大澤真幸のレビュー一覧
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特に深い動機もなく、書店で「新たな【自由】の概念を創造する」というオビに惹かれ購入しました。本書では4つの論文が掲載されていて、それぞれ「自由論」「責任論」「公共論」「資本主義論」と解釈しました。それぞれの論文が実は深いところで繋がっているので全部読むことをオススメしますし、世界中の賢者のアイデアを借用しつつも、著者独自の用語を紹介しながら「大澤ワールド」を展開されていました。
内容ですが、私は哲学や社会学などの専門家ではないため、正直読み進めるのがかなりきつく、1回読み通しただけでは表面をなぞっているだけかもしれないと感じ、さっそく2度目を読み始めました。ただしじっくりではなく折り目をつけたページだけを再び重点的に読む方法です。その意味では良質(最高級と言わないと失礼かもしれません)のスルメのような書籍かもしれません。
著者が冒頭にも述べているように、1章の自由論と4章の資本主義論が比較的読みやすいのに対して、2章の責任論、3章の公共論はややハードルが高く感じました。ただ一貫して感じたのは、著者による陰陽的というか仏教的な論理展開でしょうか。つまり光なくして影はないというか、色即是空のような展開です。一例を挙げると、自由と拘束は対立的だと考えられているが、実は拘束のない自由は存在できないのだ、という主張です。そしてゆきすぎた自由は牢獄になってしまうこと(ミヒャエル・エンデの寓話を使って解説)、よって人間は環境保護倫理のように自由を拘束する存在を望んで求めるようになる、ということでしょう。このパターンは随所に見られました。また自分の中に実は他者性も内在している、という主張がなされていますが、これも個人的には仏教的(特に密教的)なニュアンスを感じました。
繰り返しになりますが、この手の書籍に慣れていない人はかなり苦戦する可能性もありますが、それこそ最高級のスルメを手に入れたと思って、何度も噛んでいると深い味が出てくる本なのだと思います。とても満足しています。 -
Posted by ブクログ
「フィクションによってこそ、経験の本質的な構造、現象の有意味性が際立って表現されることがある」
ゴジラやウルトラマンの象徴性。
力道山と戦った木村政彦は、なぜ負けたか。
あさま山荘事件とDEATH NOTEを善悪の反転から考えてみると。
おそ松さんとバートルビーとベルーフ。
君の名は。とこの世界の片隅にと、辺境。
どれも読んでいて面白く、もっと講義聞きたいなぁと思わされた。
サブカルチャーを扱ったからというだけではなく、どうして人気が出るのか、そこには私たちのその時の生き方や思想が関係しているのだと思った。
「普通に考えると、殺人は悪いことであると、みんな理解している。しかし悪いことであればあるほど、それを平気で実行できることが、崇高に見えてくる。みんな実行できないような悪を、平気で行うことが最高の善である」
先日、人殺しを自慢していた人にそのシーンを詳しく演じてもらうと、破綻してくるという映画の話を聞いた。
自分の役割が変わったとき、それを語れても演じられない意味と、この引用がなんだか結びついた。
「みんな玉音放送を聴いて『難しい言葉でよく聴こえなかったけど、戦争が終わったということらしい』と、話し合っている。やれやれ、やっと終わったというようなことを、話しているわけです。そこに突然すずが怒り出す」シーンの違和感。
それまでのすずから、「最後の一人まで戦うんではなかったのか」という言葉が発せられる、トーンの違いはよく分かる。
けれど、自分の生死が左右されることが「日常」化していく中で、突如としてトップダウンが覆されることの、言いようのない怒りもなんだか分からなくはないのだ。
すずは、単に従順な人ではないのだと思う。穏やかに生きるために、我慢の視点をずらして流せる人。
結末の在り方が人の本質を巻き込むのは、木村政彦の章に近いものを感じた。 -
Posted by ブクログ
自分がいまだに通読したことのない『存在と時間』についての読みをこの一冊で包括的に提供してくれた、(単行本ではあるが)新書的アプローチの本。注釈を中心に国内外の最新のハイデガー研究の成果が書かれており、読者としては信用がおける。
要約の仕方については論争的な部分もあることも含めて著者自身が丁寧に紹介しているが、素人目にはあまりその点はわからない。とはいえ木田元の「未完問題」アプローチがあることは知っており、それゆえ「未完のものをどう論ずるのか」という先入見が自分にも多少残存していたので、その懸念をかなり早い段階で棄却してくれた点は読み進める上でありがたかった。
ハイデガー哲学に必ずしも「(健常な)身体」概念を要請する必要はないこと、哲学における「自己物語」の話が現存在の同一性を認定する上で重要であることなど、20世紀哲学のあれこれを読みながらハイデガーをつまみ食いする上でしばしば引っかかっていたことをしっかり説明してくれたのも、よかった。
もしかして、このハイデガー本において示される自己論は、キルケゴールの実存主義哲学やメルロ=ポンティの身体コミの現象学より、プラグマティズム思想家兼社会心理学者であるジョージ・ハーバート・ミードの『行為の哲学』や、その後(主にイギリスの)質的社会心理学で展開された言説心理学(Discursive Psychology)のとる立場に近しいものとして読み直せるのではないか。そういう気づきを得させてもらった。それは著者が「ノンバイナリに気づく一人の男性」の事例について述べた時、ジェンダー論における哲学的アプローチとしてハイデガー哲学を参照したことで、より鮮明になったように思われる。 -
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ネタバレタイトルは「おどろきのウクライナ」であるが、話はウクライナにとどまらない。「不思議なキリスト教」以来、数々の対談で謎を解き明かしてきた橋爪、大澤両氏がこの本で語り始めるのは、ロシアによるウクライナ侵攻前からであり、話はウクライナの戦争の背景からポスト・ウクライナ戦争まで及んでいる。今の混迷する世界について考えるために少しでも見通しを持ちたいのなら、ぜひお勧めする書である。アメリカ、ロシア、中国が今何を考え、どこへ進もうとしているのか、分かりやすく語っている。
今は大きく分けて二つの資本主義が生き残っている。アメリカに代表されるリベラルな資本主義と中国の権威主義的な資本主義である。中国が成功する以前には民主主義に基づかない資本主義はなかった。しかし、中国は国家(あるいは共産党)の権威のもとに資本主義を進め成功している。今、自由、平等という価値が危機に瀕している。これを守るためには真剣に中国のデカップリング(市場の切り離し)を進めるべきだとお二人は強調する。
中国の一帯一路政策は強力で、中国はアジア、中東、アフリカ、ヨーロッパへと進出している。果たしてデカップリングは可能なのか?いや、可能不可能を言っている場合ではない、自由が危機に瀕しているのだと。そのために知恵を注ぐべきだと。
新書としては少し大部であるが、複雑な情勢をわかりやすく説明することに心を砕いている。これからの日々を楽観できる状況にはない今の時代に、この本を読んでしっかりと脳味噌を鍛えておきたい。 -
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わたしたちは、普段、コレコレについて考えよう、といって考え始めるのでしょうか?例えば、地球環境、戦争、マイノリティの問題、人種の問題。そういうこともあるかもしれませんが、突然想定していなかった状況に追い込まれることによって、取り憑かれたように考えるようになるとき、人は深く思考しはじめるものです。このことをドゥルーズは「不法侵入」という言葉で表現しています。例えば自分がトランスの当事者であり、社会的不利益を受けたとき、性とは何かについて考えざるを得なくなる。自分とは何かについて問わずにはいられなくなる。例えば被災することで、技術の進歩と弊害について頭を悩ませなければならなくなる。生きるとは何かについて考えなければならなくなる。
この本は、そうして、思考し始めたさいに、どのようにそれを深めればよいのかを示しています。著者の大澤氏は社会学者ですが、歴史学から自然科学までの幅広いジャンルに目を通し、氏の通底するテーマ(例えば「不可能性」はその一つです)に絡めて論じます。
テーマに沿って「読む」というのは普通に鑑賞してただ面白かったつまらなかったというのとは異なり、慣れなければ難しいものですが、本書では大澤氏の考えた実例をとおしてそのやり方を眺めることができます。みなさんも、自分の人生を通したテーマを思い起こしてみてはいかがでしょうか?
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近代は変化が常態化してる社会。
リベラリズムと環境志向主義は真っ向から対立する。
労働する体はその故人に所属することが自明である。
求心化と遠心化
意識的に選択していない行為こそがまさに自由に選択しているように見える
選択は既に好意がなされているときには終わっている。先験的な過去。
そもそも人間は生まれてくることに対して無責任であり、後続の生きるということは無責任である。
自己の同一性と責任はセット。
根源で奇遇優性。
固有名が偶有的であり、それは他者の承認が必要。
3章
公共性とは、自由と平等な開放性が満たされる社会的な状態。
生命維持のゾーイと、徳を持って生きるビオスがある。
資本主義とは広義の徴用である。
多すぎる差異ではなく、単一の際にこそ固執すべきである。
資本主義の特緒は資本蓄積の無限制であり、余剰価値への欲望である。
他人への意識が自由に大切。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ最新版の社会学史。
社会学は近代のもの。たかだか200年の歴史。
近代の自己意識として社会学が誕生したことを古代の社会理論から始め、社会契約論という社会学前夜の話を経て、社会科学の誕生の中に、コントの名付けた「社会学」があるという位置づけ。
マルクスを間にいれたあと、社会の発見というテーマで、フロイト、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバーを説明。
その後は、システムと意味というテーマで、パーソンズの機能主義の定式化、意味の社会学、さらにルーマンとフーコーの意味構成論的なシステムの理論が解説される。
社会学の主題は「社会秩序はいかにして可能か」というもの。前提として偶有性という概念がある。
読み終えての所感としては、ルーマンとフーコーがツインピークスであるという評価が自分が感じていることと一致したという満足感。
特に、現代社会においては、システムが多様に分化した社会であり、それぞれのメディアとコードが併存しているという点は、わが意を得たりというところ。
フーコーが唱えた「エピステーメー」=パラダイムが不連続であり、類似(ドン=キホーテ)→表象(地理と地図)→人間(博物学(生命)、経済学(交換)、言語学(動詞))と変化してきた話はぜひ読んでみたい。
対比として、ルーマンのシステム論も同様。
人間と社会の関係を、ユダヤ人とユダヤ教のたとえを引きながら、人間における弱さと神、社会における弱さと神、といった構図でとらえるという点も新鮮。
集団は「神」を必要とする。それは、人間が自らを不完全と信じるからであり、メディアとしての神とそこにおける二項対立は、自分たちの集団と他の集団を区別するために必要。線引きの話でもある。