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残念ながら柴田先生の講義を受ける機会に恵まれませんでしたが、翻訳者としての意見を本書で知ることができ、嬉しいです。翻訳について村上派か柴田派か、と聞かれれば、私は柴田先生を選びます。
大学にて翻訳理論、英文学翻訳、米文学翻訳の授業を受講していたのですが、各先生と柴田先生は、翻訳者の立ち位置について似たことを仰っていました。
改めて「翻訳者とは」を勉強した気持ちです。
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翻訳本が苦手に感じるのは、
作品が面白ければ面白いほど、
ひとつずつの言葉の表現に直接触れてみたくなるから。
つまり、原著で読めるのならば原著のままで読みたいのだ。
物語の本質はひとつずつの言葉ではないところにあっても、
翻訳者の中を通ったものは、
すでに純正ではなく(劣化するという意味ではない)、
二重性が大前提になってしまう。
そこに、さらに読者としての私の解釈も入り込むと、
誰の、何に影響されたものなのか難しくなってくる気がするので、
だから翻訳本を苦手だと感じていた。
とはいえ、ポール・オースターが大好きで、
『オーギー・レーンのクリスマス・ストーリー』が読みたくて、
村上春樹と柴田元幸がそれぞれ訳しているだなんて、
興味深すぎると思い本書を手にした。
読み終えてみて、
翻訳という営みは、
精神分析という営みと本質的に大切な事柄を共有しているという大事な発見があったことが最大の収穫であり、
これからは翻訳本は苦手と言わずに済みそうだ。
あと、専門書でもそうなのだが、
どうしても言語的に理解しにくい翻訳があったら、
それは翻訳が下手くそなのだと思おう(笑)。
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かなり面白かった。翻訳の持つ妙味が想像できた。
おかしかったのは、小説家でもある村上氏が「自分の小説を英訳された英文を読んだときに、『けっこう上手く書けているじゃないか』と思ってみると、自分の作品だった」というのが多々ある、ということ。
この人の自分の小説に対する距離感はわりに不思議で、「若い人たちのための短編小説」でも、「自分の小説だからといって、自分の解釈が唯一無二で正しい訳ではない」といった風なことを述べていたのと通じるな〜と、感じた。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」はまだ読んでいないので、読んでから、翻訳夜話2を読んでみたい。
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ワタシの中で「名訳者」の地位をゆるぎないものにしているお二人が出した本が、面白くないはずがない。あまりにハマってしまって、電車を乗り過ごしてしまいそうになった。
本書が出るきっかけとなった、柴田さんの持つ大学の授業への村上さんの登場がフォーラム1。聴衆を翻訳学校の生徒に換えて行ったのがフォーラム2。そして、お二人によるカーヴァーとオースターの短編競訳をはさんで、それについて若手翻訳者を前に語ったのがフォーラム3。
お二人の口から出てくる言葉や、そこから読み取れる感性がとても心地いいし、気づきも与えてくれる。特に競訳とそれについて語ったフォーラム3は秀逸。12年近く前に出た一冊だけれど、中味は全然古びていない紛れもない良書。
蛇足: 村上さんは翻訳を「言うなれば"遊び"でやっているんだけど、それと同時にやっぱり何かを真剣に学びとろうと思って」やっているんだとか。ワタシと読書の関係もこれだ。
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As long as there's one person to believe it, there's no story that can't be true.
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最近の自分的外文ブームにうってつけの本新書。しかも春樹・柴田共著となると、もう読むしかないってことで。期待に違わぬ内容で、翻訳のイロハの部分とか、ちょっと垣間見れた気になっちゃいました。他の著作でも触れられていたと思うけど、”翻訳には耐用年数あり”っていうのには全面的に賛成。新しい訳で読めば良かった!って思ったことも結構あり、最近では専ら一番新しい訳にこだわってたりもする。そう考える中でふと思ったのが、外文は100年経ったものでも新しい訳で生まれ変われるんだから、日本の古典的文学作品も、50年とか経ってるものは誰かが書き直せば良いのに、ってこと。夏目、森、芥川など諸々。新しい言葉に置き換えられたら楽しめたって人、多分結構いると思うけど。ってか、そう思うなら自分でやれば良いのか。
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しぐさの英語表現辞典 研究社
出てすぐに読めば良かった!高校生にすごくオススメ。最後の文を自分で訳してから2人のを読んだりしたらさらに面白いかと。
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特に翻訳に興味があるわけではない、と言うか、むしろ翻訳の文章は頭に入ってこないので苦手な世界だが、その舞台裏はとても面白い。興味がないけどそのマニアックぶりが面白いという点では「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を連想する。やはり村上春樹が面白いのだ。
翻訳のあれこれを語ると読者や作家活動にも関係してきてその広がりも面白いところ。
ここでは2つの短編を二人が翻訳して掲載し、比べるという面白い試みもしている。例えば登場人物の職業について書かれていない場合、翻訳者が肉体労働者と思うか知的労働者と思うかで訳文がかわってくる。淡々としたものにするか熱いものにするか、主人公は「僕」なのか「私」なのか、過去形か現代形か、受け身にするかどうか、段落をかえるのは原文と同じにするかしないか(日本の小説は外国の小説よりは段落を替えるケースが多いので、原文どおりにすると日本人は読みにくく感じる。)などいろんな選択があるんですね。
それに翻訳者の物語への思入れもあって、タッチがかわってくる。海外ドラマの吹き替えで、声の調子でキャラクターが出てしまうのに似てますね。
アンダーラインを引きたくなるところが満載すぎて例示に困るので30ページごとに開いてみる。
『リズムがない文章というのは読めないんです。~だから翻訳するときには、何はともあれ原文のリズムをうまく日本語に移し換えるということを意識します。』
筆者が文章スタイルを意図的にぶち壊そうとしている『日本語にするともう収集不可能になってしまう。だから適当に止めちゃったんですよ。』『作者の意図がどうであれ、日本語にしたら読む人は違和感を感じると思ったら、翻訳者は自分の判断で変えていいんじゃないかと、僕は考えています。』
『とにかくもう何でもいいから、寝食を忘れて一生懸命いろんなものを翻訳して、何度も何度も読み直して、何度も何度も書き直して、人に読んでもらってまた書き直すということを続けていれば、スタイルというのは自然に出てきます。』
『「僕」のほうが「私」より色がありますよね。で、なるべく色なし、人間性なしでいきたかったので、本当は、だから何も書かないのがいちばんいいのだけど、さすがにそうもいかないので仕方なく「私」にした』
『僕は絶対言葉に出さない。というのは、音声的なリアリティーと文章的な、活字的なリアリティーってまったく違うものだから、音はあまり意味ないんですよね。』
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翻訳物を多く読む訳でなく、著者に思い入れがある訳でもなく、なのに何故か気になり手にとり気になり読み始めてみると面白い。グイグイ引き込まれながら読みました。
翻訳とはどういうことかを、まずは大学のワークショップの学生の前で、次に翻訳家を目指す若者の前で、そして同じ短編小説をそれぞれが翻訳した作品を挟んで若き翻訳家の前で質問に答える形で示していく。
それぞれの立場も違えば取り組み方も変わる。しかし翻訳という行為そのものを楽しんでいる様子はふたりから溢れています。そこに強く大きく引き込まれたのでしょう。
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この対談が行われた頃は、まだ村上が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳に取りかかっていなかったので、どうしても順番に読むというわけにはいかなかった。村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ後、それについて対談した「翻訳夜話2」を先に読んだので、後先になってしまったのだ。これも村上春樹と柴田元幸の対談で構成されている。翻訳を志す学生を前に、二人が翻訳についてのエピソードや、それぞれのポリシーを語っている。一方的に語るのではなく、学生らの質問に答えながら進める対談は、もし現場で聞けたらかなり面白いに違いない。
また、同じ短編を、村上と柴田がそれぞれ訳して比較して討論しているのは大変面白いと思った。村上の訳はカジュアルで流れるような読み易さがあり、柴田の訳は学者だけあってとてもアカデミックだと感じた。翻訳家を志す人はもちろん、村上や柴田の翻訳本に少しでも興味を持っている人なら、「ここはどうしてこういう訳がついているのだろう?」と感じたことがあるだろう。そういう点を納得させてくれる対談だと思う。村上ファンは、続編の「翻訳夜話2」と併せて読んでおきたい。もちろん村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでからの話だが…。
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いままで海外の文学作品を翻訳で読んで読んだつもりだった。でも原著と翻訳本は全く別の本になってしまうということだと、やはり原著で読みたいとおもった。オースターとか、英語ならなんとかいけるかな。
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文章の構築法として大変役に立つ。村上春樹の小説メイキング読本としても、これはかなりの深度に達しているのでは無かろうか。海彦山彦翻訳は面白いし、原文まで収録する構成が、あまたある教条くさい講座ものを読む事がばかばかしくなるほど示唆に富んでいて、かつ学べる事が多い。
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村上春樹と柴田元幸が、翻訳について語った三回の講演やフォーラムなどをまとめた本です。さらに「海彦山彦」と題された章では、オースターとカーヴァーの短編小説を二人がそれぞれ訳したものが収められています。
第一回は東京大学でおこなわれた柴田の授業に村上が参加したときの記録、第二回は翻訳学校の生徒たちを相手に両者が質問にこたえるというもの、第三回は若手の翻訳者からの質問を二人が受け付けるというかたちになっており、著者である二人の翻訳についての考え方を知ることができるのみならず、翻訳に関心のあるさまざまな水準の受講者たちがいだく疑問にかんしても、興味をもって読むことができました。
村上は彼の文体をかなり意識的に選択しているのかと思っていたのですが、じっさいにはそうではなかったと語られているのは意外に感じられました。村上はこの問題について、自分で使うことばよりもむしろ自分ではけっして使わないことばがあるというところに焦点をあててこたえており、そこにスタイルを形成することについての興味深い考えが含まれているのではないかという気がしています。
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競訳。英語の授業でもなければ、なかなか2つの訳を読み比べることはないので、それだけでもとても面白かった。まして、翻訳の大御所と言われるこの御二方でも、こうも原文の雰囲気の捉え方が異なるのかとわかり、驚き。それほど、本は作者の手から離れたあとは誰のものでもないということだ。そして、翻訳の際は文章の声にひたすら耳を傾けている、と、村上氏。身に染みます。
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翻訳にそれほど興味はないが、翻訳者の柴田元幸さんには以前から興味があった。相手が村上春樹さんとあれば、なおさらだ。
翻訳の裏話がたくさん出てくる。
個人的に好きな部分は挙げきれないので、ここでは割愛。
1つだけ挙げるなら、村上さんの、翻訳者に必要なのは、偏見のある愛情という話。
内容に直接関係はないけれど、カーヴァーやフィッツジェラルドを読みたくなった。
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海外文学を読み始めてまだ日が浅いけれど、このお二人がとてつもない量の仕事をしていることは嫌でもわかる(各々5人くらいいるんではないかと疑ってる)。それほどまでに英米文学の棚には彼らの名が連なっている。柴田氏の訳文は海外文学初心者の私でもスーッと脳に染み込むようで心地よく、みんなにオススメしたい。
しかし、100%自由に書ける小説と違い、翻訳というのは原作の上に成り立つ。そこにストレスはないのだろうか?翻訳者でもあり、世界中さまざまな言語に翻訳される著書を多数持つ村上春樹氏の翻訳に対する見解は意外なものだったー“多少誤訳があっても、多少事実関係が違ってても、べつにいいじゃない、とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。作品自体に力があれば、多少の誤差は乗り越えていける。それよりは訳されたほうが嬉しいんです。”ー
人称をどう訳すか、he said she said〜みたいなくどい文章をどのように訳すか、過去形と現在形を織り交ぜてリズムを作り出す、などなど、訳文はあらゆる小さなこだわりの積み重ね。あらゆる翻訳は誤訳である、何らかのノイズは忍び込む。そのノイズをいかに取り除き、原文の文学的価値を損なわないようにする、繊細すぎるにもほどがある仕事だということがわかった。
今からでも翻訳家になりたいなー。そりゃ、ダジャレなんかも理解できないといけないくらい、英語そのものだけでなく現地の文化などへの理解も求められる大変なものだとは思うけど。柴田さんの、芸術方面に興味があるけど事務処理が得意っていうの、すごいわかる(わかるなんて言ったらおこがましいけど)。
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村上春樹さんが、「趣味で訳す」という趣旨の話をしていて、柴田元幸さんが「読み手がいないならしない」と言われてたけど、私はまちがいなく前者。読む人が自分以外にいなくても、訳したい。好きなお話や、歌や、詩を、思う存分訳したい。読んでくれる人がいれば尚いいし、いつか小説の訳をしてそれが本になったりしたら、さぞ素敵だろうとも思うけど。
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二人の翻訳愛が溢れ出ている。村上春樹が翻訳の愛情を迸らせ、柴田元幸がそれよりも少し冷静に見えるのが面白い。様々な質問を巡り、議論が交わされるが、結局、答えの向かう先は翻訳に対する愛なのだ。
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一部は東大の学生の前で、二部は翻訳の専門学校生の前で、そして三部は中堅の翻訳家・研究者の前で二人が翻訳に着いて語ったことが収録されている。
言葉を訳す。文章を訳す。雰囲気、世界観を訳す。
どう訳すかの選択から翻訳がはじまるのだと思った。
村上春樹と柴田元幸がそれぞれに、カーヴァーとオースターの短編小説を訳し、そのちがいを読み比べる第三部が面白かった。
本来村上春樹が訳しているはずのカーヴァーの作品でさえ、私には柴田訳の方が読みやすかった。
もともと村上春樹は英文で書かれた小説を読んで自分の文体を作ってきたのだそうだ。
だから彼の小説は、脳内では英文で構成されているものを、書くことによって日本語として自然なものに翻訳されているようなものなのだろう。
思考の枠組みが英語的で、文章が極めて日本的。
これが村上春樹の文章なのだということが、ここにきて理解できた。
計算して計算して、頭で書かれた文章なのである。
対して柴田元幸は、この時主人公はどのように思ったのか?など、登場人物や作者に思いを寄せることによって、心の中から湧いて出てくる文体らしいのだ。
もしかして、北島マヤ?
じゃあ、村上春樹が亜弓さん?
村上春樹は文体とはリズムだと言っているが、そのリズムとは音ではなく、文章を読んだときの、目のリズムなのだそうで、訳した文章のリズムを確認するために音読することはないらしい。
柴田元幸は、口を動かし手を動かしながら、文章のリズムを作っていくというのだから、翻訳の仕方などは人それぞれなのだ。
正しい翻訳の仕方なんてない。誤訳はあるが。
いくら美しい日本語だといっても、普段使っていない身についていない日本語なら使わない方がいいと二人は言う。
確かに読んでいても、言葉が浮いているな~と思うことがある。
そういうことだったのか。
翻訳の賞味期限について。
同時代性を表現するのに流行りの言葉を使うと、すぐに言葉が色あせていくことになる。
逆に当時は一般的ではなかったので敢えて訳語を使用したところ、今では直訳の方が伝わることもある。
フランス旅行団→ツール・ド・フランス
新しいバランスのスニーカー→ニューバランスのスニーカー
読む方はあっさりと読み流してしまうようなことを、実にいろいろ考えながら訳してくれていることがわかり、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも、よい作品をたくさん日本語に訳してください。
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小説家である村上春樹と東大の助教授である柴田元幸が翻訳家として、翻訳方法、原作者への思い入れ等を公開フォーラムを通して語っていく。翻訳モノというと硬い訳を想像しがちだが、作者の思いが訳を通じて、より理解しやすくなるというもう一つの言語としての魅力をもった文学だと感じた。次回から翻訳モノをより作者の気持ちに沿って読めそうだ。
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『翻訳夜話2』を先に読んでいたのですが、翻訳にそれほど興味の無い私ですが、なぜかそれとは別の次元ですごく共感ができて面白いんですよね。
カーヴァ―、オースターを村上、柴田両氏がそれぞれ訳した短編が掲載されていて、読み比べると面白いですねえ。
村上さんは、翻訳をするときは、「とにかく自分というものを捨てて訳す」そうですが、「自分というのはどうしたって捨てられない」そうです。
で、やっぱり出てるんですよね。村上色が。
柴田さんのスタイルもシンプルで好きなんですけど、
後に残る余韻が違いましたね。
それから、フィッツジェラルドとかの「華麗なるペルソナを翻訳者として被っちゃうと、ある程度華麗方向への欲求は解消されちゃう」とか、なるほどーと思いますね。
こりゃあ、村上訳で『グレート・ギャッツビー』読むしかないですね。
原著もどっかに転がってたはずなので、引っ張り出してみたいと思います。
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最近本読んでなかったので軽いのから入ろうと思って対談本を選んだ。ポール・オースターのムーン・パレスがとても好きで、訳者の柴田さんの話を読んで見たいとおもっていた時に書店で本と目があったのがきっかけで。
さらさらっと読めて楽しかった。何かを期待して読んだわけじゃなくて、あまり考えずに活字を追いかけたかっただけなんだけど、一つ思いがけない収穫があった。
昔見た映画で、途中で寝てしまったけど味があってやけに印象に残ったスモークって映画があった。
本の中で訳されているオーギー・レンのクリスマス・ストーリーを読んでいたらふとその映画のことを思い出した。頭の中の情景が映画と似すぎてて、原作なんじゃないかと思ったらやっぱりそうだった。
この本読んでもっと本読みたくなればいいなと思って読んだんだけど、思いがけず映画も見たくなった。
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愛と情熱と知識に才能が加わった両者の翻訳に対する姿勢や考え方は、多くの翻訳家の卵たちにとって参考になるのかどうかわからないけど、翻訳という作業を知るのは楽しかった。
海彦山彦、おふたりそれぞれの翻訳がおもしろかった。同じテキストでもけっこう違うものなのですね。
この先自分が原書で英語(ほか外国語)を読めるようになるとも思えないし(笑)、翻訳家の方たちにはぜひがんばって名翻訳を世に出していただきたいです。よろしくお願いします。
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たしか、ある若手建築家のおすすめの一冊ということで読んでみました。
翻訳の世界を、二人の翻訳家が対談形式で語ります。
正直対談形式の文章は地の文が無いので読みにくいし、対談をそのまま本にするってどうなん?
と思っていたのだが、以外に色んな情報が得られて良かった。
本書で一番「面白い」と思った点は、同じ英文テキストを翻訳者が違うだけで、これほど印象の違いがあるものなのか!というのが驚きでした。
そして、両者の心の内から滲み出るような「翻訳LOVE」にほんと好きなんだな―と感心してしまいました
村上春樹さんが小説を書く前から翻訳をされていたのが驚き半分、納得半分でした。
翻訳夜話2も読んでみたいと思います
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作家にして翻訳家の村上春樹と英文学者にして翻訳家の柴田元幸の
会場の人々からの質問に答えることで進むトークセッションが
聴衆を変えて3回分。
肩のこらない文体ながら、本質に迫り共感できる内容だった。
ふたりとも本業が別にあって余技・気分転換的な仕事として
取り組んでいるという立場上、職業翻訳家にとっては
参考にならない部分も少なからずあるかもしれないが、
細かな技術論ではなく、心がまえや考え方を語ることで、
瑣末な論争にならずに、よりよい翻訳を志す空気が伝わってきた。
唯一正解の翻訳というものは存在しない、
翻訳者によって(同じ訳者でも気分や時代によって)
さまざまなヴァージョンがあるものだ、ということの実演で、
「海彦山彦」と称して、二人がたがいの十八番の作家の
短編の翻訳に挑戦したものをそっくり読めるのがおもしろい。
ひとつは村上の独壇場カーヴァーの「Collectors」
もうひとつは柴田のオースター「Auggie Wren's Christmas Story」
原典も巻末に収められているので、英語と二種類の訳文を
あれこれ読み比べることができる。
私も自分の楽しみのための翻訳をまたはじめてみようかな、
という気持ちになった。
Posted by ブクログ
読んでいて一番に感じたのが、
柴田・村上両氏の、感じた事を「素早く正確に」言葉に置き換えて発言できる能力。
今この程度のレビューを書くだけでも全く思いをまとめられず、
あーでもないこーでもないとグダグダしてしまっている私には、
そんな両氏の頭の回転の速さに何より憧れてしまうのでした。
リズム・グルーヴ、技術より愛情、見えないものを感じ取るセンス。
これは翻訳業のみならず何においても言える事なのではないかなあと。
異業ながらも共感する部分が多々あり、とってもとっても面白かったです。
Posted by ブクログ
柴田元幸と村上春樹の対談(フォーラム)を書き起こしたもの+カーヴァーとオースターの作品をそれぞれが訳したもの。翻訳はそのテキストが第一で、それに対する偏愛が大事なんだなと。凝った訳や綺麗な訳をしようとするよりも、その作品を誰よりも理解しているという自負と作品への愛が分かった。
Posted by ブクログ
翻訳家・村上春樹と柴田元幸の対談。
翻訳の世界も小説と同じようにセンスが求められる。村上は小説家として、柴田は文学者として翻訳を行っているが、それぞれ背景となる世界が違っているので、翻訳にもそれが現れる。翻訳に対する自分の流儀、好みの作家など翻訳に関する色々な話が紹介されていて面白かった。
Posted by ブクログ
収録の翻訳作品、村上春樹訳のカーヴァーは、元々の村上春樹の直訳調の文体が前面に出すぎてて体が受け付けない。直訳調の翻訳って、この訳者ほんとに理解してるのかな?、って疑心暗鬼になってしまう(この作品については大丈夫な気がするけど。自分の英語力、読解力では気がするくらいしか言えない。少なくとも訳文は英語の勉強には役に立つと思う)。
直訳調から来るまわりくどさのせいで、結局何の小説なのかわかりにくい。原文はそんなにまわりくどく書いてるような気はしないんだけど、これって、失業中(+奥さんとは死別または離婚していて(追記:訂正します。主人公はスレーター氏ではないかも))でただでさえ気分がさえない時に、押し売りだかなんだかわからないずうずうしいやつが押しかけてきて、踏んだり蹴ったりというか泣き面に蜂みたいな一日があったっていうだけの小説だよね? もっとこなれた日本語にしちゃっていいんじゃないかなと思った。それくらいシンプルな話だよね?