでいるって思った。
もしかして、村上さんは、変化することが苦手だったのかな?私は成長過程で、わざと、子供のままでいようとしていた時期があった笑 今回の話は「少女がいなくなったことで心が止まっちゃった」ようでいて、実は変化を拒んでいるのは自分なのかもしれない、って気づきの話なのかも。いろんなことがあっても、止まれない、変わっていかなければならないのだと。これは自分もそうだけど、年齢を重ねたからこそ得られたものなのかもしれない。
私はどちらの僕も僕自身なんだと思ってる。
『つまり私の意志を超える、より強固な何らかの意志というのは、私の外側にあるものではなく、私自身の内にあるものだと?』
『それは私にとって何か大事なことを意味しているのだろうか?あるいはそれはものごとの大きな流れとは関わりを持たない、ささやかな脇道エピソードに過ぎないのだろうか?だいたい「ものごとの大きな流れ」なんてものが私の周りに存在するのだろうか?』
『ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、1人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ・・と言ってしまってもいいかもしれない。』
『壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはずだ。でもそれはどこまでも不確かな壁なのだ。』 -
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ネタバレ確か高校の現代文の先生が読んでいたので、本書の存在は知っていた。個人的にも香川、西宮など、ゆかりがある場所が多く出てくるのでそれだけでも楽しく読めたが、加えてこれからある意味での旅に向かう自身にとって響く言葉が多かった(詳細は以下、多くなってしまった)。
改めて、何かを問うとき、問われているのは自分自身なのだと感じる。どこかへ行くとき、災難に見舞われるとき、発見するのは自分自身なのだと思う。旅とは、ある種の諦念(思い通りにならないこともそりゃ沢山ある、という姿勢)を獲得する過程であり、これを獲得するからこそ、逆説的ではあるが、それでも不変なもの(どうにも変えられない自分の一部、等)に目を向けられる/自覚的になれるのではないか。
これまで数多の本を読み、映画を鑑賞し、他者の考え方に触れる中で確立してきた(ように思う)自身というものをもう一度揺さぶる機会として、旅を位置付けられないかと、率直にそう感じた。本書は今後の自身の旅にも持っていきたいと思う。
特に印象に残った箇所は以下
・僕の人生というのはー何も僕の人生だけに限ったことではないと思うけれどー果てしのない偶然性の山積によって生み出され形成されたものなのだ。人生のあるポイントを過ぎれば、我々はある程度その山積のシステムのパターンのようなものを呑み込めるようになり、そのパターンのあり方の中に何かしらの個人的意味あいを見出すこともできるようになる。そして我々は、もしそうしたければ、それを理由(リーズン)と名づけることもできる。しかしそれでもやはり、我々は根本的には偶然性によって支配されているし、我々がその領域の輪郭を超えることができないという基本的事実には変わりない。学校の先生がどれだけ論理的で整合的な説明を持ち出してこようとも、理由(リーズン)というものは、もともとかたちのないものに対していわば無理やりにこしらえあげた一時的な枠組みに過ぎないのだ。そんな、言葉にできる何かにどれほどの意味があるだろう。本当に意味があるのは、言葉にできないものの中に潜んでいるものではないのか。でも、僕がメキシコという「場」に足を踏み入れて、そこにある空気を吸ってまず感じたことは、そんなことを言いだしてもここではきっと通用しないんだとうなというある種の諦観だった(p.53〜54)
・一人でメキシコを旅行してみてあらためてつくづく感じたことは、旅行というのは根本的に疲れるものなんだということだった。これが僕が数多くの旅行をしたのちに体得した絶対的真理である。旅行は疲れるものであり、疲れない旅行は旅行ではない(p.84)
・僕は思うのだけれど、うどんという食べ物の中には、何かしら人間の知的欲望を摩耗させる要素が含まれているに違いない(p.147)
・でも僕にはうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする(p.230)
・人は年をとれば、それだけどんどん孤独になっていく。みんなそうだ。でもあるいはそれは間違ったことではないのかもしれない。というのは、ある意味では僕らの人生というのは孤独に慣れるためのひとつの連続した過程にすぎないからだ。だとしたら、なにも不満を言う筋合いはないじゃないか。だいたい不満を言うにしても、誰に向かって言えばいいんだ?(p.286)
・いちばん大事なのは、このように辺境の消滅した時代にあっても、自分という人間の中にはいまだに辺境を作り出せる場所があるんだと信じることだと思います。そしてそういう思いを追確認することが、即ち旅ですよね。そういう見極めみたいなものがなかったら、たとえ地の果てまで行っても辺境は見つからないでしょう。そういう時代だから(p.301) -
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今からちょうど30年前の1995年は、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件と、連続して日本を震撼させる出来事があった年として銘記される。戦後50年の節目の年でもあり、バブル崩壊後の平成不況が続くさなか、全日本国民にとって「終わりの始まり」の年となったと言ってよい。1995年以後の30年は、それ以前の30年とは明らかに違う。「以前」が上り坂だとしたら、「以後」はずっと下り坂だ。
当時25歳だった自分はどう感じていたか。もちろん事件には驚愕し、テレビの報道映像に釘付けになったが、その時点では、今が「現代史の分岐点」とまでなるとは思っていなかった。自分にとっては4月から新たな就職先での仕事がはじまることと、3月に彼女にフラれたことの方が大きな事件であった。個人史的にも、1995年は特筆すべき年である。
『アンダーグラウンド』は数ある村上春樹作品の中でも異色のものである。インタビューによるノンフィクションという形式も、アメリカではよくあるようだが、日本では珍しいのではないか。
作者は「はじめに」で、700ページを超える大部のこの著書をものした動機について、次のように語っている。
「取材において筆者がまず最初に質問したのは、各インタビュイーの個人的な背景だった。どこで生まれ、どのように育ち、何が趣味で、どのような仕事につき、どのような家族とともに暮らしているのか――そういったことだ。(中略)そのような姿勢で取材したのは、「加害者=オウム関係者」の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである。」(pp.27~28)
『アンダーグラウンド』の主役は「巻き込まれた一般の人たち」であり、それは私やあなたである。「オウム」という特別な人たちではない。ここがポイントだ。今から30年前、月曜日の朝の通勤時間にいつも通り地下鉄に乗っていた、父親や母親、息子や娘であった普通の人々だ。
インタビューを受けた人たちの口から、「ああ、確かにあの頃はそんな風に考えてた」「そんな風に感じていた」と思わせる言葉がたくさん出てくる。まさに時代のドキュメンタリーである。