村上春樹のレビュー一覧
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ネタバレ父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを-息子である僕が部分的に継承したということになるのだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?【P63】
たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てにいったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあ -
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言わずと知れた大御所の作品だ。
こう表現するのは烏滸がましいけれども、僕自身の断片みたいな内省的で瞑想的な人物が次々に出てきて、妙に居心地が良い。
はるか昔はこの絶え間なく続く省察が堪らないものだったが、今や僕自身がそのような人間になったせいだろう、穏やかな気持ちでスラスラと受け止めることができた。
歳を重ねていくとはそういうことなんだろう。分からなくなることはあるが、分かるようになることもあるのだ。
終盤ではクロに共感した。多崎つくるとクロ。長い紆余曲折の果てに、それぞれが失ってきたものはきわめて多い。
特にクロの言葉には限りなく切ないものがあり、彼女の悲しくも優しい喪失感は読者の胸を強 -
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村上春樹の小説は何冊か読んだことがある。彼がランニングをしていることやランニングについての本を書いていたことも、少しは知っていた。けれども、それほどのランナーではないと勝手に思っていたので、本書をずっと読まずにいた。
しかし、読み終えてもっと早く読んでおくべきだった、と後悔している。
私もランナーだ。約20年のラン歴がある。フル・マラソンは15年以上の経歴があり、昨シーズン(2024)は5レースに出た。フル・マラソンランナーとしての彼が言っていることは、良く理解できた。だから彼のことが凄く身近に感じた。
いくつか心に残り、響き、突き刺さる言葉があった。
「僕らにとって最も大事な物事は、ほとん -
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暴力、そして『ねじまき鳥クロニクル』の副読本
ユングとか河合隼雄とかの怪しさはいったん脇に置いておきます。
村上春樹の無意識的・形而上的な創作技法が多少なりともつまびらかにされてをり、それは氏には珍しく赤裸々に開陳されたものだと思ふのです。
特にこの対談のメインとなってくるのは、暴力についてです。それは氏が『ねじまき鳥クロニクル』を書き終へたばかりといふのもあるし、それが氏にとって体から出てきた(頭で考へただけではない)物語だからです。
同じく暴力を扱った作家として、村上龍と大江健三郎の名前もすこしだけ出てきます。
河合隼雄の心療経験の話が面白く、それがうまく村上春樹と噛み合ってゐ -
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ねじまき鳥クロニクルを読むのは三度目か四度目になるかと思う。初めて読んだ時からもう二十年くらい経つ。読むたびに自身が感じることが変わり、面白いと思うポイントが変わってきている。これは私の読解力が少なからず成長しているということなのか。
電話の女、加納マルタ、加納クレタ、そして本田さん…。魅力的なキャラクターが次々に登場するのがとても楽しい。そしてそれらが重なり合って物語が進むのですが、文章や世界観に自分の脳がゆらゆらと揺らされているような感覚になり眠くなる。そう村上春樹は眠くなるのです。この眠くなるという点は、何度読んでも変わらない。
作者と同じ時代を生きて、作品を読めるということに感謝。だっ -
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めちゃくちゃ前に読んで、面白かったなあという気持ちだけしか残っていなかったので、改めて読んだ。
村上春樹さんの本は、10年前くらいにこの本も含めていくつか読んだのだけど、全て(面白いと思ったのだけど、どんな話なのか理解できていない。説明できない。)と感じたのを覚えている。
今回も、そうかもしれない笑
全部、理解しきらんというか、自分の感覚の中にはまだない感情とか表現がわりと多い気がする。
でもその一方で、この気持ちは自分の中のこの感覚や、みたいな共感もそれなりに多くある。
それこそ、多崎つくるの(自分には色がない、空っぽ)みたいな気持ちは、自分にもあるなあと思う。
で、自分なりに今回読んでみ -
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ネタバレ確か高校の現代文の先生が読んでいたので、本書の存在は知っていた。個人的にも香川、西宮など、ゆかりがある場所が多く出てくるのでそれだけでも楽しく読めたが、加えてこれからある意味での旅に向かう自身にとって響く言葉が多かった(詳細は以下、多くなってしまった)。
改めて、何かを問うとき、問われているのは自分自身なのだと感じる。どこかへ行くとき、災難に見舞われるとき、発見するのは自分自身なのだと思う。旅とは、ある種の諦念(思い通りにならないこともそりゃ沢山ある、という姿勢)を獲得する過程であり、これを獲得するからこそ、逆説的ではあるが、それでも不変なもの(どうにも変えられない自分の一部、等)に目を向けら