村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ランナーとしての村上春樹のメモワール。
元競技者であり、同じくひとりのランナーでもある立場から読んだ。深く同意するポイント、春樹はこんなことを考えるんだと新鮮に感じられるポイント、いろんな発見があった。
特に2、4、6章は定期的に読み返したいものです。
p90の景山氏の「村上さん、ほんとにマジでコースを全部走るんですね」という発言が、春樹の小説であまりで出てこない表現だったので新鮮だった。まあ、メモワールだから当然なんだろうけど…
以外、印象に残った箇所を引用。
p61. 学校というのは入って、何かを身につけ、そして出ていくところなのだ。
→とある善き期間とは心地よいものであるが、その先にある自ら道を切り拓かなければならないときにうまく活かせて、はじめて意味が与えられる。
p120.才能にそれほど恵まれていない〜作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として使うことを余儀なくされる。
p151.肉体は時間の経過とともに否応なく滅びていく。遅かれ早かれ敗退し、消滅する。肉体が滅びれば、(まずおそらく)精神も行き場を失ってしまう。
→まず肉体という精神の器があり、その中に健全な(一部はやましい不健全な)精神があってはじめて、人間は日々の営みができる。ホワイトカラーの仕事をしているとつくづく感じるが、近現代は肉体を蔑ろにしすぎている。 -
Posted by ブクログ
本当に好き。ページを捲る手が止まらない。
色んなことが繋がってくる。全てが伏線に思える。「物語の中にいったん拳銃が登場したら、それはどこかで発射されなくてはならないの。」
BOOK2 の前編でも思ったが、何のために生きるのか、みたいなことが様々な人物を通して語られている。タマルが旧友の話をしながら「言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きていると思われる節がある。」と言っていた部分とか。
BOOK2からBOOK3の発売までは1年あいているらしい。その時代に戻りたい。まだBOOK3が存在していないところでゆっくりと最初から読み直したい。でも目の前に続きがあるから読まずにはいられない。というわけで楽しく続きを読みます。 -
Posted by ブクログ
二人の物語が交わってきた。ものごとには二つの側面がある、みたいなことが色々な場面で言及されている。
自分が文体に慣れてきたからなのか、物語が進むにつれて意図的に行われていることなのかわからないが、比喩表現が増えて頭にスッと入るようになってきた。何度か読み直したい。
不思議なことが起こり、ストーリーが面白い。一方で、それぞれの風景の描写は美しく、メッセージ性を感じるようなところもある。例えば、「人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。」という言葉は印象的だった。 -
Posted by ブクログ
原文と照らし合わせながら、村上春樹訳の文章を時間をかけてじっくり読んだ。表題作だけ読んだ。
読み終えた後、泣き出したい気持ちになった。ホリーはbelongできる場所(ホリーはそれを「ティファニーのような場所」と語る)を見つけられたのだろうか。それは天の上にしかないのではないか、そんな考えに駆られた。実際この物語の中には「天」や「神」を彷彿とさせる言葉がたくさん出てくる(冒頭でジョーベルが作ったカクテルの名前は「White Angel」だし、サリー・トマトの弁護士と連絡を取っていた場所、そしてドク・ゴライトリーと話したのも「ハンバーグ・ヘブン」というお店だった。他にも天や神を思わせる単語はたくさん出てくる。「僕」はホリーが「アフリカに足を踏み入れていない」と確信している。
ホリーは自由奔放(性的にも開放的)な、この物語の時代の女性のジェンダー規範とは異なる女性像として描かれる。ホリーは「ティファニーのような場所」(資本主義の象徴)を求め、さすらいながら(Traveling)生きている。そこは「いやったらしい赤」(共産主義の象徴)(ホリーはこれを怖がっている)の気持ちを落ち着けてくれる場所である。この「赤」は過去の自分の象徴でもある。物語の最後でホリーは自分が共に生活していた猫を手放した後で、自分と赤毛の猫がお互いに「belonged」な存在であったことを悟る。捨てたはずの過去の自分も自分の一部だったのだ。
ホリーは自分の居場所(belongできるhome)を探しながらさすらう(Traveling)。ホリーは何にも縛られず、自由気ままに生きているように見えるが、そこには不安が常にあること、ホリーが今いる場所(traveling)は「ものごとが消え失せていく場所」であることが語られる。
私にはホリーにとってのティファニーみたいな場所はあるだろうか。今家族と同居している実家は、表面上は温かいけれど、その「表面」を私が少しでも壊してしまうと、途端に安心できない場所になる。東京に行きたい。でも東京にも「ティファニーみたいな場所」は見つからなかった。一生見つからないかもしれないと思う。東京に住んでいた時も、家にいるのに家に帰りたい(それは実家ではない場所)と思っていたから。
「belonged」な関係ってなんだろう。大切な人と私は一つになれる、あるいは一つのようになれるんだろうか。アロマンティックでクワロマンティックな私が、大切な人とそんな関係になれるだろうか。
O.Jがホリーのことを「本物のまやかし(real phony)と表現していた。phonyという言葉は『The Catcher in the Rye』で何度も出てきた言葉であり、主人公のホールデンが嫌っていたものだった(村上春樹訳では「インチキ」と訳されていた)。ホリーの愛情は「自然」なものではなく、「訓練」された(trained)ものであったし、それはホリーのキャラクターにも言える。確かにphonyだった。でもそんなホリーを昔の自分と重ねているところがあった。実際、今の自分だって、「本当の自分」ではないのかもしれない。「本当の自分」って何?
『BUTTER』で、梶井は自分の生活を「『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーのような生活を送っていた、私は旅行中(traveling)だった」と語った。里佳はそれを、映画のホリーのことだと考えるが(小説のホリーはフェミニズム的な部分があって、映画はそれと内容が違う)と考えるが、梶井は原作(小説)の方を読んでいたんじゃないかと思う。実際、梶井の実家の部屋の本棚には様々な本が保管されており、読書が好きだったと語られている。梶井がどこまでフェミニズム的でクィア的な文脈を理解したかは分からないけど。
大学の授業で精読して以来(その授業が私は大好きだった)、ずっと読み返せてなかったから、読めて良かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ前提として、少女への強制性交などの極悪非道な現象が、我々の住む現実世界に存在することを認知しなければならない。そのような認知を現実の新聞等から得ている人以外は、胸糞悪すぎて読めない可能性がある。だが、村上春樹は真剣に「オウム真理教的な宗教」を掛け合わせつつ、物語でしか伝えられないことを伝えようとする。
村上春樹はこの小説によって一作家としての捨て身の挑戦を行っている。本当の倫理を書くためには、肉が切られることを許すほかない。文学史に名を残す作家が60歳で生涯をかけて語らねばならぬと決意(たぶんしたはず)した作品は常に新しい。これほど女性視点から思考を展開した春樹作品はない。 -
Posted by ブクログ
2010年に新潮文庫出読んで以来の再読(村上春樹訳)。最近村上春樹訳の小説がアタリが多く、折角なので読んでみることに。また、昔読むきっかけになったアニメ映画『秒速5センチメートル』(以下、単に『秒速』という。)の実写映画を観たことも、『草の竪琴』を思い出すきっかけになった。
【表題作】
初読の頃は主人公たちを脅かす存在に非難の気持ちを抱きながら読んだものだけど、今回はなんというか、もっとフラットな気持ちで、まさにおとぎ話を読むように味わった。
「あるいは我々の誰にも、居場所なんてものはないのかもしれない。ただし我々は、それがどこかにあることを知っている。それがもし見つかったとしたら、そしてほんのひとときでもいいからそこに暮らせたとしたら、そのことを至福と見なしていいんじゃないかな。」 (p.63)
読み方が変わったのは単純に歳を重ねたからであって、こうした変化は自分に限ったことではないのだろう。成長なのか経年劣化なのか、それは分からない。
いい小説だよな。読んで良かった。
なお、先述のとおり、そもそもこの小説に出会ったのは、『秒速』のヒロインがエンディングの途中に一瞬この小説を読んでいる描写があったからだ。(新海誠の他の映画では、主人公がサリンジャーの『ライ麦』(村上春樹訳)を読んでたりもする)
この小説を『秒速』のヒロインが読んでいた意味…
彼女の大切な恋が、人知れず奏でられる風が草を揺らす音のように、毎日の生活の中で意識せずとも、静かに響いていることを示しているのかな。とか、ちょっと気持ち悪いことを考えた。
また、訳者である村上春樹について。彼は様々なところで自身にカポーティが与えた影響について言及しているところ、私はその辺の感受性がないのか読解力がないのか、カポーティが自分の中で特別な作家という訳ではない。ただ、この小説からは、村上春樹のハードボイルドではない側面の源流をみた気がする。
丁寧な優しさ?小説的な優しさ?とでも呼んだら良いだろうか。優しさという言葉には、例えば親切であるとか相手を良くしてあげるだとか、そういった行為も含まれるのだが、この小説で描かれる優しさは、なんというか位相が異なる感じが伝わってくる。『海辺のカフカ』とか『IQ84』とか、それこそ『風の歌を聴け』とか、あの辺りの小説を読んだ時、もっといえば村上春樹を読んだ時に感じるもののエッセンスが含まれている気がした。
【最後のドアを閉めろ、ミリアム、夜の樹】
表題作とは打って変わって、とんでもなく不気味な小説群。正直にいえば「夜の樹」は自分にはイマイチぴんと来なかったが、前二者は最早ホラーといった感じで空恐ろしい。特に、その恐怖の原因が自分の中にある可能性が留保されており、澱のように自分の中に残ってしまう。
あまりにも表題作と違って驚いたけど、これはこれで面白い。