大澤真幸のレビュー一覧

  • ふしぎなキリスト教

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    今まで原典も含め色々読んできたが、ここまで客観的に解説しているものは初めて。
    よくあるストーリーや逸話の断片的解説ではなく、背景となる考え方を他宗教と比較しつつ論じており、理解が深まった。

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    2026年10月05日
  • ふしぎなキリスト教

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    内容スリリングでした笑

    学ぶ機会が無かったキリスト教について、布教的な宗教宗教した内容では無く、社会学の側面から解説がされててとても興味深い内容でした。

    なんか教義部分は結構間違いがある様なのでそちらは別途学びます。

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    2026年08月25日
  • ふしぎなキリスト教

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    佐伯啓思さんの『貨幣と欲望』や鶴見太郎さんの『ユダヤ人の歴史』を読んだことで、「そもそもキリスト教ってなんだ?」という疑問が湧き、この本を手に取った。あと、最近に限らず、ゲーム、アニメ、マンガなどに触れていると、キリスト教のモチーフや聖書由来の言葉が驚くほど多かったことも、この本を手に取るきっかけになった。最近ジャンプラで面白いと思って読み始めたとある2作品も、キリスト教を下敷きにしていて、余計に「キリスト教ってなんだ?」という疑問を掻き立て、この本を読むきっかけになった。

    新書大賞2012の受賞作ということで、刊行からはかなり年月が経っている。しかし、この本は、キリスト教の根本的な考え方を扱う内容であるため、古さはほとんど感じなかった。また、対談形式で書かれているので、専門書のような堅苦しさはなく、とても読みやすかった。

    読み終えて最も印象に残ったのは3つ

    ①キリスト教の持つ「解釈可能性」の大きさ

    福音書が四つ存在するという成り立ち、教会の公会議で多数決で教義が決定されてきた歴史、そしてユダヤ教やイスラム教のような宗教法を持たないこと。さらに、「神はすでに世界を去り、終末までは人間の歴史が続く」という世界観。こうした要素によって、人間が解釈を重ねる余地が生まれているように感じた。

    ユダヤ教は律法という強固な紐帯を持っていたからこそ、ディアスポラによる離散後も共同体を維持できた。一方でキリスト教は、教義そのものに多様な解釈を許容する余地があるからこそ、政治や思想、文化の中へ柔軟に入り込み、これほどまで世界へ広がったのではないかと思う。

    ②「一神教」という世界観
    私のような日本人は、「神様」と聞くと多神教の感覚で考えてしまう。例えば宝くじが当たるように祈るなら、「宝くじの神様」にお願いし、その神様が気まぐれや日頃の行いを見て、「今回は当ててあげよう」「今回はだめだね」と采配するようなイメージを無意識に抱いている。

    しかし、この本で描かれる一神教の神は、そのような存在ではない。人間が思い通りに対話したり取引したりできる相手ではなく、人間を超越した絶対者であり、人はその神と向き合い続ける。「神に祈る」という行為そのものの意味が、日本人の感覚とは根本的に異なるという説明は、まさに目から鱗だった。

    さらにキリスト教では、その神と人間との間にイエス・キリストが立つ。この構造が、キリスト教をより複雑で奥深いものにしている。そして、その複雑さこそが、戦術のとおり多様な解釈を生み出し、長い歴史の中で文化や思想へ広く浸透してきた理由なのかもしれない。

    ③キリスト教の基本
    預言者、福音、原罪といった基本用語についても、初心者にも分かるよう丁寧に説明されている点がありがたかった。私はそもそもキリストが神だと思っていた。「ヤハウェ」が神であり、イエス・キリストはその「神の子」であるという基本的な関係すら曖昧なまま読んでいた。日本史専攻ですみませんでした。

    キリスト教について詳しく学ぶというより、「キリスト教とはどういう世界観なのか」を最初に掴む一冊として、とても良い入門書だった。

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    2026年07月24日
  • 社会学史

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    アリストテレスの時代から現代まで、社会学の歴史を1冊でまとめたもの。新書としては、異例のボリューム。ゲーム理論を用いて解説がなされるなど、興味深い。
    各社会学者の学説を、たとえも用いながらできるだけ分かりやすいように説明をしてくれているし、独自の整理もしてくれている。
    説明のメリハリもきいている。
    読んでいてた大変おもしろい新書。

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    2026年06月10日
  • ふしぎなキリスト教

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    おそらく、現在キリスト教の思想史的意義および社会学的な意味について論じさせて、このふたりほど知的にスリリングな議論を期待できる組み合わせはないだろう。
    率直に言って、期待以上の出来映えだった。
    大澤の問題設定の巧みさ、本質を射抜く鋭さと、橋爪の考え抜かれた上に核心を衝く見事な答え。ふたりの対談本は複数あるが、これほど成功した著作はないと思う。

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    2026年04月12日
  • 極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる

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     本書はハイデガーの『存在と時間』への入門書である。多くの書は『存在と時間』「について」の入門書である中、その読み解きの具体性において群を抜いているがゆえに『存在と時間』「への」入門書であるとあえて書きたい。『存在と時間』という著作の成立とその思想的背景に関しては轟孝夫氏の『ハイデガー「存在と時間」入門』が本書でも決定版と言われているように現在手にし得る最も詳しい本であると思われるが、本書はハイデガーに初めて触れる読者もそれなりに読んできた読者をも、ハイデガーが『存在と時間』において取り組んだ問いへとダイレクトに招く本である。
     ハイデガーに関する本を幾つか読んでいくと時折指摘されるように「ハイデガー語」と呼ばれるような独特な言い回しに出くわす。そうしたことの一つひとつを剥いでいく作業が近年の研究の特徴であるとも言えるのだが、その中で本書は群を抜いてハイデガー語を感じさせることなく直接に読者をその問題へと招く本であるように思う。副題にもあるように本書はハイデガーの『存在と時間』における世界内存在をめぐる分析がなされていくのだが、訳者による他書にはないダイレクトな訳文を通してハイデガーの問いそのものが多数の引用とともに明らかにされていく。その問いかけの深みを確かめるためにいくつかの訳文を比較検討することを通して読者は自然とハイデガーのテクストへとも導かれていくのである。
     私たち一人ひとりが固有の生を生きるにはどうするべきか、いかに生きるべきかという問いが『存在と時間』を貫いている。世界内存在として現存在である私たちはどのような世界に生き、どのような生を享けているのか。本書はその具体的な問いかけの積み重ねを通して生き生きとハイデガーの思考へと読者を導いてくれる。中でも印象的なのは社会の中で私たちが与えられてきた性の役割への問いかけでクィアの話題が取り上げられたことである。今までのハイデガー本でこれほどまでに直接的に私たちの生の諸相に分け入り、本来性そのものを問いかけ、新たな地平をひらこうとする本はなかったのではないだろうか。それほどに本書は強烈な印象を残した。
     ここまで書くと今までの読解を無視した本であるとの印象を持たせてしまうかもしれないが、そうではない。むしろ凝縮された叙述は著者のハイデガー研究の積み重ねへの敬意を感じさせるものであり、なおかつそれらの不十分なところを補い、そのうえで直接にハイデガーのテクストそのものと向き合うことを読者に呼びかけているのである。

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    2026年02月02日
  • 社会学史

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    社会学の古典に着手する前の準備段階として、社会学史を押さえておきたく本書を再読。「社会秩序はどのようにして形成されるのか」という社会学固有の問題意識が誕生した背景と各理論の繋がりを俯瞰できました。どの学問にも言えることだと思いますが、特に社会学は各時代の具体的な文脈と向き合うことが求められており、時代と向き合い、理解しようとする姿勢が欠如していると、独りよがりな営みになってしまうと感じました。その意味で、今起きていること・歴史に対して関心・問題意識を持つことが、社会学を学ぶ中で、最も重要な素養だと思います。歴史に疎く、きちんと学んでいなかったので、これを機に歴史を学びたいです。

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    2025年12月17日
  • 西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか

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    民主主義と資本主義が離反してきているのではないかという問いかけをスタートに、様々な論点から現代社会を考察している.植民地主義と人種主義がガザ戦争に深く関与しているという考察、社会構想論をベースとした交響圏とルール圏の議論など表面的な理解しかできなかったが、興味ある分野でもあり楽しめた.イスラエルとパレスチナの戦争について仲介役を日本が行ったらどうかという提案.面白いと思った.政府と民間レベルでのアプローチを例示している.政府はパレスチナを正式国家として承認し、民間は双方の側の批判的な抵抗勢力をさまざまな方法で結び付ける.実現出来たら素晴らしいことになるだろう.トランプの登場を冷静に考察している部分も楽しめた.

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    2025年10月03日
  • 極限の思想 ニーチェ 道徳批判の哲学

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    ニーチェの『道徳の系譜』を読み解く上で非常に参考になった。『道徳の系譜』初読の時点では全く見えなかった景色が、この本を足がかりに見えた。ニーチェ初心者は、できれば『道徳の系譜』とこの本を交互に理解しながら読み進めるのがいいのではないと思う。

    しかしこの本で解説される部分は、『道徳の系譜』の特に大事なところ、要点に絞られるので、ところどころは自分自身で、あるいは他の解説書を参考にして読まなければいけないところもある。
    また、『道徳の系譜』では触れられていないニーチェの思想も四章で触れられるが、『道徳の系譜』のみの解説で良い人には二章と三章で十分だろう。

    それと、著者はニーチェが専門ではなく、カント研究者らしい。しかし、『道徳の系譜』に何箇所も出てくるカントの部分の解説が欲しい人には特に参考になるだろうと思う。

    また読み返して、今度は理解しきれてない部分を拾っておこうと思う。

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    2025年09月04日
  • 西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか

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     現在社会で、世界で起こっていることに対して、明瞭で確固とした視座を与えてくれる1冊。
     
     特にアメリカ大統領にトランプが再選された背景の分析が分かりやすかった。
     
     「このままでは、民主党は今後、永遠に勝てないだろう(中略)今後、民主党の大統領が生まれる見込みはない」(p341)との言は恐ろしいが、そうかもしれないと思わされる。

     トランプは西洋を内部から、プーチンは西洋を外部から否定しようとしている(pp340-341)という見立てにも納得させられた。

     また、アメリカ大統領選に関連して、兵庫県知事選への言及があるのも、興味深い。
     
     斎藤元彦(+立花孝志) vs 稲村和美は
    トランプ vs カマラ・ハリスと同じ関係(p328)だと言うのである。

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    2025年08月31日
  • 西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか

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    ネタバレ

    月刊誌『一冊の本』に掲載された時事的な評論をまとめた本で、前著『この世界の問い方』の続編。今回は2022年12月~2025年2月の評論。
    主題は「西洋近代のその功罪」で、著者は、現在を大きな歴史の転換点と捉えているが、それを規定している原理や法則が何かということを、時事的な評論を通じて、理解する作業を推し進めようとしている。

    1.「離婚の危機を迎えている民主主義と資本主義」
    かつて東西冷戦を勝ち抜いたことで、西側陣営の資本主義・民主主義は最良の選択と思われ、資本主義と民主主義は車の両輪だと信じられてきた。
    それが21世紀に入り、かつての社会主義体制の生き残りの共産党一党独裁を維持してきた中国の「権威主義体制」が、資本主義を我がものとし、驚異的な経済成長を成し遂げた。西欧の産業革命を別にすれば、中国の経済成長は、人類史上最大の経済的ブレイクスルーと言える(日本の高度成長と比較してもスケールにおいて遥かに凌駕している)
    そして西側の民主主義的資本主義と中国の権威主義的資本主義とを比較した時に、どのような差異があるのか?
    その差異はわずかで、西側のそれは、少しだけ余分な自由を与えているだけではないのか? そのわずかの差は、中国の一党独裁を内側から崩壊させるような不満を、人民の中から生み出しはしない。また中国は極端な監視社会と言われているが、よく考えてみれば西側の資本主義でも状況はあまり変わらない。GAFA(ガーファ)と呼ばれるアメリカの巨大IT企業も、インターネット上の活動から個人情報を収集し、そこから利潤を得ている。西側の資本主義の中にいる我々が、中国の監視社会の人々よりも、自由だと思ったら大間違いだと著者はいう。そして、詳細は省略するが、国民国家の民主主義は、必ずしも「自由」や「正義」に合致した決定を導き出すとは限らない例も多数ある。
    ただ、いろいろと問題があったとしても、我々が、なお民主主義を最良の政治形態であると見るならば、民主主義は資本主義と離婚しなくてはならないと、著者はいう。では、再婚相手は・・・?

    2.「西洋近代の罪と向き合うとき」
    (1)ガザ戦争に見る植民地主義と人種主義
    ガザ戦争が複雑なのは、ここに西洋近代の二つの罪(植民地主義と人種主義)が重なっているという。著者は、ガザ戦争の歴史的背景から説き起こす。
    かつてナチスはユダヤ人を差別し、その存在を抹消しようとした(ホロコースト)。ヨーロッパの人々は、ユダヤ人をかくも激しく排除した人種主義(ナチズム)を、自分たちが生み出したことに大きな罪の意識を覚え、その償いとして、第2次世界大戦の戦勝国(国際連合)が、ユダヤ人にイスラエルの土地を与えた。しかしこの場所は別の民族、主にイスラム教を信じるアラブ人が何百年以上も住み続けた土地であり、それをあたかも自分たちが自由にできる土地であるかのように、ユダヤ人に与えた。
    これは植民地主義の手法である。植民地主義には、しばしば人種主義(人種差別)が随伴している。植民地における先住民や奴隷の支配・搾取は、人種主義によって正当化される。イスラエル建国という植民地主義も、人種主義とセットになっている。アラブ人への人種主義的な差別や排除という形で、それは実践された。
    ユダヤ人は、ヨーロッパの極端な人種差別に苦しめられたが、そのユダヤ人が今度は、パレスチナで人種差別による「ホロコースト」を実施している。
    パレスチナ問題の解決策は、パレスチナを主権国家として承認し、そのパレスチナ国家とイスラエルが平和共存する以外に解決策はないと、著者は断言する。
    しかし、現在のイスラエルのネタニヤフ政権もハマスも、この考え方を完全に拒否している。果たして、ガザに平和の訪れる日はいつになるのであろう。

    (2)西洋近代の自己否定としてのトランプ
    著者は、トランプ大統領の登場ということの思想的・イデオロギー的な意味を、啓蒙主義の時代以降の西洋の近代史の中で解釈したとき、西洋が自らを否定しようとしていることに気づくという。
    トランプ支持者には二つの異なる勢力が共存している。「労働者および過激なナショナリスト」と、「テクノ・リバタリアン」。この両者は、社会的背景を異にしているだけではなく、はっきりとした対立した意見を持ち、互いに矛盾したことを目指している。なぜ両者は連帯できているのか。それは「同じもの」に反発しているからである。「同じもの」とは、民主党が代表しているリベラルなエリート、既成支配層である。
    民主党は社会の多様性を唱える。移民を積極的に受け入れ、「LGBTQ+」を尊重し、誰にも公平に対応しようと主張する・・・それなのに―(労働者は思うのだ)―「我々」はどうなっているのか・・・我々は尊重などされていない、むしろバカにされている。既成の支配層が享受している利益や特権から締め出され、排除されている。
    これには、グローバル資本主義に内在する構造的な原因がある、「エレファントカーブ」(詳細は主略)が示しているように、現在の資本主義は、1990年頃までの資本主義とは異なり、先進国の中産階級だけが所得が伸びない仕組みになっている。ゆえに先進国(アメリカ等)だけを見れば、格差が急激に拡大する。このようにグローバル資本主義の実態は、かつての労働が重視され、尊重されることはなく、労働者であることに誇りが持つことが難しい社会になってきている。
    民主党は本来、労働者や組合の利害を代弁する政党だったのに、現在は労働者の支持を失っている。
    一方のトランプ支持者のテクノ・リバタリアンは、リベラルな既成支配層以上に、この資本主義を肯定し推進している。労働者達は、自分たちの不遇な状況に最も責任ある元凶そのものを味方と勘違いして手を組んでいることになる。どうしてこんな間違いを犯しているのか。彼等(労働者)には、自分たちの不満の原因が現在の資本主義にあることが見えていないからであり、また彼らも資本主義の中での成功を夢見ているからである。長期的には、彼等はますます悲惨な結果になるであろうと・・・

    トランプに関して、もう一つ面白い見方を著者は示している。トランプは、伝統的な価値、保守的な道徳の擁護者ということになっている。しかし、トランプのふるまいは保守的な道徳とはほど遠い。思いついたままを口にし、他人を口汚く罵り、品位あるマナーのすべてを蹂躙している。不品行の程度はますます高まっていく。その中にはセックススキャンダルや犯罪的な事も含まれる。
    この事を、どう解釈したらよいのか?
    トランプを単純にリベラルが目指していた社会への「敵」として、解釈すべきではない。トランプなる人物は、むしろリベラルが指向しているものの極限に見いだされる像である。言い換えれば、リベラルが理想化している状態を極端化し、戯画化して表現すれば「トランプ」という像が得られる。
    アメリカのリベラルが実現しようとしている社会は、寛容な社会である。かつてはタブー視されていた行動も、他人に危害を与えない限り、個人の自由として承認される社会。ところで道徳の本性は「禁止」にある、許容性の拡大は、伝統的な道徳から離脱していくプロセスである。このプロセスを徹底的に推し進めたらどうなるか。ほとんど全ての道徳的な禁止を平気で、恥ずかしげもなく公然と侵犯する人物像が得られる。それこそが「トランプ」である。
    個々の道徳や規範に対しては、もはや時代遅れのものに感じる、しかしリベラルが推進している「寛容な社会」に対しては何か恐怖を感じる、そういう保守派に対してどんな態度が魅力的なのか。「許容的な社会」へ向かうダイナミズムを、ただ純粋に否定すること。つまり社会正義の規定を蹂躙し、蔑ろにするような人物が、保守派を惹きつける。それがトランプにほかならない。

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    2025年08月29日
  • ふしぎなキリスト教

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    2012年新書大賞本。

    2012年!?
    今読んでも、食い入るほど、面白いんですけど。

    ユダヤ教とキリスト教(カトリックとプロテスタント)とイスラム教ってどう違うのか?

    というベースから。

    政治、経済、科学に至るまで、宗教がどう影響してきたかについて、驚くほど分かりやすく書かれている。
    分かりやすすぎて、分かってないから、アウトプットも必須。

    橋爪さんの博識が、大澤さんの鋭い質問によって、うまく展開されていくし、そこから新たな視点に持っていくのも上手い。

    正直、新書にしては割と分厚いので、読めるかなぁと不安に思っていたけれど、ゆっくり読まなきゃと自分をセーブするくらい、進みたくなった。

    最後の「モノづくり」に対する、スタンスの違いの話もめちゃくちゃ面白いなぁ。
    確かに日本は、アニミズムだわ。
    それは日本という国の立地、地政学にも由来する。

    「ふしぎなキリスト教」にまつわる本も何冊か出ているようだけど、ひとまず橋爪×大澤対談本を読みきりたいと思う。

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    2025年08月10日
  • 〈世界史〉の哲学3 東洋篇

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     社会システムの方法論を用いながら西欧の覇権を規定する論理的形式を炙り出す試み。文庫本3巻目の本著では、主にインドと中国の違いを比較しながらその共通の論理平面を探り、特に不条理な謎に満ちながらも洋の東西を問わず長きにわたり実践されてきた「贈与」の原理を参照点としながら、西欧との違いを際立たせていく。

    (以下冗長極まりない要約)

    第1章
     人々は、素数の規則性を考察する時と同様に、世界史を概観した時に「東洋と西洋の影響力の非対称性」に素朴な疑問を抱かずにはおれないだろう。なぜ西洋が東洋に対し優位性を持ったのであってその逆ではないのか。ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に準えてその直接的な原因を列挙しつつ、著者はさらにそれらの原因の原因、究極の原因を模索する。ダイアモンドが挙げた軍事や政治制度などの西洋の相対的優位性は、鋳鉄や火薬などの技術面で当時の最先端を走っていた中国に対しては妥当しない。ではなぜ差異は生じたのか。

    第2章
     前章に続きダイアモンドの論を引きながら西洋優位の「究極の原因」が探られる。西洋がインカやアステカに対する優位は、食糧生産に適した環境と社会間の競合がもたらした政治制度の発達の賜物だが、これらはダイアモンドが鋭くも指摘したように、東西に長いヨーロッパ・ユーラシア大陸と南北に長いアメリカ大陸との間の地理的条件の差異により多くが説明できる。しかし同様の地理的条件を持つ中国はなぜ西洋からの侵略を許したのだろうか。中国の宮殿は平面的な広さを、西洋のゴシック建築は立体的な高さを指向したと言えるが、なぜ「高さ」が「広さ」を凌駕したのだろうか。

    第3章
     旧約聖書「創世記」にはカインがアベルを殺す有名なくだりがあるが、神のアベルに対する厚遇を考慮するとカインにも酌量すべき余地があるように思える。それでもなおカインに責めを帰すべき理由とは何なのか。
     アンドレ・ガンダー・フランク『リオリエント』によれば、世界の歴史で長きにわたり優位を保っていたのは中国だった。しかし資本主義でグローバル化の覇権を握ったのは西欧である。ヴェーバーの〈家産制〉の典型である中国の皇帝の権力を裏打ちしていたのは、再分配の論理を国家外にまで拡張した〈贈与の中心化〉に基づく朝貢システムであり、従属国からの贈与とそれに対する皇帝からの返礼を重要な契機としていた。一方、一神教のユダヤ教では、贈与される側=神が人間に対し完全に超越的であるが故に神の返礼は要請されておらず、むしろ神がなんらの返礼も施さない、ひいては受け取ることさえしないというそのことこそが最も重要な〈返礼〉とみなされる。神からの返礼がないことに不満を覚えたカインが呪われたのはこのためだったのだ。中国という権力システムは、一神教が克服すべき対象とした〈贈与と返礼〉を積極的に活用することで維持されていた。

    第4章
     〈贈与と返礼〉を否定したユダヤ教だが、一方でイエス・キリストは「贖い(罪の代償、身代金)」として神に捧げられ、その代価として人類は許しを得ている。ただキリストは神の子すなわち神自身でもあるはずであり、この場合神は人類の罪の代償を自分自身に対して支払っている、つまり人類の借財を立替払いしてることになる。そうすると、神がキリストを現象世界に遣わしたことは、すでに罪深い(借財を負っている)人間に対する追加融資に該当し、しかも神はその返済を要求しないのだから、人間は神に対して計り知れない負債感を抱くことになる。この「罪の代償を求める神への贈与と、その反対贈与を期待する人類」という構図は、中国の朝貢システムと同様の論理に基礎付けられるように見える。しかし、神のキリスト派遣が、〈原罪〉の代償を支払う能力のない人類に対する追加融資であり、人間はそのキリストを神への返済に充て罪が許されたとするのであれば、なぜ神は最初から原罪を帳消しにしなかったのか。ここに中国の互報的な朝貢システムとの差異がある。
     ヘーゲルの図式では、自由な主体として承認される範囲が東洋(ただ一人が自由)→ギリシア・ローマ(特定の人々が自由)→西洋ゲルマン社会(万人が自由)と拡張・普遍化していく。しかし、ゲルマン社会においてキリスト教の原理が普遍化したとするヘーゲルの視点は、19世紀前半の知見の枠内にとどまるうえ、インドと中国を完全な連続体と見ている。
     キリスト教と仏教の伝播を比較すると、後者の西進がある地点で停止したことに気づく。一神教が仏教の深い浸透を阻んだのだ。また仏教は発祥地のインドではむしろ衰退するという空洞化の様相を呈する。さらに、仏教はインドから中国に伝播したのに、その逆の経路を辿る重要な思想・宗教はなかった。
     バラモン教が土着宗教として普及していた原始仏教の時代、初期の仏教集団は極めて平等主義的であった。逆に言えば当時のインド社会は極めて差別的だったからこそ仏教が支持されたのだ。そのインド社会を規定する「カースト」は、分離(結婚・接触の制限)、分業(職業集団間の移動の制限)、ヒエラルキー(職業集団の序列化)を特徴とする。またこれとは別に、身分を規定する「ヴァルナ」があり、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラ・不可触民の区分があるが、これらのヒエラルキーにおいては浄/不浄という差異に加え、〈贈与〉が重要な要素となっている。最も価値が高い贈与は神への供犠であり、これはラモンにのみ許された。一方キリスト教には、前述のようにキリストの磔刑が神への供犠という解釈に収容できない過剰がある。インド社会では供犠を至高とし、キリスト教社会では供犠が否定されるのだ。

    第5章 解脱としての自由
     西洋が実現した(個人の)「自由」と、インドの「解脱」はどこが違うのか。差し当たり前者が社会内部の自由であるのに対し、後者は社会外部への自由であると言えるが、仏教では現世の「一切皆苦」からの解脱は結局「八正道」という凡庸な生活を指すという。では解脱とは何を意味するのか。
     原始仏教では解脱は広義の所有の放棄、すなわち〈無我〉により媒介される。個人の所有物は必ず変滅するのだからこれに執着することは不幸だとされ、所有の無効を主張する。これを行為にまで拡張したのが「ヨーガ」である。
     仏教が生を苦と同一視しそこからの解脱を目指す理由は、生を輪廻とみるからである。輪廻は因果関係(=「縁起」)が支配する連環であり、後に結果を残す行い(=「業(カルマ)」)が個々の生の帰結を決める。この因果性の原体験として機能したのが「贈与」であり、善業は正の贈与、悪行は負の贈与として観念されたと推測できる。とすれば、この贈与のネットワーク、互報の関係性に巻き込まれることこそが一才皆苦の「苦」の原点なのではないか。
     ルイ・デュモンによれば、カーストのヒエラルキーは「浄/不浄」のダイコトミーにより規定されている。自然の暴力的な連環からの距離が遠い菜食主義者のバラモンは浄性が高く、農民や奴隷などの食物生産者は低い。どのカースト同士が浄/不浄の関係にあり、また贈与の義務を負うのかは明確に判定可能であり、弱者からの強者への贈与を強者による弱者の捕食と同一視すれば、ここに食物連鎖と同様の関係が見て取れる。しかし実際のヒエラルキーの頂点が弱肉強食の世界で頂点に立つべき戦士や王(クシャトリヤ)ではなく、祭司(バラモン)なのはなぜなのか。これは、食物連鎖の頂点に立つと思われた人間もさらに上位の神々による捕食を恐れなくてはならず、人間の代理物としての供犠をバラモンが神に対して行うことで(神を欺くことで)これを防いでいると考えられる。
     では神を欺くのではなく、真にこの輪廻の苦から解脱するにはどうするかといえば、仏教やジャイナ教が説くように一切の所有物を放棄し、所有の欲望から解放されることで贈与と返礼の連鎖を脱却するのである。では、贈与はどのような意味で必然なのか?

    第6章
     イエスの教団とブッダの教団は隣人愛/慈悲を教義の中心に置くなど共通点も多いが、他者からの施しに対する態度は前者が饗応を布施に限定したのに対し、後者は豪勢な饗応を積極に受けたという違いがある。イエスは当時のユダヤ教指導者に対立する社会革命家としての性格を帯びていたため人々の集まる場に出ていく必要があったのだ。またイエスはサドカイ派の神殿を中心とした再分配システムの破壊を試みたが、一方ブッダはバラモンの供犠を中心とする支配に批判的ではあったがなんら攻撃的な行動は起こさなかった。イエスは当時のユダヤ立法を放棄(止揚)し隣人愛に置き換えたが、ブッダはバラモンによる法を受容したのである。
     仏教が輪廻からの解脱を唱えるのは、人間の他者に対するあらゆる行為が負の贈与であり、罪の意識と負債感を伴うからだ。しかし一方、イエスが「不思議なピクニック」で行った贈与の奇蹟は、むしろこの贈与がもたらす束縛を、喜びに満ちた贈与そのもので克服したものと解釈することができる。これは、仏教が〈存在論的水準〉すなわち「何かを引き起こすこと」と、〈倫理的水準〉すなわち「それに対して罪や責任がある」という二つの水準を一連のもとに捉え、これを回避するには外部すなわち「涅槃」に出る他はないとしたのに対し、イエスはこれら二つの水準がカントのいう「第二アンチノミー」にすぎず、他者に負債感を与えることなく施しは可能であり、且つその行為を強制されずに自発的に喜んで与えることができるのだ、ということを示したと言える。

    第7章
     大乗仏教における「大菩薩」はあえて涅槃に入らず未成仏のままの菩薩らが目標とするロールモデルだが、これは神の国から現象世界に降下してきた神の子イエス同様、「人間化したブッダ」と言えるか。涅槃も神の国も超越的な永遠の世界だが、前者が菩薩たちにとり修行して目指すべき対象であり、プラトニズムの極致として積極的に志向されたのに対し、後者はキリストにとって人間という有限で不完全な身体性を有するために脱却すべき対象だったのではないか。キリストは十字架の上の断末魔の叫びの中で、神への明確な不信を表明した。彼自身が、神自身が、神の救済、ひいては神の国を信じていないのだ。
     〈古代編〉第9章で述べられたように、個人としてのカエサルは普遍概念としての「皇帝」の成立のために死なねばならなかった。同じように、キリストが人間として殺されることで、一神教の抽象的な神としての普遍概念、第三者の審級が定立されたのだが、一方でキリストは神としても死ぬことで普遍概念としての神が偶有的な個人に過ぎないことも示していた。つまりキリストの死は普遍性と個別性が相互に入れ替わる極限の地点に位置するのである。
     仏教と相補的な関係にあるバラモン教の行動基準を示した「マヌ法典」では、男性のライフサイクルが学生期→家長期→林往期→遍歴期の4つのフェーズを辿るとされる。ヴェーダ(バラモン教の宗教書)によれば、人間は神々への供儀の材料として神々から人間界に返されたものだが、そもそもなぜ人間に神への供儀の義務があるのか。バラモン教の協議によれば、人間は世界内に存在を開始したことで超自然的な存在者たちに義務〈リシ〉を負っており、供儀はその債務の履行だというが、なぜ人間の存在が債務なのだろう。マヌ法典によれば、浄/不浄の程度は食物連鎖の贈与の連環からの距離で決まるのだった(第5章)
    が、しかし社会構成員がみな浄性の高い禁欲的な職業を選択すると社会システムが崩壊してしまう。これを防ぐために反禁欲的な生を含む前述のライフサイクルが案出されたのだ。これは「(多数の)例外を伴う普遍規定」という憲法9条に見られるようなやり口であり、普遍性が維持されているという体制を維持しつつ、例外を積み重ねることで実質的に普遍性を骨抜きにしているものと言える。「人生全体が浄である」という普遍性に例外を加え、ある程度不浄にも触れうる家長や戦士、生産者としての活動を可能にしているのだ。
     こうしてみると、ヒエラルキー内の浄/不浄の差異は相対的なものでしかなく、最上位のバラモンですら不浄な食物連鎖、贈与の連鎖の完全な外部にいるわけではない。仏教(やジャイナ教)とは、この連環の外に完全に離脱した隠遁者たち(最上位のバラモンよりも上、最下位のシュードラよりも下)による宗教なのであり、バラモン教のヒエラルキーが必然的に生み出す「外部」に対応した宗教なのではないか。

    第8章
     仏教はカーストの不平等性を否定する一方、そのヒエラルキーに依存することでしか存在できず、カーストの論理を徹底することでその外部に飛び出している。しかし結局その外部はカーストにとって無害且つ非撹乱的な外部にすぎなかった。この仏教の「外部性」を体現するのが「僧」である。しかし出家僧が仏教思想の純粋な体現であるとするならば、仏教はごく少数しか救済の対象にできないことになる。この矛盾に対応して出現したのが在家を重視する「大乗仏教」であり、「他者を救ううことで自らも救われる」という自利利他円満の教えを旨とした。
     出家者の共同体に依存しない大乗仏教を信仰的に支えたのがブッダの遺骨を収めた「仏塔」である。骨はいくらでも細分化され分配可能である上、キリストの血や肉などの〈聖遺物〉が「生ける死者」を連想させるのとは対照的に、過去の生への連想を極小化してしまう。キリストの聖遺物が感覚を直接的に刺激して「いま・ここ」にある〈具体性・特異性〉を際立たせるのに対し、ブッダの骨は細分化され偏在し、且つ観想によってのみ把握可能な〈抽象性・偏在性〉を喚起し、ひいては「法(ダルマ)」の抽象的な真理性をも担保している。白川静によれば漢字の「眞」や「久」は死体の形に由来するが、これは感性の変化を超越し身体性を否定し、身体の領域から死の領域に移行することが「永遠・永久」であると考えられていたためだ。これと同じ想像力がブッダの骨にも働き「法」の普遍性を喚起させたのだが、そこにはキリストの聖遺物には見られた特異的・単独的なものへの止揚はないのである。
     大乗仏教においても結局は「少数派のみが救われる」という構図は不変だ。それは、仏教が前章の「例外を伴う普遍性」、例外が支配的となるがゆえに存続する形式的な普遍性であるからだ。カースト制度にとってこの少数の例外が実在せずともシステム自体は影響を受けないため、インドから仏教は姿を消したのだ。
     仏教徒(出家者)は社会システムであるカーストの外部性という意味で不可触民と双対的な関係にあり、アガンベンの〈ホモ・サケル〉の例でもある。ホモ・サケルの殺害は、殺人を禁止する普遍法の例外として位置付けられたが、アガンベンは西洋法がまさにこの例外状態を内部に取り込むことで真の普遍性を獲得したという。当初ホモ・サケルは生を剥き出しにした〈自然状態〉として形式化された〈法的状態〉の完全な外部にあったが、例外的に法的状態と自然状態が互いに包摂し合う状態が生まれ、さらにその例外状態が普遍化することで最終的に両者は一致する。この「例外が普遍化された状態」とは、主権者がその主権が及ぶ限りにおいて、全ての他者をホモ・サケルとして扱うことが許される状態だという。
     つまりホモ・サケルは殺しても罰せられない存在であり、その典型が無実の罪で殺されたイエス・キリストである。神の子でもあるキリストは信者の信仰の普遍性の基礎だが、人の子でもある彼は十字架上で神への不信を叫ぶ。この不信は神への信仰という普遍性に対する究極の例外といえ、このことでキリスト教徒は常に不信に陥らぬよう自らを点検しつつ信仰を続けなければならないという緊張状態に置かれる。これがアガンベンのいう〈例外の普遍化〉であり、キリスト教ではこのように例外(ホモ・サケルとしてのキリスト)と普遍が完全に一致する一方で、仏教は社会システム/体制と距離を取るため普遍性と例外性が無害に分類されているという違いがある。

    第9章
     仏教においては他者の眼差しが回避されることで仏像の穏やかな眼差しが残されるのに対し、キリスト教の絵画の表象ではアダムとイヴのように「自らが他者の眼差しの対象であることを知る者」が描かれる。これはブッダの骨が拒絶する〈求心化ー遠心化作用〉をキリストの聖遺物が明確に喚起するのと軌を一にしている。
     仏教にはキリスト教やイスラム教がもつような経典=統一的なテクストがなく、シッダルダのみならずその弟子の言説までも含めた多種のテクストが増殖し存在している。この違いは一般的に、一神教が実体の存在を志向し存在を探求の主題とするためテクストの存立根拠を超越的唯一神に求めるに対し、仏教が実体の非存在=「空」や「無」についての認識、つまり〈悟り〉を志向していることに帰せられる。だがこれが実は逆だとしたら?
     大乗仏教がその理論の最も高い完成度を見たナーガールジュナの「中観派」は、小乗諸派の「説一切有部(「法」は現象と独立して常に存在する)」を批判し、「縁起」すなわち因果的・時間的な継起関係を論理的な依存関係へと昇華させ、全ては非時間的で論理的な相関から生じるのだからそこから切り離されれば全ては「空」でしかなく、あらゆる「法」もこの相対的な縁起のネットワークに還元されてしまい実体的には存在しない、と主張する。中観の思想は相対関係のみに着目し、〈中=中道〉を構成するその両極を共に否定する。そして一切は空であり「善」や「幸福」もそれ自体としては存在せず、そのような非存在を追い求めることこそが生の苦しみの原因だとする。それらが実は幻想だと認めることが輪廻からの解脱、「ニルヴァーナ」なのだ。しかしこれは、変えるべきは現実の社会ではなく個々の主体の認識だということであり、翻ってはいかなる社会構造をも恣意的に正当化することが可能だということになる。
     しかし一切の実体を縁起(関係性)に還元しても、空とならないものが残る。関係性を測定するための差異を測る「物差し」自体は空へと解消されないのだ。それはあらゆる差異が渦巻いているはずのこの「空」が、あらかじめ同一性の領域に囲い込まれていることによるのではないか。この差異への無関心こそが仏教の特性であり、あのブッダや菩薩の「他者を排除する眼差し」の正体なのではないか。

    第10章
     量子物理学においてある領域でエネルギーが最低状態に落ち込んだ場合、そこは全くのら真空ではなく「ヒッグス粒子」と呼ばれる物質で満たされた「ヒッグス場」が存在する。このヒッグス場により物質に質量が生まれ、また4つの力(重力・電磁力・弱い核力・強い核力)に非対称性が付与されているのだが、「何もない(=エネルギーが最低)」状態においてすでに「何か(ヒッグス場)」が存在しており、それを取り除くことで逆にエネルギーが増加してしまうというパラドックスがここにはある。これは、前章で見た中観派の〈空〉がまさに「何もない」状態であるということと相容れない。
     仏教の教義「諸法無我」「諸行無常」「涅槃静寂」「一切皆苦」は何れも〈空〉を第一義的に重要視しているが、逆に仏のイコンや幾何学模様で空間がびっしりと埋められた曼荼羅には〈存在〉への執着と拘泥が見られる。つまり〈空〉を追求することは、あらゆる事象がそこで展開する場としての〈地〉を所与の背景として前提することと同じなのではないか。〈空〉における多様なものの間の均衡性は予めこの〈地〉によって規定されているのではないか。
     抽象画家マレーヴィッチは空白を描くことでそこで多様な存在者が配置される〈地〉を可視化しようとしたが、著者はこれをキリスト教の伝統の産物ではないかとする。彼が描く幾何学的図形にデフォルメされた労働者や農民は、人間性を否定されてホモ・サケルのように殺された磔刑のキリストの似姿なのではないか。
     とすると、仏教の曼荼羅のキリスト教における対応物は磔刑図だということになるが、それでは曼荼羅が涅槃へと衆生を導く至福の図であるのに、なぜ磔刑図は見るものに苦痛の感情を呼び起こすのか。最も鮮烈な磔刑図として「イーゼンハイムの祭壇画」が挙げられるが、そこでは曼荼羅と対照的にのっぺりと真っ黒な背景が描かれている。パウロによればキリスト教信者は個人の肉体を脱してキリストの身体としての共同体=教会に入らねばならないのだが、この真っ黒な背景こそはこの共同性の表現ではないのか。個人の身体が共同体の内に消え去るその瞬間を捉えることで、個人であり共同性であるキリストの身体を描くことができるのだ。
     これをヘーゲルの議論を用いて一般化すると、ヘーゲル『大論理学』では、〈純粋有〉と〈純粋無〉が、一方が他方に移行してしまいつつも、相互の区別を失なわず絶対的に区別されたままであり、且つ相互に分離され得ず「一方が他方において媒介されることなく消失する」という〈生成〉の関係にあることが「真理」である、とされる。ここから、「教会」を統一的な共同体として際立たせるために、その否定的対立項である「個人(の肉体)」を抑圧され破棄されたものとして描かれねばならないのだが、その「あらかじめ抑圧されている」という状況が〈生成〉される過程そのものを可視化した試みが磔刑図なのだということができる。
     仏教では全ての存在者の基礎となる〈一者〉として差異化され得ない〈空〉を論理的な原点とするが、キリスト教ではその〈一者〉に相当する教会を成立させるために、否定的に「あらかじめ抑圧されている」者として規定される〈他者〉を顕在化させており、〈一者〉と〈他者〉の本源的差異が原点になっている。〈何もない=空〉の成立のためにあらかじめ無視して抑圧しておかなければならないヒッグス場に対応するのが、十字架の上で死ぬキリストの身体だと言える。キリストは、超越的な〈一者〉であり同時にその〈一者〉の支配が構成されるために抑圧されていなければならない〈他者〉でもあるのだ。

    第11章
     仏教の曼荼羅とキリスト教の磔刑図は、ともに包括的な社会システムのイメージであると言える。ニクラス・ルーマンによれば、社会システムの基本的な機能は〈複雑性の縮減〉、つまり世界の過剰な複雑性の中から許容・承認すべき可能性を限定することにある。つまり社会システムの内部では論理的なコミュニケーションは限定されその一部しか発現しない。そしてその社会システムがどれほど複雑で多様な環境を認識できるかは、そのシステム自体の内的な多様度・複雑性に比例するのだが(アシュビーの最小多様度の法則)、その際にシステムが対象を「何ものか」=意味として同定する際、〈体験加工〉という否定の能力を用い、「他のあり得た可能性」を破棄することなくこれを保存し、それらから対象を区別しているのだ。これに照らせば、あの複雑な曼荼羅は複雑性が縮減された後のシステム内部の複雑性の表象であり、対してシンプルな背景に描かれる磔刑図は、個人が消滅して共同体が現れるという、複雑性の縮減が起こるまさにその瞬間を描いたものだということができる。
     東洋に対する西洋の優位を論ずるにあたり、これまで中国とインドを統一的に「東洋」として扱ってきたが、それでは中国社会とインド社会は似ているかといえば全くそうではない。中国では西洋がなしえなかった統一的大帝国が早期に出現したが、インドでは小規模な王国や首長社会、部族が小競り合いを繰り返しながら乱立し、政治的な統一は確立されてこなかった。始皇帝の中国統一と同時期にインドを統一したマウリア朝は、秦のような近代的官僚システムや度量衡・文字・言語の統一を全く欠いており、そのような統一がもたらされたのはようやくイギリスの植民地となってからである。というよりもむしろ、イギリス統治以前には「インド人」という社会的実体は存在していなかった。
     こうしてみると中国とインドは全く対照的である。今日の中国の経済的な発展は中国の集権的な支配構造に拠る所が大きいが、それは同時に民主化の阻害要因でもある。反対にインドの多元社会は民主主義に適応的であったが経済発展は中国に後れをとった。この違いはどこから生じたのだろう。それはやはり「カースト」であろう。

    第12章
     インドの文化を規定するカースト制度そしてバラモン教はどのように形成されたのか。このことの社会科学的な説明の代表例はマルクス主義である。マルクス主義は宗教を社会構造の変動を説明する独立の要素とはみなさず、事後的に規定される従属変数の一つとして扱う。宗教とはエリートによる階級的支配を正当化する「おとぎ話」であり、恣意的な経済的利益の配分を正当化するための観念体系に過ぎないとしたのだ(これに反論を試みたのがマックス・ヴェーバー『プロ倫』)。このマルクス主義の主張と最も適合的な宗教が、階級支配を正面から正当化するバラモン教だと言えそうだ。しかしF・フクヤマが指摘するように、インド哲学ほどの豊かな形而上学を持たなかった中国の方がはるかに政治的権力の大きな領域を持ったのであり、またそもそもインドのヒエラルキーの最上位は物理的暴力や経済力ではなく儀礼の力のみをもつバラモンであったことからすると、マルクス主義の主張をそのままインド社会に当てはめることは困難だ。よって著者は上部構造(思想・宗教)を下部構造(経済)の従属物とみなすマルクス「主義」ではなく、宗教も経済と同様に人を支配すると述べたマルクス自身の主張に戻るべきだと説く。
     資本主義は様々な宗教に寛容であるがゆえに普及したが、それには労働市場の参加者に自由であるという前提が必要だ。カースト(ジャーティ)は厳格な分業を特徴としており自由な個人という思想とは相容れない。カースト体制は経済的分業のみならず儀礼的な〈贈与交換〉のシステムでもあるが、そこでは職業上互いが互いを必要としあう通常の関係性とともに、女性の交換の禁止に見られるように相互依存の関係を最小化しようとするベクトルも働いている。カーストは、この二つの力の働きにより自己充足的な小さなコミュニティとしてまとまり、外部から孤立した島の如きものとなる。
     さらにその内閉化からの逃走する第三のベクトルとして、食物連鎖の隠喩としての贈与の連鎖がある。下位のカーストは上位に対して食物として観念的に現れるが、それは人間の存在が神に対する原初的な〈負債〉であり、神々(エンマ)に食われることが人間の「返済=反対贈与」であるのと同様、下位カーストが上位に自らを贈与することが、神に対する負債の返済となるからだ(そして最上位カーストのバラモンが返済の代わりに執り行うのが供犠である)。
     これら三つの力学のうち、最もインド社会を規定するのは第二の力であろう。カースト制度は贈与交換のネットワークでありながら、自らを制限し否定する強いベクトルをもつ。この贈与好感の輪廻から逃れようとすれば仏教となり、内部に留まりつつもこれを否定しようとすればカーストになるのだ。
     この贈与交換は何のためにあるのかは大きな謎である。「ポトラッチ」や「クラ交換」などの原初的共同体の儀礼的贈与交換において対象となるものは、ほとんどの場合経済的には無価値なものばかりであるからだ。しかし考えてみればそもそも我々が親しい者に対して行うプレゼントも、実用的なものよりはむしろ価値に関して疑わしいものが相応しいとされるのではないか。これはなぜなのだろう?

    第13章
     野田秀樹の劇「THE BEE」は贈与交換の両義性、つまり贈与には相手に対する愛情と敵意の両方の側面があることを示す。レヴィ=ストロースも敵対関係と互酬関係には連続性があると述べており、儀礼的贈与を「平和的に解決された戦争」と呼ぶ。贈与には競争的な性格があり、グループ間の葛藤が贈与という形式で表現されているのだ。
     マルセル・モースは贈与は「殺しあうことなしに対立する」ための手段であるという。そして贈与には提供の義務・受容の義務・返礼の義務が伴うというのだが、そもそもなぜこれらの義務が生ずるのだろう?そもそも贈与対象はしばしば有用なものでなく、むしろ有用性から乖離したものの方が相応しいとされるのだ。モースは贈り物には「ハウ」なる精霊が含まれているからと説明するが、これは問いを別の形(レヴィ=ストロース「浮動するシニフィアン」=何でも指し示すことのできる記号)で表現し直しただけである。問われるべきはなぜそのような実体が孕まれているように感じるか、だ。それは、贈与する側とされる側の双方に生じる義務感、贈与交換を内側から支える互酬性=相互性そのものなのではないか。
     しかしそれでも謎は残る。それほど互酬が大事ならば、(現実の市場経済で見られるように)贈与された瞬間に等価物を返礼すれば良いではないか。しかし現実に贈与交換でそのような行為をすれば、それは相手をいたく傷つけることになるだろう。贈与と反対贈与の間は、ある程度の時間による分離がなされ、それぞれが単独の行為であるような様相を呈することが必要とされるのだ。互酬性が肯定されつつ否定されるという二律背反はなぜ必要とされるのか?

    第14章
     マーシャル・ジェヴォンズ「経済学殺人事件」には「経済的原理に反する行動をとる未開人社会があるはずはない」という前提が敷かれている。しかし「最後通牒ゲーム(AとBにある金額が渡され、Aがそのうち一定額をBに渡す。Bがこれを受諾すればABともその通りの分配金得られるが、Bが拒絶すれば双方ゼロ)」の実験結果が示すように、経済学が前提とするような合理性が人間の行動を一般的に規定するというわけではない。しかも、儀礼的な贈与交換が一般的であるような社会では、一方は相手方に最大限の取り分を提示し、提示された側はこれを拒絶するという、互いに寛容さを誇示するような行動が見られるという。経済的利益は贈与が行われる主要な理由ではないと言える。
     レヴィ=ストロースの「南フランスの大衆レストランの食事のしきたり」では自分のテーブルにあらかじめ置かれたワインを隣席のグラスに注ぐ慣習が紹介されているが、レヴィ=ストロースは、どのような社会関係にも「行為を呼びかけ」る側面があり、構成員はこれにより緊張を強いられているが、ワインを注ぐ行為はこのどっちつかずの局面を終わらせる効果があるのだという。グレゴリー・ベイトソンも、人間社会には「コミュニケートしないことのコミュニケーション」というメタレベルのコミュニケーションがあり、このような自己否定的なコミュニケーションよりは、むしろ当たり障りのない会話のような通常のそれが好まれる、と論ずる。こうした会話は経済的に無効用な贈与交換に似ている。動物にはこのような行動は観察されないが、人間社会でだけこのようなことが行われる理由については、著者は贈与交換(とその至高の形態である婚姻)と狩猟とが原初的に深く結びついているからだとする。
     では贈与では何が贈与されているのか。モースによればそれは「贈与者自身」、つまり贈与者の人格、贈与者が「何ものであるか」が外化されたものだという。だからこそ、市場交換では売買された対象物を転売しようと廃棄しようと非難の対象にならないのに、贈与交換でそのようなことをすれば贈与者の人格を傷つけることになるのだ。贈与物は贈与者の主体から切り離されることのない贈与者の拡張であり、贈与するということは贈与者の自己性を受け手の他者の核にまで延長することなのだ。
     パプアニューギニアの「モカ/テ」と呼ばれる贈与交換は、贈与する/される側双方の相互承認を媒介する機能を持つ。贈与物は贈与の関係の外部にその価値の基礎を置くようなものではなく、贈与の関係そのものに基づいているのだ。だがそれでも前章の「互酬性の二律背反」は解決されぬままだ。なぜ贈与は互酬を志向しながら拒絶するという背反性を持つのか?

    第15章
     双子の誕生を危険視する原初的共同体は多い。そのうちの一つザンビア北部のンデンブ族では、双子の誕生を女性の贈与としての婚姻の失敗であるという含意があるという。双子という概念は物理的に「二」でありながら社会構造上の座は「一」であるという「意味作用の機能障害」を呈しているが、このような概念をレヴィ=ストロースはその意味するところが決定不能であるとして〈浮動するシニフィアン〉と呼んだのだった。この議論には構造主義の「意味作用における差異の優劣」、すなわち「一つのシニフィアンの同一性はそれ自体では認め難く、それを含むシニフィアン全体の系列の中でしか把握されない」という前提に立つが、しかしそこには「差異が機能するためには、そこにおいて差異が設定される「全体」を必要とする」という重大な反例がある。差異の前提となる「全体」自体は、差異を媒介とせず直接に同一性を持つほかなく、シニフィアンのあらゆる同一性は差異を媒介として付与される、という原則が破られてしまうのだ。ここで、それ自体指示内容を持たない〈浮動するシニフィアン〉はそれが補填されることで差異が機能しシニフィアンが作動するための「全体」性を構成しているということもできる。
     分析哲学者のソール・クリプキは、名前とは対象の性質についての「確定記述」の束であるとする「記述説」を批判し、「確定記述」では捉えきれない対象の性質があるとして「反記述説」を提唱した。アインシュタインの確定記述(相対性理論を発見した、など)を列挙した後、実は相対性理論が別人の発見によるものだということが判明しても、「アインシュタインはアインシュタインではない」ということにはならない。アインシュタインとは「アインシュタインと呼ばれるものである」としか言いようがない。アインシュタインに属する諸性質に同一性を与えているのは「アインシュタイン」という名前の方なのだ。
     「贈与物は贈与者自身の分身であり、贈与物の受け取りは他者の承認である」であるのだとしたら、他者の承認とは「他者を名前で呼ぶこと」に他ならないのではないか。反記述説によれば、一つの名前で呼ばれることがその個体の同一性(アイデンティティ)の全てである。他者のある特定の性質(〇〇が上手である、〇〇が綺麗だ、など)のゆえに肯定するのであれば、それは他者の性質のみを部分的に承認しているに過ぎない。全体的な承認とは、記述に還元できない何か、すなわち「名前」の承認でなくてはならないのである。しかしその名前が意味しているところのものといえばそれはまさに「名前」であり、トートロジーつまり無内容に他ならないが、では何が承認の対象とされているのか?
     他者を愛する際、ポジティブな要素のみをその理由にするのであれば、それは愛という全的な承認とはならない。これに対し、否定的な性質つまり欠点は、相手の全的な承認の至高の理由(「そこがいいんじゃない!」)にまで高められうるのだ。
     「アインシュタイン」という名前で指し示されるのは、アインシュタインの本質が、それが持つ性質のいずれでもないということ、そしてそれらの性質のいずれを否定してもアインシュタインでありえたこと、アインシュタインが他でもありえたこと、に他ならない。つまり名前が本来さし示しているのは、対象の同一性(…である)よりも差異性(…ではない)なのであり、必然性(AはAでしかない)以前に偶有性(A以外の他でもありえた)ということである。
     差異性や偶有性は否定的な様相なので、現実の中に具体的な像を結ぶことはない。しかし欠点はまさにポジティブな性質の欠如を示しており、このような否定性や不在性によって本来は現象しえない差異性や偶有性が間接的に表現される。愛が差異性や偶有性への指向性だとすれば、他者への全的な承認が欠点の承認によりもたらされるのは、このような形でのみ差異性や偶有性が具体化されるからなのだ。
     しかし名前の実際の使用により指し示されるのは、これとは全く逆に「まさにこれ」という対象の同一性と必然性なのはなぜか?通常の二項対立は異なる二つの実体間の対立だが、これとは別に「一者」の内部での〈原本的二項対立〉がある。アインシュタインの内部には「…である可能性」と「…ではない可能性」の二項対立があるのだが、人がアインシュタインの名前を呼ぶ時には後者の可能性はすでに排除されている。名前が同一的で一義的な実体と結びつくには、この原本的二項対立は最初から排除されていなくてはならないのだ。双子が危険視されるのは、一者がそれ自体において二者であるというこの原本的二項対立を触知可能な身体として現前させており、シニフィアンの機能を阻害する事態を呈示しているからなのだ。

    第16章
     そもそも贈与とは何か。日常言語学者のギルバート・ライルによれば「理解する」とは〈分割(文節化)〉することである。一つの実体をより小さな部分へと分割し続けていくと、最終的に最早二つの「積極的な」部分に分けることができない極限、つまり「一つの部分と無との間の分割」に至るほかない、という。アインシュタインを「ユダヤ人」という側面(部分)p1とそうではない側面q1に分割し、さらにp1を「物理学者である」という側面p2とそうでない側面q2に分割する…と続けていくと、ゴールに辿りつくのは、piという側面に対立するqiが最早これ以上の分割ができない「無=0」になった時だ。この無=0こそが、反記述説で確定記述の束に還元尽くせないとされた部分なのであり、逆に言えばこの「無」自体が一つの部分であるかのように扱われ積極的に実定されなくてはならない。こうして一者1は、確定的に記述できる部分(p1, p2, p3…pi)と無(qi)にの二項に分割される(1=1+0)のであり、この1と0の対立が前章の〈原本的二項対立〉なのだった。この無0があらかじめ排除されている限りでその一者の同一性が定義可能なものとなるのであり、一般的な二項対立(A/非A)に先立ってこのいわば不明瞭な二項対立、〈原本的二項対立〉が存在すると言える。これは言ってみれば「1個以上だが、2個未満である」ような項の間の関係であり、我々が二項対立を意識する時にはそれはすでに排除されていなければならない。双子が忌避されるのは、この本来は立ち会うはずのない、1であるのか2であるのかが不明瞭な両義性を現前させてしまうからだったのだ。
     13章で見たように、贈与を受容することはそれ自体でミニマムな反対贈与なのだった。Aの主観では、自分の贈与①(A→B)に先立ってB→Aの贈与②がすでに行われており、①はAにとっては初めから反対贈与、つまり①の贈与によって②が遡及的に存在することになっている。どうしてこのような「お返しの義務感」が生ずるのか?贈与の授受の主体は共同体ユニットを代表する個人だが、その際には共同体ユニットを〈拡張された私〉とみなす意識、〈われわれ(家族・氏族等〉とは何者かというアイデンティティへの自覚がなければならない。すると、儀礼的贈与交換が成立する必要条件の一つは氏族等の共同的ユニットを支配する〈第三者の真級〉が措定されていることであろう。
     〈われわれ、私〉が他に自らのアイデンティティを呈示するとき、「われわれはp1,p2,p3…である」という自己定義をいくら繰り返しても、原初的に排除されているqi=0をそこに組み込むことはできない。つまり、〈われわれ〉は、〈われわれ〉自身であるために必要な「肝心な何か=qi」を欠いている、という感じを抱かざるを得ない。ではそれはどこにあるのかと言えば、〈われわれ〉にとって疎遠な場所、すなわち〈他者〉に他ならないだろう。すると〈われわれ〉はそれを他者から与えられなくてはならないことになる。贈与を駆動する力は、このように〈われわれ〉の本来的な自己疎外の構造、すなわち自己自身であるために不可欠な何かが最初から〈他者〉に握られているように感じられる構造にあるのだ。贈与は、だから、〈他者〉の〈われわれ〉に対する承認であり、〈われわれ〉がその承認を受け入れたということを表現する最も確実な方法が〈他者〉に対する反対贈与である、というわけだ。そして、贈与者は被贈与者に対するアイデンティティの基礎づけという権威を及ぼすことになる。
     では、贈与が互酬性を求めているように見えながらそれが同時的・直接的で完全なものになった時はかえって破綻するのはなぜか。完全な互酬とはいわば市場経済における売買であり、売り/買いは同一行為の二側面であるのに対し、贈与/被贈与は二つの独立の行為であり、両者の間には時間の経過が必要になる。売買における参加者は対象物の授受と支払い義務に拘束されており完全な〈他者〉とは言えないのに対し、贈与とは贈与者が被贈与者のアイデンティティを定義する権威的・優位的な行為であり、〈他者〉にしかし得ないからである。原初的に失われているqiは他者からもたらされねばならないのだ。恋人の愛が絶大な効果を持つのは、その愛が〈私〉の内に恋人の心を惹きつけてやまない曰く言い難い魅力の核があることを教えてくれるからであり、そして同時にその恋人がいつ心変わりするかわからないという不気味な〈他者性〉を残しているからこそなのである。このように儀礼的贈与交換は、原本的二項対立の水準に由来する「排除」、すなわち〈私〉の単一的アイデンティティを根本的に規定不能に陥らせるようなqiが引き起こす一連のダイナミズムと言える。
     しかしまだ謎は残る。モース『贈与論』で紹介されるマオリ人の贈与交換では、贈与は「第三の人物」を介して行われる。クリスマスプレゼントもサンタクロースからもたらされる。なぜこのような第三の人物が登場しなくてはならないのか?

    第17章
     ホモ・サピエンスの10万年の歴史のうち、9割は狩猟採集生活が占める。初期の農耕民族は狩猟採集民族に比べ栄養状態も悪く寿命も短かった。にもかかわらず農耕が定着したのは、食糧生産の方が単位面積あたりの生産カロリーが高く、また定住により出産間隔が短くなり人口が増加しやすくなったためである。逆にいえば、人類には移動・遊動への強い傾向が備わっており、狩猟採集はその抑圧だということができる。そして、結果として生じた余剰食料の蓄積が、水平方向に授受されれば「贈与」となり、垂直方向に向けば「供犠」となるのだ。
     アイスキュロスの悲劇「オレステイア」では、互酬的な贈与交換に依拠する正義に加え、その互酬的等価性を判定し保証する第三の審級が登場し、復讐(反対贈与)の連鎖をメタレベルから調停しているが、これは農耕の開始とともに起動した機制だ。
     共同的ユニットが贈与交換によってい関係し合う社会(A型システム)では、その共同体は贈与交換で連帯しており、贈与の連鎖でつながり合うユニットのみが「内部」とみなされる。これに対し、第三者の審級を有する社会(B型システム)に移行すると、「第三者」の位置に立つ調停者の審級の対象となるユニットは全て同一の準拠的な共同体の「内部」となり、抗争の対象はその「外部」となる。A型のシステムの典型がカースト制度であり、そこではカースト間の接触は厳しく制限される一方、贈与を通じてカーストが相互に融合している。つまり内部/外部の区別について両義的なゾーンが決して消え去ることの無いよう慎重に配慮されているのだ。これに対し、華夷秩序を基盤とする中国はB型システムの非常に大規模なケースということができる。
     ではA型からB型への移行はどのように生じるのか。古代ギリシアの「メゾン」という慣習や「ギリシア七賢人」の伝説では、「価値あるものは神に捧げられるからこそ価値をもつ」という循環論的なロジックにより、対象に超越的な価値が付与されることが示唆される。

    第18章
     シェイクスピアの戯曲『トロイラスとクレシダ』では、第三の人物からの視点を介入させて初めて意味を持つような男女の交歓が描かれる。互酬的な二者間で完結しそうな関係に、わざわざ第三の人物を想定し自らをその第三の人物との関係に置くのである。
     文化人類学の研究対象となる社会では、しばしば「交叉イトコ婚(基準となるおじやおばの性別が父母とは逆)」が選考され「平行イトコ」は忌避される。交叉イトコは必ず異なるリネージ(血統)に属しており、女の贈与である結婚は異なるリネージ間でしか成り立たないからである。だがレヴィ=ストロースは、母方交叉イトコ婚が父方交叉イトコ婚より選好されることに着目し、後者は2つのリネージ間で〈限定交換〉、すなわち2ユニット間での互酬的交換に相当するのに対し、前者では多数のリネージを一方向的に循環する〈一般交換〉が得られるとする。著者はこの一般交換を作動させる力が、BがAから受け取った女性を、Aの向こう側にいる第三者Xに由来するものとして受け取ろうとすることの結果であると指摘する。父方交叉イトコ婚では贈り手と受け手が限定交換の中に閉じてしまい、第三者の介在する余地がないのだ。
     復讐を正義のための義務とする互酬的贈与交換に基づく社会システムから、調停的審級機能を持つ社会システムへの転換はどのように行われるのか。後者の大規模な形態が秦以来の中華帝国であり、その特徴は比類のない広大さにある。そこでは朝貢関係に代表される、贈与の連鎖を皇帝へと中心化した大規模な再分配システムが権力を裏打ちしており、特権的な一者である皇帝は審級者として朝貢の形で贈与の関係を最大限に利用している。これに対しインドのカースト制は、システム全体を背骨のように贈与の連鎖が走っているが、それ以外の贈与の関係は可能な限り排除されている。中国のような再分配システムと調停的審級はどのように生じたのか。白川静によれば「正」の本来の意味は「他邑を征すること」であり倫理や規範とは直結しない。そして征服者の最も重要な任務は賦税の徴収であった。つまり「正当」な支配や政治が、被支配者に対し「贈与」を強制することを意味していた。さらに中国では、他国を征服することは非征服者が奉じていた神を「客神」の形で自分たちの神を中心としたコスモロジーに統合することを意味した。最初の中華帝国・秦は、韓非子に代表される「法家」の哲学、すなわち「信賞必罰」…身分に関係なく命令違反者は罰し功績者は褒賞することを奨励していたが、これは互酬的な贈与交換/復讐の原理を国家が独占的に行使することに他ならない。これが中華帝国の完成である。
     このような強力な再分配システムはどのように生じるのか。まず贈与では常に贈与者の側が優位であり、受贈者側は反対贈与をせざるを得ないという「負債」感を抱くが、この負債感は現実に相応の負債がないにも関わらず生じることがある。事前に「懇請の贈物」と呼ばれる予備的な反対方向の小さな贈与が行われることで受贈者に負債感が呼び起こされるのだ。すると一方向的かつ直線的な反対贈与が大規模に行われ、贈与の終点では凄まじい富の集積が起こる。この最終者の手前にいる部族の長が「ビッグメン」であり、人々の尊敬を集めることになるのだが、この贈与を継続して受け取るためには自分がそれに足る人物であること、つなり人々に恩恵をもたらす能力を持つことを証明せねばならない。それがビッグメンから人々に対する大盤振る舞い(蕩尽)であり、最初の贈与を正反対に戻ってゆく。この振り子のような贈与の流れは、広域的・集権的な権力の発生を防いでいるかのようだ。ここからどのような飛躍によって中国の再配分システムが生じるのだろう。

    第19章
     歴史的に見れば中国では中央集権的な官僚支配が、インドでは諸王国の乱立状態が常態であり、両者では歴史的デフォルト状態がちょうど逆になっている。中国とヨーロッパの差異を循環論法に陥らずに説明できる要因として地形(中国は平坦、ヨーロッパは山岳や河川で分断)が挙げられるが、その前提としてそもそも国家建設行為とは何を意味するのか。
     人気ある歴史物語『三国志演義』に通底するテーマは第一に「中国は単一の帝国でなくてはならない」である。ヨーロッパの封建制とは異なり、中国では地方に拠点を築くだけでは
    領土内の正当性を保つには足りず、中央政権の奪取を目指さなければならなかった。そして第二に「帝国を維持するために〈幇/幇会〉という完璧に利他的な連帯が必要だ」であり、桃園の義盟や「水魚の交わり」などの理想的関係を形成することが正当な帝国の条件とされた。
     また『三国志』が説くのは、戦争に関して有能であるということは、支配者=皇帝の資質の最重要要件ではない、ということだ。しかし逆に中国の地形に着目すれば、中国において帝国的規模の統一が早期に確立しその後も維持されてきたのは、戦争に都合の良い地形的基盤があったからだと言える。軍隊におけるメリトクラシーの徹底が文民の任官にも適用された結果として官僚制が発達し、また戦争状態を思想に適用することで「諸子百家」が成立することになった。秦が採用した「法家」思想は、戦争における信賞必罰の理念を内政に転用したものだ。だが、結局は戦争により覇権を握った秦は短命だった。三国志が物語るのは、帝国の統一性の維持にあたって戦争の論理とは異なる原理が機能していたことを含意するのではないか。

    第20章
     毛沢東の「大躍進政策」を批判し失脚した彭徳懐のエピソードが示すのは、毛沢東に対する中国人民の従順さとともに、彭徳懐にクーデターを起こさせなかった「文民統制」の驚くべき堅牢性である。現在も人民解放軍には政治委員が張り付いており、単独で軍事行動は起こせない。ローマ帝国のカエサルやリビアのカダフィとは対照的に、軍人の権力や権威が文人のそれより劣後するというのは中国史全般に見出される特徴だが、その地形に照らしても軍事力が重要であったはずの中国でなぜ文人の優位が起こったのか?軍事国家の秦に、何が付加されて文人優位の漢になったのか?
     秦は戦争の論理を内政に転用した法家思想を重んじたが、一方で「焚書坑儒」の古事に見られるように儒家を弾圧した。しかし両親に対する義務を重んじる儒教は、本来中国社会の基本単位である「宗族」と呼ばれる父系血縁集団のイデオロギーの基盤となるはずだ。商鞅ら秦の指導者らが儒教を厳しく弾圧したのは、皇帝を権力の中心に置く社会システムの編成のためには、家族や親族への愛着をキャンセルし、法家の信賞必罰により皇帝へのそれへと変換しなくてはならなかったからだ。
     漢が秦と異なるのは、儒教とそれに承認された親族単位を復活させた点だが、法家の思想は絶えることなくその後の中国にも受け継がれている。儒教には家族の連帯だけでなく皇帝への服従を動機づける二重性があった。また、中国の諸地域から世襲的な支配が根絶され、これに代わり全国的に一律な行政期間が導入されたことで、法家的なものが継承された。漢の高祖が導入した「郡国制」でも、土着の領主や王は地方を支配するだけでは身分を保証されず、中央政府の中で地位を持ち承認されなければならなかったように。こうして儒家と法家は中国社会の中で接続されてきたのだが、時に儒教として、時に中国共産党のような権威として現れるこれらの機制を接合する概念として「天」が考えられる。これに実効性を与える何らかの社会的メカニズムがあるのではないか。
     
    第21章
     モンゴルはチンギス・ハーン即位の時点で相当に「中国化」していた。中国は絶えず外囲の蛮敵の侵略に晒されてきたが、不思議なことに中国の文化や制度にその痕跡はほとんど認められず、逆に侵略者の方が中国(漢族)の伝統を採用した。これはなぜか?
     中国帝国の皇帝となるべき資格については一種の二律背反(アンチノミー)が認められる。「誰もが皇帝になれる(e.g.隋の文帝、唐の高祖)」が、逆に「どんなに力があってもなれない者はなれない(e.g.韓信、彭徳懐)」のだ。
     経済学者マンサー・オルソンによれば、皇帝の権力の発現過程は市場原理によって説明できる。地域を略奪する小盗賊団同士の争いから、一つの盗賊団が規模を獲得するようになり、それが最大規模に達したものが国家である。国家が行う略奪が「税」である。そして、国家は近視眼的な収奪よりも公共財を社会に提供し安定的な秩序をもたらした方が利益が大きいことを学習する。国家的盗賊の収入を最大化する最適搾取率が模索されることになるのだ。しかし、F・フクヤマによれば中国の歴史的な税率は、国家が公共財(特に国防)を提供するレベルの水準に遠く及ばず、理論上可能なはずの大きさの権力を行使していない、という。さらに、徴税権を委託された末端の役人や政治家が勝手に中間搾取し、中央政府が得るべき利益を削減してしまい、完全な独立支配を阻んでいるという事情もある。中国の国家権力はオルソンのモデルとは異なる論理に基づいているのだ。
     それはやはり〈天〉ではないか。溝口雄三の考察によれば、中国の〈公〉の概念には日本の「おおやけ(多数者間の公平な分配)」の意味のほかに、それらを超える普遍性を指す〈天〉が追補されているという。〈天〉は〈公〉よりも外延的に広い範囲を指示しており、その〈天〉に基礎付けられて初めて〈公〉に道義性が宿るのだ。

    (文字数の関係上第22章以降は再読メモへ)

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    2025年06月29日
  • ふしぎなキリスト教

    Posted by ブクログ

    これは宗教版の「銃・病原菌・鉄」ではないか!

    なぜ、中世以前まで栄えていたイスラム圏を圧倒してキリスト教圏が近代文化の覇権を握ることになったのか。
    いかに、私たち近代文化の思考の根底にキリスト教的な考えがあるか、がよくわかる。

    キリスト教は厳格な宗教法を持たなかったため、柔軟に法律を作る、変えることができ、民主主義、資本主義の発展につながった。

    解釈の余地があるということで、そこから自然科学や哲学が生まれ、科学技術の発展や産業革命に寄与した。
    あらかじめ、法則が決められていたら、考える必要もないのだ。「なぜだろう?」がどれだけ素晴らしい魔法の言葉かがよくわかる。

    さらに、人権についても、「神が自然を通じて人に与えたものだから国家はそれを奪えない」というキリスト教における自然法からのアイディアだったとは驚き。

    これから、このキリスト教的な近代文化、資本主義文化がどう変わっていくのか。
    エルサレムとパレスチナの問題が激化し、さらにイランへの攻撃が始まったいま、これらを包摂する文化がどう変容していくのか、日本も蚊帳の外ではなく主体的に議論していかなければいけない。

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    2025年06月17日
  • 〈世界史〉の哲学2 中世篇

    Posted by ブクログ

     本書では前作に引き続き「普遍性の起源」のありかが模索される。前作では主にヘレニズム/ヘブライニズムの相補性に焦点が当てられていたが、本作はその相補性を基盤として生じた「西洋」という普遍性の生じたメカニズムに、主に「三位一体」を巡る論争を軸に迫る。前作に引き続き思索の端緒となるのは「矛盾」、特に「原因と結果の転倒」だ。「因果関係の矢があるべき向きと逆であるにもかかわらずそれを用いた論理が温存されているならば、そこには何らかの重大な意味が隠されているはずだ」と考えるのである。矛盾の起源とその定着の原因を突き止める著者の推論は刺激に満ちており、まるで安楽椅子探偵ものの推理小説を読んでいるかのようなスリルを味わうことができる。また論点ごとにまず著者の抱いた疑問が提示され、各種資料をもとに自らこれに答えていくというオーソドックスな自問自答形式が用いられているので、極めて読みやすい。

    (以下はまとまりのない要約)
     
    第1章
     すぐれて文化的に特異的な出来事、特に「資本主義」とその起源である「西洋」が普遍的な訴求力を獲得するという交錯的なメカニズムはどのように生じたのか?そしてローマ帝国の東西分裂に伴って分裂した「ギリシア正教」と「カトリック」したキリスト教のうち、後者のみが「西洋」を成立させる普遍性を獲得したのはなぜなのだろう?
     イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム論」によれば、「世界=経済」は「長い16世紀」を通じて西ヨーロッパを中核として(そしてアジアを周辺=搾取される側として)形成された。しかし近年エリック・ミランなどから、資本主義的な経済システムは中世後期の12世紀にすでに始まったとする説が提起されている。この「世界=経済」では、都市国家間のネットワークが中核をなす一方、搾取されるべき周辺をなすのは東ヨーロッパだった。ではこの東西ヨーロッパの格差が生じたのはなぜか?
     東西ヨーロッパを分ち隔てた正教/カトリックの宗教原理の違いとして、著者は前者が「隠蔽/不可視化」を指向するのに対し、後者が「顕示/可視化」を特徴として持つことを指摘する。偶像崇拝を禁止した正教に対し、カトリックは聖画像などの視覚イメージを積極的に布教のために用いたが、この相違は両派間の「フィリオクエ(Filioque)」という一語を巡る論争と対応関係にある。三位一体の定義を巡る論争において、「聖霊は父から生じた」として「父の有意」を堅持する正教に対し、カトリックは”Filioque”という一語を挿入し「聖霊は父と子から生じる」と主張したのだ。正教では「聖なる権力」を有する「父」即ち教皇の優位のもとで「俗なる権力」即ち国王が権力を行使するという「聖俗一元」だが、カトリックでは父と子が同格である「聖俗二元」であり、聖なる権力(父)と地上の権力(子)が拮抗しているのだ。
     ところで「子」とは十字架で死んだ「イエス」であり、まさに「死んだ」というその事実によって彼が人間であることが示される。中世は聖人の「死体」やその残額である「聖遺物」への執着を顕著な特徴としているが、この死体や聖遺物こそが中世における都市ネットワークの中核をなし、ひいては中世に「西洋」なるものが生じた起源なのではないか?

    第2章
     ラカンの言説の4分類のうち、事実確認文の集合である「大学の言説」に「大学」の文字が用いられているのは、事実確認の象徴が「大学」であるのが自然であるような社会的状況の中にラカンが生きていたからだという。ではなぜ中世の西ヨーロッパ(ラテン語圏)でのみ大学が発展したのだろうか。大学は「開放性」と「世俗性」を特徴とするが、これは中世ヨーロッパにて知(学問)が信(宗教)から分離したことを意味している。確かに、トマス・アクィナスが「哲学は神学の婢女(はしため)」と言ったように、中世期の知は信に従属してはいた。しかし18世紀後半にはカントが哲学の宗教からの独立を果たしたことからもわかるように、キリスト教の最も興隆した時期である中世期に、同時にキリスト教を相対化/否定するような動きが生まれていたのだ。
     哲学の内部にも、宗教に対する哲学の違和感は〈神の存在証明〉として痕跡を残している。アンセルムスやアクィナスは、信仰を一旦「カッコに入れ」、その信仰を新たに批判的考察の対象とすることで信仰の合理性を示そうとしたが、「神の存在を証明せねばならない」という事実そのものがすでに信心の喪失を表しており、神の存在を危うくしているという逆説である。のちに学問発展の端緒となったこの懐疑が、キリスト教が最も隆盛を誇った中世に生まれたのは不思議なことだ。
     アンセルムスやアクィナスがわざわざ神の存在証明を試みたのは、同時代の「普遍戦争」におけるアベラールなどの「唯名論者」が、存在するのは個別の事物のみだとして普遍者の存在を否定したことの対抗である。だが、キリスト教がユダヤ教を「乗り越え」る形で成立したことに鑑みれば、もともとキリスト教には自己否定的な両義性/逆説が内在していたとも言える。
     アクィナスは、神の存在を我々の経験的な感覚に基づいて証明しようとしたが、神を経験可能な通常の事物として扱ってしまうと、神の現象世界からの超越性が毀損してしまうという矛盾に陥る。従って、神の超越性を温存するため、神の普遍的な存在のありようはその他の事物のそれとは全く異なるのだが、同じ語を用いて隠喩的に「存在する」ということが可能である、とする〈存在の類比〉なる概念をひねり出した。これに対しドン・スコトゥスは神と事物の存在のあり方は全く同一である、とする〈存在の一義性〉を主張したが、そうすると神は特異性を備えた一介の人間でしかないことになり、無限定性・普遍性を喪失することになる。
     このまったき逆説は、「神の人間世界との間の超越性と連続性を共に確保せよ」という無理な要請に由来する。そしてまさにこの条件に合致するのが「完璧に神でありながら同時に完璧に人間である」というイエス・キリストに他ならない。トマスはイエス・キリストの普遍性を、スコトゥスは特異性を温存しようとしたが、両者ともにその反対方向のベクトルの間にいるイエス・キリストを捉え損なっていると言えるのだ。
     
    第3章
     西洋キリスト教(カトリック)の権力の二元性は西欧のみで見られる現象である。フーコーは権力を分類(主権領土国家の権力・近代社会の規律メカニズム・人間たちの統治)した上で、18世紀に「主権と統治の分離」が生じたとするが、「主権から区別された統治」の根源には教会による「魂の統治」があったと見ていた。では初期キリスト教の司牧の統治と18世紀以降の近代の統治とはどのように連続しているのか。
     中世の物語「円卓の騎士」に「足萎えの王」なる逸話があるが、この不具の王は傷のため具体的な統治は何一つできないが実質的には君臨しており、主権と統治の分離、そしてその統合を象徴する存在と言える。そして無力な彼が威厳を維持するのに一役買っているのがキリストの血である(ロンギヌスの槍)。
     中世のキリスト教社会は死体に魅了されており(第1章)、聖遺物=アルマ・クリスティが繰り返しイメージとして用いられた。各種資料によれば、キリストの身体は磔刑に処せられた時の脇腹の傷口を媒介にして信者を引き寄せる力を持っていた。さらにキリストがその傷口から乙女(エクレジア=教会の寓意)を出産するイメージが当時流布していたことから、著者はキリストの身体は教会を生み出す女性器のような役割を有していたと主張する。キリストの身体/死体は、出産と育児のように、分離と再結合を寓意する存在として用いられたというのだ。
     そもそも2種類の権力(権威・世俗)が要請されるのはなぜなのだろう。ジョルジュ・アガンベンの近年の主張では、中世キリスト教神学には〈存在論的パラダイム〉と〈オイコノミア的パラダイム〉(オイコノミア:「家の」。economyの語源)という2つのパラダイムが存在しており、前者は「神の存在」を、後者は「神の活動、神による世界統治の活動」を問う。そして前者が権威的/霊的権力に、後者が世俗的/統治的権力に対応している。この〈オイコノミア〉は古代ギリシャでは明確に政治と区別されていたが、パウロの「テモテへの第一の手紙」ではオイコノミはメシア的共同体(教会)と整合的な用語として用いられていた。ここで前章の〈普遍論争〉を顧みると、それは存在論的パラダイムの文脈での論争であり、超越的な審級にただ君臨するのみの「霊的権力」に関するものであった。翻って「神の実践」に関するオイコノミア的パラダイムが焦点を当てるのは、三位一体における〈子なるキリスト〉、現象世界に受肉して救済を実践する位格に対応する「世俗的権力」である。
     ではそもそも三位一体などという面倒な教義がなぜ存在するのか。神はなぜ子として受肉しなければならなかったのだろう。全知全能なる神は恩寵の分配に不公平があってはならないが、現実的には分配に偏りが存在する。ここから「むしろ神は人間の個別の事情に通じていてはならず、我関せずとばかりに超越していなければならないのだ」という転倒した論理が生じる。すると、個別具体的な恩寵の配分にあたっては、神の代務者、即ちイエス・キリストが、神の普遍的法則である〈一般摂理〉を基調としつつ個々の偶然的な事情を加味しながら行っている〈種別摂理〉のだ、とする了解が説得力を持つ。前者に対応するのが権威的権力であり、後者がオイコノミア的な統治的権力ということになる。
     しかし、なぜ一般摂理だけでは足りないのか。なぜ、超然とした神は個々の救済や恩寵に全く無関心である、とするのではいけなかったのか。神の受肉=子なるキリストが要請されたのは、ユダヤ教の硬直した律法主義を脱構築するためだとされるが、一方で新約聖書には「律法の無化はそれ自体新たな律法の真の成就である」ともある。つまり、イエス・キリストは、ユダヤの律法や規範を一度停止した上で、キリストに媒介されキリストの意思を反映した独特の仕方で受け取り直すために受肉したのだ。すでに存在する超越的な規範(霊的権力)を一旦宙吊りにした上で、改めて個々の具体的な命令(俗的権力)へと転換する地上の指導者、それがイエス・キリストなのだ。では、そのような存在を要請した必然性とは一体なんだろう?

    第4章
     ジャック・ル=ゴフによれば、中世では四旬節(断食や節制が要求される復活祭の前の46日間)と謝肉祭(四旬節の前の肉食を伴う饗宴)が共存していた。また、肉食を罪悪としながら、キリストは最後の晩餐で肉食を薦める。キリスト教はこのように「禁止を規定しながら、その禁止の対象となるべき行為が許容される」という矛盾に満ちた断絶を内に抱えていたが、著者はこれを前章のイエス・キリスト、法を終わらせるためのキリストという要素の存在で説明しようと試みる。
     中世においては肉食と同様、性欲も蔑視の対象であった。1215年のラテラノ公会議で一夫一婦制が制度化されて以降、「正当な性交」のみが許容され、聖職者のみならず俗人もよくこれを守ったという。そして、中世のキリスト教は「原罪」を基本的に性的な罪であるとみなした。それまでの聖書解釈では原罪に性的な含意はなかったにも関わらずである。このことは、キリストが法(ユダヤ律法)を愛(隣人愛)へと置き換えたことを想起すれば非常に奇異に見える。ここにも肉食に対するキリスト教の態度と同じ矛盾があるのだ。即ち「キリストが肯定的に示したまさにその営みが、同時に最悪の罪と見做される」という矛盾である。
     中世期のキリスト教においては、身体から生じる二つの液体、即ち精液と血液に強い忌避感情が見られた。しかしイエスは最後の晩餐で肉と同様に自らの血であるとしてワインを弟子たちに薦めるのである。さらにキリストの聖痕が当時最も強い崇拝の対象となったということもこの血液忌避感情と矛盾する。どうやらキリスト教の教えそのもの、特に「愛の教え」そのものの中に矛盾の源泉がありそうだ。「愛が法を成就し、まさにそのことが法を棄却する」とはどういうことか?

    第5章
     前章の矛盾(二律背反)はなぜ生じたのか。法を本体とするユダヤ教の脱構築として生じたキリスト教は、もともと法(律法)を持たない。そう考えると、キリスト教とユダヤ教の関係が、キリスト教の内部で生じたときにこのような矛盾が生じるのではないか。
     そもそもなぜキリスト教はユダヤ教に後続したのだろう。なぜいきなりキリスト教が生じたのではないのだろう。ユダヤ教はキリスト教にとっていかに重要な前提であったかは、キリスト教が旧約聖書を重要な正典とし引き継いだことからもわかる(イスラム教では新旧聖書はクルアーンと同等には扱われていない)。キリスト教がユダヤ教との関係でしたこと、それは「法を愛で置き換えた」ことに尽きるが、しかしユダヤ教を単純に否定したわけではない。新約聖書は「法を成就した」としていることから、キリストは「法を成就することで法を無効化」したことになるはずである。
     ユダヤの最高神ヤハウェは見れば死ぬとされ、人間に現前しない神である。ということはそれは存在しない、むしろ死んでいるに等しい。つまり、ヤハウェは人間に法を授与した後は事実上死に、「足萎えの王」さながら無為のまま君臨するのみの存在となる。すると神の残したはずの法は神の管理下を離れ、人間の恣意的な解釈に対し無防備となってしまう。これは法の不在と同じ事態である。カフカの小説「法の門」では、法は人間の欲望の相関物、欲望の投影であることが示唆されるが、ユダヤ律法のもとではそのような法が完成を見たとき、同時に神の死=法の死が起こっていたのだ。
     ではこの法が愛に転換されるとは?よくある弁証法的な説明は、最初に愛があり、そこから生じる不公平や贔屓を是正するものとして法が導入されるが、この法が原初的な愛にとっては抑圧的であるため、最後に法の否定として愛と法との統合が生じる、というものだ。つまり「愛の普遍化」、愛そのものが法である、ということだが、著者はこの説明を否定する。愛がすでに法であれば、結局人々は欲望のままに好き放題やれば良いということになるし、また法がすでに愛を規定しているのであれば(仮に「神/隣人を愛せよ」という法があれば)自発的な愛が不可能となり、愛の実質的な意味が失われるからである。当時ユダヤ人に蔑まれていたサマリア人を隣人愛のモデルとして描く「善きサマリア人」の喩え話は、「より強い嫌悪の対象、より疎遠な者を愛せよ」と説くが、これは身近な者よりも疎遠な対象にのみ同情の念を抱くというコスモポリタン的な転倒に通じてしまう。
     したがって、キリストの「法の成就」はこのような意味ではあり得ない。そうではなく、著者は、「罪」と「法」の間の内在的な相互媒介関係(法が罪を誘発し、罪が法の構成的な契機となる)をベンヤミンの「暴力批判論」の〈神話的暴力〉に対応させ、その対立項としての〈神的暴力(法を否定し破壊する暴力)〉がキリストの「愛」と厳密に同じ働きを持つと喝破する。キリストが「私が来たのは…(中略)…平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである(マタイ10章34-35)」と述べたのは、愛が敵対/暴力の形で現象しうることの表明だという。
     結局、愛(性愛)と罪(姦通)は本質的に同じ内容を持つ。しかし、法との関係で置かれている形式な構造が異なるのである。愛は法のもとでは罪となりうるが、法から完全に切り離された時、「法が目指していても到達し得なかったこと」を実現する潜在力を持つ。ということは、イエス・キリストは、罪と法との相互媒介的な関係を断ち切るためにこそ必要とされたのだ、と結論できそうだ。ここで、第3章で言及された、ユダヤ律法を一旦棚上げし、その律法と同一命題をイエス・キリストの意志に帰属するものとして「受け取り直す」ための「神の子」の機能的役割と、同一の構造が見て取れる。本来、天上の超越的な「第三者の審級」に帰せられるべき法の妥当性を、全き人間としてのイエスとの特異的な関係に置き換えた時、罪は「生」として法の領域から完全に引き離されるのだ。では、「法が目指していたが実現し得なかったこと」、つまり〈普遍性〉を愛であれば成就できるのだろうか?むしろ愛は特異的な相手への執着を特徴としているのではないか?

    第6章
     キリストの説く隣人愛の「隣人」とは誰だろうか。当時蔑視されていたサマリア人を隣人の代表とする一方、肉親や自分の命までも憎めとするキリストの言葉(ルカ14-25)からすると、「隣人」とは最も縁遠く嫌な人間のことだが、さらに敷衍すれば「任意の他者」である。従って隣人愛とは普遍的な愛であり、無制限の包摂力を有する普遍的な共同体を可能とする紐帯の役目を果たす。この共同体をキリスト教では「聖霊」と呼び、神と人間を繋ぐ媒体のようなものとして扱われる。
     ではこの聖霊は神そして神の子キリストとどのような関係にあるのか。三つを対等の超越的実体とみなせば一神教の原則が破られ、いずれかを他に還元してしまえば(アリウス派)、ユダヤ教との差異が失われる。従ってキリストは真正の神性を備え、神と全く同一の実体であるとする「アタナシウス派」の説がキリスト教公会議で正当協議として採用された。父なる神と子なるキリストと聖霊とは、同一の「ousia(実体)」であり、かつ三つの異なる「hypostasis(位格)」である、というわけだ。正教会はこの「3であり、かつ1でもある」という矛盾を受け入れず「(父の)1のみ」としたが、カトリックはこの矛盾をそのまま継承していることになる。
     神と聖霊だけなら矛盾はないのに、なぜ子なるキリストが必要なのか。フォイエルバッハによれば、神とは人間の〈類的本質〉の疎外された形象のことだが、だとすると神と類的本質は同一実体を持つということになるが、それでは宗教の持つ神秘性をただ類的本質に移行させただけとも受け取れるため、マルクスはこれを批判して、「社会的関係性の特定形態」が物象化され対象性を帯びたものが「神」であるとした。この「社会的関係の特定形態」を「聖霊」に置き換えれば二位一体が導かれる。ここにわざわざ神と反対に血肉を有する死すべきキリストを挿入した理由は、ヘーゲルがすでに考察しているという。神は〈即自〉、即ちそれ自体として超越的かつ必然的な存在であるのに対し、聖霊は〈対自〉、信者たちの活動を通じて賦活する想像上の共同体だ、という。〈即自〉から〈対自〉への直接の移行が不可能なため、この2項を接続する存在、つまり神の必然性と対立する偶然的な人間であり、また聖霊の普遍性と対立する特異的な人間なのだ。
     神による救済を「神との契約」とみなし民族単位で考えるユダヤ教に対し、キリスト教はキリストを境に契約が更改され救済は個人単位になったと考える。かくてキリスト教は民族的特異性から解放され普遍宗教となったのだが、ではそもそもなぜ神は直接自ら契約を更改せずキリストを遣わしたのか。ユダヤ教もキリストなしで当時すでに普遍宗教の特質を備えていたし、イスラム教のように預言者ムハンマドを置くのみでも良いではないか。可死的なキリストはなぜ必要だったのか?
     ここで西洋中世の都市環境の特徴を考えると、まず中央集権的な支配形態が存在せず、領主等から特権の保障を受けた都市自体が重要な権力の担い手であったこと、そしてその都市間にネットワークが形成され、資本主義的な近代世界システム(世界=経済)が発祥したことが挙げられる。そして、著者はその都市ネットワークの中心に「死体」があったのではないかというのだ。当時、都市の発展の鍵はいかに重要な聖人の遺体や遺物を収集し得たかにかかっていた。都市における宗教ギルドとしての「兄弟会(信心会)」は特定の守護聖人、神の国への「とりなし」を斡旋する聖人への信仰を媒介に形成されたが、その紐帯として機能したのが聖遺物であった。聖遺物は、死んだキリストの身体の代理物として中世の諸都市に散種されたのだ。三位一体の教義では神と共同体(聖霊)の媒介物として可死的な神の子キリストが観念的に要請されていたことが、ここでは現実の都市の社会過程として具体化されているのである。そのことはアルプス以北の都市で盛んに挙行されたという「プロセッション」という行事を見ても確認される。
     中世後期、聖フランチェスコに代表される「托鉢修道士」が都市に拠点(修道院)を置くと都市が発展し、巡礼者が都市間を移動し始めた。すると彼らは商隊のように経済活動を始めたというのだ。貨幣経済や商業活動に批判的だったカトリック協会とは対照的に、托鉢修道士は商工業からの利潤を正当な対価として積極的に承認したという。著者はこれが資本主義経済の萌芽ではないか、とする。フランチェスコがキリストを模したことを考え合わせれば、死せるキリストの代理物である聖遺物を媒介とした中世都市間ネットワークが、生けるキリストの代理物である修道士によって資本主義的システムの原型を獲得した、というわけだ。

    第7章
     キリストの死体と見做される聖餐を食すことを通じて、キリスト教徒は聖霊的な共同体への連帯を獲得する。また中世後期の西欧で流行した「死の舞踏」という絵画では死者に導かれて墓地へと行進する人々の姿が盛んに描かれたが、これは前章の都市の守護聖人のためのプロセッション(行進)が重要視されたことを想起させる。なぜかくも人々は死に惹き寄せられたのか。
     キリスト教的共同体〈聖霊〉の基底をなす「隣人愛」とは、どのくらい自分のものを放棄することを言うのだろうか。「善きサマリア人の喩え」によればそれは完全な放棄、つまり「持っているもの全て以上のものを放棄すること」であることが示唆されているが、それはどのようにして可能なのか。人が「持っているhaving」ものを全て放棄したのちに残るもの、それはその人が「何であるかbeing」、即ち存在の水準である。これは自尊心や自己満足に関わる領域と考えることができるが、この水準を放棄してようやく完全な放棄と言えるのだ。このことから、托鉢修道会が蓄財により裕福になったという逆説は以下のように説明できる。「善き者」として認められるには神すなわち〈第三者の審級〉の承認を得なければならないため、人々は托鉢修道士に対し施しをすることで承認され、存在の水準での利得を得る。同時に托鉢修道会の側でも所有の水準を放棄した自らを存在の水準では「善き者」とみなしているので、施しを受けることを正当化することができると言うわけだ(つまり、修道士側も施す側も、所有の水準の放棄によって神に承認されることが目的化しており、本来の隣人愛という理念が忘却されてしまっている)。
     では存在の水準で善き者となるにはどうすれば良いか。アゴタ・クリストフ「悪童日記」に登場する双子は、いかなる自己陶酔、即ち「我々は善人だ」と言う自己同定とはかけ離れた行いをする。ここで示されるのは、〈隣人愛〉は「他者が必要としているものをいかなる思い入れもなく、ただ与える」という単純さの中にその本質がある、ということだ。(修道士への施しのように)「所有の水準の放棄を、存在の水準での利得のために行う」という転倒はここにはない。
     中世期の「普遍論争」とは、普遍的なもの、即ち「類」や「種」が実在するという〈実在論〉と、普遍的なものはただ名前を持つのみであり、実在するのは個物のみだとする〈唯名論〉の争いであった。通常、ドンス・スコトゥス(旧派)を実在論に、オッカム(新派)を唯名論にあてがうの通常だが、チャールズ・S・パースによれば、実在論とは「確定されないもの」を原初的で優先的なものとみなす立場であり、その逆に「確定されたもの」を第一義とするのが唯名論だという。スコトゥスの実在論は、個物は本来的に非確定的なものであり、それゆえに普遍性へと開かれている(普遍性を分有している)と考えるのであり、これに対しオッカムの唯名論は、個体は直接与件でありその何たるかは一義的に確定可能だとする。
     オッカムの唯名論に従えば、特定の個体(固有名)はその個体の性質に対応する〈普遍概念〉(…である)を十分積み重ねることによって記述可能である(記述説)。しかしソール・クリプキは、記述に用いられる述語のそれぞれに反実仮想が可能であることから、固有名には記述に還元されないものがあることを指摘した。個体はどのような規程からも逃れ得る、本来的に不確定なものなのであり、スコトゥスのいう「個体性」はこの不確定性を含む、どのような差異をも受け付け可能な基体なのだ。
     そして、著者はこの普遍性へと開かれた個体の至高のケースがイエス・キリストだと指摘する。「神の圧倒的な超越性を否定神学的に理解するには、神を規定する述語として、人間などの被造物に用いられるのと同じ述語を用いることはできない」とする立場に対し、スコトゥスは〈存在の一義性〉、即ち「神にも被造物と同様の存在概念を用いることができる」と主張した。それは、イエス・キリストが実際に被造物と同様に(プラトンのイデアのように特殊な在り方ではなく)存在したからだ、と著者はいう。全き個人でありながら、全ての被造物の贖罪のために死んだキリストは、特定の個人でもあり且つ任意の個人でもある、という、スコトゥスのいう根源的に不確定な存在なのだ。

    第8章
     中世期に「早すぎる埋葬」が恐怖された背景には、聖人の死体が保持する生きている兆候に積極的な意義を認めるという、死体に対する視線の変化があった。キリストは弟子たちに自分の身体だと言ってワインとパンを与えたが、これは一種のカニバリズムと言える。
     では人間にとってそもそも食とは?フッサールの現象学によれば、世界が人間に対して現前する場合、真か偽か(認識の水準)だけでなく、善か悪か(実践の水準)も問題になる。知覚される世界がまずあり、その上に実践的な関心に基づく価値が張り付く、というのだ。しかしハイデガーの〈世界内存在〉はこれを逆転させ、人間は最初から実践的関心をもって世界にいる、という。「目」ではなく「手」を規準にすれば、「手」の前にある存在者は様々な「道具」として現れており、そしてどの道具も他の道具と関連して有意義性をもつ。道具は常に何かの目的のためにあるのであり、だから世界は道具のネットワークだというのがハイデガーの主張だが、では究極かつ最上位の目的とは何かといえばそれは「生」であり、とりわけ「食」である。全ての世界内存在は「口」に対してあるのだ。
     現象学では世界は常に〈私〉の世界という形式で現象しており、〈私〉の意識は諸対象を身体を中心としてとりまとめるが、これを自分の身体に内化すればそれは享受=消費となる。これに対し、享受に暴力性・可傷性があることを指摘して食=同化の受動的な側面を強調したのが後期レヴィナスだった。〈私〉が傷つけられるということは、〈私〉を傷つける主体=〈他者〉が外部にいるということだが、この〈他者〉の能動性は〈私〉の方から捉えようとすれば〈私〉の受動性に変化してしまうため捉えることができない。つまり〈他者〉は〈不在〉とでしか感じることができないのだ。
     このことは「食」における〈私〉と食物の関係にも言える。食物もやはり〈他者〉性を帯びているのであり、だとすれば「食」の本質はカニバリズムだということになる。激しい性交や露骨な性器描写のようなしばしば嫌悪感を催す対象が、恋人同士では最も強く欲望される のと同じように、極度の嫌悪感と最高の快楽は一致するのだ。ラブストーリーでは性交の場面は直接描写されず暗示されるのみであるように、食においてもカニバリズムは(レヴィナスの愛撫のように)不在としてのみ追求され、そして暗示される代わりに「料理」という技術が用いられるのではないか。聖餐においては、このような形で食の本質が呈示されているのではないか。

    第9章
     聖霊が普遍的な共同体となるのに「子なるキリスト」はなぜ必要だったのか。樺美智子、山崎博昭、内ゲバの犠牲者の例を挙げながら、著者は〈死者〉としてのキリストのイメージが聖霊という共同体の形成に寄与していた可能性を示す。
     ギリシャ哲学では〈本性〉と〈存在〉は不可分であったが、これは神性と人性の二つの本性を同時に担いながら位格(ヒュポスタシス=ペルソナ)は一つであるキリストの存在と矛盾する。これを解消するため、カトリックはキリストのヒュポスタシスと本性を切り離し、どのような性質も担わない裸の存在を想定した。ギリシャ哲学の「本性→個体」の構図を逆転させて「まずペルソナとしての個体があって、それが本性を担う」のだとされ、このキリスト像が西洋の「個」の概念の出発点となったという(坂口ふみ)。スコトゥスの示す通り個体は本来不確定なものであり定義され尽くすことがない。著者は、通常、個体を重視するスコトゥスが〈実在論〉者に分類されるのは、個体の不確定性が極限まで推し進められたとき、個体の個体性・単一性までが不確定化され否定されることで、個体そのものの中に普遍性への通路が見出されるからだ、という。すると、「個」の源流たるキリストの中に、この特異性(単一性)と普遍性を架橋する機能があるのではないか。
     レヴィナスの「愛撫」が示す通り、他者は不在として私に現象するが、しかし他者の存在が私にとり疑わしいものだというわけではなく、むしろ他者の存在は私の存在と同様に自明である。つまり〈私〉の存在と〈他者〉の存在は全く同値であり、スコトゥスの個体概念が示す通り〈私=特異性〉の中に〈他者=普遍性〉がいるのだ。この〈私〉と〈他者〉が邂逅には求心化作用と遠心化作用が同時に作動せねばならないが、著者は、共同体としての聖霊を個体が普遍性に出会う場とするため、この作用を促進する触媒として、無限に〈他者〉を共同体の中に吸入する開口部=傷をもつキリストの死体が用いられたのではないかとの説を呈示する。
     では、「父なる神」を省略することはできないのか。著者は映画「綴り字のシーズン」の、綴り字コンテストで父の期待を裏切りわざと間違えることで家族に連帯を取り戻す娘を紹介する。聖霊の維持のために、神性を否定し人間性に置き換える子が必要だったのだ。父なる神が措定した普遍性は実は不完全であり、その未了性を開示した上で荒々しくこれを否定し、更なる普遍性を推進する存在が子なるキリストである。否定されるべき契機として父なる神はやはり必要なのだ。
     しかし中世社会は普遍的共同体とはかけ離れた多元的な封建制ではないか。それはなぜなのか?

    第10章
     中世ヨーロッパでは、「玉座の準備」という誰も座っていない玉座の絵が盛んに描かれた。この図像はヨハネの黙示録における終末論的幻視と深く結びついたものだが、ではなぜ空座なのか。イエスの死後、マグダラのマリア達が墓を確認すると空であったことが福音書に記されているが、著者は「玉座の空虚」はこの「墓の空虚」の反復ではないのかとの仮説を立てる。「古代編」第二章で見たように、〈第三者の審級〉としてのイエスの身体の民族的な限定性を超えた普遍的領域への置き換えが「墓の空虚」にはあるのだとすれば、「玉座の空虚」は抽象化された偏在を意味すると言える。また、イエスの死には〈第三者の審級〉を普遍的実体として投射しつつ(人間は神)、その超越的な実体を現象世界のうちに解消する(神は人間)という二つの側面があったが、聖餐や三位一体は後者のアスペクトを継承したものであるなら、前者を継承する契機が「空虚な玉座」なのではないか。
     謝肉祭/肉食の抑制、イエスの血を擬したワイン/忌避される血液。中世に見られるこれらの二面性は、神なるキリストが人間として死んだことに対応している。しかしその逆、すなわち「具象なる人間が抽象なる神に転化する」というダイナミズムもそこに含まれているはずだ。しかし前章で見たように、子なるキリストが死ぬことで信者の共同体=聖霊として復活する(神→人間)側面では、(キリストの)死と(聖霊の)復活は一体化している。すると「人間→神」のダイナミズムが機能するのは、「キリストの死から分離された、自立した復活」が確立されたときなのであり、それは抽象化され尽くした神(空虚)を墓=玉座の位置に措定することなのではないか。アガンベンは、神(第三者の審級)を抽象化する操作のことを〈栄光化〉と呼び、その栄光化にはある視覚体験が重要だとしている。神はモーセに自らの顔を見ることを禁じたが、完全なるものが到来する終末の時には、神は「キリストの顔において」栄光の認識の顔を輝かせる、という。つまり、栄光化が完成した状態では神自身は全く抽象化されており人間は認識できないが(玉座の空虚)、その栄光化の原点となるような体験(キリストの死)の中では「顔と顔を突き合わせるように」神を見ることができる。つまり求心化-遠心化作用が活性化されている状態が、キリストの死(神の具体化)の見ならず、神の栄光化(神の抽象化)に至るメカニズムの原点にも置かれているのだ。
     この神の栄光化は、中世の聖(協会)と俗(権力)の二元性の起点ともなっている(第3章のアガンベンの二つのパラダイム…存在論的/オイコノミア的)。この二元性を現実化した秩序こそが「封建制」だが、封建制とは絶対優位者なきままに諸権力が分散している状態である。「子なるキリスト」を契機に普遍的共同体を手にできたはずの西洋が、なぜこのように権力を散在させていたのか。封建制とは小領主や戦士が有力支配者に奉仕し、その見返りに封土(Lehen, fief)を与えられる制度だが、封土とはそもそも紛争解決のために双方が互酬的に交換した物のことであり、つまり封建制とは主君と臣下の双務的な契約関係であった。臣下は、支配者に対する強い人格的忠誠心と、自立者としての自尊心という、相反する態度をともに十全に維持する必要があった。ヴェーバーのいう「家産制(帝国・王国)」では被支配者は官僚だが、その報酬は給料という形で(個人ではなく)官職に応じて与えられた。そこでは官僚の王や皇帝に対する忠誠心や献身的態度が重要視されることになり、これを維持するために王や皇帝は絶えず臣民の福利厚生に配慮する必要が生じる。これに対し封建制では、臣下は双務的契約の当事者として自立的である必要があり、完全に依存的な関係は成立しない(この双務性が日本の封建制では希薄である)。これが忠誠心と自尊心の均衡を成り立たせる要因ではないだろうか。
     騎士が貴婦人に敬愛の念を抱く「宮廷愛」では、しばしば彼らが愛し合いながらも最終的な結合に至るのを回避するような展開が描かれる。このことの一般的な説明は、騎士が愛するのは具体的な婦人ではなく抽象化された概念としての婦人である、とするものだが、著者はこれにジル・ドゥルーズのマゾヒズム研究による知見を加える。ドゥルーズの考えではサディズムとマゾヒズムは相補的な関係にはなく、サディズムの特徴は直接的な暴力や拷問という形式を伴う「否定」だが、マゾヒズムのそれは「本当はPだがQであるかのように振る舞う」という「否認」である。マゾヒズム的関係では、一方は他方の忠実な奴隷であるかのように「振る舞っている」のであり、これこそが宮廷愛の騎士と貴婦人に見られる関係(make-believe)だという。ドゥルーズはサディズム的関係が「制度」により代表され、マゾヒズム的関係は「契約」として記述されると述べているが、まさにサディズムとは支配者による(カントの定言命法のように)厳密な制度運用であるのに対し、マゾヒズムでは被支配者たる奴隷が主導権をもち、契約により主人を縛り、従属するかのように振る舞うのだ。そしてこれが封建制の「支配され忠誠を誓いながらも自立する」という態度を容易にしているのだという。被支配者が本当に従っているのが抽象的な〈第三者の審級〉なのだ。
     そもそもどうして騎士と貴婦人は結ばれてはならないのか。それは単に侵犯に快楽が伴うというのでは説明がつかない。ラカンの「性的関係の不在」理論によれば、元々不可能なことをわざわざ禁止すると、その不可能なことが「実際には可能なのだが、禁止されているがためにできないこと」に転化するという。回り道が設定されているからにはゴールには余程貴重なものがあるはずだ、という「回り道の理論」よろしく、貴婦人への愛が禁止された途端に、「禁止されているが故に不可能な、抽象的で超越的な崇高な対象」が現れるのだ。同様に、キリストという障害物が存在するが故に不可視の神=玉座の空虚が存在し始めるのであり、現実の主人という障害物の向こう側に〈第三者の審級〉が措定可能となるのである。

    第11章
     西洋社会において元来恥ずべき不正とされた利子(ウスラ)の徴収が、なぜ許容されるに至ったのか。ヴェーバーの研究が示す通り、初期資本主義の萌芽に寄与したのは熱心なキリスト教徒だったのであり、世俗化を利子の普及の原因とするのは不適切だ。利子はなぜ禁止されまた許容されたのか? 
     高利貸しは特別に蔑視された職業だった。聖アンブロシウスや聖ヒエロニムスは、高利が罪であるのはそれが不当な余剰だからだという。正義の原点となる等価性が否定されているからだ。それが14世紀末には「インテレストinterest = 中間期間」と呼ばれ、スコラ哲学者のオリヴィ等の擁護を経て正当なものとみなされるようになった。
     利子の寛容さへとつながる経路は、まず現実的に経済が拡大したため、極端に高利でなければ教会もこれを認める必要があったというもの。もう一つは観念的に「宥恕条件」を設けてこれを正当化しようとした動きがあった。それはまず「利子も一種の報酬、労働の対価と見なすことができる場合」であり、「確実なものと不確実なものの交換とみなされる場合」であった。しかしこれは利子の普及という結果の説明であり原因の説明にはなっていない。
     ル=ゴフは、高利貸しは「時間」という本来神の所有に属するものを売って利子を得ているのであり、自分のものでないものを売って利益を得ているとして「時間についての罪」を問うていた。これが許容されたのは時間の概念に斬新な改訂がもたらされたからであり、それこそが12世紀末の「煉獄」だった。煉獄とは、本来天国には行けないはずの小さな罪を犯した死者が、そこで罪を償えば地獄行きを免れるという場所であり、いわば執行猶予中のい罪人が収容される場所だ。そこで生者(遺族)の「とりなし」による罪の軽減を待つのであり、いわば終末の一段階先送りである。これが高利貸しにとって「敗者復活戦」として機能したのだ。interestという語が示す通り、貸金によって高利貸しが得た利子は、煉獄という「中間期間」を経て浄化されることになる。では、なぜ煉獄などという中間的な終末がカトリックのみに生じたのか?著者は、地獄と煉獄との関係を、神と子(キリスト)の関係に類比的であると見る。神:キリスト=地獄(サタン):xとしてxについて解いたものが煉獄だというのだ。
     神がキリストの形をとらなければならなかったのは、「愛する者」としての神はその愛の対象である人間に触れることのできる存在でなければならなかったからだ。そして愛とは「私が持っていないものを他者に与えることである」というラカンの格言を考え合わせると、中世の高利貸しはまさに自分が持っていないもの=時間を与えているのではないか?
     男に激しく愛される女は、自分が愛されるその理由”y”を見出すことができず、愛される対象としての自分を見失うアイデンティティ・クライシスに陥るが、反対に男を愛し返すことでこの難問を回避する。これは男の側から見れば、自分が女に見出したあの”y”を女に贈り返されたのであり、つまり女は「自分が持っていない”y”」を他者に与えたことになっている。信者と神の関係もこれに似て、元々なかったはずの余剰”y”、自分が持っていないbeingの水準を神に捧げることで、信者の罪が贖われるのだ。
     そして、著者はこの”y”の物質的・貨幣的表現こそが利子だという。利子は、神が人間としての立場で(キリストとして)人間を愛するという構成を導入したことの反射的効果ではないか、と。

    第12章
     ヨーロッパからの移民のみに見られる特徴として、入植地の地名を出身地の地名に「新〜」をつけて名づける慣習がある。オリジナルの都市が存続しているにもかかわらず、新旧の都市を併存させるようなこの命名法は、彼らが帝国・本国との独特の関係を保持できていたことの現れである。そしてヨーロッパ人固有の移動・移民の原点は中世にこそあるのだ。
     そしてその原点とは、つまり「大航海時代」の端緒にある航路は、海路、特にヴェネチア共和国の海上支配に求めることができる。当時は陸路が移動の中心であったとはいえ、その延長線上に大航海があった。中世の旅の本質は聖地巡礼と商人の移動にあったが、その至高の形態といえばエルサレム奪回を目的とした十字軍の遠征である。著者はその遠征を駆動したのは、自分たちキリスト教徒が創造したにもかかわらずそこから排除されているエルサレムというユートピアで、他者すなわちイスラム教徒や正教徒が快楽を享受しているという「嫉妬」であったという。
     しかも、十字軍の遠征は結局は全て失敗に終わり、エルサレムに到達することがなかった。この到達不可能性という否定性が、決して成就されない宮廷愛と同様に、対象となる聖地エルサレムを崇高な場所へと格上げするのである(第10章・回り道の理論)。この理論を形而上学のレベルで作用させれば〈否定神学〉となる。中世期に影響力を持った「義ディオニシオス文書」によれば、神へと至る道は肯定の道と否定の道があるが、重要なのは後者であるとされる。すなわち崇高な神は一切を超越しているので感覚によっては捉えられず、従って「…である」と肯定的に記述することはできず、ただ「…ではない」と否定的に語りうるのみである、というのだ。
     神は「知り得ないものとして知るのみ」だというこの理論は、宮廷愛や十字軍の根底にある思想の変奏であり、対象が理解を超えた在り方で存在していることを否定や禁止の形で実定しているものと言える。11世紀末、突如として発見された「ユスティニアヌス法典」は、「解釈者革命」を通じて「教会法」、すなわち民法に相当する法体系整備の元となった。ユダヤの律法を否定する形で勃興したキリスト教が法の積極的な措定に向かったのは、やはり法の否定が法の肯定につながるという、宮廷愛の論理に従うものと言える。
     ユートピアは到達不可能性により措定されるが、それだけでは憧憬の対象となったことが説明できない。否定神学における神とユートピアは、人間の認識・到達が不可能という意味でカントの〈物自体〉と等価だが、ドゥルーズは〈潜在的なもの/顕在的なもの〉(=物自体/現象)の区別が現象の中に内在していると主張した。カントは一般の哲学者と逆に、当為が事実に先立つ(当為が事実の前提となる)「なさねばならぬ、故になし得る」という〈定言命法〉を主張した。しかしこの命題の「裏」、すなわち「なしてはならない、故になし得ない」も時に真ではないか、と著者はいう。蓮實重彦の9.11テロの映画化不可能性、ナチス政権下ユダヤ人強制収容所の「ムーゼルマン」を引き合いに、〈物自体〉が認識できないのは、実は現象世界に存在しているにもかかわらず、それらが人間性の最小限の条件、人間の尊厳を保つ最低の条件に抵触するようなものを含む故に、我々にとって「見てはならぬ、故に見えない」対象だからだというのだ。しかしその一方で、人間はそのような悍ましいものを見たいという欲望を持っている。この嫌悪の対象であると同時に憧憬の対象でもある〈物自体〉、それが十字架上のキリストの惨めな死だったのではないか?

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    2025年03月18日
  • 〈世界史〉の哲学 1 古代篇

    Posted by ブクログ

    大澤真幸は前から気になっていて、ならばシリーズものを読んでみようという気概で〈世界史〉の哲学を選択。

    初っ端からミステリー作品を読むかのような壮大な謎の提示。なぜキリストという特異な存在が西欧全体へと普遍的に波及したのか?その意義は?なんて、世界史を通史的に学んできた今での取り組み方とはまったく異なりとてもスリリング。

    前半はキリストに焦点を当て、後半はソクラテスとの対比を行い両者の特徴がどのような経緯で融合し得たのかを検証している。互いの「真理」の相違点、その奥に見出される類似点を暴き出していく論調は読んでいて清々しい。
    上位命題である、資本主義はなぜかくも普遍的なものになったのか?に漸進していく期待が以後のシリーズへの読書欲求を掻き立てますな。

    とはいえ、主張の仔細を改めて説明し直すには私の力量不足。著者の博覧強記ぶりを一身に浴びてその一部でも自分の糧となればな、と。哲学的な探究の深淵を覗いたような気持ちにさせてくれる良い読書体験でした。

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    2025年01月25日
  • 社会学史

    Posted by ブクログ

    著者の論理というか、問題意識がはっきりしているおかげで、歴史上のそれぞれの思想が驚くほど生き生きと頭に入ってきた。

    以下、終盤のルーマンとフーコーの説明についての僕なりの理解。

    ある要素は、システムを前提に他の要素との関係性によって相対的に構成される。システムの複雑化に伴い複雑性の縮減は進行し、アルシーヴの可能性の地平が拡張するとともに希少化し空間内での偏りが増す。偏ったアルシーヴ内で、可能性の地平が収縮して意味が選択されるとディスクールが立ち現れる。
    一方、人間は社会を前提として他者との関係性によって相対的に構成される。社会進化に伴い生権力によるパノプティコン的支配が定着し、「告白」が常態化する。告白が蓄積され内面化され、他のあり得た可能性を否定して一つのアイデンティティが選択されると人間が立ち現れる。アイデンティティの構築には、告白だけではなく告白されなかった秘密も関与する。告白は選択されたディスクールに対応して、秘密はディスクールになり得たが否定された可能性に対応する。ディスクールが存在するためには、否定された可能性の地平が保存されている必要がある。
    フーコーは権力を前提として人間が初めて立ち現れることを示したのち、人間が権力に抵抗する方法としてパレーシアに目を向けた。パレーシアは真実を語ることを表すギリシア語である。
    パレーシアは、秘密のない告白、権力による監視を前提としない人間に対応するとみなせる。これはひいては、それでしかあり得ない必然的なディスクールを表すと考えられる。つまり、縮減していない空間内の全ての可能性がディスクールとして発現する場合にのみ、それらはパレーシアだとみなせる。しかしそれではカオス状態となりシステムとして機能しないためパレーシアは実現し得ず、人はレトリックを道具として利用し認識や表象を少なからず単純化せざるを得ない。
    権力や社会システムがあることで初めて複雑性が縮減し、私たちは収縮したディスクールから成る制御可能な程度の複雑さをもつ秩序あるアルシーヴ(エピステーメー)を利用することができる。また、収縮した意味から構成される制御可能な程度の複雑さをもつ社会秩序がオートポイエーシス的に構築される。社会進化とは、社会システム内でその要素であるコミュニケーションの数の増加を指す。閾値を超えると本来カオス化するところ、その複雑性を縮減する方法が各段階に備わっており、たとえば近代社会ではそれが生権力である。複雑な社会に生きる人々は、物事をありのままに捉えたり発話したりすることはできない。

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    2024年12月15日
  • 危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    ナウシカ、エヴァ、進撃の巨人の関連性を知れた。4分の1ほどまでしか精読できていないため、3点の作品の何かを掴めたら再度読むといいだろう。
    世界、戦争、思想。

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    2024年12月02日
  • この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方

    Posted by ブクログ

    戦争も人種差別もそうだけども、無関心ってのが1番の原因になりうる気がするねぇ。正しい情報を得て、そのうえで判断する。それが全て理想的社会へ繋がる気がする。我々司書はそのために人と情報を繋げる。

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    2024年10月12日
  • 〈世界史〉の哲学 1 古代篇

    Posted by ブクログ

     本書は、目下の世界で観察される諸事実を「こうではなかったかもしれない、他でもあり得た」偶有性として捉え直し、あえて現在の地平ではない場所から過去を眺め、「こうでもありえたのだが、なぜかそうはならなかった」のはなぜか、を探る試み。他のどの著書でも言えることなのだが、基本的に「逆説的なものが(逆説的であるにも関わらず)存在可能ならば、そこには表層からは窺い知れない意味深い構造が隠されているはずだ」という論理構成がとられている。やや過剰な「逆説探し」のにおいも嗅ぎ取れなくはないが、それでもやはり説得力はあると思わざるにはいられない。本書でも、「必然性」と「偶有性」が逆説的に結びつきながらも、まさにそこからキリスト教的神性が立ち現れる様が見事に描写されている。著者が古代西洋の精神史のいたるところで見出す「逆説を超克する力」の強靭さが十分に堪能できる本だと思う。

     以下は再読せずとも内容を思い出せるよう要約したものだが、非常に混み入った内容のためうまく消化できず冗長なものとなってしまった。

    第1章
     歴史主義的な見地に立てば、自由主義を始めとする普遍主義はその実、特定の歴史的コンテクストに基づく価値観を特権視した欺瞞に過ぎない。しかしその普遍主義という形骸が、それでもなお実効的に我々の社会を形成してきたのはなぜなのか。特殊性から普遍性はいかにして立ち上がってきたのか。例えば資本主義のような西洋に固有の土壌から発したイデオロギーが、今日の普遍性を獲得したのは何故なのか。
     著者はその答えをキリスト教、ヘブライニズムに求める。マルクスも貨幣経済の根底に貨幣獲得のための勤勉・節約・貪欲を促す宗教性を見ていた。ヴェーバーがプロテスタンティズムに資本主義の源流を見た例を引くまでもなく、キリスト教には特異性と普遍性を架橋する何かが備わっているのでないか?デカルトが数理的法則の普遍性の根拠を神の偶有的な意思に求めたように、キリスト教においては神の偶有的な意思と普遍的な法則が一致しており、さらにそれが今なおユニバーサルに受容されているのだ。何故そんなことが可能なのだろう?

    第2章
     ユダヤ教の民族性・特殊性を普遍主義へと昇華させたのがキリスト教であるとするならば、キリストの死にこそ普遍性獲得の機制があるはずだ。ではキリストの死とはなんであったのか?キリスト裁判とその復活のそれぞれの場面のルイ・マランによる記号論的分析によれば、そこでは一時的なメシアから永遠のメシアへ、民族的共同性(ユダヤ)から超民族的普遍性(ローマ)へ、そしてキリスト身体の局在性から偏在性の変換が見て取れる。著者は、これによりキリストに超越的な立場から社会の規範に妥当性を付与する〈第三者の審級〉として機能するに相応しい高度な抽象性が付与されたとする。
     しかし一方で、このキリストに付与された抽象性の素地はすでにユダヤ教にも備わっていたものとも言える。ユダヤの法が、共同体への接続を保証する通常の法体系とは逆に、共同体からの断続を促進しつつなおも法として機能するという、普遍性の土台とも言うべきものを有していたのだ。なぜユダヤ教はそのような特質をもちえたのだろう?

    第3章
     キリスト教はユダヤ教の分派として発生したが、ユダヤ教は多くの宗教がもつ「宗教としての影響力の大きさと、共同体の政治力の大きさ」の相関を持たない。ユダヤ教の神は、自らを奉ずる民を対して保護しないばかりか奴隷状態に陥らせながら、まさにそのことによってさらに熱心に崇拝されるという、まことにふしぎな神なのだが、そこから後に普遍性を獲得することとなるキリスト教が生じたのはどういう理屈によってだろうか。
     マックス・ヴェーバーによれば、近代を特徴づける「合理化(呪術からの解放)」の点で最も進歩した宗教こそがユダヤーキリスト教だという。呪術は人間が都合よく神を使役する「神強制」を本質とするが、宗教は逆に人間が専ら神に従属する「神奉仕」である。前者では一見神を要請しながら因果関係の起点に人間の行為を必要とするため循環論に陥るが、後者では神は人間を完全に超越した存在として始動因
    となるためその懸念がない(=合理的)。著者によればこの超越的な神のままならなさに対する不快さが、カントのいう「崇高」つまり経験では絶対に到達できない超越論的な美=イデア、に対する不快さと通ずるのだという。すなわち今現在自分たちが「不快=不幸」であることが超越的な神の存在を担保し、そしてやがては神による救済と永遠の幸福をもたらす、というこの転倒が本書の前半では「苦難の神議論」として議論の軸になってゆく。

    第4章
     キリスト教の源流としてのユダヤ教の正典「旧約聖書」の「ヨブ記」では、筆舌に尽くし難いほどの艱難辛苦によって神への信仰を試されるヨブなる人物が描かれているが、そこで全能性を誇る神はヨブを救済できないというそのことによって自らの無能性を証明してしまっている。つまり神がヨブに課したはずの試練が自らに還流してしまっているのだが、この試練を神が自らに直接課した形になっているのがイエス・キリストである。
     不快や苦難が神の存在と不適合であるまさにそのことこそが、神が経験の中に表層され得ない超越的な存在であることの証明であり、逆説的に快感や幸福感を生むというのが前章の展開だったが、その不快や苦難が大きすぎると逆に神の無力の証明という帰結を生ずる。と言うことは結局、経験や表象を超えたところには何もないのだが、そこになおも神性が認めれられるのであれば、それは不足感と共に経験されている現象そのものが「神」ということになるのではないか。キリストが神であり人間であるということは、神とは不足や不快として呈示される現象、つまり人間性そのものであるということに通じるのではないか。キリストが、超越的な神でありながら経験的な人間として死んだという事態はこの転倒を体現しているのだ。
     そしてイエスが(洗礼者ヨハネとは反対に)「神の国はすでに到来している」と主張したのも、経験可能な世界の内にすでに自己否定の形で神が存在していることを示したかったからだ。すると、神は否定性、すなわち無力さや弱さを体現する、つまりイエスのような人物により代表され、また貧しき者や弱き者はまさにその無力さによって神の国を代表する存在だということになる。「貧しきものは幸いである」というイエスの言葉はこのような文脈で理解されなくてはならず、つまりそれは弱者は天国ではなく現世でこそ救済されねばならない、という体制への反抗者たるキリストの態度表明だったのだ。それはしかし、救済されるべき資格を現世において備えなければならない、という厳命を弱者に課すことにもなるのだが。

    第5章
     イエスはそもそも生前何をやっていたのだろうか。一義的にはそれは治療活動であり、旧約聖書の「荒野の行進」、すなわち神の軍勢による砂漠から肥沃土への変換と類比が可能だ。さらには古代バビロンの神話における善と悪とのダイコトミーにその範型を求めることができる。しかし善悪二元を純化したグノーシス主義とキリスト教の最大の違いは、前者があくまで善悪を人間とは分離された神性の発露と見做すのに対し、後者は神性と人間性の同居をイエスというかたちで前提としている点だということができる。イエスの死という事件を契機に「神の死」「神の破壊」という極めて重大な命題を内包するに至ったのがキリスト教なのだ。
     ハイデガーは、人間は〈被投性〉、すなわち儘ならぬ特定の歴史的状況に生を受けてしまったという不安を避け難く持っていると説いたが、著者はこれがグノーシス主義のいう霊的な世界(本来人間がいるべき世界)と経験的世界(人間が投げ込まれた世界)の二分法から来ていると指摘する。このハイデガー/グノーシス主義的精神世界では、人間には戻るべき霊的な故郷があることになるが、これが民族的ロマン主義に置き換えられたのがハイデガーが没入したナチスのファシズムだった。
     これに対し、キリスト教はそのような彼岸をおかず、被投の感覚は原初的なものであり避け難いとする。神と人間、善と悪の区別は、キリスト教においては予め取り払われているのであり、著者の言を借りれば「神の国は直接罪人(たる人間)に属している」のだ。

    第6章
     イエスは自称として「人の子」、アラム語に則せば「一人の人間」を用いていた。人間として死んだキリストが「神の否定」であるとするなら、キリストの「我が神、何ぞ我を見捨て給いし」という言葉は「神による神の否定」、すなわち無神論の言明と捉えられる。翻って前章の議論に則せば、「神」とは、現象的世界に対して人間が抱く「原初的な疎外感」であり、「現象(=人間)に内在する自己否定性」に還元できる。つまり、人間が人間でありながら、その人間に人間自身に対する否定性が宿っている(「人間=人間」と「人間≠人間」が同居する)、そのことこそが神なのだと明示したことにこそキリストの死の意味があるのではないか。
    ここで著者はレヴィナスを引いて、現象世界の中で「私=私」を認識する(私が他者に触れる)〈求心化作用〉そのもののうちに、それを否定する形で「私≠私」つまり「他者」を提示する(他者が私に触れ返す)〈遠心化作用〉があり、これがキリストの死の論理の中核をなすという。つまりキリストが十字架で叫んだ「神の不在」は、人間に興味を失ったりまた逆に信仰に応えるべく応報する神なのであり、「私」の求心化の反作用としての遠心化で生じる「他者」なる「神」は死んではいない。私が苦しむ時に同じように苦しむ神が「今ここにおられる」のだ。
     ここまでの議論を整理すると、キリストの死には二つの対立的な機能的側面、つまり①〈第三者の審級〉としての神を抽象化し、普遍性を担保する実体として措定することと、②その実体を経験的現象世界における自己否定性のうちに解消すること、があったことになる。これらはそれぞれ、①「人間は神である」②「神は人間である」に対応しており、片方に焦点を合わせるともう片方が輪郭を失う関係にある。キリストが預言者の墓を建立することに否定的だったのは、②の側面が隠蔽されることを恐れたからなのだという。
     キリスト教の信仰は悲劇である、とする見方がある。アリストテレスによれば悲劇には〈苦難〉のほかに、必然性と偶発的な過誤を伴う〈逆転〉と、意外な事実の〈認知〉という要素がなくてはならないが、これはすなわち悲劇には分裂した「二つの視点」が必要だということ他ならない。同じ事実が、超越的な他者=第三者の審級の視点からは「必然」として、劇に内在する登場人物からは「偶然」としても捉えられ、これらを統合するのが登場人物が自らの運命を受容する〈認知〉の契機なのだ。すると、悲劇の主人公には、超越的視点は持ち得ないが、超越的他者から割り当てられた運命を引き受けるだけの最小限の威厳が求められることになる。つまり、これを見る観客は、主人公に同一化することによって、苦難の体験の中で超越的存在(第三者からの審級)からの承認を得ることになり、これが悲劇を観劇することによる浄化作用になるのだ。ではこの点から見てイエスの死は悲劇と言えるのだろうか?

    第7章
     イエスの死と復活を記した「福音書」は、前章のアリストテレスの悲劇の3要素を備えているが、結局はイエスは復活するため悲劇性が弱められているのでないか。著者によればそうではなく、通常の悲劇であれば現象を超越する第三者の審級は潜在化されているが、福音書においては自分の運命を予言しその通りに殺され復活する「イエス」として顕在化しており、この点でより完成された悲劇だと言える、とする。
     しかし一方で、あまりに過剰な苦難の連続により、悲劇は喜劇へと転倒してしまうことがある。十字架上のイエスやアウシュビッツ収容所のユダヤ人のように、アリストテレスが悲劇の主人公に要請する「威厳」が全く損なわれると、表象される対象と表象する主体が近接してしまい、表象作用が失われる。前章のイエスの死の側面②〈神の現象的人間世界への還元〉は、神が惨めな人間として描かれる「喜劇」の契機に他ならない。ユダの裏切りも同様に「威厳の欠如」の点から説明できるとする。
     この悲劇と喜劇の二重性は相反的でありながら相互に交換可能な位置関係にある。著者によれば、イエスが裏切り者ユダを弟子として傍に置いたのも、後世の崇高化によって悲劇化してしまう自らの死の悲惨さを、純粋に喪失的な生を生きる人物を配置することによって喜劇化しキャンセルしようという試みだった。つまりユダを利用してまでも自らの惨めな死を演出しようとした、というのだ。

     第8章
     西洋が獲得した普遍性の源泉としては、これまで思索の対象としてきた「キリスト教(ヘブライニズム)」の他にも「ヘレニズム」すなわち古代ギリシア文化がある。これら二つの文化的伝統はいかにして融合したのだろう?キリスト教におけるイエス刑死のヘブライニズムの対応物として、著者は「ソクラテスの刑死」をあげ分析の出発点とする。ともにほとんど冤罪ともいうべき希薄な根拠に基づき執行されながら、ソクラテスの刑死にある「法への帰依」というポジティブな側面がイエスのそれには全くないことが著者の注意を引く。
     ここで著者はフーコーの〈考古学〉の方法論を引用する。フーコーは個人の身体が規律訓練によって権力を内面化する過程を「権力の系譜学」と呼んだが、同様のロジックで人間が性を主体的に内面化する「性の科学」が、キリスト教世界に独特の〈告白〉を通じて西洋にのみ根付いたと論じた。つまりキリスト教的〈告白〉が近代化をもたらした権力の原点であったというのだ。そうすると個人は権力から逃れえない存在だということになりそうだが、ここでフーコーが導入するのが〈自己への配慮〉なるヘレニズムの概念である。「自分にとって付属物であるようなもの(富や地位など)を自分自身に優先させてはならない。善き者、思慮ある者となるよう配慮せよ」と要請するこの概念があれば個人の主体性は保たれるというのだが、ではこの「配慮する主体」が「近代的な主体」といかに近接するに至ったのか。
     フーコーの関心の対象となった古代ギリシアの概念に〈パレーシア〉という、「率直な語り、真実を勇気を持って語ること」を示す〈告白〉に似た概念がある。両者の違いは言説の算出者にあり、つまり〈告白〉が従属的立場の者が語り超越的立場の者は沈黙しているのに対し、〈パレーシア〉は指導的立場の者が語り弟子の方は沈黙せねばならない。パレーシアでは指導者が積極的に語り、かつその発言に沿った行動を介して「真実」が明らかにされるのだ。
     ではその「真実」とは何か。ソクラテスやプラトンでは、真実は常に想起の形で見出される。新しいことを知るように見えて、その実それは「思い出している」というのだ。知ることの前段には何事かの探求という契機があるはずだが、我々は全く知りもしないことを探求することはできない。つまり潜在的にはすでに「知っていた」のだがそれを「忘れていた」というわけだ。この〈想起説〉ではこの想起のためには師が必要だとされているが(パレーシア)、一旦想起してしまえば師の存在は必要なくなる(ソクラテスの〈産婆〉)。一方、キリスト教では師(キリスト)が廃却されることはなく、真理性はキリストに固有の特質、超越的権威というべきものに直接帰せられているという違いがある。このように真理性の根拠のあり方が異なる2つの文化がどのように融合するに至ったのだろうか。

     第9章
     ヘブライニズムとヘレニズムの融合を論じるにあたり、著者はキルケゴールの〈天才/使徒〉の対概念を導入する。〈天才〉は人間としての特質ゆえに尊敬されるのだが、〈使徒〉が敬われるのは使徒の存在そのものに随伴する超越的権威がゆえである。これは前章の真理性の所在の議論、すなわちヘレニズムでは一旦真理の普遍性が明らかになればそこに至る特殊個別の事情は破棄されるのだが、ヘブライニズムではイエスの死、すなわち特異的事情こそが真理性を担保する絶対的根拠となっていることと対応する。ヘブライニズムでは、いわばハイデガーのいう〈事実存在〉が〈本質存在〉に優先する構造になっているのだ。
     民主主義が社会においてポリスとして現れたのと同じように、個人レベルでは民主主義はパレーシアの形をとって現れた。しかし参政権を与えられたのは〈オイコス〉(≒家族)の家長、すなわち第三者の審級の位置にあった者のみであった。古代ギリシア社会はオイコス的私的空間とポリス的公共的空間の二元性を持っていたのだ。しかしソクラテスにとってポリス政治はパレーシアの阻害要因であり、民主主義からパレーシアを分離して保持すべきだと主張していたようである。さらに、プラトンは〈哲人政治〉を念頭に民主主義をパレーシアに劣後させたし、アリストテレスは民主主義からパレーシアのような倫理的側面を除外して捉えていた。著者によれば、このような民主主義とパレーシアの分離は、およそ民主主義とは相容れない思想、すなわち大衆を外的/内的差異により篩にかけようとする古代ギリシアの哲学的思考に起因するという。この差異化が要請されたのは、古代ギリシア世界全体に君臨する〈第三者の審級〉が措定されていなかったからである可能性があるという。しかしソクラテスが単一神に従おうとしていたことも考慮し、差し当たってはギリシア哲学の起点であるパレーシアが、民主主義の挫折により開始されたことが指摘される。
     ポリス社会では第三者の審級は存在していたのか。ヘーゲルによれば、ローマ時代にカエサルの死が共和政の復権に繋がらなかったのは、すでにカエサルが独裁者の地位にあった時に帝政が始まっていたことに、人々が気づいていなかったからだという。カエサル存命中は二重写しの形で一体化していため可視化されていなかった「抽象的な皇帝」が、「具体的な皇帝」であるカエサルの死により意識に上るようになる。つまりカエサルの死に先立ち、ローマ人たちは無意識的にすでに「皇帝」の場所を既に措定していたのであり、これこそが〈第三者の審級〉の立ち位置だという。翻ってアテナイのペイシストラトス打倒を目論み失敗したソロンの例では、未だ具体的な僭主が占めるべき抽象的な〈第三者の審級〉の座がアテナイの人々の意識の間で確立されていなかったため、ソロンの失敗にも関わらず民主化が進展したのだ、と分析する。

    第10章
     本章では、ヘブライニズムとヘレニズムの相補性の起源を芸術に求める。神を見ることがタブー視されていたユダヤ教徒とは正反対に、古代ギリシアでは神々を明確に「見る」ことに宗教性が見出され、これがギリシア造形芸術発展の基礎となったというのだが、不思議なのはそれほどまでに写実性に執着していた古代ギリシア芸術が遠近法を確立できなかった点だ。これは古代西洋では視線によって把握できるモノ、つまり「手につかめるもの」だけが表現されるべき実体として扱われてきたことによるという。具象性のみを表現の対象にしたことは、神性を具体的なモノに求める態度につながる。
     プラトンの〈イデア〉は「見られたもの」という語に起因するが、〈洞窟のイデア〉の例にあるようにイデアとは本来目に見えないもののはずである。しかし「パルメニデス」の議論によればイデアにも造形芸術のように「見える」側面が期待されているようでもある。また、アリストテレスの〈現実態〉も、〈質料〉に対する作用の結果として自立した作品が生じることをイメージしており、人間の制作行為が自然の営みを模倣していることを示している。
     さらに言えば、プラトンらに先立つゼノンのパラドックス(運動否定説)にも同様の道行きが見てとれるという。パルメニデスの〈有/無〉の排中律を厳格に適用すると、有るものは永遠にあり無いものは永遠にないのだから、およそ事象に変化が生じる余地がないことになってしまう。そこで、ソクラテス以前の哲学者たちは、やはり〈無〉も〈有る〉のではないか、〈存在〉という条件以外の付帯物を可能な限り削ぎ落として残る〈原子〉の間隙にある空虚もまた〈有る〉のではないか、と考える〈原子論〉に至るのである。これは、シニフィアンの間隙を名指しすることによって象徴世界の有限性を突破する「浮動するシニフィアン」(レヴィ=ストロース)の自然学版とも言える。
     このように「存在は非存在との差異において存在たり得ている」とする西洋哲学は、〈存在としての無〉を考察することはできるが、今度は〈無としての無〉を考察の埒外に置く。このことの代償は、キリストの死、すなわち〈存在の死=無としての無〉を思考することの困難性として立ち現れてくる。キリストの受肉は現象的なものを超越した神の不在=死に他ならないが、そのキリストが死んだのであれば、本来それは〈無としての無〉を意味するはずである。しかし無を存在の関係でしか捉えられないのであれば、「キリストが死んでも(=無)神は生きている(=存在)」という主張の余地が残るというわけである。

    第11章
     前章で見たように、古代ギリシアの宗教的経験の中心には2つの「見ること」があった。一つには神々「を」見ること、もう一つは神々「が/のように」見ることである。これらはどのような関係にあるのか。また視覚と知性にはどのような連携があったのか。
     見ることと知ることがもし完全に同一であれば、誤りと真実の差異も消えてしまう。〈エイドス〉(形相)やプラトンの〈イデア〉は、人間の目に見えないが叡智(ヌース)をもつ神々には見えるもの、とされた。この神々の見方こそが思惟することすなわち「知性」であり、現象世界を外れ得ない人間には属さない能力なのではないか。
     前章でも登場した神話学者カール・ケレーニイによれば、ギリシアの宗教的態度には、神々を「見る」ことに関する畏怖の感情〈セベイン〉と、神々のように「見られる」ことに関する羞恥の感情〈アイドース〉があるという(第5章の触覚の「求心化ー遠心化作用」の視覚版と言える)。一般に人が羞恥を覚えるのは、規範的な像に自分の在り方が合致していないと感じる時なので、そこで想定されているのはただの他社ではなく〈第三者の審級〉でなくてはならない。つまり他者が何らかの機制を通じて第三者の審級に変容したときにアイドースが生じるのではないか。
     このように考えると、ギリシア世界でピタゴラス学派が影響を持ったのも理解できるという。彼らの「万物は数である」という主張は「万物は比である」と言い換えることができるが、比は二者間の闘いが決着し均衡した状態と考えることができる。さらに同時期のヘラクレイトスの「闘いは万物の父である」という言説と考え合わせれば、ピタゴラス派の主張は「自己と他者の〈まなざしの闘争〉こそが万物の生ずる源泉たる第三者の審級=〈神〉を要請する」という図式に重なっている、というのだ。
     このことを補強する材料として、古代ギリシアで〈見ること〉を仕事としていた祝祭の使者「テオーロス」が挙げられる。オリンピアの競技者は英雄としていわば神々の位置に立っているが、そこに観客とし現れるテオーロスはギリシャ各地の神々の代行者であり、ここに神々のまなざしによる闘争が生じるのである。

    第12章
     第9章で論じられた民主主義と分離したパレーシアに関連して、フーコーはソクラテスの倫理的なパレーシアが生じた契機を3つ挙げている。それは神託を真実と照合するための「検証」「社会調査」「勇気」だが、この諸契機を通じてソクラテスは自らが〈無知の知〉を有することを知る、ということになっている。しかし、〈無知の知〉すなわち「Xを知らないということを知っている」というためには、そもそもXを知っていなければならないのではないか。著者はプラトンの〈真理の想起説〉(第8章)をも引き合いに、無知の自覚という心的構成が可能となるためには知の二種類の主体、すなわち過去に知っていた主体と、忘却してしまい今は知らない主体が必要だと説く。ギリシア世界では〈観ること〉ー〈在ること〉ー〈知ること〉が同一線上に構成されているが、距離の概念を有する〈観ること〉を超え出て、第三者の審級との照合(=検証)を経て普遍的な〈知ること〉、すなわち無知の〈知〉の領域に達するのが〈ヌース(叡智)〉だと言うことができる。
     このいわば「遠くを観る」知性を実践したのが前章の「テオーロス」であり、彼は〈観ることー観られること〉の闘争関係から第三者の審級を導出したのだが、そこでは人間と神の断続が強調されている。これに比べ、ヘブライニズムのヤコブは人間と顔を合わせる対等の存在であり、人間とは連続性を有している。一方で、ヤコブは彼岸への「立ち去り」により後にキリストにつながる普遍性や超越性を示唆しているが、テオーロスでは神々が並列しており絶対性は窺えない。このテオーロスの並列性は民主主義の平等性と相同であり、やはりまだ絶対的な位置を占める〈第三者の審級〉は登場していないと言える。
     ラカンによれば「存在論は主人の言説に属する」というが、単に世界の様相を記述するだけの存在論が、主人の言説の本性である命令文の形式をとるのはおかしい。しかし主人の座に神を置いた〈神託〉を考えると合点がいく。神による神託は常に的中するから、神の命令文は常に妥当する存在論でもあるのだ。ジョン・オースティンの「言語行為論」によれば、文には世界の状態を記述する「事実確認文」と、その発話がなんらかの行為を誘発する「行為遂行文」がある。前者は文の内容を世界の状態に適合させ、後者は逆に世界の状態を文の内容に適合させる。しかしこの他に「これで会議は終了です」のように、確認文の外観を持つ遂行文である「宣言文」があり、主人の言説、つまり予言や神託とはこの宣言文を指すのだという。
     そして、この予言が的中するのは、予言が「自己成就性」、すなわち予言の対象者が予言の主体である神を第三者の審級の位置に置いてしまい、その意に沿う通りに遂行せざるを得ないという転移的な性質を持つからだ。しかし予言には必ず抑圧された選択肢、確認文の形式に変換されない遂行文が隠されている。それは「純粋な遂行文」、すなわち世界の自身への適合に全く顧慮しない隠者や賢者の発する〈知恵〉であり、または世界全体ではなくその一部にのみ妥当する〈技術知〉となるはずだという。ではそのような限定性を持たない、普遍的な真理についての言説はどのように語られうるのかといえば、それには抑圧された側が真である可能性を留保すること、そして予言の発話主体としての神や予言者への転移関係が解消され、第三者の審級が抽象的なレベルに措定されていることが必要になるという。著者はこの2点を満たす真理の語りの様式こそがソクラテスの〈パレーシア〉に他ならない、とする。「真理を想起する」とは、具体や現象を超えた彼岸にいる第三者の審級が知っていることを思い出すことに他ならないのである。ソクラテスが民主主義と折り合いをつけられなかったのは、当時のポリスにおいてこの抽象的な第三者の審級の座がいまだ定まっていなかったからだったのだ。この抽象的な神の措定は、第6章のキリストの死の効果①と類比的であり、ヘブライニズムとヘレニズムとの関係を考察する上で重要な鍵となっている。

    第13章
     ソクラテスの死の直前の言葉「我々はアスクレピオスに雄鶏一羽分の借りがある」とは何を意味するのか。著者によれば、無責任な衆愚的意見により死に追いやられたソクラテスが、これを大衆の魂の堕落すなわち病とみなし治療神に救いを求めたのだという。ソクラテスはこの大衆の病をパレーシアによる真理の語りで治療しようとしたのであり、つまりソクラテスはアスクレピオスに抽象的な第三者の審級の位置を求めていたことになる。著者はイエス教団の先駆がアスクピレオス医師団であったという山形孝夫の説を引き、ソクラテスはのちにイエスに取って代わられる神への奉献の言葉を残したのだ、との仮説を提唱する。さらに、階層化により分断されたポリスの政治体制では、連帯なきが故に民主制を支える第三者の審級も機能しなかったが、ソクラテス一派内部では自らを単一の主体としてみなす連帯感が生まれていた。冒頭の言葉は、第三者の審級としての神に対する倫理的債務の表明だというのである。
     新プラトン派も同様に万物の源泉たる〈一者〉を措定する哲学だが、これも純粋形相から独立した抽象的な存在を認めるという意味で、一神教たるキリスト教に極めて親和性の高い宗教だと言える。これに対しストア派は、超越的なものがなく全ての自然的事実が因果で結合する世界を描くため、求められるのは超越的な真理との結合ではなく「自然との調和」となる。さらに、エキセントリックに真理を追求したキュニコス派は、パレーシアの本質、すなわち真理性と具象性の完全なる一致を実践しようとした。以上のようにう考えると、ギリシア的世界を抽象化の方向に推し進めていくとキリスト教が現れ、その直前で寸止めすればストア派が、そして逆方向の具象性に第三者の審級を追求していくとキュニコス派が現れるのではないか。パレーシアは真実を語るが、「私の語りたい意味内容」と「私の語りそのものの意味」には必然的に差異が生ずる。「この不一致の理由を知っている超越的存在がいる」とすればキリスト教に、「不一致を現実の行動で解消せよ」とすればキュニコス派になるのである。しかしこのキュニコス派に、どこかキリスト教団と共通する清貧さが漂っているのはなぜだろう。

    第14章
     アリストテレスの「善く生きよ」は西洋哲学の出発点の一つだが、この言葉は古代ギリシアでは〈ゾーエー〉(動物的な生)と〈ビオス〉(人間的な生)に分化していた二つの「生」の対比を含む。後者の生を前者の生の様式で志向したキュニコス派が、キリスト教団のスタイルを彷彿とさせるのはなぜか。
     〈ホモ・サケル〉とは「聖なる人間」を意味する語だが、ローマ法では刑法上も宗教法上も法的に規定されない罪人、いわば人間的な生から疎外されたゾーエー的な存在を指していた。著者はこのホモ・サケルの類型としてイエスとキュニコス派を挙げ、ソクラテスを軸とした両者の比較検討を行う。
     キリスト教の真理は、普遍性さえあれば良しとするソクラテスの〈産婆〉とは異なり、特異的な人間としてのキリストの生にも依拠しており、普遍性と特異性が極限で短絡しているとする。これに対し、キュニコス派は普遍的真理の前で特異的生を破棄しようとするものであり、これはキリスト教よりもソクラテスに近い立場と言える。一方、マックス・ヴェーバーの「倫理的預言者/模範的預言者」のくくりでいえば、ソクラテスやキュニコス派が人間を神の普遍性にまで高めようとする前者であるのに対し、キリストはどちらでもなく、むしろ神性を特異的かつ偶発的な人間へと下降させようとする力学であり、全く普通の人間が神であることこそがキリスト教の衝撃なのだとする。ソクラテスやキュニコス派は上方ベクトルを持つホモ・サケルであり、キリスト教は下方ベクトルを持つホモ・サケルなのだ。
     9章では、キルケゴールが「キリストの真理性はその内容でなくキリストが語ったというその事実にこそ由来する」と言いながら、他方で、使徒(キリスト)が誰であるかは真理性とは無関係である」と主張する矛盾が紹介された。著者によればそれは、性質や生き様がことごとく凡庸であったキリストの「他であり得た=偶有性」こそが、神の真理という「そうでなくてはならない=必然性」と接続されている、まさにそれがキリスト教の真理を担保しているのだということを示しているのだという。必然性は偶有性の様相を伴わなくては、つまり「他の可能性もありえたのになぜかこうなった」という認識がなくては、必然とは認識されない。キルケゴールの言説は、真理の必然性が偶有性という否定性の支えなしには成立し得ないことを示している。「神が人間である」とは、「必然は偶有である」と同じ事実を措定しているのだ。

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    2025年06月29日