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Posted by ブクログ
読みたかったカーソン・マッカラーズの『悲しき酒場の唄』が
村上訳で読める日が来るとは!
それも山本容子さんとの素敵な物語絵本になって
なんという話しなの!
という感想に尽きます
全てが変わっている
春樹さんはこの中編小説をできれば他の短編と合わせずに一冊の独立した本にしたかったという
それも絵をつけた一冊に。
となるともう 私たちも山本容子さんしか浮かばない。カポーティの本たちと同じように。
それにしても、江國香織さんも書いておられるように、こんなに描いてしまっていいの?ミス・アミーリアを、カズン・ライモンを?
と思わずにはいられない。
けれど…このあまりにも新鮮?斬新?な物語だからこそ、いいのだ。
「いいのだ、とこれを読んで私は納得した。ひらかれるというのはたぶん、通路ができるということなのだろう。その通路から、小説世界そのものが迫ってくる。この小説の持つ閉鎖性もわかりにくさも、閉鎖的なままわかりにくいまま、肌のすぐそばまで迫ってくる」
のだ。
『波 2024/10』より
江國さんのおかげでそう思えました。
マッカラーズといえば、南部の裕福でない白人と黒人との関わりみたいなものをあったかく描くイメージ
今作も小間使いで料理人のジェフが美味そうな肉を焼いていた。
旧作を読んだ先輩から、「え?カフェ?酒場というイメージよ」と聞いていたので、古い書庫から旧版を引っ張り出して比べるも、
酒場です。カフェの意味が日本とはちがうので原文のタイトルもcafeですし、春樹さんと山本容子さんの本には カフェ が合っているのでは…
名前の発音の違い、"せむし"という言葉をあえてつかってるところなど違いもありますが、それぞれですね。
Posted by ブクログ
以前「心は孤独な狩人」を読んだ時とは大きく異なる印象のマッカラーズ。心は孤独な狩人は現代社会にも通じる閉塞感について考えさせられる一冊であった(らしい。自分の感想を見る限りではある)けれど、この何とも奇妙な物語は何かを静かに考えさせるという雰囲気は、一見、ない。訳者の村上春樹も最初に読んだ時の印象をこう語っている。
『これはいったいどういう小説なのか? いったいこの小説は何を語ろうとしているのか? この本を読み終え、多くの読者はそのような疑問と戸惑いを抱いたまま、あとに取り残されることになるかもしれない。最初に読み終えたとき、正直言って僕もそんな読者の一人だった』―『訳者あとがき』
時代がかった西部開拓時代を思わせる舞台。作家マッカラーズにとってはひょっとすると馴染の風景であったのかも知れないが、白黒の西部劇に出て来そうな半ば治外法権的な雰囲気が漂うNowhere、どこでもない町。物語としては、荒くれもののカウボーイ達が夜中に荒野のただ中で焚火を囲みながら針小棒大に語る与太話、といった印象。
村上春樹は、ここに登場する三人の登場人物たちの間を繋ぐ一方方向の感情を、「愛」という概念に昇華させこの短篇の持つテーマを一般化させてみるが、物語としてはとてもそんな生易しい言葉でここに蠢く感情を感じ取ることはできない。まず、三人の登場人物は誰一人としてどこにでもいるような普通の人ではない。誤解を恐れずに言うなら、正面から向き合うことを躊躇わせるような人々。男として、あるいは女として、という世間がはめたがる典型的な型から逸脱した人物。その意味では現代的なテーマである「多様性」というものを捉えていると読めないこともない(作家がそんな言葉に集約される概念に機微であった可能性はあるだろう)。そして確かに三人の間にある感情は輪舞のような関係にあり、その捻じれ方にも一般的と言われる形ではない関係性が描かれており「包摂」というテーマを読み取ろうと思えば読み取れる(再び、1967年に50歳で無くなった作家がそのような現代的なテーマに既に気付いていたとするならば。確かにこれは古くて新しい問題ではあるし、心は孤独な狩人の印象からすれば可能性はあるだろう)。しかし、それがどこかに着地するような展開は訪れない。少なくとも、ここまで救いの無い物語である必然性を、残念ながら自分は読み取れずにいる。もちろん、本質的にはそれが容易に答えの出る問題ではないとは思うけれど。
この短い物語に添えられた山本容子の銅版画は、挿絵という概念を越えて多くの頁の背景に(時に文字の配置さえも規定するように)表れる。それも抽象的な背景の描写ではなく、作中の人物を具体的に表現する形で。何となく二つの物語を同時に読んでいるような印象を持つほどに独立した作品という感じが漂う。ただ、これは好みの問題だとは思うけれど、主人公の顔や容姿をこんな風に見せられてしまうと、自分は返って物語の世界に没入し難いのだけれど、他の人たちはどうなんだろう。
Posted by ブクログ
詩情溢れるメルヘン。そして残酷なラブ・ストーリー。
タイトルに“ballad”とあるとおり、人々が口伝えに繰り返し語り継いできたドラマに耳を傾けているかのよう。
冒頭でいきなり悲劇の結末は明かされる。
うらぶれた田舎町に住む、吝嗇で癖が強いが一目置かれてもいる人物であるミス・アミーリアに起きた、これまた風変わりな愛の行方と破局の物語だ。
なにもないいつもの夕方、訪ねてきたよそ者との出会いによってミス・アミーリアが変わり、その熱が生む磁場に引き寄せられるように町の住民も変わっていき、物語には幸福と高揚感が満ちてくる。
しかしそれと同時に、きっとなにかが起きるに違いないというカタストロフィの予感と緊張感がじわじわと張り詰めてゆく。
そして不幸の種が蒔かれる。ここからは、どのように悲劇が起きるのかというクライマックスに向けてギュッと引き込まれてゆく。
そして結末の驚きと、あっけなくもたらされた崩壊に、しばし茫然となる。
ここに寓意や教訓はあるだろうか?
カーソン・マッカラーズは作中で、“愛とは二人の共同体験であるが、二人にとって同等の体験ではない”と、愛の非対称性を語る。
“愛するものは孤独であり愛することは苦痛であっても、ほとんどの人は「愛するもの」になりたがる”
“あけすけに言わせてもらえるなら、「愛されるもの」の立場に置かれることは多くの人にとって、深く秘密めいた意味合いにおいて、耐えがたいことなのだ。愛されるものは、愛するものを恐れ憎むが、それには最もな理由がある。なぜなら、愛するものは愛する相手を剥き出しの裸にしようと、永遠に試み続けるからだ。愛するものは愛する相手とのあらゆる関係性を切望する。たとえその経験が本人に苦痛しかもたらさないとしてもだ。”
そう、「愛されるもの」が与えられた愛を裏切り、自らを望みのない「愛するもの」へと駆り立ててゆく心理は、決して奇妙なものではないだろう。
幸せと愛が、必ずしも同じ意味ではないということは、誰しもが知ることなのだから。
Cafeを、酒場ではなくカフェと村上春樹さんは訳した。ミス・アミーリアの店は、飲んで人生を一時忘れる場所ではなく、集まって人生に意味があると人々が誇りを取り戻せる場所だった。
オシャレというよりも、老若男女が集う温かく明かりが灯る場所という雰囲気には、“カフェ”が似合うように感じた。
奇妙な愛の行方以上に、カフェの終焉によって町と人びとが再び退屈で無意味な日常へ沈んでいく様に感傷的な余韻が滲んでくる。
アメリカ南部のさびれゆく町そのものが主人公のようにも、感じてくる物語だ。
Posted by ブクログ
とても不思議で、一切の救いのない物語。
巨躯で訴訟好きの女性、ミス・アミーリア。圧倒的な人間嫌いのアミーリアに対し、突然出現し、一途な愛を受けることになった病的に小さなカズン・ライモン。この二人が始めたカフェが、町全体を活気づけ、奇跡のような平和をもたらした頃に現れる、前科者で過去に10日間だけミス・アミーリアと結婚していた、マーヴィン・メイシー。
この三者の、愛の一方通行を描きながら、その愛の行き着く先を示す。
マッカラーズの小説に出てくる登場人物は、皆、どこか普通ではない。
普通ではないのだけれども、普通ではないなりに、皆、不思議と歯車が噛み合っている。
そしてその噛み合い具合がとても心地よく、「心は孤独な狩人」などは、それが作品を希代の大傑作たらしめている。
本作は、噛み合わない。全然噛み合わない。
なので、登場人物の普通でなさが際立つ。異様さが際立つ。
神話的なニュアンスさえ感じられるほど異質。
ただ、その異質さは読むことを拒絶するかというと、そういう類いのものでもない。
むしろ引き込まれる。異質さが魅力になっている。
中盤くらいから、明らかに本作が絶望に向かっていることがわかる。
わかっているにもかかわらず、目が離せない。
物語自体の魅力はもちろん、それを語る文章の美しさもある。
マッカラーズは、普通ではない人の、普通ではない行動を実に見事に描写する。
これはひとえに、天才の所業なのだろう。
本作は中編程度で短く、そして山本容子氏の銅版画が挿絵(背景画)となっており、さながら大人の絵本という感じに仕上がっている。
そして大人の絵本というにふさわしい内容。
異様だし、絶望だけど、読みやすい。
この美しい絶望は、マッカラーズのファンでなくても、味わってみて欲しい。
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小説・文芸
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