村上春樹のレビュー一覧
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イエスタデイが好きだった。
木樽のような人間になりたい
ドライブマイカーの
どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛し合っている相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。
そんなことを求めても自分が切なくなるだけです。
しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことができるはずです。
ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。
本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。
自分は理解するのは不可能でありだけど、相手を理解しようとする姿勢が大事だと考えていたけど、ベクトルを自分に向けるというのはなかった。
すごく今の自分に刺さる -
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ネタバレ出だしから、ナカタさんによる骨の矯正が凄く面白かった笑
ナカタさんに振り回されつつも、刺激的な体験ができているホシノが少し羨ましい。
「いつか父を殺し、母と交わり、姉とも交わる」
という不吉な予言を残していた父親。
その言葉どおりになってしまうカフカ。
入り口の石を探すナカタ。
最後まで付き合うホシノ。
父であり猫殺しのジョニー・ウォーカー。
ホシノを導くカーネル・サンダーズ。
佐伯とナカタが出会ってからはあっという間だった。
正直、カフカの方は分かるようなわからないような、というかやっぱり強姦などの性表現が苦手。
ナカタとホシノの関係性が良く、今後は何か考える必要がある時はナカタさんならどうしたかな、と考えるようになるだろう〜と思ったり、今まで全く興味がなかったのに喫茶店でコーヒーを飲みながらクラシックを聴く楽しみを見出したり、ナカタさんのおかげで自由を得たという最後のホシノがとても良かった。
結局、カーネル・サンダーズはなんだったのか?
この世とあの世の話で、ナカタさんは事故の時に半分置いてきてしまったのか。 -
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ネタバレクリフハンガー
"作劇手法の一つで、劇中で盛り上がる場面、例えば主人公の絶体絶命のシーンや新展開をみせる場面などを迎えた段階で結末を示さないまま物語を終了とすることである。"
この小説の構成として、この言葉が一番似合うであろう
いくつかの物語が並行して進んでいく中、各章の最後にはクリフハンガーが訪れ、そして、それが回収される前にまた別の物語が進行し、そこでもまた別のクリフハンガーが訪れる。
常に新鮮な衝撃が脳髄を駆け巡るこの経験、あまりに心地よい!!!
世界で一番タフな15才の少年、君が幸せに生きれる保証はないが、タフに生きてくれ、と思いながらスピンを外す。
僕は気づいたんだけど、"52ヘルツのクジラたち"のあんさんに想いを馳せ、"海辺のカフカ"の大島さんや佐伯さんをはじめとする大人たちに心酔する。
僕は、あまりに救いを求めて本を読んでいる。
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過去の人に会うことは、過去の自分に会うことなのかもしれない。
島本さんは、単純に「忘れられない女性」というより、初が選ばなかったもう一つの人生や、過去への憧れそのものに見えた。
島本さんと一緒に現実を捨てることもできたはずだけど、結局は現実を捨てきれない。妻や子供、仕事、自分が現在まで積み重ねてきた人生を完全には手放せない。
要するに、現実が捨てきれない。
だから島本さんは消えた。
イズミの存在も、過去に自分が誰かを傷つけたこと、その記憶や罪悪感が現在の自分の中に残り続けることを象徴しているように感じた。
結局、人は「もし別の人生を選んでいたら」という可能性を完全に消すことはできない。でも、その可能性のために今の人生を捨てることもできない。
失ったものや選ばなかった人生を抱えながら、それでも今の人生を生きていくしかない。 -
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表題作『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンの映画を思い浮かべる人も多いと思うが、そちらは未視聴で読んだ。作中のホリー・ゴライトリーは溌剌としたヘルシーな印象で、自由な猫のようにプリズムが弾け飛んだようなギラギラした瞳をした女性だったので、上品なイメージのヘプバーンが演じたことが意外だった。実際、著者も映画化の時にオードリー・ヘプバーンがホリーを演じると聞いて、多少不快感を露わにしたとのことだった。
この作品の中にはティファニー以外にも短編が3作収録されている。どれも純真の象徴としての存在が登場し、それが暗いテーマの中で対象物として良い働きをする。以前カポーティの『誕生日の子どもたち』を読んだが、彼はそういう純真さがもたらす悲哀のようなものを描くのが上手いと思う。何より、村上春樹の訳が読みやすくて良かった。 -
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映画「ライ麦畑の反逆児」がおもしろく、サリンジャー関連でそういえばこの本持ってたと思い出して再読。(初読のとき感想書いたかな?と思って本棚内検索したら、わたしは2007年から感想書きはじめていたようで、2003年出版のこの本は出てこなかった)。
最初に村上春樹氏による「キャッチャー・イン・ザ・ライ」訳者解説を読んだら、「ライ麦畑の反逆者」のストーリーがよりよくわかって、さらに細部が補完される感じですごくよかった。村上氏は、サリンジャーは戦争体験がショッキングすぎて小説にすることができず、「キャッチャー~」は書かれることのなかった彼の個人的な「戦争小説」かもしれない、ということを書いていた。
で、結局全部再読してしまい、村上氏と翻訳家の柴田元幸氏の対談も隅から隅までおもしろかったんだけど、特に印象に残ったのは、「キャッチャー~」が読み継がれているのは、イノセンスを礼賛しているからではなくて、『人々が巨大なシステムを前にしたときの恐怖や、苛立ちや、絶望感や、無力感や、焦りのようなものを自然に呑み込み、ユーモアをもって優しく受け入れてくれるから』というところとか。あと、『イノセンスに代わるものは必ずあります。たとえばそれは愛情です。広義な意味での愛情。』というところとか。
あと、柴田先生が「キャッチャー~」をアメリカ文学史のなかに位置づけるために書いた「Call me Holden」もすごくおもしろくてためになり、「アメリカの息子」とか「ハックルベリーフィンの冒険」はやっぱり読まないといけないかも、と今さらながら思った。 -
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解るようで解らない、そもそも「わかる」ものではないのかもしれない。
ただ、何となく雰囲気がいいなとか、この文章が好きだなとか、この登場人物には共感するなとか。
もしかしたら、小説ってそれでいいのかもしれない。
もちろん逆の感情も然りで、ここが嫌い、不快、意味が分からないなどもありだし。
小説を読み続けて30年以上になるけれど、この作品を再読しながらそんなことを考えた。考察とか、小説に限らずそういうのが楽しい物もあるけれど、ただ素直に作品から受け取るということ。誰にも評価されなくても、共感を得られなくても、自分だけの気持ち、感触を見つけられたらそれでいいんじゃないだろうか。
内容とは関係ない感想だけれど、これも私の現時点の「感想」ということで。 -
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ネタバレ初めて読んだのは高校三年の春だった。そのころとは私自身の考え方が随分変わったし、視野も変わっている。約二年越しに読んで思ったのは多崎つくるの感情をより身近なものに感じたし、同時にクロの犠牲にも、どこか孤立無援の静けさを感じた。色彩を持たない多崎つくるが人生で最も大切にしていた四人の友人たち。その四人は彼の望まない形で離れていき、そのうち三人と十六年の月日を隔てて再会する。その再会は、私にはどこか儀式的で、荘厳ささえ感じた。自分を切り離したかつての友人と、再会することができるだろうか。再会した三人は、それぞれ隔てていた年の分だけ変わっていた。シロを起点とした亀裂はその五人グループを決定的に破壊したが、各々にもその亀裂の影響はあった。多崎つくるは自分のことを色彩のないどこか空虚な冴えない人間であると認識しているが、私にはとてもそうとは思えない。彼の周りにはたくさんの色があったが、彼はその色を受け入れるパレットのように、彼ら彼女と触れながらも自分の譲れないことは譲らなかった。互いに影響されながらもその安寧を保つ土台の役割をしていた。
つくるが学生時代に出会った灰田という青年とシロ。二人は他の三人と異なりもう二度と会うことはできない(少なくともシロは絶対)二人とつくるは、やっぱり別離しなければならない運命にあったのだと思う。特に、どんな色にも影響を受けてしまう「白」は、彼女が生きた世界は残酷で無慈悲だった。灰田とつくるが再会してほしいと願うものの、それはやっぱり叶わないのだと思う。
クロの犠牲。短い少女時代をシロのために犠牲にした。彼女は誰よりも早く大人にならなければならなかった。何色にも染まりづらい「黒」。彼女のタフな性格とユーモア。その下で守られるのはきっと心地よくて安心なのだろう。だけどクロ自身の傷には誰も気づいてはくれない。彼女はもう名古屋はおろか日本にすら戻れない、戻ることはないと決意を固めている。フィンランドでの彼女の生活が、長い時間をかけて傷を癒してくれることを願う。これは私自身の願い。 -
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作中時間とは少しズレてしまったけど、ギリギリ8月中に、夏の間に読めたことは満足
その後の村上春樹作品にも見られる会話のテンポの軽妙さや淡白さ、それと共存する深刻さが見られて、村上春樹らしさを感じながら読めた
過ぎ去っていくあらゆるものは再び捉えることができないし、それを諦めて受け入れようとしても、心の底では屈託してしまう人間のままならなさを感じた
「もう何も考えるな。終ったことじゃないか。」
色々と考えるべきことや示唆はあるんだろうけど、一先ずはリズムと情景に身を任せたいと思わされた
あと、個人的に驚いたのは、作中の「僕」が思う小説の評価基準の通りに、セックス・シーンが出てこないこと
村上春樹へのステレオタイプって最初期の作品には反映出来ないんだ -
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恋人だった訳でもないのに、昔心通わせた島本さんのことが忘れられない。彼女で無くてはと申し分の無い幸せを手に入れた後に気が付き、どちらを取るかの葛藤が面白かった。
知らなくてはならなかったものごとがまるでサンプル・ケースみたいに全部ぎっしりと詰め込まれていた。
これはとても大事なことだから、よく聞いて。さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。
僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。 -
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自分が気にしている事項あるいはその優先順位が、自分の関係している他の人と異なる、このことについて、何を気にして何を気にしないか? あるいはその結果、その各人が取ったあるいは発生した行動に対して、どのように評価したり感じたりするのか。そして、これらに対し、人はどこまで責任をとる必要があるのだろうか。
つくるがフィンランドに飛び判明した事項からそんなことを考えた。そして自分でコントロールできない事柄について、どこまで気にするべきであるか?
「色彩を持つ、持たない」ことについても同様。名前という表層の世界でも、実際の活動に対する評価としての「色彩」についても、観念的な世界では極めて主観的である。
苦しんできた、「つくる」とそれを解いていく「沙羅」との関係は一見好ましい感じ、関係であるように見えて、それなりに複雑な関係であり、読者はやはり著者に翻弄されてしまう。
もう一つ理解が難しいのが灰田の存在である。苦しみを乗り越えるステップとして中間点が必要なのか、複雑な「彩り」を加えるためにもうひとつ方向が必要であるのか。「巡礼の年」を登場させるために必要なくだりなのか。その父のエピソードと共に、不思議な位置付け。安保闘争から距離を置くのと、山奥の温泉に逗留してバイトする原体験はどこにあるのか。
本作は村上春樹作品の中でも展開が多彩なほうであり、擬人化した動物らしきものは6本指エピソードだけという、ストレートな小説構成である。これはこれで村上春樹の作品!こんな大それた感想を記してしまうのもまた本作品の複雑さからくる影響のひとつであるのかなーと。