あらすじ
大澤真幸・熊野純彦両氏の責任編集による新たな叢書、ついに刊行開始!「自らの思考を極限までつき詰めた思想家」たちの、思想の根源に迫る決定版。21世紀のいま、この困難な時代を乗り越えるには、まさにこれらの極限にまで到達した思想こそ、参照に値するだろう。
本書は、ニーチェの道徳批判に焦点を当てる。ニーチェは道徳を批判した。今ある道徳を改善するためではない。われわれの道徳意識を「キリスト教道徳」と規定し、これに対して一切の価値転換を迫る。では、なぜ批判したのだろうか。正義や同情をどう考えればいいのだろうか。主として『道徳の系譜学』を中心に読み解き、ニーチェ哲学の魅力と射程に迫る。
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Posted by ブクログ
ニーチェの『道徳の系譜』を読み解く上で非常に参考になった。『道徳の系譜』初読の時点では全く見えなかった景色が、この本を足がかりに見えた。ニーチェ初心者は、できれば『道徳の系譜』とこの本を交互に理解しながら読み進めるのがいいのではないと思う。
しかしこの本で解説される部分は、『道徳の系譜』の特に大事なところ、要点に絞られるので、ところどころは自分自身で、あるいは他の解説書を参考にして読まなければいけないところもある。
また、『道徳の系譜』では触れられていないニーチェの思想も四章で触れられるが、『道徳の系譜』のみの解説で良い人には二章と三章で十分だろう。
それと、著者はニーチェが専門ではなく、カント研究者らしい。しかし、『道徳の系譜』に何箇所も出てくるカントの部分の解説が欲しい人には特に参考になるだろうと思う。
また読み返して、今度は理解しきれてない部分を拾っておこうと思う。
Posted by ブクログ
カント研究者の視点が随所に光る。
キーワードは超越論的。
ニーチェの道徳批判を『道徳の系譜』に基づいて丁寧に読みほどいている。
ニーチェの問題意識がよく分かる。
最後に著者が読み解いた、個人としてだけではなく、人類としても、歴史としても、道徳を解体していく「永遠回帰」の思想は魅力的だ。
Posted by ブクログ
ニーチェの『道徳の系譜』を読み解くとともに、彼の道徳批判がもつ超越論的な意義を解き明かそうとする試みがおこなわれています。
ニーチェの道徳批判といえば、われわれの道徳的な心性の背後にルサンチマンが控えていることを指摘したものとして広く知られています。しかし著者は、ニーチェの道徳批判を、いわゆるモラリストたちのそれから区別しなければならないと主張します。モラリストたちは、表面上は道徳的にふるまっている人びとの心の奥底に、非道徳的な動機が存在していることを鋭く見抜きました。しかしそうした批判は、いまだ道徳そのものに対する問いなおしではありません。
著者は、「ニーチェがカントの批判哲学の超越論的な問題設定を継承したこと」を承認するという立場から、彼の道徳批判を理解しようとします。ニーチェの思想における超越論的な立場からの考察は、「系譜学」という歴史的な方法として具体化されましたが、それは「発生論の誤謬」を犯すものであってはなりません。このアポリアを切り抜けるために著者は、『道徳の系譜』の議論を読み解き、ルサンチマンにもとづく自己欺瞞に対するたえまない自己検閲をおこなうことで、道徳的な意識が成立したことを明らかにしています。
一方で、こうしたニーチェの超越論的な系譜学の立場にもとづく議論は、道徳批判をおこなうための価値基準をみずからのうちにもつことになります。このような問題に対して、ニーチェは、あたらしい価値をみずから創造する「超人」の思想を提出することでこたえようとしたのだと著者は論じています。
「あとがき」で著者は、「ニーチェの方法論的核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という確信のもとで本書を執筆したと述べています。ニーチェの思想の解釈としてたいへん意欲的な試みだといってよいと思います。
Posted by ブクログ
哲学的歴史を相剋したものとみなすとき、それが因果的な過去や史実に限らず、「昨日何をしたか」という個人の記憶や道徳的履歴まで含めて考えるべきだと感じた。その上で、結局、一人の人生は生まれながらの初期設定も含めて〝因果“あるいは〝予定説、運命論“で描き出せるものであり、ニーチェの超人という思想は、その関係性からの思考的離脱にあるのではなかろうか。
ルターやカルヴァンの予定説は、「人間は生まれる前から救われるか否かが決まっている」という救済の選別を前提とする。が、ニーチェは人間が自己を創造しうる「自己超克」を重視。つまり、予定説が押し付ける「すでに決まった運命」や因果論には反旗を翻し、自らの運命への主体的姿勢を超人に見出した。未来を自ら書き換える存在として超人を仮定する。
そして、いわゆるフォアキャスティングでもバックキャスティングでもない、今を生きる刹那の繰り返しを「永劫回帰」とした。様々な文脈の中で自我は象られ、連関している。だが、結局はそうした外部性に関わらずに存在する個性こそが超人であり、その純粋な存在は、繰り返しても同じ。純粋な存在を重視すべきだ。
ー ニーチェはなにも、歴史的人間を忘却の力で非歴史化することを目論んでいるのではない。いいかえれば、自然の意志衝動によって人間を野生化することで、歴史病を治そうというのではない。ニーチェはむしろ「超歴史的な立場」に立つことで、歴史と非歴史をひとしく超克しようとする。超歴史的立場とは、歴史のなかに非歴史を見てとる立場である。この立場から見れば、歴史的な偉業や達成をつくりだす人間の魂や文化の活力は、歴史過程のなかで発達するのではなく、むしろそのつど完成して終局しているのであって、それゆえ同一の形が歴史と現在の生を貫いている。超歴史的立場の命題をニーチェは次のように定式化している。過去のものと現在のものは同じ一つのものであり、すなわち、あらゆる多様性にもかかわらず類型としては等しい。それは、不易の諸類型の遍在として、不変の価値と永遠に等しい意味をもつ静止した形姿である。これは後年の「永遠回帰」の萌芽となる思想であるといってよい。
ー 歴史を虚構にしないためには、歴史に対する尚古的な態度が必要である。「尚古的歴史」とは、いにしえからの文物や伝承の骨董的な保存という意味での歴史である。過去をもたない人間は、いわば根無し草のように軽薄であろう。みずからを形成してきた伝統を学び、保存し、その敬虔な雰囲気のなかで呼吸すること、その伝統に根ざして養分を受けとることが人間の成長には不可である。
正直に言うと、ニーチェが何のために永遠回帰などという、逆説的には人生が何度も生きられるような思考実験を用いたのか、分からない。一度きりの人生だと考える方が超人の前提に相応しい気がするからだ。その方が余程、大切に生きるはずではないのか。