大澤真幸のレビュー一覧
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こういうがっちりした社会学系の本もたまに読むと面白い。ポストモダン後のセキュリティ社会に対する考察。9.11をはじめとするテロ行為は、西欧とイスラムという異なる文明の衝突ではなく、資本主義社会における内的な闘争ではないか、という点を考察する(ビン・ラディンも金持ちのボンボンであり、異なる文明の代表者というよりも、自分達が属する資本主義社会が生み出した別の側面である、という論旨)。よって異国からの脅威を防ぐだけではなく、自国内に潜む「テロリスト」を殲滅しない限り戦争は終わらない。必然、この戦争で主導権を握るのは、軍隊ではなく警察となり、社会全体が、セキュリティ体勢の強化による警察国家の方向へ舵を切りつつある。危険なテロリストの偏在が、セキュリティへの要請を生み出しているのではなく、完全なセキュリティへの執着が、テロリストの内部における偏在という妄想的な像を生み出しているのではないか、という指摘は鋭いように思える。
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資本主義という謎 (NHK出版新書 400)
(和書)2013年10月14日 00:37
水野 和夫, 大澤 真幸 NHK出版 2013年2月7日
格差を絶えず付け続ける運動が資本主義である。
それに対し格差を解消することを目指す平等と平和の哲学がある。
資本主義の中から格差を解消する対抗運動が生まれることは考えづらい。それは資本主義自体が格差をつくる永久運動としてしか存在意義がないからである。やはり理念を明確に持つことが不可欠であると思う。
〈理念)=〈格差の解消としての平等と平和の運動又はシステム〉
柄谷行人さんの交換様式がカール・ポランニーから来ていることを知った。互酬性、再分配、商品交換である。第四象限は格差の解消を目指すものである。そしてこういった象限による様式はプルードンから来ていることは知っていた。柄谷さんはこういったことを踏まえた上で格差の論理である〈資本主義=国家=ネーション〉に対し明確にそれらのつくる格差を解消しようとする平等であり平和の理念を示している。
この本の資本主義への対抗運動の論理には物足りなさを感じたがそれを補う意味でノーム・チョムスキーや柄谷行人が有益でした。 -
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世論調査に関わっていたこともあり、「世論」、「空気の研究」は読んだことがあったが、表現が難解で最後まで読み切ることができなかった。
今回、大澤真幸さんらの解説を通じて、ようやく内容を理解することができ、爽快であった。
それと同時に、国単位での集団心理の特性は、今も昔も大きくは変わらないのだなと改めて感じた。
昔と比べると我々が接するメディアの種類は増え、かつ、メインに接するメディアも新聞TVから移り変わり始めている。
そのため、皆が同じメディアから情報を得て、同じように意見を形成していく形ではなく、それぞれがそれぞれのメディアから情報を得て、それぞれの意見を形成していくようになってきたと思われる。
そういった状況変化を踏まえた上でも、集団心理のなびきやすやというか、何色にでもなりうる特性は現代でも変わらないのだなと、感じた。 -
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社会学の大澤先生の思考論。
考えるにあたり、書物の力を媒介とする点は、編集工学の「探究型読書」と似ている。
以下が主な命題。
・何を、いつ、どこで、いかに、なぜ考えるか
・ショックがあった思考が起動する・・・ジル・ドゥルーズの「不法侵入」
・が、常識の壁を破るのはなかなかに難しい
・思考を化学反応ととらえると触媒となるのは、他者と書物
・書物の力をいかに創造的に活用するかがテーマ
読んで考える、という観点で、テーマごとに下記の書物が取り上げられている。いずれも考え甲斐があるのは間違いない。また思考の共鳴を促すようにも編集されている。
社会科学:主題 時間・・・真木悠介「時間の比較社会
学」(ハイデガー「存在と時間」)、カール・マルクス「資本論」、ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」、エルンスト・カントーロヴィチ「「王の二つの身体」、マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
文学:主題 罪・・・夏目漱石「こころ」、ドストエフスキー「罪と罰」、赤坂真理「東京プリズン」、イアン・マキューアン「贖罪」、フィリップ・クローデル「ブロデックの報告書」
自然科学:主題 神・・・吉田洋一「零の発見」(春日真人「100年の難問はなぜ解けたのか」)、大栗博司「重力とは何か」、ヴィクトル・I・ストイキツァ「絵画の自意識」、山本義隆「磁力と重力の発見」、リチャード・ファインマン「光と物質のふしぎな理論」・ブライアン・グリーン「エレガントな宇宙」
なお、実務的に書くを扱った章も新鮮。「思考は書くことで完結する」は名言。
(原稿の依頼 執筆 公表 などの実務的問題) -
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なかなか骨太の内容の本なんだが、とても読みやすい。
4名の論客が、マスコミとメディアと世論の関係について、実に刺激的に論理を進めてくれている。しかも、その論理を進める際に引用しているのが、ちょいと昔の本なのだから、おもしろい。
・ハルバースタム著『メディアの権力』
・トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』
・ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』
・ブラッドベリ『華氏451』
それぞれの方の文章の後には、その内容に関する座談会の様子も収録されていて、これもまた私たちの理解を助けてくれる。
ここにあげられている本も読みたくなったなあ。
まったく本書の内容の紹介にはなっていないな。
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新書にして630ページの厚み。でも94册分(たぶん…巻末の索引で引用文献、数えてみました。)の社会学を巡る膨大な文献をエッセンスを詰め込みながら超コンパクトに社会学の歴史をツアーするガイドブックです。それは「社会学の歴史」こそが「社会学とは何か?」の答えになる、という学問だから。序文でも「社会学の歴史はそれ自体が社会学になる。そこに社会学という学問の特徴があるわけです。」と語っています。なるほど、ノーベル賞でも分野の確立している学問、例えば、物理学って何?とか経済学って何?とかは敢えて問わなくてもいいような気がしますが、社会学って何?についての答えは持っていないような気がして手にしました。出版社の編集者を生徒に講義形式でどんどん社会学の成立から今日までのタイムラインをたどっていくスタイルは気持ちよく「よくわかる!」感を作ってくれます。書き言葉だと反芻が必要な事例も、話し言葉と筆者の総括的視点をベースにした素材の整理によって、するする摂取できる気分になります。その総括性は、この学問の可能性として終章に向けて強調される〈偶有性〉というキーワードをゴールとして見据えているから、なのだと思います。少なくても、点としてでしか知らなかったホッブズとルソー、マルクスとフロイト、そして、社会学の歴史のビッグスリー、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、さらにルーマンとフーコーという人々の仕事がフレームとして見えたことは楽しかったです。星じゃなくて、星座を説明してもらった感じ、かな…でも、いくら教えてもらっても実際に夜空で星座わかんなくなっちゃうように、たぶんいろいろわかんなくなっちゃうと思いますが、夏の終わりの読書として満喫しました。
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どうやら社会学がブームのようだ。著者をはじめ古市憲寿氏や小熊英二氏等、若くてしかもテレビ映えのする学者が多く台頭してきている。書店の新書の棚を眺めても、「社会学」の文字は以外に目につく。政治学や 経済学に比べイデオロギー論にすり替わりにくく、哲学よりはとっつきやすい。手軽さ・気楽さと程よいアカデミックさが求められる新書のようなメディアにとってはうってつけの題材なのだろう。本書のボリュームは600ページ、価格は1,500円を超え、その意味では新書の枠を踏み越えてはいるが既に4版を重ねている。売れているのだ。なお本書は3年ほど前に出たちくま新書「社会学講義」中、著者が担当した第2章「理論社会学」の内容をほぼそのまま引き伸ばした内容となっているようだ。他社で出版したものとほぼ同じものを同一メディアで出すというのはこの世界ではノーマルなことなのだろうか、よくわからない。
おそらくレビューは多いと思われるため要約的な内容についてはそちらに譲るが、僕がこの本に興味を持った理由は「序」にあった次の一文に尽きる。
「社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になる」
これは何だろう?「ある対象に関するメタ的な論説がその対象と同一である」という物言いは、例の「全てのクレタ人は…」という古き良き自己言及パラドクスを否応なく想起させる。このようなパラドクスめいた命題を前提に持ってくるのは、論理学的には「私の議論は信用できない」と宣言するのと等価ではないか?私の素朴な脳細胞が素朴すぎるアラームを発する。しかし著者は「それこそが社会学という学問の特徴だ」とこともなげ。無論そんな素人レベルの議論が想定されているのではもちろんないだろうが、新書という形態を考えればこの議論の始め方はちょっと異様だ。何か危ない感じがする。しかし逆に考えれば、著者はそのようなリスキーなやり方を取らねばならぬほど、このことを強調したいはずなのだ。ではこの一文は何を意味するのだろう?社会学とはいったいどのようなものなのか?
と、大きな疑問を抱えながら読み進め、自分なりにこれが答えか?というものが得られたのは本当に最後の最後、ラスト数十ページというところ。ちなみにそこに至るまでにヴェーバーという大きなヤマがありそれなりのページが割かれているのだが、僕には正直ここの記述がダラダラと長すぎるように感じられた。確かに美しい。予定説と資本主義精神の論理的な繋がりについて、ここまで分かりやすく正面から突き詰めた議論は見たことがない。でも、僕には「序」のあのノリからして本書の最大の山場はここではないとしか感じられなかった。いやそれともやはり僕の読みがおかしかったのであり、社会学といえばなんとなくヴェーバーとか「プロ倫」だし、やっぱり彼の社会学的「神経症」が本書の議論の中心だったのだろうか?この本のラスト1/3は現代社会学の群雄割拠状態を俯瞰して終わるのだろうか?そんな不安が頭を離れなかった。そう、ルーマンが出てくるまでは。
ニクラス・ルーマン。20世紀後半に活躍したドイツ人社会学者であり、ユルゲン・ハーバーマスとの論争で名を上げた人物とのことだが、本当に恥ずかしながら全くの初見(ちなみにハーバーマスもタルコット・パーソンズも知っていたのは名前だけ)。しかし当該部分を一読して、なるほど著者の社会学は少なくとも現在はヴェーバーではなくルーマンにインスパイアされた部分が大きいと即座に感じられた。
ルーマンのシステム論は、システムが秩序のみならずその要素も自ら作り出すという「オートポイエーシス」という性質を前提とする理論。これによると「社会システム」内では、その要素である「コミュニケーション」がコミュニケーション間のネットワークより(主体である人間の意識の介在なしに)自律的に生産されている。つまり自分が自分自身で構成されているのであり、ここでは「xがxを用いて定義される」という自己言及の形式が取られている。ルーマンの章では他にも本書で頻出の「偶有性」というキーワードが出てくるが、より大きな存在感を占めるのはこの「自己言及」ではないかと思われる。「メタ社会学も社会学の要素である」という序文のあの文章と全く同型だ。
実はこれと似たタームがルーマンより前に出てくる。「論点先取」と「循環」だ。前者はパーソンズの「主意主義的行為理論」の批判の際に、後者は「状況の定義がその状況を現実化する」という「トマスの定理」を表現する際に用いられている。後者は「超越論的」という概念で乗り越えられることになっている(「原罪」とかいう、またぞろキリスト教上の概念が導入されておりやや辟易)が、僕には論理的な破綻を糊塗するレトリックに過ぎないように思える(だいたい定義からして思い切り循環論法だと思うのだが、著者はなぜかツッコまない)。だとすれば、序文のパラドクスめいた一文にも隠された否定的なニュアンスが込められているはずだとは考えられないだろうか。つまり、
「結局のところ、社会学という学問は今のところ自らのシステム上の不完全性を超越するための拠点を外部に発見できていない」
というのが、隠れた著者の主張なのではないか。
無論、そのようなシニシズムが本書の結論なのではない。ルーマンの「偶有性」を絶対的実在とみなし、これを梃子に相関主義を乗り越えようというのが最終的な提言だ。社会学というのは「まだやることが沢山ある学問である」と。
確かに「偶有性の保存」こそが社会学の本質であるとの宣言は力強く響く。しかし「偶有性」の手前にはもちろん「他者」という扱いづらい壁が立ちはだかっている。本書では割くべきスペースがなかったようだが、古き良き「他我問題」にも直結しかねないこの「他者」についての考察が著者の近著にあるようだ。機会があれば是非読んでみたい。 -
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三島由紀夫の自決については、あたかも腫れ物にさわるかのように、多くの識者が口をつぐんだままである。そんな中でこの問題に正面から取り組んだ大澤真幸の勇気にまずは拍手を送りたい。
冒頭で大澤はタイトルにもある「ふたつの謎」を提示する。一つ目はもちろん三島由紀夫の自決である。なぜあんな死に方をしたのか。二つ目は最後の作品となった『豊饒の海』四部作の不可解なエンディングである。どうしてあのような、それまでのストーリーを全て台無しにするかのような、自己否定的な結末に至ったのか。両者は同じ日付を刻印されており、それだけに無関係ではないはずだと大澤は推理する。
まず一つ目の謎について。1970年11月25日、三島由紀夫は学生戦士集団「盾の会」メンバー四人とともに市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地東部方面総監部に押し入り、バルコニーから決起を呼びかける演説をしたが聞き入れられず、その直後に自決した。自分の腹を切り、その直後に部下の森田必勝(まさかつ)に自分の首を刎ねさせた。さらに森田も切腹後に首を刎ねられ、三島の死は法の及ばない彼方へと葬り去られた。全ては計画的に実行されたものであり、決して思いつきの衝動的な行動ではなかった。
さらに二つ目の謎は、遺作となった『豊饒の海』四部作のエンディングである。この作品はいわゆる輪廻転生を基礎低音として奏でられるシンフォニーで、各巻は時代も登場人物も異なるのだが、各巻の主人公が実は世代を超えた同一人物であることに本多繁邦という人物は気づいている。ところが年老いた本多が第一巻の主人公故松枝清顕の恋人だった綾倉聡子を訪ねてみると、彼女は松枝などという男性は見たことも聞いたこともない、と言う。それまでのストーリーを全て白紙に戻すかのような自己破壊的なエンディングは、当初から予定されていたものではなかったと大澤は推理する。
第二章以降で大澤は、三島の諸作品を詳細に分析しながら、上の二つの謎を解く手がかりを見つけようとする。その分析は緻密であり、大澤の博識ぶりと三島への想いがにじみ出ているが、その一方で、三島の作品の分析が果たして三島の自決の動機に届くのかどうか、少々疑問にも思う。
>自衛隊の市ヶ谷駐屯地で三島がなそうとしていたことは、自らの文学が到達してしまった地点からの、全力疾走の逃避である。綾倉聡子は言う。「松枝清顕はいない」と。三島は、これに絶叫するように反論する。「いや、いる! 天皇陛下(=清顕)はいるんだ」と。天皇を、白鳥としての天皇を存在させるための最後の手続き、それが、あの割腹自殺だ。自らが武士と見立てた者たちの前での、自分の鉄の肉体の華々しい破壊。その否定の作用によって、天皇=清顕の存在(の幻想)が生まれるはずであった。
三島の人生と三島の作品が無関係だと言い切るつもりはない。しかし人生と作品が必ずしも一致する必要はない。それどころか文章の達人であればあるほど、思想の大家であればあるほど、その行為は言葉とは裏腹に貧弱な場合が多いことをわれわれは知っている。逆に行為で人生を表現する人物は言葉を使おうとはしない。言葉は常に嘘になる危険をはらんでいるからだ。
まず三島の人生があり、そこから彼の作品を解釈しようとするのなら分かる。しかし彼の作品から、彼の人生を解釈し直そうとするのはいかがなものか。彼の作品をいくら解釈したところで、それは彼が自決した理由にはなりえないだろう。虚構内での彼の思考の変遷と、現実界での彼の行動の動機には接点がない。両者は異なる次元に属している。であればむしろまず三島の作品を忘れて、虚心坦懐に彼の人生を見つめ直すべきなのではないか。
一般論によれば、三島の自決はクーデターに失敗したためということになっている(大澤も基本的にはその路線を踏襲しているように見える)。なぜ成功する見込みのないクーデターなどという愚行を、三島ほどの知性の持ち主が行なったのか。それが分からないと大澤は言う。
しかし自分が思うに、三島が自決したのはクーデターに失敗したからではない。クーデターはカムフラージュに過ぎない。三島は最初から自決するつもりだった。自決は結果ではなく目的であり、クーデターは演出に過ぎない。もしもクーデターが成功していたら、三島は途方に暮れていたであろう。もしかするとそれでも自決していたかも知れない。全ては自決ありきのパフォーマンスであった。
大澤は「三島ほどの知性の持ち主が」と言っているが、問題なのは知性と愚行の乖離ではないと思う。大澤自身ハイデッガーを引き合いに出しているように、言葉と行為に大きな乖離が生じてしまうことは、とりわけ巨大な知性の持ち主においては珍しいことではない。いわゆる言行不一致の問題である。だから三島の言っていることとやっていることのあいだに隔たりがあるというのであれば、それほど不思議ではない。そうではなくて不思議なのは、三島が自分の思想に行為を隷属させてしまったことである。言葉だけでなく行為までも実行してしまったことである。
三島由紀夫は小説家であった。小説家とは言葉を生業にする者である。彼らは言葉を徹底的に洗練させる代償として、もはや現実から離陸して言葉だけをもてあそぶようになる。彼らにとって行為はどうでもいい。後に残るのは言葉だけである。かくして言葉を生業とする者に限って、言葉と行為が乖離するというジレンマが発生する。いわゆる言行不一致の問題は、とりわけ巨大な知性の持ち主においては避けられない。大澤が指摘しているハイデッガーにとどまらず、そのような例は枚挙にいとまがない。
だからもしも三島の「言っていること」と「やっていること」が一致していないというのであれば、それは大して不思議なことではない。話は逆である。「言っていること」と「やっていること」に、三島が無理やり筋を通そうとしたことが不可解なのだ。三島ほどの小説家が、文学者が、言葉だけでは満足せずに、なぜ言葉を実行するという愚行(?)に走ってしまったのか。
しかも三島は、少なくとも若いころは、必ずしも天皇崇拝の立場に立っていたわけではなかった。むしろ戦争を冷ややかな目で見ていたらしいという証言を、大澤も指摘している。後年三島が肉体改造に励んでいたのは有名な事実だが、もともと彼はひ弱な体質で運動神経も悪く、そのことに劣等感を抱いていた。若いころに兵役を免除されたときには大喜びしたというエピソードも残っている。
すると次のような仮説が成り立たないだろうか。
三島はエリートであり、文学者としては早熟の天才だったが、その一方で、自分の肉体的な弱さに対し劣等感を抱いていた。強くなりたいとひそかに思っていた。その思いがやがて肉体改造という形で実行に移される。彼は言葉よりも行為を重視するようになる。そしてもはや小説家としての自分よりも、革命家としての自分に重きを置くようになってゆく。
要するに三島の自決は、文学との決別である。彼は自分が強い人間であることを証明するために、あのようなパフォーマンスを実行した。二つ目の謎、遺作となった『豊饒の海』の最後のどんでん返しは、なるほど予定されたものではなかっただろうが、文学の否定、言葉の否定としてのエンディングにふさわしいものではないだろうか。あのエンディングによって彼は今まで生きてきた小説家としての自分を、自分が書いてきた全作品を否定したのだ。
しかし三島の自決は図らずも、彼の強さではなく弱さの証明になってしまった。本当に強い人間は、自分の強さを証明しようとしたりはしない。最後の最後で、思いとどまるという選択肢はなかったのだろうか。刃の冷たい切っ先が腹部に触れたときに、自分の行為にそれほどの価値があるのかと自問することはなかったのだろうか。まだまだいい作品を書き続けることができるかも知れない小説家としての自分を生かすために、時代錯誤もはなはだしい革命家としての自分を三島は断念するべきだったのではないか。紙一重の差で言葉ではなく行為を選んでしまった三島の最後の選択が、個人的には残念でならない。 -
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哲学とは疑うことである。常識を疑い、道徳を疑い、科学を疑い、人間を疑う。要するにありとあらゆる先入観を哲学は疑う。だが言うまでもなく、社会に深く根付いている先入観ほど疑うことが難しい。
例えば資本主義というイデオロギーは、最も疑うのが難しい先入観の一つであろう。登校を拒否する反体制の不良でさえ弱者からカネを巻き上げ、道徳に囚われない殺し屋でさえ報酬を要求する世の中なのだから。「地獄の沙汰もカネ次第」という言い回しにもあるように、われわれは貨幣至上主義に染まっておりしかもそのことに気づいていない。
だが実のところ貨幣そのものに価値はない。価値のない貨幣がなぜ流通し続けるのか。そのパラドックスは岩井克人が『貨幣論』で鋭く分析しているところであるが、大澤はメディチ家、花田清輝、ベラスケス、モーツァルト、フロイト、ディズニーランド、等々を題材にとり、多少強引とも思える手腕で議論を展開する。その博識ぶりには舌を巻くしかない。
最も興味深かったのは資本主義と環境倫理の関係を論じた最終章であった。大澤によれば資本主義の運動は、人間の同一性を貧困化し、それ以外の存在者との境界線を曖昧にする。その結果、人間以外のあらゆる存在者が権利を持っているかのような社会観が形成されることになる。環境倫理とはその結果であって、人間の道徳的進化の賜物ではない。だがそのような環境倫理は最終的には失効せざるをえない。なぜならあらゆる存在者が権利を持つということは、あらゆる存在者が責任を持つということであり、そのような世界では責任という概念がそもそも無効になってしまうのだから。
少々こじつけと思われるような箇所も散見されるが、そこがまたこの人の魅力でもあるのだろう。知的刺激に飢えている読者層には楽しめる一冊かも知れない。 -
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【未知満ちた国の成り立ち】『不思議なキリスト教』でも対談を行った東京工業大学名誉教授の橋爪大三郎と社会学者の大澤真幸が,ずばりアメリカをテーマとして対談した作品。知っているようで知らないその国の根幹を,キリスト教やプラグマティズムを軸として語り明かしていきます。
あとがきに記されているとおり,アメリカの「急所」を知る上で大変参考になる一冊だと思います。目に見えないものとしてどうしても取っ付きづらさが伴う宗教・哲学面に光を当てることで,多くの方にとって新鮮なアメリカ像が浮かんでくるのではないかと思います。
~プラグマティズムは、宗教のことを考えている。さまざまなキリスト教の宗派(教会)と自然科学とを考え、これが調和し共存する、アメリカという空間をどう設計すればよいかと考えているのです。それは、宗教であって宗教でなく、哲学であって哲学でなく、科学であって科学でない。ひとつのアメリカ的生き方の提案なんです。~
対談ものは言葉が読みやすいのも☆5つ