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「現実から逃避」するのではなく、むしろ「現実へと逃避」する者たち──。彼らはいったい何を求めているのか。戦後の「理想の時代」から、70年代以降の「虚構の時代」を経て、95年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。大澤社会学・最新の地平。
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Posted by ブクログ
読み進めてくうちに今の時代の感覚に近づいてきてる感ありました。すべて理解できたわけではないのでまたちょくちょく読み返したいです。
大澤「先輩」の書. 随分昔に読んだので詳細は覚えていないのだが,今の自分の思想の根本にはこの本があるといっても過言ではない. 今生きる時代を考えるのには不可欠の書であるといえる.
見田宗介をうけ、さらに現代に対応している。 がっかりする新書ではない。 前半、「現実への逃避」が印象的。 後半の実践に関する記述に、「責任と赦し」とのつながりがある。
「あなたはすべての仮面ライダーを破壊するものです。創造は破壊からしか生まれませんからね。残念ですが…」 突然だが、この「仮面ライダーディケイド」第一話「ライダー大戦」で紅渡が主人公の門矢士に言った台詞が、やけに本書が示唆する時代背景の一面を表している。 今までいろいろ電車やバスの中でちょくち...続きを読むょく読んでいたものの一冊が、大澤真幸(2008)『不可能性の時代』(岩波書店[岩波新書1122])。 人は人生や社会など、身の回りのものや現象に意味づけを行いながら生きている。その意味づけを組み合わせて、大きな意味づけを作り出すことができる。 大澤は本書で1945年から現在までの様々な事象を意味づけして思想的な展開を繰り広げる。それは、敗戦後のアメリカを理想とした「理想の時代」、1970年代以降の理想的な価値観が喪失し始め、相対化が進む「虚構の時代」、1995年(オウム真理教事件)を境とした「不可能性の時代」と変遷する。 現在の「不可能性の時代」では、直接性のコミュニケーションを強要され、自己の行為の正当性・正統性を担保する価値基準を与える(と自己が想定している)「第三者の審級」なるものが立ち表れてこない。その「第三者の審級」から「見られていない」ことへの不安が、リストカットなどの極限のリアルを求める更なる<現実への逃避>とバーチャルな世界とデータベース消費に進む<極度の虚構化>の二極化を同時に進行させている。この状況下で「第三者の審級」を見ようものならば、二極化の徹底的な貫徹、即ち<破壊>するしかない。 大澤は「Six Degrees of Separation(六次の隔たり)」のような<間‐直接的>な関係の構築にこの「不可能性の時代」を乗り越える視座を見出そうとするが、逆に言えば、そうでもしない限り、<破壊>による新たな世界の創造しか、乗り越えることが難しいのだろう。
まだ3ヶ月以上あるのでまだ言い切れない部分がありますが、今年一番といっても良いほどの読み応えがある本です。新書と侮るなかれ。価格と読みやすさから得られる新しい地平の広さを思えばこそ言えます。社会科学系の本において今年一番の衝撃的な指摘と解説をふくんだ本でした。恥ずかしながら著者である大澤真幸氏の名前...続きを読むはこの本で初めて知りました。 バブル経済崩壊後に長引き、「失われた10年」と比喩されたり、閉塞感や不景気に対して突破感をもてない戦後最長の拡大成長期をへて、たどりついた2008年という今の時代。しかし、著者・大澤真幸氏は現在の日本がなぜこうした状況にあるのかを経済の拡大か停滞かと関係なく、日本が戦後の数十年間にどのような社会的変遷をへてたどりつき、そこでなぜ私たちがこうした閉塞感や不安や不満に囲まれているのかを、著者は鮮やかに解きほぐしていきます。 社会学を勉強したことのない私にとっては「オタク」という言葉が、いまだにかなり狭い分野に異常なまでに固執して専門知識を積み重ねていく、閉鎖的な社会で悦楽を見いだすアキバ系を想像してしまいます。しかし、今ではまったく異なり、自分たちの好む世界が、狭く、その狭さゆえに同じ関心を持つものとは融和しやすい。それが、現実世界での物理的な生身の人間関係で当然とされる「差異性」が排除されていると著者は指摘します。 ★《印象的文章》① 「オタクが交際を求める他者は、一般に、同じ「趣味」を共有するオタク仲間である。つまり、それは、類似性ーそれぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性ーを、本質とする他者である。ところで、他者の他者たる所以は、差異性にこそある。他者についての経験は、何であれ、差異をめぐる経験である。そうであるとすれば、オタクが欲求している他者とは、他者性を抜き取った他者である。」(P.110) この指摘が私にはショックでした。そうであるならばSNSの基幹的な機能であるコミュニティもオタクと同じではないかと思い、そこから考えを広げていけば、バーチャルな世界だけでなく、専門知識による即戦力性をもとめる組織(政府や企業など)でも暗に求められているのも、差異性を当然とした他者ではなく、他者性のない他者なのではないかとさえ思えてきたからです。しかも、大澤氏の指摘は人間が一番敏感である人間関係だけでなく、日常生活の何気ない一幕にもこうした「当然存在すべきモノの排除」が垣間見られることを列挙します。 ★《印象的文章》② 「われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビールなど、「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き取った、「××」の超虚構化の産物である。こうした「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉が欲しい。ただし、〈他者〉ではない限りで、というわけである。」(P.193) この文章が、私たちは生きながらえる上で日々書かすことのできない食料をいただく「食べる」という行為と密接に関連していることを明らかにします。確かに××抜きの××って多いんですし、それに魅了されて消費している自分もいるのです。筆者の文章に登場するオタク像とは縁遠いと思っていた自分が、実はこの本に描かれている現代人そのものであることと驚かされたのです。 人間が求めるものが「××抜きの××」という点で類似性があることを人間関係においても、生存の密接する食品への嗜好性にも、それらの底流をなす発想にも見いだせることを指摘した著者である大澤真幸氏。本の後半にすすむにつれて、「問題」だと指摘した現代社会を包括的にみて分析するものから、問題を解決して閉塞感のただよう日本社会を個々人がどのような理解をもとに突破していけるのかという一大仮説の構築にむかっていきます。 人間関係から生じる恐怖や不安へのおそれから類似性を他者にもとめつつも、リストカットや格闘技番組が視聴率をとるなど生身の肉体を傷つけ、それを実感する行動ももつ現代人。一見、驚異的なスピードで実現したIT社会によって仮想現実が切り開いた市場もある一方で、まったくベクトルが正反対である自傷行為や肉体の衝突という身体性をかなりつよく意識できることが併存していること。それに対してどうあるべきかと一つの答えを見いだせないもどかしさを著者は、リスク社会を引き合いに出して述べます。 ★《印象的文章》③ 「リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないーいく傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至は曲に連なるのか、いかなる科学的予想も確定的ではない。 学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しをみせるどころか、全く逆である。時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向にある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。 さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏付けをもっているという幻想を持つこともできない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしかなしとげられないのだ。」(P.135) さまざまな問題に対して、だれをも説得させ、理論的に屈服させることのできるほど強烈な通説をてにいれることができない問題が多く、ひとつの解や決断に到達することができない。こうした社会問題が多いことからこの本のタイトルである「不可能性」の意味が不気味に浮かび上がってきます。そして、大澤氏は社会を俯瞰していた高い視点から、一気に個人個人の間に存在する人間関係のレベルにまで降下してきて、次のように言います。 ★《印象的文章》④ 「〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。」(P.192) 最終的に〈他者〉とのつながりをどのようにつくりだしていくのかを体験できない人々が増えているのであるとすれば、ヒトが〈他者〉に関心を抱く瞬間にはどのような勘定が存在するかをもう一度確認してみなくてはなりません。大澤氏は、愛と憎悪という相反するかにみえる勘定の同居が、不可能性を突破する方法である解説しています。自己愛や家族愛など、広大な社会の中において一個人の関係性を内向きにとじこまる方向に作用する「愛」と、攻撃的なまでに関係性を放射する「憎悪」。 ベクトルがまったく真逆であるこの2つの同居がなしえる行動を、著者は、河野義之氏(松本サリン事件被害者)と中村哲氏(ペシャワール会代表)に見いだします。それまでに語られてきた問題の絶望的な新国際に比べ、突破口となるであろう事例紹介としてはやや力が弱い気もしますが、それだけ問題が深刻であるなか、効果的な行動のともなう療法を、発見しきれていないとも読み取れます。 この本には、マンガやアニメ、テレビゲームなどから社会の動向やゆるやかな変化を読み取っている部分があるため、そうしたものに触れる機会がさほど多くない人にとっては心に落とし込むまでに時間がかかる部分もあるかもしれません。しかし、そうした狭く小さな分野を一世界として没入するオタク的世界が無数に寄り集まってできているのが、私たちの生きている社会であることもまた事実です。そのことを知るだけでも、そして自分がそうした世界に生きていることでなぜ閉塞感や限界を感じるのかをさぐるてがかりを得ることも、この本を読むことでできると思うのです。 大学時代に、坂本義和氏の『相対化の時代』を読んで世界を見る目が広がった感覚を覚えることがありました。それから10年を経て、仕事に追われることで世の中で起きている個々の事件をしることはできても、それらの出来事を流れと解釈する視点は無くしてしまっていました。そうした俯瞰できる視野を与えてくれたことに、いまはただただ感謝です。 【印象的文章】(番外編) あげればキリがないほど、説得力ある文章がならぶ本作ですが、その中でも抜きん出たインパクトを持っていたものを書き出しておきます。 ●「東条(英機)は、MPが逮捕に来るとピストルで自殺を試みるも、死ねなかった。おまけに、「東条、これを持って」とピストルを握らされて写真を撮られる無様さであった。彼は、氏名不詳のGIからの輸血で一命を取り留める。(中略)「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓諭していたこの軍人が自死しなかったこと、しかも未遂に終わった自殺は刀ではなく、ピストルによるものだったこと。(中略)東条の身体を走る米人の血液が、敗戦という断絶が、いかに自然な連続性の中で生じているかを象徴してはいないだろうか。」(P.25) ●「「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力を与えているのは、格差という現状そのものではなく、来るべき救済を読み取りうる視点の不在である。」(P.128) ●「イスラム世界の原理主義に、西洋近代の反対物ではなく、西洋近代の真実の姿を見るべきではないか。だが、両者は、どのような意味でつながっているのか。どのような意味で、原理主義が西洋近代の真実なのか」(P.230) ●「軍は、途中で、ある老女に出会った。彼女は、右手に火を、左手に水をもってさまよい歩いていた。何をしているのかという問いに対する彼女の答えはこうであった。火は天国を焼き尽くすためにのものであり、水は地獄の業火を消し去るためのものだ、と。「なぜなら、私は、人が天国での報酬への期待や地獄での恐怖から善を成すことを望まない。ただ、神への愛のためにのみそうして欲しい」と。天国と地獄を無化してしまっているのだから、老女の態度は無神論的である。だが、それは信仰の否定によってではなく、信仰の徹底かによってこそ導かれてもいる。」(P.256)
僕の大澤真幸の出会いは、この一冊からだった。 要するに、つい最近なのだ。 この本から大澤真幸の本をいくつか読んできたが、 ダントツにこの本は読み易く書かれている。でもその中にも大澤社会学のキーワードである「第三者の審級」だったり「アイロニカルな没入」だったり<他者>といったものが 散りばめられてい...続きを読むている。そして何よりも、興味が湧くような具体的な話題の数々から論を発展させているので、読んでいて飽きない。 大澤真幸入門に最適な一冊だと思う。
時代を描くことのうまさ。社会学者というより哲学者だと思うし、思想家だと思う。さすが「社会学の社会学」という文章を書いただけある。
戦後から時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つにわけてその時代の特徴や人々が何を求めていたのかを分析していました。 社会学の新書ということもあって専門的な言い回しが多く難しく感じられましたが、映画や小説、アニメや漫画など身近な作品が紹介されていて楽しく読めました。 その時...続きを読む代の事件から加害者の心理を分析し、生活を豊かにすることや社会的な地位などの「理想」を求める時代から、現実では起こり得ることのない「虚構」を求める時代への移行を経て、現実への逃避と極端な虚構化といった全く異なるものを求める「不可能性の時代」への疑問点を提示して、その複雑さを説明するといった内容でした。
人間の一つの精神的活動の出発点であり終着点でもある〈現実〉へのコミットが不可能である現代において、どのようにして不可能性に挑み、その〈現実〉へと至る道を獲得するか。 最終的には、イコール憎しみとなる愛、信仰の徹底による無神論を解決とする。けど、私たちは、そうした情動の極限に耐えうるのか。不可能性の不...続きを読む安に立ち向かう術として私たちはその〈分裂〉を経験しなければならないのだとすれば、もう〈現実〉などいらないのではないか。
※ 超単純化した、独断的な説明です。 本書のテーマは、終戦から現在までの「戦後日本」の時代の移り変わりです。 日本人が時代ごとにどんな生き方をしてきたか?また、今どんな生き方をしようとしているのか? この疑問に答えてみた、という本です。 本書の内容に関して、まず人が生き方を決めるときの「基準」...続きを読む・「指針」について考えてみます。 かつて日本では、その基準や指針の典型的なものは「親父」でした。 これについては、今NHKでやってる『梅ちゃん先生』なんか見てると、少しはイメージできるかと思います。 「親父」が家族の生き方について、これは良い・あれは悪い、と決めるポジションに就いている。 だいたい昭和の間は、子どもは「恐い親父」の目を気にしながら怒られないようにする。 それが大人になると、「あの親父だったら、私がこんなことしたら絶対に反対するだろうな」「あの会社に就職するなら、父や家族も悪く思うまい」と自分でいろいろ考えたりして、あまり周りと不和にならないようにしながら、どう生きるかを決めたりするわけです。 あと、他にわかりやすいのは「世間」。 「自分の子どもが悪さしたら、世間様に申し訳が立たない」と言って、やっぱり世間の目を気にする。 また、仕事をクビになったり離婚したりした時も、「世間体」が悪くなって非常に居心地が悪くなる。 付け加えると、「末は博士か大臣か」みたいな言葉が通用していた背景もそうです。個々人が偉いと思うがどうかは無関係に、「世間で偉いと思われてるから博士や大臣は偉いんや」といったカンジで、世間の評価で物事をみるようになる。 さらに言うと、欧米では基本的に、キリスト教の「神」が生きる指針になってますね。 熱心な信者の親に教えられる、聖書に書いてある、教会で牧師の話を聞く、そういう子どもの時からの経験で、「神様は、これは正しい・これは悪いというに違いない。じゃあ、正しいことをして、悪いことはしないようにしよう」と考える。 このように、例として挙げた「親父」、「世間」そして「神」。 私たちの中には、どうやらこういった「生きる指針」みたいなものがあるのではないか。これが本書のひとつのベースとなっています。 何かの指針に従って、私の行いが良いか・悪いか、判断する。 良い行いをずっと繰り返して行けば、自分はどんどん「認められた」存在になっていく。 だから、もっと「認められる」ように、疲れていようがしんどかろうが頑張り続ける。 いつもとは言いませんが、私たちは誰しも、そんな風に生きていると実感する時がないでしょうか。何かの生きる指針があり、その通りに進んでいれば「良い結果」が待っていそうだ、と考えて生きていたりするわけです。 (しかしながら日本では、昔ながらの「親父」や「世間」のチカラは今や地に落ちていますし、そもそもキリストのような絶対的な「神」も存在したことがありません。) さて、そこで次にくる本書のテーマは、「現在、私たちはどんな指針をもって生きているのか?というか、そもそも今、そんな指針を本当にもっているのだろうか?」という疑問です。 かつては、多少なりとも“皆で共有できる”ような「生きる指針」らしきものがあった。 今はどうか? 見渡してみると、個人レベルでは多種多様な「指針」をもってはいそうです。しかし、かつてのように“皆で共有できる”ような「指針」は、今やどこにも見当たらないのではないか。そして、仮にどこにも見当たらないとすれば、①そのような「指針」がないことで何かの問題が発生しないか?②仮に問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか? これが本書のメインの問題意識と言えます。 では、①“皆で共有できる”ような「生きる指針」が無いことで何かの問題が発生しないか?これを考えてみましょう。 第一に、皆が共有できるような指針・誰しもが認めるような指針が無く、「まっとうな生き方」が一体何なのかわからなくなってしまったら、私たちは自分の「生き方」を自分で決めるしかありません。 こう言うと、「いや、昔から自分で自分の生き方を決めてたはずだろ?」と思う方もいるでしょう。しかし、これは単に私の直感ですが、昔は「良い学校」に入って「良い会社」に入れば一生安泰、みたいなわかりやすい「生き方」の人生モデルがあったのではないでしょうか。 もちろん、成功とみなされる「良い学校」「良い会社」への入学・入社は、誰しもが出来るものでは無かったわけですが(というか、良い学校・良い会社みたいな考えには明らかに差別的な意識が含まれているので、非常に不愉快な考え方ですが・・・)、少なくとも「目指すべきもの」はあったわけです。学生時代も社会人になってからも。 さらには、人生のモデルケースが一つでも確定していれば、その「まっとうな生き方」(もちろん今となっては幻想ですよ)をチラチラ確認しながら、「自分はまだマイホームは持てないな」「社長は無理でも部長には何とかなりたいな」とか考えられるわけです。なぜなら、確かな人生モデルがあれば、目指すべき「指針」がわかりやすいですからね。 しかし、今やそれが無い。「こうすれば無難」というような生き方の指針は、どこにも見当たらなくなってしまいました(それに気づくかどうかはさておき)。 そこで、「生き方は自分で決めるしかない!」と思い至ることになるわけですが、こうなるとまさしく自己責任の重みがずしりと私たちに圧し掛かってきます。まず、「何が良い生き方なのか」わからないのですから、どう生きたらいいのか途方に暮れたり、決められなくて悩んだりする人が多くなります。次いで、結局決められず、ただ時間だけが過ぎて行ってしまう人も増えますね。 一方で、いったん「こう生きよう!」と決めて就職したり結婚したりしたとしても、「いや、実はまだ他に自分の歩むべき道があるんじゃないか!?」「もっと素晴らしい他の生き方があるんじゃないか!?」という思いが、いつまで経っても消えなくなります。 さらには、自分が自由に決めたその結果として、不幸にも将来、「人生、失敗した・・・」と思う境遇に陥ってしまったら、それは、自己決定したがゆえにまるまる自己責任となります。悪いのは自分だとはっきりしてますから、精神的ダメージも以前に増して大きいものとなるでしょう。 つまり現在、人生のわかりやすいモデルを失ったがゆえに、生きる上でどうしても「不安」につきまとわれるようになったわけです。生き方を決めることは、他の選択肢を捨てるリスクを必ず背負うわけですから、不安になるのも至って当然と言えます。 また、人生のわかりやすいモデルの喪失により、生き方は「人それぞれ」になります。ライフスタイルや「幸せって何か?」といった価値観など、かつてないほど多様化します。共通点がないのが普通になり、個々人がどんどんバラバラになっていきます。 そうして価値観がバラバラになってくると、深刻な機能不全に陥るのが「政治」。皆の考え方がバラバラになると、当然ですが「何を正しいと考えるか」一致点を見つけることが困難になります。 このような段階に至ると、個人レベルでも社会レベルでも、どうにもし難い「閉塞感」に悩まされることになります。現代をそのような時代であると認識するのが、本書の議論の一つです。 そしてその「閉塞」から、さらに困難な問題が生じます。例えば、「何かを生み出そう」とするのではなく、「とにかく今のこのどうしようもない現実をぶっ壊そう」と考える人が増えていくということです。 「ぶっ壊そう」と考える人が増える。これは少しわかりにくいと思いますが、政治の世界でみるとよくわかります。 昨今の政治家で、稀に見る高い支持を得たのは、「小泉純一郎」と「橋下徹」です。この二人は、明確に「この政策が正しい」「この政策でもっと国は良くなる」と言って、人気になったのではありません。 そうではなく、「自民党をぶっ壊す!」「大阪府庁と市役所をぶっ壊す!」。これらのスローガンに私たちは熱狂したわけですよ。 この理由は、明確ですね。「何を正しいとするか」は人それぞれで支持を集められない。しかし、私たちに共通するのは「でも、現実はひどい状態だ」という思いですから、「その現実をぶっ壊して、変えましょう!」という叫びには大いにうなずくわけです。かといって、「壊してその後どうすんの?」という疑問は皆スルーしてしまうわけですが・・・。 そして、「破壊」の後も相も変わらず「閉塞感」が待っている。でも、私たちは「ぶっ壊す」と言ってる人たちにばかり引き付けられてしまいます。そこに「希望の未来」は無いのに、です。 ここまでが、①の問題です。では最後、②問題があったら、私たちはどう対処すればいいのか? 3.11という苛酷な現実、つまり圧倒的な「破壊」を経験してしまった私たちは、とうとう「とことん何かが壊れても、私たちの生活や現実は良くならない。むしろどんどん悪くなる」と知ってしまったわけです。(もちろん、それに気づかないふりをしてる人たちは、世間に大勢おりますが・・・) そこで、どうするか?それは、もはや既存の「生きる指針」を“超えて”、「正しいと思うこと」を自己判断してやり遂げることです。 例えば、私たちが就職やバイト等で働き始めたら、まずは職場の「上司」を手本にして仕事を覚えたり、「上司」に良い評価をもらえるように仕事したりします。 しかし、そんな「上司」でも出来ない仕事を自分がしたいとき、どうすればいいか。 そのときは、もはや手本にはならないわけですから、仕事上の能力で「上司」を超えるしかありません。それまでの仕事上の経験を生かしながら、自己責任・自己判断で仕事するしかないのです。 「閉塞」を打破するために、誰かに守ってもらったり保証してもらったりすることなく、ただ現実に対応すること。本書の結論に照らすと、さしあたって私たちに出来ることはそれくらいではないでしょうか。(了) なお、「第三者の審級」「物語る権利」「真理への執着」「ムーゼルマン」等といった難解な用語は、速やかにスルーさせて頂きました。もちろん明示してないだけで、それらを意識してレビューしておりますが。
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