村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
【2024年141冊目】
1995年3月20日、東京の地下鉄で起きた無差別テロ、地下鉄サリン事件。作家村上春樹がその被害者や関係者総勢62名に対してインタビューを行った生きた記録である。あの日、東京の"アンダーグラウンド"で、一体何が起こったのか。迫真の一冊。
きっと★いくつとかで評価をつけるべきではないのだろうと思いつつ、少しでも高評価であることで、手に取る人が増えると良いなと思って★5にしました。
文庫本にして777頁、しかも多くの頁は2段組という恐ろしい文量の一作です。読み進めるのにかなり時間がかかりました。一気読みはとてもできなかった。
本著が書かれた時よりも被害者数には変化があり、死者は14名、負傷者は6,000名を超えるとされています。正に未曾有の事件です。
本作において、被害者ひとりひとりの証言はまずそのバックグラウンドから語られ始めます。どのように人生を生きてきたのか、そしてサリン事件の前後でどのように変化があったのか。
あまりにも生々しい証言の数々。そこから読み取れるのは、オウム真理教への怒りと困惑でした。理解ができないことが起こったというのが正しいのかもしれません、判断の範疇外の出来事すぎるのです。
巻末で村上春樹さんが「意識をして逸らさなければならない存在」というように形容していて、なるほどなと思いました。無視をするには、少しだけこちらの世界に足を踏み入れている、そんな感じだったのかもしれません。
この本はもっぱら電車移動の時に読んでいましたが、人間の世界は性善説でなんとか均衡が保たれていて(もちろん事件は起こっていますが)こういった大事件は、起こるかもしれないという想像さえつかなかったはず。現に、この本を読むまで、電車という密閉空間の危険性について忘れていたくらいなので(サリン事件の時、まだ小学生でした)
少しボリュームがありすぎるので、なかなか気軽に読むには決心がいりますが、何百年先まで語り継いでいくべき一冊だと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ【自己治癒的な作業】
1995年11月に、村上春樹さんが京都にいる河合隼雄さんのところへ行き、対談されたときのお話。
書きおこしに加えて、それぞれのコメントの追記があり、より話の内容への理解を深められる形になっていました。
阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年。
そして村上春樹さんは、
1994年に『ねじまき鳥クロニクル』の第1部、第2部を出し、
1995年にはアメリカから帰国後に、8月第3部を出されたところでした。
この作品を取り巻く思考が、河合先生とのお話の中で続けられていて、
とても興味深く、
私は昔に一度読んだのですが、
まったくの無知でしたので、
この対談を踏まえ、
再読したいと思います。
・コミットメントとデタッチメント
村上春樹さんが、小説を書く際に考えられている概念。
小説的、外部的、という言葉で説明されていたけれど、
内側にある自分ー個人として どう社会と外部と関わるか
河合隼雄先生が言われていた、「自分の全所在をコミットさせること」を学ぶ。
プロとして仕事をする、ということなのか、
人生として何をするか、という話なのかな、なんて勝手に考えながら。
自分は一人しかいない、
人生は一度、
その事実に向き合うことでもあるように感じました。
対談では、社会的な出来事にも触れられ、この言葉は引き続きこの対談のキーワードとなっていました。
・非言語
河合先生が推進されていた箱庭療法に関心を寄せる村上春樹さん。
イメージを使った心理療法ですが、先生は、言語かだけが治療ではないことが強調されていました。
視覚思考や、言語化されるプロセスを経ない、ある種潜在意識下の心理に焦点を当てているという点、
先日読んだ、『#第1感』の本や『#ビジュアルシンカー』の本とも通ずる部分があり、
私自身も興味深く読みました。
村上春樹さんは、小説を書くことにこの心理療法に似たような部分があり、自己治療的な行為だと話されています。
自分でもうまく言えないこと、説明できないことを物語に置き換えていく、と。
Spontaneous な物語でなくてはいけない、なぜなら、「予期せぬものに対して、さっと素早く対処する際のスタイルの中に、小説的な意味が含まれている」、と。
意識的な言語化のプロセスは、ある種思考を完結化するプロセスでもあるので、
その中で失われてしまう情報がある、
小説は、言語で成り立つけれども、現実世界にとらわれないイメージ、を生み出すための想像性があるので、
そこには非言語の思考を伝える可能性があるのだなーと感じました。
そして、「部分的には読者も癒すもにでなくてはならない」とも。
読者からのプラス・マイナスのフィードバックも、自己治癒の一部であり、それを「手応え」として話されていました。
・社会の矛盾を抱える自己
河合先生曰く、
60年代の反体制への抵抗、
本質的に体制に組み込まれている反体制に、コミットすることがいかに空しいか。
そして今(1995年当時)、反抗するものがない時代。
オウム真理教の存在、阪神淡路大震災とボランティア、
アメリカに在住されていた村上春樹さんにとって、湾岸戦争は個人的にも衝撃的出来事だったようです。
「日本の戦後的な価値観が、世界でほとんど汎用性を持たない」、という印象的な言葉もありました。
社会の中の矛盾とどう付き合っていくか、自分がどう社会とかかわるか、
矛盾の存在に対して、統合性は必要ない、バランスをどうするか、とでお二人が一致していて、
既存のものへの対抗ではなく、異なる次元を生む、というある種の解決策。昇華、というのか。
自分なりのスタイル、「生き方そのものという作品」を新しく作るというコミットメント、として話されていました。
・井戸掘り
『ねじまき鳥クロニクル』は井戸が一つの舞台となっていますが、
その井戸掘りについて、とても興味深い対談がなされています。
井戸掘りも、治癒であると。
村上春樹さんがマラソンなどで身体を鍛えていることと、
それが文章にも表れる、とうことに触れられていましたが、
身体を伴う作業という点では、修行にも似ているように感じる。
作品のテーマにもなっている、夫婦、結婚について、
一側面を強調すると、
苦しむため、井戸堀りするために結婚する、と解釈される河合先生。
現代、結婚とは、協力するだけじゃなくて、理解したい、そのために必要なプロセス。
相手に自分の欠落を埋めてもらうのではないこと。
自分の欠落を苦しいながらも認識すること、明らめる、直視する内的な経験があるということ。
男女関係が、井戸堀の治癒に移行していく必要性。
その前提の考え方は、
誰もが持っている欠落、皆ある程度病んでいる、と村上春樹さんが話しています。
人間は自分が死ぬことを知って生きる特殊な動物であり、これもある意味病んでいると言える。
一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことをかんがえざるをえなくなってくる、ということは河合先生が話されていましたが、
一人の人間は世界の縮図でもあるような、
生きた人間と深くかかわることが自分と向き合うことになるような、
そしてそれが社会、世界と向き合うことになるような…。
・壁抜け
小説を書くにとどまらず、芸術行為一般について、治癒的な作用を話されていました。
「壁抜け」も、村上春樹さんの小説の中で用いられている言葉ですが、
みんなに通じる表現で、掘り下げる、超えることについての表現として、思考されていました。
村上春樹さんは小説で言葉にしているものでも、どういう意味なのか、
「作者にも分からないことがいっぱい入っている」、「小説が自分自身より先を行っている感じがする」、と言っていて、
この対談そのものも、その言語化されていない思考を模索し明らめていくような作業が続いているといった一面を感じました。
より速いスピード、より多い情報量、より楽な方向を目指す現代社会に対して、
小説を書くことが、その一般的風潮と逆な個人的作業であること。
フィクションとノンフィクションについても、
河合先生が、
実際おもしろい偶然がたくさんある、偶然待ちの商売をしている、とユーモア交えて話されていましたが、
理性では理解できない部分が現実にあること、時々忘れているかもなーと思ったり。意識的に消している部分もあるのかも。
平和の時代に書く暴力性、本能的なもの、
そして
テクノロジーの時代に書く死、
そうして創造された作品だと思うと、とても深いですね。
「苦痛のない正しさは意味のない正しさ」
人生の意義の深め方、ともいえるのでしょうか。
村上春樹さんが、日本に戻る必要性を感じ、
何か暴力的なことを予見していた当時。
その後30年をどう過ごされ、どのように今解釈をされているのかも気になりますね。
とても興味深い対談でした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ短編でとても読みやすかった!
特に「彼女の街と、彼女の緬羊」が気に入った。
北海道の友人を訪ねる。友人も自分もお互い結婚しており、北海道と東京で別々の人生を歩んでしまっている。会話も弾まなかった。ホテルに泊まり、ビールとスモーク・サーモン・サンドウィッチをつまむ優雅で気楽な時間を過ごすが、どうしようもない退屈感に満ちている。テレビに映る田舎町の広報の女性は垢抜けないが、地味な暮らしへの誠実さがある。自分はそんな彼女に会いたいような気もするが、結局はその街になんか寄らずに東京に帰るのだと考える。
人生への強い倦怠を感じる、好みの短編だった。
一人前の大人になったが、昔の友人とも心が通わなくなり、お金も娯楽もあるが気持ちは鬱屈としている。そんな社会人は80年代ですらいたのだろう。今自分がそういう年齢になり気持ちが分かる気がした。
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Posted by ブクログ
注! インタビュー本なのでネタバレ設定にしていませんが、内容にかなり触れています。
年末(2023年のw)、本屋をブラブラしていた時、表紙のフクロウ(あ、みみずく…、ねw)が、なぜかミョーに気に入ってしまって、ついつい衝動買いしちゃった本。
ちなみに、フクロウとミミズクの違いは、羽毛が耳のようにちょこんと出ているのがミミズクで、頭が丸いのがフクロウということらしいけど。
ウチに時々やって来るのは頭が丸い方なせいもあって、ミミズクよりフクロウの方が好きだ(^^ゞ
……って、最近は、文章の終わりに「。」をつけたりすると怒られたり(ニュースで見た)、「、」や絵文字が多いと“おじさんの文章”とバカにされるらしい(『脳の闇』で中野信子が自分だってチューネンのクセに変に上から目線で書いていたw)が、今は多様性が尊重される時代だ(爆)
文章の終わりに「。」をつけるのは、自分にとっては長年の習慣だし。
また、あふれるネットの文章(情報)に、誰もがテキトーに読みがちなネットの文章だからこそ、書いている意図を少しでもわかりやすくするために「、」は、(読みにくかったとしても)あった方が意図が伝わりやすくていいと思う。
絵文字は、エラそぶって書いてるけど、所詮は普通のバカが書いていることだよw、とわかってもらうために、じゃんじゃん多用することとする(^^)/
(ま、例の「。」ハラは、あくまでLINE等、連絡アプリでの話なんだろうけどね)
ま、それはともかく(^^ゞ←だから、絵文字多すぎw
本を読むのが好きな人には、本そのものは好きだけどそれを書いた作家には特に興味を感じないという人も多いらしいけど、自分は作家の人となりや考え方にすごく興味を持つ方だ。
読んで面白かった作家は、「作家の読書道」に載ってないか必ず見て、その作家がどんな本を読んできたのかを知るのが楽しいし。
テレビ等で作家のインタビューがあると、知らない作家でもとりあえず録画して見る。
その作家がこれまでどんな風に生きてきたのかとか、世の中をどう思っているかとか、人生観や恋愛観、思想等々、興味があることはイッパイあるが、特にその作家の小説を書くスタイル…、つまり、普段どういう風に小説を作っているか?ということに、すごく興味をおぼえるのだ。
いや、ノウハウ云々ではなく(たぶん、小説を書くのにノウハウはない)。
その作家が小説をどういう風に書いているかの一端を知ることで、あの小説のあの急展開はどの時点で決まったんだろうか?とか、この小説はどんなことを意識して書いていたんだろう?といったことを想像するのが楽しいのだ。
ついでに言うと、その作家が、まがりなりにも作家としてメシ食ってけるまでの苦労話や、業界、さらに読者への恨みつらみの話も大好きだ(^^ゞ
ただ。
村上春樹のそれに興味があるか?っていうと、まー、ない(爆)
もちろん、それは自分が村上春樹の小説に興味がないからなんだけどさ。
とか言って、実は村上春樹は、例の『1Q84』が出た時、世の中の大騒ぎがすごく不思議で、逆に興味を覚えて何冊か読んだ。
ちなみに、今、ウィキペディアを見ながら確認してみると、その時読んだのは、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『スプートニクの恋人』、『アフターダーク』、『海辺のカフカ』。
あと、短編集の『中国行きのスロウ・ボート』、『カンガルー日和』、『螢・納屋を焼く・その他の短編』、『回転木馬のデッド・ヒート』、『パン屋再襲撃』、『レキシントンの幽霊』、『東京奇譚集』だったから、まぁー、そこそこ読んだ。
その時に思ったのは、村上春樹って、面白いのは面白いんだけど。『1Q84』が出た時の、あのバカ騒ぎする面白さというよりは、物語として普通に面白い小説を書く人なんだなということだった。
だから、あのバカ騒ぎっていうのは、(メディアを含めた)騒ぎたい人たちの騷ぎたい人たちによる騒ぎたい人たちのためのネタってことか…、と気付いた。
ていうか、なんであんなに騒いでるんだろう?という不思議さはどーでもよくなって、(バカ騒ぎしていた人たちではなく、たんに)村上春樹の小説を面白く読んでいる人はこれらの小説のどこをどういう風に面白いと思っているんだろう?という興味に変わった記憶がある。
というのは、自分にとって村上春樹の小説っていうのは、面白いのは面白んだけど、でも、妙に「つるんとした小説」なんだよね。
面白く読めるんだけど、触感が「つるん」としているから印象に残らない。
印象に残らないから、頭の中にある好きな本、好きな作家の棚に入らない。
変な話、村上春樹の小説には「ペ●ス」って言葉がよく出てくるけどw、読んだ触感が「つるん」とした感じがするというのは、その語感とどこかダブっている気がする(^^ゞ
だってさ。日常で、あるいはエッチの場面で、それをその言葉で言う人っている?
いや、他の人がエッチしている時にそれをどんな言葉で言っているかなんて、わかるわけないんだけどさw
でも、なんとなく、エッチの時にその言葉を口にしている人っていなさそうな気がしない?
そんな言葉を言われたら、むしろ恥ずかしいっていうか、生物学用語で会話しながらエッチしている気がしちゃうっていうか(・・;
とにかく、村上春樹の小説っていうと、その言葉の音感も相まって、「つるんとした小説(てろんとした小説って言った方がいいかもしれないw)」というイメージが強い。
それは、不思議なくらいコーフンを催さないエッチのシーンのあの感じと大いにダブるしw
また、小説って、読んでいると頭の中にその情景が自然にバァーっと浮かんでくるものだけど、村上春樹の小説の場合は、それが昔の漫画のような画(藤子不二雄みたいな画?)で浮かんでくる、あの感覚ともダブる。
そんな村上春樹だけど、デビュー作の『風の歌を聴け』は、出た当時、本屋に並んでいたのを見て、妙に引っかかったのを憶えている。
それは、本屋で村上春樹のそれを見た時、1979年というその時代の空気を感じたからだ。
つまり、(そのタイミングで自分が読んでいたかどうかは定かではないが)同じ群像新人賞の中沢けい『海を感じる時』のような、いわゆるその当時の一般常識での「文学」とは全然異なるもののように見えたのだ。
だから、本屋で『風の歌を聴け』を見ても、手にとろうとはしなかった。
1979年当時のあの時代に流行っていたものと同じもの、今で言う「シティポップ」とか、やたらと目にしていたカリフォルニアや海辺のリゾートをイメージしたイラストとか、CMに出てくる渡辺貞夫や浅井慎平、なにより当時人気だった片岡義男っぽいアホバカなカッコつけや気取りを感じて、子供ながらに「ダッセーっ!」のひと言で片付けた(爆)
そんな流行りっぽくて「ダッセーっ!」のひと言で片付けた村上春樹wが、ミョーに一昔前の文学っぽさをまとった『ノルウェイの森』を出した時は呆気にとられたのを憶えている。
『ノルウェイの森』は1987年くらいだっけ?
ウィキペディアで見てみると、87年の9月とあるけど、自分が読んだのは年明けだった記憶があるから、ということは、88年の初めだったのかな?
もちろん、上下で赤と緑という、やたら当時っぽいクリスマスカラーな表紙も相まって、秋には本屋に置かれているのを見て気づいていたけど、それにしても9月には出ていたんだ。
その時、『ノルウェイの森』を読んだのは、もちろん流行っていたからだ(^^ゞ
ただ、今思い返すと、それよりも、その当時の自分のミョーにうら寂しかった毎日になんかしら彩りが欲しくて、あの赤と緑を手に取ったのかもしれないな?なんて思う(爆)
87年の秋っていったら、個人的には大貫妙子の「スライス・オブ・ライフ」と、やたら地味だったスプリングスティーンの「トンネル・オブ・ラブ」なのだが。
そうか。それらと『ノルウェイの森』って、なーんか、それにある何かと通ずるものものがあるような、ないような……w
その『ノルウェイの森』だが、内容は全然憶えていない。
憶えているのは、読み終わった後、友だちにビートルズの「ノルウェイの森」ってどんな曲だっけ?と聴かせてもらって。
なんだ、それならウチにある「ビートルズ・バラード・ベスト20」に入ってたじゃん、と思ったことだけだ。
ただ、読み終わって、悪い感想を持ったわけじゃないんだろう。
だから、ビートルズの「ノルウェイの森」が気になって、どんな曲だっけ?って聞いたんだと思うのだ。
でも、今となっては、「ノルウェイの森」を読んでその時どう思ったか?なんて全く憶えていない。
確かなのは、村上春樹の他の小説を読んだりはしなかったことくらいだ。
そんな村上春樹(の小説)が自分の人生に登場(?)するのは、社会人になって3、4年も経った頃だったと思う。
同僚に、やたらと優秀なヤツがいたんだけど、彼は某国立の文学部出身で。
ある時、彼が村上春樹を語りだしたのを聞いていて、「なんだ。コイツって、村上春樹とか好きなダサいヤツだったんだ」と、心のなかでほくそ笑んでしまったのだ(爆)
(ちなみに言っておくと、後に彼は親しい友人になったw)
村上春樹のイメージを自分史的に見るとそんな感じだ(^^ゞ
面白いのは面白いんだけど、なんか「つるんとした小説」か「てろんとした小説」を書く人で。
それがあるから、読み終わった後、「あぁー、面白かったぁーっ!」と、素直に言う気にならない(なれない?)作家。
だから、村上春樹本人にも何の興味も感じない。
言ってみれば、「ジャズファンなんでしょ? なら、ジャズでも聴いてればぁ?」って感じ?←ジャズ嫌い(^^ゞ
そう、あと、『1Q84』の大騒ぎで村上春樹の本を読んだ時、ウィキペディアを見たら、レディオヘッドが好きみたいなことが書いてあって。
(レディオヘッドが大嫌いな自分としては)ダッサぁ〜とか思っちゃったこととかw
そんな自分が村上春樹を見直しちゃったんだから、この本はスゴい!(爆)
なにがスゴいって、P145にある、“物語というのは、解釈できないから物語になるんであって、これはこういう意味があると思うって、作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなもの面白くもなんともない。(中略)作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている”は、目ウロコで、ものすごくエキサイティングだった。
バカな話だけど、村上春樹のイメージが540度くらい変わった。←180度でいいだろ!w
そう。そういう意味では、この本は第二章に入ってからの方が面白い。
第一章は、インタビュアーの作家がファンであるがゆえに、村上春樹を奉りすぎちゃってて、言ってみれば「村上春樹さまからご託宣を聞く」みたいになっちゃっているのに対して。
第二章以降は、村上春樹 > ファンの関係は引きずりつつも、なんとかかんとか、村上春樹 vs 作家・川上未映子の話として形になっているように思う。
というのは、読んでいると、村上春樹が大人気(オトナゲねw)を出して、少しでもこのインタビューが形になるようにと、インタビュアーの反応を見ながら発言しているように感じるんだよね。
変な話、へぇー、村上春樹って、こんな風な人だったんだ…、と意外な気がしたって言ったらいいのかな?(^^ゞ
もっとも、第一章にも面白いところはある。
小説(フィクション)におけるリアリズムへの意識の差…、未だ”今”を意識することから逃れられないことにジレンマを抱える川上未映子と、批判されることで"今”を解脱してしまった村上春樹の意識の違いは興味深いし(ま、現在の日本の本の世界において、村上春樹は絶対神になっちゃったからっていうのもあるのか?w)。
初期の頃、たぶん批判に嫌気がさして海外にいっちゃう前の村上春樹が持っていた、"前の時代に対する反抗心”なんかは、ちょっとワクワクする。
こんなことを書くと怒り出す80年代アレルギー過多の人wもいるかもしれないけど、村上春樹というのは、戦前からずっと引きずっている日本の文学(純文学?)にあった、あの「貧乏=正義」ではなく、(70年代の終わり〜)80年代以降今に続く、日本の現在の豊かなライフスタイルの肯定で小説(文学)を書き始めた作家のように思うのだw
ただ、それと同時に、戦後の進歩的文化人的なあの感覚(=それまでの日本文学)から逃れられない人でもあるような気がするんだよね。
その、60年代でもなく80年代でもない、言ってみれば、宙ぶらりんな70年代的な位置?、視点?、基点?こそが、今の豊かな暮らしを享受しつつも80年代を全否定する人(というよりは時代?)の感性にすごくフィットするんだと思うのだ(^^ゞ
そんなことを書くと、「村上春樹は海外にもファンが多いじゃん」と言う人もいるかもしれないが。
そっちは、「都市化」や「中産階級化」が進むと、村上春樹の小説の感覚がフィットするようになるってことなんじゃない?
それは、今、都市化や中産階級化が進んでいるアジア諸国で「シティ・ポップ」がウケているあの感覚と同じだと思う。
あまりいい例えではないけれど、イスラエルには村上春樹のファンはいるけど、パレスチナにはおそらくいない。
そういうことだと思う。
そういえば、終わりにある「文庫版のためのちょっと長い対談」で、インタビュアーだった川上未映子がインタビュアーではなく川上未映子として、“『ノルウェイの森』の世界観や時代みたいなものを、30歳くらい年の違う私が10代で読むわけです。私たちの青春とは違うのに、なぜか自分の話として読めてしまうところがあります。文化的なディティールは共有できないのに、不思議ですよね”と言ってるんだけど。
それなんかは、まさにそういうことのような気がするかな?
ただ、川上未映子はその後、“逆に90年代について書かれている小説も結構あるんですけど、まったく自分の青春として読めないのも不思議なんですよね。渋谷とか、ファッションでもいいんですが、90年代の文化ってあるじゃないですか。私が本当に18、19でリアルに聴いた音楽とかリアルなものがリアルに思えない”と言っているように。
村上春樹の書く小説にある、60年代でもなく80年代でもない、ある意味、宙ぶらりんな70年代的なナニカが今の時代にフィットするのは、それは、あくまで村上春樹を読む(好む)人の感覚、さらには、本を読むのが好きな人の感覚であって。
インタビュアーと同世代だけど本を読まない人からしたら、『ノルウェイの森』よりも、自分が90年代にリアルに体感してきたものにこそ、自分の青春を感じるんじゃないのかな?
それは、第三章のP277でインタビュアーが、“(『風の歌を聴け』が出た時)最初から若い読者が興奮した、という話をよく聞きます。「来たな、俺たちの時代が来たな」と激烈に感じた人が、今の50代半ばくらいに多いです”と言っているのを見てもそう思う。
1979年頃といったら、一般的な感覚としては文学の本なんて読んでいたら、即「ネクラ(←死語w)」とバカにされた時代だ。
そんな時代に『風の歌を聴け』を読んで興奮していたような人は、大学生等、ごく一部のスノッブな文学ファンのはずだ。
おそらく、インタビュアーは作家であるがゆえに、業界の人の話を聞くことが多いんだろう。
でも、業界の人=一般の人ではないし。
もし、今の50代半ばくらいの一般の人に、『風の歌を聴け』が出た時に“俺たちの時代が来た”と感じた人が多いのだとしたら、それは、今の世に「村上春樹のファンであることは、なぁ〜んかカッコイイこと」という情報(空気)がネットに蔓延しているからにすぎないんじゃないのかな?w
それは、渋谷陽一がなにかにつけて言っている、「当時はビートルズファンはマイノリティだった」っていうのと同じだと思う。
ていうか、インタビュアーが、『ノルウェイの森』を世代が違うのに自分の話として読めるのが不思議だ、と言っていたことに戻るけど。
メールだ、連絡アプリだ、チャットだ等々、いくらコミュニケーションが便利に密に出来る、今の時代になっても、恋愛がうまくいかないものであるのは、昔と変わらないわけだ。
人間関係が、今も昔もギクシャクしがちなのも同じだ。
つまり、世の中がどんなに変わって便利になろうとも、人間そのものは結局同じで。
『ノルウェイの森』の世界観を文化的なディティールは共有できないのに、自分の話として読めるのを“不思議”だと感じるのは、いつの時代にもある、その時代の人による昔への上から目線にすぎないように思う(^^ゞ
ま、それはともかく。
今の村上春樹の人気っぷりっていうのは、今が”何をするにもまず情報”という面が前提としてあるのは確かだと思うけど、なにより今の感性や感覚に合うってことが大きいんじゃないのかな?
だからって、村上春樹を好まない人が、今の感性や感覚からズレているっていうことでは決してなくて。
村上春樹を好まない人というのは、今の感性や感覚に内包される60年代的なもの、あるいは80年代的なものといった、村上春樹の小説にある特定の要素に過敏に反応してしまうってことのように思うんだよね。
60年代も、80年代も、ある意味どちらもスノッブだから(爆)
すごくスノッブであり、その反面、スノッブでない、今みたいな世の中を生きているからこそ、同じ感性や感覚を持っていたとしても、ある人は村上春樹の小説にあるナニカが心地よくフィットするし、ある人は受け入れられないっていうのはあるんだと思う。
それこそ、村上春樹の小説を読んで「面白かった」という人、「面白くなった」という人に、なぜそう思ったのか?を聞くことで、その人が「今の世の中」をどう捉えているか、あるいはライフスタイルや消費スタイルが見えてくる…、みたいなマーケティング的な指標をつくることだって出来るかもしれない。
そういう意味では、村上春樹っていう人は、今を解脱しちゃったようでいて、実はその時代の影響をものすごく受けてしまうタイプの人なんだと思う。
村上春樹がマスコミ等のインタビューを受けないようにしている等、(たぶん)意識して自分が世の中に露出しないようにしているのは、自らにそういう面があることをわかっているからなのかもしれない。
繰り返しになるが、第二章にある、“物語というのは、解釈できないから物語になるんであって、これはこういう意味があると思うって、作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなもの面白くもなんともない。(中略)作者にもよくわかってないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている”という、言ってみれば、いい意味での読者への突き放し発言wは、ものすごくエキサイティングだった。
それは、やっぱり第二章で、“「これは出産のメタファーだな」と考え出したりしたら最後だから”、“頭を使って考えるのは他の人に任せておけばいい。それは僕の仕事じゃない”と語っているように。
村上春樹っていうのは、もしかしたら、作家がやることは、あくまで物語を書くことであって。
物語を「文芸」にしてはならない。それを「芸」とするのは他の人、つまり、評論家や読者に勝手にやらせておけばいい、という考え方なんじゃないだろうか?
それは、元々ファンであり、なにより、インタビュアーとして、このインタビューの前に過去の作品を念入りに復習してきたであろう川上未映子の追求wに、あっさりと「忘れたよ」と答えたのをみてもそんな気がする。
インタビュアーとしては、あるいは、この本を企画した編集部、さらにはファンからしたら、あの小説のここはどんな意味があるのか?とか、あの小説のこれはどんな意図で書かれているのか?という村上春樹本人による「正解」を期待していたところなんだろうが。
書いた当の本人からしたら、場面場面での意図や意味は瞬間的に頭の中にあったとしても、それは、あくまでその瞬間にあった意図や意味にすぎなくて。
そんなものは、書いた当の本人ですら、時期やタイミングによって全然変わる、言ってみれば、後付けの正解(のようなもの)にすぎないってことなんだろう。
そういえば、篠田節子が、“小説は書き終えるまでは100%作家のもの。書き終えた瞬間、100%読者のもの”みたいなことを言っていたけど、それは村上春樹の「忘れたよ」に通じているんだろう。
ていうか、自分が書いた小説をそういう風につき離せるか否かが、作家の一つの分かれ目なのかもしれない。
そういう意味でも、村上春樹に好感を持った。
自分が文学を読んだのは、せいぜい大学生くらいまでで。
それ以降は、海外ミステリーを中心にエンタメ小説ばかり読んできたわけだが、村上春樹のそれによって、自分がいかにエンタメ小説のお決まりやルールこそが小説(物語)の常識だと勘違いしてきたかを思い知らされた気がする。
物語の中で語られてきたパーツ、パーツが一つ、一つ、収まるべきところに収まっていった結果、読者が今まで見えてなかった大きなストーリが見える、もしくは、読者が思ってもみなかったストーリーに変わるみたいな小説っていうのは、もちろんそれはそれで面白いし、自分もそれを楽しんできたわけだが。
でも、そういう小説っていうのは、本来は小説の中の一つのタイプにすぎないわけだ。
そういうタイプの小説こそが優れた小説だという価値観は、(読者によって)それはそれでアリなんだろうけど。
そういう小説じゃない、読者それぞれに捉え方が違う、あるいは、同じ人が読んでも、読んだ時期やタイミングで印象が違ったり、全然別の捉え方が出来る小説があるというのは、子供の頃、小説を読み出していた頃はおぼろげながらに知っていたはずなのに。
面白い小説、面白い小説と求めている内に、いつの間にか忘れてしまった小説の楽しみ方を思い出させてくれたような気がするかな。
表紙のフクロウ(みみずくねw)で衝動買いしてしまったこの本だけど、そういう意味では、とっても有意義な衝動買いだったと言える(^^)/
そんなこの本は、全体については村上春樹についての本であり、部分的には『騎士団長殺し』についての話であり、また、作家同士の裏話だったりもするわけだけど。
読みようによっては、これからの時代に人は仕事にどう向き合っていったらいいのか?というヒントが書かれている本でもあるように思う。
働き方改革がどんなに進もうと、IT技術によって仕事がどんなに省力化効率化されようと、それは仕事だ。
必死こかなきゃ、お金は貰えない。
なにより、必死こかなきゃ、仕事は絶対面白くならない。
村上春樹の小説が面白いのは、村上春樹が面白くなるように必死こいて書いているからだと思うんだけど、そういう意味でこの本は、「村上春樹流、仕事で楽しく必死こくヒント集」として読んでも面白いように思う(^^ゞ
それは、インタビュアーである川上未映子(と出版社の担当者)がこの村上春樹へのインタビューを面白いものにするために、いかに必死こいたか?ということにも通じている。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ出会いはランプライトブックホテル札幌
紀行文というジャンルに興味を抱くきっかけとなった1冊。
好きすぎるフレーズが沢山散りばめられてた。
以下、一番好きな文を紹介。
かつて住民の一人として日々の生活を送った場所を、しばしの歳月を経たあとに旅行者として訪れるのは、なかなか悪くないものだ。そこにはあなたの何年かぶんの人生が、切り取られて保存されている。潮の引いた砂浜についたひとつながりの足跡のように、くっきりと。
そこで起こったこと、見聞きしたこと、そのときに流行っていた音楽、吸い込んだ空気、出会った人々、交わされた会話。もちろんいくつかの面白くないこと、悲しいこともあったかもしれない。しかし良きことも、それほど好ましいとはいえないことも、すべては時間というソフトな包装紙にくるまれ、あなたの意識の引き出しの中に、香り袋とともにしまい込まれている。
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購入済み
都会で暮らす平凡なサラリーマンがあることをきっかけになんだかよくわからない茫漠とした世界に入り込んでしまう。そんな基本構図はその後の村上春樹の小説の原型になっているのだろう。全作品を読んでいるわけではないけれど、『羊』がやっぱり一番好きな小説だなと感じる。
北海道という土地の持つ欺瞞・因縁とそこから見る日本の近代という時代、戦後日本ののっぺりとしたノンポリ気質、などなど、村上春樹がそういったことをどこまで意識しているのかは知らないけれど、読む度にそんなこの小説の持つ政治性について考えさせられる。
個人的に北海道に舞台を移す下巻からが特に好きだ。札幌に旅行に行きたくなる。
鼠と主人公の友情、というかお互いがお互いに対してある種の責任を感じ合う関係性というか、そういったものもとても素敵だ。
ぜひ一読をお勧めしたい。 -
Posted by ブクログ
本書は、村上春樹(1949年~)氏が、1995~2015年にいくつかの雑誌のために書いた紀行文をまとめたもの。大半の初出は、JALのファーストクラス向け機内誌「アゴラ」(但し、雑誌に掲載されたものより長いバージョンだそう)で、その他は、雑誌「太陽 臨時増刊」、雑誌「タイトル」、雑誌「クレア」である。2015年に出版、2018年に文庫化された。
訪れた場所は、米ボストン、アイスランド、米のオレゴン州ポートランドとメイン州ポートランド、ギリシャのミコノス島とスペッツェス島、ニューヨークのジャズクラブ、フィンランド、ラオスのルアンプラバン、イタリアのトスカーナ地方、熊本で、村上氏が過去に数ヶ月~数年間滞在した場所(ボストンやギリシャ)への再訪もあれば、初めて訪問した場所もある。
私は、本はよく読むものの、多くがノンフィクションで、村上氏の作品についても、読んだ記憶があるのは、初期の『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』、『ノルウェイの森』あたりまでで、その後の小説は全く読んでいないのだが(私は天邪鬼的なところがあり、村上氏が注目されるようになるほど、読む気がしなくなったのだ)、紀行文集である本書は出版当時から気にはなっており、今般(出版から随分経ってしまったが)読んでみた。
そして、読後感は予想以上に良いものであった。私は旅も好きなので、ノンフィクションの中でも、紀行文や世界各地を取材したルポルタージュをよく読むし、それらの大抵のものを面白いと感じるのだが、紀行文やルポは、書き手の感性や文章表現の特徴がよく出るジャンルなので、その面白さの差(更に言えば、好き・嫌い)が意外にはっきりするものである。そうした点で、村上氏の紀行文は、関心の対象やそれらの表現の仕方が自分に合っていて(例えば、村上氏の紀行文では、( )書きの細かい補足や、一つの段落が「・・・だけれど。」という逆説で終わっていることが比較的多いが、これは書き手の思考・表現のくせだと私は思っており、私もそういう文章を書くタイプである)、心地よく読むことができた。
また、私の最も好きな書き手は(紀行文に限らず)沢木耕太郎で、本書を読んでいる途中で、しばしば、沢木氏の作品を読んでいるような錯覚に陥ったのだが、それは、両者の感性と表現の仕方が似ている(また、全体にスマートさを感じさせる点も似ている)からなのだと思われる。
村上氏が90年代に数年間住んだというボストンについて書かれた文章の中に次のようなくだりがある。「かつて住民の一人として日々の生活を送った場所を、しばしの歳月を経たあとに旅行者として訪れるのは、なかなか悪くないものだ。そこにはあなたの何年かぶんの人生が、切り取られて保存されている。潮の引いた砂浜についたひとつながりの足跡のように、くっきりと。そこで起こったこと、見聞きしたこと、そのときに流行っていた音楽、吸い込んだ空気、出会った人々、交わされた会話。もちろんいくつかの面白くないこと、悲しいこともあったかもしれない。しかし良きことも、それほど好ましいとはいえないことも、すべては時間というソフトな包装紙にくるまれ、あなたの意識の引き出しの中に、香り袋とともにしまい込まれている。」
私も村上氏と同じように、数ヶ月から数年の期間住んだ外国の街がいくつかあるのだが、是非改めてゆっくり訪れてみたいと強く感じた。(国内の街でも同様のことは感じるのであろうが、外国の街の方が、それは一層強いに違いない)
(2024年4月了) -
匿名
購入済み村上春樹の解体新書
村上春樹さんがどのように物語を紡いでいるのか、何を大切にしているのか、どのような手順で推敲しているのか。そういうあらゆる興味深いことを同じ作家の川上未映子さんが余すことなくインタビューし、それを包み隠さず村上春樹さんが答えているという濃厚なインタビュー。
そしてこのインタビューを通してわかったことはやはり村上春樹さんは稀有な作家だということ。
デビューして40年経ってなおストーリーがどんどん降ってくるなんて。そして彼の紡ぎ出す物語は今もなお新鮮で息切れを感じさせない。他の人が真似しようとしてもできないことははっきりわかる。 -
Posted by ブクログ
「村上朝日堂」シリーズ(シリーズと言っていいのかな?)
マサチューセッツ州ケンブリッジ(ボストンの隣)に住んだ、1993年から1995年にかけての滞在記で、村上さん44歳から46歳のころ。
日記であり、紀行。
紀行文好きの私としては、村上さんの紀行文が読めて、とても楽しかったです。
安西水丸さんがイラストを担当、奥様の村上陽子さんが写真を載せている。
イラストはいつもの画伯風であるが、小学生の絵と違うところは、時々危険なところ。特にP207がやばい。
まあ、村上さんの発言がそもそもヤバいのですが。
奥様の写真はボストンマラソンから始まり、アメリカの自然や、街の様子が視覚からもアメリカ感を盛り上げてくれる。猫要素多し。最後の方まで読んでからP85のアヒルの写真を見ると2度美味しい。
今まで読んだ「村上朝日堂」は、村上さんの頭の中で熟成された感じで、いわば内なる宇宙だったのが、今回はアクティブに大自然の中で動き回っている感じがする。リアルタイム感、臨場感がある。
今までがアクティブではなかったということではありませんが。
ボストンマラソンへの参加、モンゴルへ行って苦手な羊肉を無理に流し込んだこと、車の盗難に遭って、保険代理店の担当の女性がどうしようもなかったことなど、非日常なネタにも事欠かない。
アメリカの大学で先生をするということ自体がそもそも、非日常ですが。
「猫のピーターのこと」はシングルカットして1冊の絵本になったらいいな、と思えるお話でした。
じわっと感動しました。
そしてまた、若い頃の貧乏を回想して終わる。