あらすじ
青豆は「さきがけ」のリーダーが最後に口にした言葉を覚えている。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」。彼は何かを知っていた。とても大事なことを。──暗闇の中でうごめく追跡者牛河、天吾が迷いこんだ海辺の「猫の町」、青豆が宿した小さき生命……1Q84年、混沌の世界を貫く謎は、はたして解かれるのか。
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(青豆)
自殺しようとするが天吾と会うことを目的に思いとどまる
天吾とは1Q84の世界でしか会えない?
非常階段を逆に登ったらどうなのか
天吾の子供を孕む
(天吾)
父親の部屋で見つけた空気さなぎ
その中にいたのは子供の青豆
安達看護師と一晩を明かす
(牛河)
青豆と天吾の真実へ徐々に近づく
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村上春樹は20年近く続けてきた一人称「僕」で小説を書くことがだんだん息苦しくなってきて、『ねじまき鳥クロニクル』(1994)を最後に、三人称での語りを取り入れたみたい(参考文献:村上春樹『職業としての小説家』新潮文庫)
『1Q84』は、カルト集団のリーダーを暗殺した青豆と、青豆と特別な関係を持つ天吾の2人の三人称の語りで交互に物語が進んできたけど、この巻からはまさかの牛河(カルト集団に雇われた醜い容貌の追跡者)の語りも加わった!
青豆と天吾の周囲には時空や次元を超える不思議な世界があるけど、そこに現実世界の牛河が加わることで、スイカに塩をかけて甘さを引き立たせるような効果が生まれた
ところで、安達クミという登場人物が自分のことを、「パッとしない名前でしょ?」と言うシーンがあり、なんで??としばらく考えてたけど、名前の最後に"ん"を付けたらっていうこと!?(まさかまさか)
Haruki Murakami gradually found writing novels in the first person using "boku" (I), which he had continued for nearly 20 years, to be increasingly stifling. After "The Wind-Up Bird Chronicle" (1994), he began to incorporate third-person narration (Reference: Haruki Murakami, "Novelist as a Profession," Shincho Bunko).
In "1Q84," the story had progressed alternately from the perspectives of two characters: Aomame, who assassinated the cult leader, and Tengo, who has a special relationship with Aomame. However, from this volume onward, unexpectedly, the perspective of Ushikawa (an ugly tracker hired by the cult) was added!
Around Aomame and Tengo exists a mysterious world that transcends space, time, and dimensions. By adding Ushikawa's viewpoint from the real world, it created an effect like sprinkling salt on a watermelon to enhance its sweetness.
By the way, there is a scene where a character named Kumi Adachi says, "Isn't it a dull name?" I wondered why for a while—but does it mean that adding the syllable "n" to the end of the name would change that!? (No way, no way)
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ある種、秩序やルールが存在する世界
それは、体系的に描かれた文学の世界そのものであり尚且つ我々が向かい合う社会構造そのものである。
それが能動的に襲ってくるということが起きないだけで
つまりはデタッチメント的側面で生きていても社会との接点や、その牙から掻い潜ると言うことは上手く実行することはできないのだ。
秩序は個人を強制的に社会に同居させそれはある種困惑を産むかもしれないが、それは適合も産む
変化は進化であり、退化も進化なのだ。
村上春樹がエルサレム賞でしたスピーチ
卵と壁
まるで、ルールは壁で個人は卵である。
それを体現しているかのように理不尽に、天吾と青豆の元に秩序は襲いかかる
--------
2人は世界の秩序に飲み込まれて言ったかのように見えた
しかし、それは秩序ではなく元から存在した不確かで意地悪ななにかであった
人間は生まれながらにして、家庭や教室という秩序建てされた環境での生活を強いられる
(例えば青豆で言えばカルトである)
つまり、我々はいくら社会と距離を取っていたとしてもそれと生まれた時から結びついて言ってしまっているだ
簡単に言えばデタッチメントはこじんでの成立も破綻している
それがわかった巻であった
しかし、それを法を犯そうした途端に彼らに牙を剥く
殺人罪、そして虚偽の詐欺罪
彼らが無意識に潜在的に犯した罪こそが彼らを秩序なき1Q84の世界に導いたのだと確信をする。
その世界で個人的な社会である、自分と向き合い社会との接点を上手く得る
今度は社会との接点、そして理不尽なまでに牙を持った1Q84の世界との仲直りだ
これを読んでいた際彼らに必要なのは正常の生活に戻ること、
つまり彼らが理想として掲げて生活する個人地味た生活に戻ることだと思っていた
しかし、そうでは無い、彼らに必要だったのは社会との和解だったのだ。
牛河についても面白い、ねじまき鳥クロニクルの牛久を思い出すが、彼を醜いと稀有する人々により彼は自分を醜いと定義している。
それはある種の生きやすさを彼に産んでいる
不動産でやけに信用された際には彼が新人だからなのかと思い込む描写が描かれる。
しかし、それは違う。本質的に牛河が醜いかは彼が語る彼自身にか定義されていないのだ。
それが面白い。その構造が面白い
ルールや社会は他人が決めているのもである種距離をとって生活をする、しかし、それを無くして生きることは出来ないという現れなのだ。
とにかく次巻で完結だ
ポストモダン的な彼らは世界とどのように接点を見つけるのか、それとも社会へのデタッチメントを貫く為の何かを見つけるのか
村上春樹は何を思うのか
とても楽しみである
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残すところ後1作となった1Q84。まだまだ多数の謎に満ちており、続きが実に気になります。残り400ページ足らずでどのような結論に行き着くのか楽しみです。
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本当に1と2、3と4、5と6で雰囲気も一気に変わる。けど話は確実に前に進んで、物語も終盤に入ったこともわかる。
牛河がここにきて追いかけてくる事で物語に一気に緊迫感が生まれて面白い。
牛河は特別に凄い能力を持っているわけでもない。そこも良かった、良い存在ではないだろうけど、執念深い刑事のよう。
青豆自身が今、空気さなぎになろうとしている。そしてあのNHKの集金人は一体…
展開なんて全く読めないけど、着々と物語は進んでいる。そしてそれをしっかり楽しめている事は自分でも理解できている。
遂に物語も次で最後。1Q84年の最後を見届けよう
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5巻の始まりが牛河だったので、一瞬もう読む気力を失いかけてたのが反転。 予期しない展開に惹かれて5巻はペースアップで読めました。 村上春樹さんは、牛河を読者にまずとことん嫌い、キモいと思わせる書き方が上手ですね(笑)。 ところがどっこい、読んでるうちに、あ、また騙された、実はかなりわかってる奴じゃない、結構好きかもっという存在に変わってくる。最終巻が待ち切れない終わり方です。
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青豆と天吾の再会は近い?
そして青豆を追う牛河という男の章も登場。
二人は再会できるのか、それとも牛河ら「さきがけ」の人間たちに邪魔されるのか。
いよいよ次はラスト。
難しいけど面白い
村上さん作品は何度も読んでわかることもあれば、さくっと頭の中に入る物もある
読んでいる時々の年齢で、「あ、そういうことか」とより深く感じることもある。
今回も買って良かった。
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だんだんと佳境に入ってきた感じ
青豆が妊娠?
処女じゃないけど処女受胎、しかも天吾の子ども?
天吾と一緒にいたふかえりは後継人のところに戻っていった。
天吾たちを狙っていたさきがけは青豆を探している。
天吾と青豆は近くにいるのに、、、。
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青豆が新興宗教団体のリーダーを殺害してからの物語。
これがきっかけとなり、世界の構造が変化する。
青豆はマダムが準備した高円寺のマンションに身を隠す。
かねてよりの予定通り、顔を変え、名前を変え、違う人間になるはずだったのだがー。
さきがけの雇った探偵の牛河(前の巻に出てきた謎の団体の職員を名乗る男)の物語がここで立ち上がる。
彼は、青豆と天吾の身辺を探り、青豆を追い詰めていく。
結果的に青豆と天吾の出会いを作り出すという、「物語を推進する機能」が見え見えの人物だが、この人物の生い立ちやパーソナリティが詳細に書き込まれ、際立った存在感がある。
こういうところが、村上春樹のすごさなのかもしれない。
青豆の世界と天吾の世界がだんだん近づいてきた。
が、お互いの存在を感じながらも、二人がまだ出会うことはない。
「君の名は」(菊田一夫の方ね、ちゃんと読んだことないけど)かいな。
それにしても、この物語にも出てくるチェーホフの「拳銃が出てくるならそれは必ず発砲される」という話は、青豆がタマルに準備してもらった拳銃のことかと思ったがそうではなく、雷雨の方に関わっていたとは。
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・首都高でヘックラー&コッホによる自殺を図ろうとした青豆を呼び止めたのは、青豆に聴こえた遠くから自身の名前を呼ぶあの声は空気さなぎの中の10歳の青豆に名前を呼ぶ天吾の声だったのかと気づいたとき、本当に素敵だと思った。これ以上ない伏線回収でかつこれ以上美しい愛がそこにはあると思った。登場人物である2人が気づいていないだけで、そこには既に愛はあるのだと思う。
・天吾が猫の町に行く前、天吾も青豆も高円寺の街でお互いを想い続けるシーンは、個人的にミスチルの「君が好き」を挿入歌にしたいと思った。この小説の主題歌がヤナーチェックのシンフォニエッタだとしたら挿入歌は君が好きで間違いないと思う。
・青豆って雅美だったんだ。なんかわりと納得。実写やるなら長澤まさみにやってほしい。
・牛河は青豆も天吾もそして自分自身も、「無条件で自分を受け入れ、抱きしめてくれるような何かを求めていた」と推測するがこれには深く共感した。私もそれを求めているから。
P.S.とにかく牛河の存在感が強い一編だったとも思う。
牛河はもうお腹いっぱい。
Posted by ブクログ
青豆と天吾が出合いそうで出会わない、ちょっとやきもきする展開が続きます。そして牛河がどんどん存在感を際立させてきます。表現のうまさもさることながら、ときどき意味が分からない表現が出て着るのも村上春樹さんの良さなのでしょうね。
Posted by ブクログ
(全巻同じレビューを入れています)
・・・
なんだか本作、キャラの作り・彩りが他の作品より豊富かつ精緻であったと感じました。
・・・
一番感じたのは天吾。
天吾は、これまでの村上作品でいうところの「僕」に当たると思います。
たいてい「僕」は文筆・広告関連、或いは飲食関連を生業にしつつ、音楽好き・思想や文学をそらんじ、気怠く生きつつも(あるいは彼なりに模索をしつつ)女性と交わりつつ、そして世の中のフシギと対峙し、最終的に大団円を迎える、みたいな感じでした。そんな彼ですが、不思議とどういう背格好かとか、そういうのは記述がなかったんですよね。まあそれはそれで味がありました。自分を重ねて読むこともできました。
でも今回の天吾は家族構成、身体的特徴(柔道耳!)、大柄でスポーツも数学的センスも(実際は音楽センスも)あり、とにかく器用であることなど、非常に細かい設定であったと思います。よくも悪くも、自分を投影するキャラではなく、外から眺めるべき主人公でありました。
・・・
もう1人の主人公青豆はややラフな作りこみで、彼女の家族の話は余り描かれず、むしろ柳屋敷の女主人やタマルなど、遊び友達の中野あゆみなど、周囲の際立ったキャラとともに物語を彩り深いものにしていたと思います。
もう1人、やはり出色のキャラは牛河でしょう。本作で一番印象深いトリックスター(という程ではない!?)だったかと。実は司法試験合格者とか医者の家の子だとか。こういうのは初めて読んだときに記憶に残りませんでした。
でも彼のこと、他の作品でどっかで読んだ気がしたけどどこで見たんだろうと、気になって仕方なく、googleで検索したら『ねじまき鳥クロニクル』 (1994)で出ていました。そうそう、「僕」の元を離れた奥様の兄の綿谷ノボルの秘書としてでした。
・・・
その他、ふかえりの育ての親の戎野先生、編集者の小松など、かなりエッジのたったキャラが自然な形でそのポジションを占めていたと思います。
あと、17歳で文学賞を受賞したふかえり、あれは綿矢りささんが高校生で芥川賞を受賞したことの影響じゃないかとか、さきがけ・あけぼのってのもオウムの影響じゃないかとか、諸々想像させるところがありましたね。
・・・
もう一つ。終わり近くまで殆ど考えませんでしたが、タイトルについて。
本タイトル、もちろんかのディストピア小説の『1984』を承けたものでありますが、本作は「9」「Q」になっており、一種のパラレルワールドへ迷い込んだという設定です。実際にはパラレルではないとの説明がありましたが。
で、天吾と青豆は会えそうで会えないすれ違いを、結構延々と、最後の最後まで繰り返すのですが、最終巻の第三巻に至ってまだ会えないところで、私気づきました。
そう、この物語は年末までに終わらねばならない。なぜならば、タイトルがそうだから。85年を跨がないように、タイトルが84年となっている。
実は第一巻は4-6月、第二巻`は7-9月、第三巻は10-12月とサブタイトルが振られています。そしてキチンをけりをつけるべく、収束していったことに感心した次第です。
上手く表現できませんが、何というか、タイトルの制約を内容に反映させた?ような作りが面白いと思いました。
・・・
ということで村上作品でした。いやー長かった。10日間弱、読むのにかかりました。
ところで、私の初めて読んだ村上作品は『ノルウェイの森』(1987)でした。そして帯には『究極の純愛』とか何とか書いてあったと記憶します。
そこから20年を経て上梓された本作、これもまた『究極の純愛』と呼んでも良い作品であったと思います。
堪能致しました。
Posted by ブクログ
『BOOK2』までは「1Q84」世界にある「さきがけ」や、そこにある謎としての「空気さなぎ」、「リトル・ピープル」、さらには、自分の考えに凝り固まっている人たちのキモチワルさが一見正しいことのように語られるストーリーだったが。
そんな『1Q84』も、『BOOK3』では天吾と青豆をめぐる、たんなるラブストーリーへとなだれ込んでいく。
ていうか、たんなるラブストーリーというより、ほぼ昔のトレンディドラマ(←死語w)だ。
村上春樹という人は、好むと好まざるに関わらず時代から逃れられない人なんだろうなーって気がしてしょうがないんだけど、この『1Q84』という小説は90年代の「月9」とか「トレンディドラマ」と言われたあのカルチャーにもろ影響を受けているように思う。
もちろん、村上春樹は90年代のトレンディドラマなんか見ていないだろう。
いや、意外と見てたのかなぁーw
ていうのは、ソニーの元CEOの平井一夫氏は現在63歳らしいのだが、テレビドラマの1回目だけは見て、これはOK、これは見ないと決めているってことなんだけど。
それは、平井氏いわく、ドラマというのは今の社会をトピック的に反映しているところがあるから、それをみることで、「なるほど。こういう考え方が今あるんだ」とか、「こういう風に描写されるんだ」という風に見て、ワクワク楽しんでいるらしいのだ。
今のドラマなんて、自分は全く見る気がしないんだけどw
でも、本当に優秀な人っていうのは、むしろ、そんな風に世の中のことを広い視野で許容力を持って見ているものなんじゃないだろうか。
そう考えると、村上春樹が90年代にトレンディドラマを見ていても全然おかしくはないように思うのだ。
もっとも、村上春樹という人はカッコつけの権化みたいな人だから。
トレンディドラマを見ていたなんて、口が裂けても言わないだろうけどさ(爆)
ま、それはそれとして。
村上春樹が90年代のトレンディドラマを見ていないにせよ、見たにせよ、著者は時代の影響を無意識に受けてしまうタイプだから。90年代に放送され、多くの人が見ていた数々のトレンディドラマによってつくりだされた時代の空気を吸うことによって、『1Q84』はこういうストーリーになったんじゃないかな?
そういう意味で、この『1Q84』という小説は、90年代というリトルピープルによってつくられた空気さなぎと言えるのかもしれない。
そんな『BOOKS3』だが、『BOOKS2:後編』から★を2つ増やしたのは、たんなるラブストーリーとして読むならば、これはこれで面白く読めると思ったからだ(^^ゞ
あと、『BOOK3』は牛河のパートが入ることで、他の主要登場人物のように何かを信じすぎている、言わば「1Q84世界」に染まっていない普通の人の視点が入るようになったことで、ストーリーがどこか風通しよくなった気がするのもよかったように思う。
牛河は、天吾や青豆のように自分の考えに凝り固まっていないから、読者もその後のストーリーをいろいろ想像できるのだ。
「猫の町」のエピソードが、やっぱりいい。
設定では「猫の町」=「1Q84世界」ということになっているのだけれど、そもそも「猫の町」は「1Q84世界」でのストーリーに出てくる千倉のことだ。
でも、「1Q84世界」に迷い込んだ青豆は高円寺で天吾と再会することになるのだから、天吾の住む高円寺も「1Q84世界」ということになる。
なのに千倉が「猫の町(=1Q84世界)」という異空間のように語られるのは、そこに天吾の出生の秘密(天吾の本当の両親は誰?)を知っているらしい天吾の父親がいるからだろう。
天吾は、子供の時、集金を容易にする目的で毎週末に連れて歩かされたことで父親を嫌っていて、また、それが原因である時から関係を絶っている。
さらに、父親は認知症で施設にいる。
普通、人は(それが親であろうと)そんなところに行きたくはない。
出来ることなら、行きたくないところには、ずっと行かないで済ませたいのが人情だ。
つまり。
他の村上春樹の小説に出てくる、主人公に都合のいいことだけを言ってくれる女性と同じ存在である、ふかえりは、だからこそ、父親のいる千倉を「1Q84世界」だ(ふかえりがどういう言葉でそれを表現したのかは忘れたw)、としたんじゃないだろうか?
そう考えると、父親のいる千倉は「1Q84世界」というよりは、天吾が地に足の着いた生活(=普通の大人として生きること)をしなきゃならない世界を象徴しているんじゃないかって気がするんだよね。
だからこそ、天吾は千倉に行きたくなくて、今まで足を向けなかった。
でも、大人になることなんて、別に大したことじゃない。
大人になることなんて、誰だって出来る。
だって、なるしかないんだもん(^^ゞ
大人って、なってみればわかるけど、意外と子供の時より楽だったりする(爆)
もちろん、社会的にもプライベートでも義務や責任が課されるから大変は大変だけど、でも、その人それぞれの身の丈にあった楽しみや幸せもあるわけだ。
つまり、それを象徴するのが安達クミという、ラブストーリーのヒロインなんかじゃないごくごく普通の女性ということなんだろう。
その安達クミは、天吾にこう言う。
「たまにはそういうのも人間には必要なんだよ。
おいしいものをたらふく食べて、お酒を飲んで、大きな声で歌を歌って、
他愛のないおしゃべりをして。
でもさ、天吾くんにもそういうことってあるのかな。
アタマを思いっきり発散するようなことって」と。
でも、そんな安達クミは、ずっと認知症の父親に会いに来なかった天吾に対して最初は素っ気ない態度だった。
つまり、最初、安達クミは、村上春樹の小説によく出てくる、主人公の男に都合のいいことだけを言ってくれる女性キャラクターではなかった。
そんな安達クミが、天吾にそんなことを言うくらい親しみを感じるようになったのは、天吾が普通の人と同じように父親に向き合ったからだ。
天吾のことを、普通のまっとうな大人の男だと認めたからこそ、天吾に好意を持ったわけだ。
さらに言えば、安達クミの同僚の看護師たちも同じように思ったからこそ、一緒に焼き肉を食べて、その後は自然に天吾と安達クミが二人きりになるように仕向けたわけだ。
そんな安達クミも、小説「空気さなぎ」を読んでいる。
でも、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”と感じた青豆と違って、安達クミはそれを、「私はね、あの本がすごおく好きなの。夏に買って三回も読んだよ。私が三回も読み直す本なんてまったく珍しいんだよ」と言う。
しかも、
「初めてハッシシやりながら思ったのは、なんか空気さなぎの中に入ったみたいだなってこと。自分が何かに包まれて誕生を待っている”、“私にはマザが見える。空気さなぎは中から外側をある程度見ることができるの。外側から中は見えないんだけどね。そういう仕組みになっているらしいんだ。でもマザの顔つきまではわからない。輪郭がぼんやり見えるだけ。でもそれがわたしのマザだってことはわかる。はっきりと感じるんだ」
と、それに対して全然ポジティブだ。
(安達クミの口調が他の村上春樹の小説に出てくる主要女性登場人物のそれでなく、今の普通の女性の口調に近いのはどういう意図があるんだろう?)
たぶん、それは「さきがけ」のリーダーが青豆に言った、
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めていない。真実というのは大方の場合(中略)強い痛みを伴うものだ。(中略)人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」
「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」
ということに通ずるのだろう。
安達クミが「あの本がすごおく好きなの」と言うも、小松が「芥川賞なんて必要ない」というくらい売れている(世間に受け入れられている)のも、小説「空気さなぎ」という本が、“人々が必要とする美しく心地良いお話”で、“多くの人々が、(それによって)自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定ししてくれることで正気を保てる”からだということになる(…って、なんだか、まるで村上春樹の小説のようだw) 。
そんな小説「空気さなぎ」は、果たして悪しき本なのか?
青豆が感じたように、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”内容なのか?
たぶん、それは青豆の感じたことが「正解」なのだろう。
でも、青豆の感じたことが「正解」だとしても、安達クミをはじめ、小説「空気さなぎ」に飛びついた人たち、つまり、自分たちのような普通の人たちは、その「正解」では生きていけない。
なぜなら、
「真実というのは大方の場合(中略)強い痛みを伴うものだ。(中略)人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話」であり、「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」からだ。
だからこそ、いつの世にも「宗教は成立する」し。テレビやマスコミ、ネットは人々に耳障りのいいことだけ囁き、映画やドラマ、小説はきれいな話ばかりなんだろう。
つまり、小説「空気さなぎ」は、どこにでもいる普通の人である安達クミが「あの本がすごおく好きなの」と言うからこそ、あるいは、芥川賞なんていらないくらい売れているからこそ、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”悪しき本だということになる。
よって、この『1Q84』という小説も、特別な存在である主人公たちが結ばれる、たんなるきれいなラブストーリになって、ベストセラーになった(^^)/
いや。たんなるラブストーリーとして読んじゃうならば、『1Q84』は決してつまらない話ではない。
むしろ、読むことを楽しく受け入れることが出来る、かなり面白い小説だ。
だからこそ、それは青豆や天吾のように特別な人ではない自分のような普通の人は心の糧としてそれを求めるということなんじゃないだろうか?
たださ。
ラブストーリーの主人公として、ラストにきれいに結ばれる天吾と青豆がミョーに変な人なんだよねw
天吾ときたら、”勃起は完璧だった”、“あの雷雨の夜の勃起が完全すぎた”、“それはいつもよりずっと硬く、ずっと大きな勃起だった”って、自分のソレに魅入られているばかりだし(ーー;)
青豆は青豆で、“もし私が性行為抜きで妊娠したのだとしたら、その相手が天吾以外のいったい誰であり得るだろう?”だ┐(´д`)┌
もはや、この二人は小説の主人公としては画期的と言っていいくらいの変な人キャラなのだ。
読者としては、
オマエらって、この小説の主人公とヒロインなんだぞ。少しは、そういう自覚を持てよ! とツッコミたくなるっていうかー。
オマエら。いい加減オトナになれっ!って話だ(爆)
とはいうものの、主人公が大人になっちゃったら、お話は終わりだし。
なにより、村上春樹の小説に、大人の男の主人公は求められていないってことなのだろう(^^ゞ
それは、まさに「さきがけ」のリーダーの言う、
「人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話」であり、「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」ということなのだ。
そういえば、こんなこと書いている自分も「BOOK3:後編」のラストのなんともおめでたい展開に吹き出しながらも、「まぁー、よかった、よかった。めでたし、めでたし。アハハ」と心の中で拍手することで、かろうじて正気を保ったんだっけ(爆)
Posted by ブクログ
リーダーが死んだ夜、ふかえりを通して青豆の中に運ばれてきた命が意味するものとは何なのか?
首都高速道路の非常階段を下から登ると1984年に帰ることができる?
また天吾は、父親のいる猫の街に行き、帰ってきた。それがどんな意味を持つことなのか。2つ浮かんでいる月は彼らにどんなメッセージを伝えようとしているのか。
1Q84を通した大きな謎たちは回収されつつあると思った。最後の章で小松が「状況のもつれあった部分を、このへんでできるだけ解きほぐしておく必要がある。」といったように、撒かれた謎は整理され、物語が終わりに向かっていることが感じられた。
この物語の最後に2人は出会うことができるのか、本当にどちらかが死ななくてはならないのか、どのような結末を迎えるのかとても気になる。ハッピーエンドであってほしいと思う。(なにがハッピーエンドなのかは分からないが)
牛河は少しづつ、青豆と周囲の関係について掴みつつある。しかし牛河が2人の敵とはどうしても思えない...。(メタ的に最後に2人を助けてくれそう感がある)
Posted by ブクログ
牛河のパートがここにきて加わる。
BOOK1,2のような感じとは変わって進み方が変わった。どちらかといえば丁寧に今までの出来事をちゃんと振り返って、これから何が起こるのか起ころうとしているのかという感じ。それを楽しみにBOOK3後半に行こうと思う。
Posted by ブクログ
さて、最後どのような形で終わるのか。。全く想像がつかない。青豆の子どもはどうなるのか?青豆と天吾は出会うのか?戎野先生は核心に迫っているのか?
ここにきて牛河のパーソナリティが明らかになってきた。一人現実的に着実に物事の確信に迫っていてこれがなかなか優秀でやっかい。恐怖。登場してきた時は謎が多い不思議なキャラクターだったがちょっとイメージ変わってきた。
Posted by ブクログ
牛河視点の物語が交差してくる展開は意外だった。最終巻で革新的なところにまで繋がってくる人物なのだろうか。。?
青豆が妊娠していることがわかった所からもうなんでも好きにやってくれ感~が、、笑
これは村上春樹にとっての世界を巻き込んだ壮大すぎる純愛物語なんですかね。
Posted by ブクログ
天吾と青豆の話から牛河の話も加わった。
推理小説を読んでるような感覚
NHKの集金の人は誰なのか?
天吾の家と青豆のところに来てたのは同一人物なのか?
リトルピープル的な何か?
天吾とふかえりが交わったタイミングとリーダーが殺されたタイミングが同じなので
青豆の妊娠はやっぱり天吾の…?
ここまで来たのでオチも気になるし最後まで読む。
Posted by ブクログ
少しダレてしまってなかなか進まなかった。
面白いけど一気には読めない感じ。
青豆と天吾がやっと出会えると思ったらまたすれ違い?
小松さんが出てきてどんな風に話が進むのか楽しみ。
Posted by ブクログ
この巻の最大の見どころは牛河だと思う。
綺麗な側を歩いてきてない自分としは牛河を気に入ってしまった。
いよいよ次でクライマックスだが、全く予想がつかないカオスな展開。
面白いのかどうかも分からなくなってきた。
Posted by ブクログ
この巻から牛河パートが入ってくる。
天吾のエピソードの中に少し出てくる程度のキャラクターだったので、まさかの展開でまた違った角度の面白さがあった。
ラストスパートに向けて、ちょっとずつ点と点が繋がっている感じがまたワクワクする。
Posted by ブクログ
3.4巻に比べると勢いは落ちたが、意識と肉体が離れるというオカルト方面に話が進んでいき面白かった。青豆の処女懐胎のくだりが気になる。そして安達くみは何者なのか、、、
Posted by ブクログ
いよいよ1Q84も最終章です。本作は新たに牛河編なるものも始まります。牛河は、教団リーダーが殺された件を受け、青豆と天吾の足取りを追う話になっている。
今まで以上に不思議な感覚に誘われるストーリー展開になっていました。
今どんな世界にいるのかが読んでいてわからなくなってきます。村上作品の中でも飛び抜けて不思議な感覚になりました。
結末は言いませんが、ラストはふんわり終わったなというのが印象です。
Posted by ブクログ
2010年(第7回)。10位。
牛河が章タイトルに出るようになってしまった。「さきがけ」の依頼により、リダを殺した犯人を捜す。人に不快感を与える見ため、前巻で天吾に怪しげな助成金を与えようとしたが拒否された。天吾のアパートの1Fを借り、そこから監視している。
青豆は覚えはないが妊娠した。おそらくリダと会った時と思われる。天吾の子だと思っている。天吾に会いたく、マンション前の夜の公園を見張るが、かなわない。
天吾、公園で月を見たのだが、青豆に発見されず。もっとも牛河に尾行されてたので会えなくて良かったのか?寝たきりになった父に会いに行く、2週間ほど。時々出てきて、ピンポンでなくドアをノックするNHK集金人は父なのか? 小松が誘拐監禁されてたことを天吾に告げる。 これファンダジーなのかな
Posted by ブクログ
全6巻中5巻のこの本まで読んできたが、読み進めていく事に段々とあらゆる事実が判明していき、5巻の最後で衝撃的な事実が判明する。
最後の6巻でどう結末まで持っていかれるのかすごく楽しみだ
Posted by ブクログ
青豆の妊娠がどういうことなのか、最終巻を読んで確かめたい。
作者が、外からはめられる枠を広げたり壊したりする役割が小説にはあると思うというようなことを書いていたのを読んだので、そういうことを思いながら最後の一冊を読みたいと思う。
Posted by ブクログ
〈10-12〉前編 5
ここから、各章の語部に牛河が加わる。
牛河が、青豆と天吾の過去を調べて、二人の繋がりをたどる。このあたりは、読者は、もうほとんど知っているのだから、ちょっと二度手間。
青豆は、この世界に入り込んだ場所に戻るが、入り口は閉ざされている。そして、聖母の様に胎内に生命を宿す。
天吾は、昏睡状態となった父の看護にあたる。何故か、そこで空気さなぎに入った10歳の青豆を見る。いよいよ、青豆を探し出す決心をする。
青豆は、潜伏先の近くの公園で天吾を見つける。
さて、二人は出会うことができるのか?主題は、何であったかもう忘れてきてしまった。
この巻は、看護婦が天吾を誘ったり、牛河が活発になったり、猫の街が出現したり、混沌が深まった。