大澤真幸のレビュー一覧
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さらに言うと、「○○はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探究の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。私はわりと好きな用語ですが、難しいですね。どうも日本人の日常用語にならない。ふつうの会話で「偶有性」なんて使いませんから。
パーソンズは、ホッブズの理論は、「功利主義的人間観」の最も純粋なかたちだと解釈しています。功利主義的人間観とは、人間は自分の満足度・快楽を最大化するように合理的に動く(最適な手段を選ぶ)ものである、とする人間観です。ホッブズはこれを前提にして社会秩序を説明しようとした。
では、ホッブズの議論は成功しているのか? 功利主義の論理をUとすると、ホッブズの議論の構成はこうなっています。
功利主義にもとづくある論理U → 社会秩序
パーソンズは、この議論は、ホッブズは自分ではうまくいっているつもりかもしれないけれど、本当はうまくいっていない、と言っています。パーソンズの考えでは、功利主義的人間観だけでは社会秩序をうまく説明できない。功利主義的人間観に、さらに何かプラスアルファしなければならないと考えた。
そうすると、社会学とは、功利主義的人間観Uに、これを抑制したり、変形したりする、何か別の原理Xが必要になる。この別の原理である「X」を探し出すことが社会学である、と言うこともできるのです。実際、パーソンズはそのように考えました。
大事なところなので、もう一度、噛み砕いて確認しておきます。ホッブズの社会契約に抵抗権がないのは、ホッブズが政治イデオロギー的に保守的だったからではなく、彼の理論に内在した論理的理由がある、そのように述べてきました。万人の万人に対する闘争を終わらせるために、リヴァイアサンに自然権を譲ったのに、リヴァイアサンへの抵抗権を認めてしまえば、闘争状態が復活してしまうわけです。ホッブズの議論は、論理的に首尾一貫しています。首尾一貫しているがゆえに抵抗権がないわけです。
では、なぜ同じ問題はロックにはないのか。たとえば、裁判をして、その判決が気に入らなかったとする。俺はその判決には絶対に納得がいかない、と抵抗権を行使する、というようなことになったら、せっかくの契約も元も子もないじゃないですか。だから、ある意味で、ロックのほうが首尾一貫していないのです。
でも、ロックは、「いやいや大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」と言うわけです。ロックはどう考えているか。ここで「神」が効いてくるのです。
「判決が気に入らなければ、文句を言いなさい。しかし、神が見ていますからね」と。ここが重要です。裁判官に文句を言うことはできる。しかし、最後の審判の日に、神に申し開きをできるか、つまり神を前にしてアカウンタビリティがあるかが問題です。そうすると、よほどの確信がなければ、政府に文句を言えないことになる。だから、抵抗権を行使するのは、よほどのときなのです。「最後の審判の日にも、私は神にはっきりとそれについて自分の正当性を説明することができます」というときでなければ、抵抗権は行使できない。したがって、抵抗権付きでも、そんなに酷く破壊的な無秩序になることにはならないよ、むしろ抵抗権を認めておいたほうがよいよ、というのがロックの議論です。
通説的なことを先に言っておきます。マルクスは、人間の物質的な、あるいは経済的な部分と、精神的な活動との間の関係を、『経済学批判』(一八五九年)という本の有名な序言で――この本は非常に重要な本で、『資本論』の第一巻の下書きのようなところがあります――明快に定式化しました。それが「土台と上部構造」、あるいは「下部構造と上部構造」という建築の比喩です。土台は経済のことです。これは先ほどの「生産様式」と同じ意味です。
マルクス用語では、「生産力(Produktivkraft)」と「生産関係(Produktionsverhältnisse)」を足し算すると「生産様式」になります。「生産関係」とは、究極的には階級の関係を指します。もう少していねいに言い換えると、職場内での分業や社会全体での分業、そして最終的には階級関係、そういうものをまとめて「生産関係」です。
その土台の上に、二種類の二階が載っています。「政治的・法律的上部構造」と「イデオロギー的上部構造」です。この考えには批判が多く、悪名高い図式ですが、とりあ、 ず、知っておかなければいけないので、書いておきます。
上部構造 政治的・法律的/イデオロギー的
土台 経済生産様式=生產力+生産関係
この「イデオロギー」が非常に重要な言葉です。いまではふつうに使われるようになりましたが、この言葉に特別な意味を与えたのは、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』です。 イデオロギーという言葉を最初に使ったのは、どんな教科書にも書いてありますが、デステュット・ド・トラシーという人です。私は彼のものを読んだことがありませんが、必大行できます。ただ、その時は、「イデア」の「ロギー」、すなわち「イデア」の「ロゴス」で、「観念の学」という意味で使っています。
この語を、マルクスとエンゲルスは人間の精神活動の一般をまとめて意味するために転用したのです。思想とか学問、あるいは芸術なども含めて、イデオロギーと呼ぶ。これがマルクス主義の標準的な図式です。ベースにあるのは経済で、それに規定されて、政治的な権力構造が決まったり、人間の観念や意識の形態が決まったりする、というわけです。
デュルケームも、若い頃、分業に見ていたものを、最終的には宗教に見た。だから、分業と宗教は、デュルケームにとって不可分の関係にある。
ただし、ここでもまた、デュルケームとマルクスは対極的です。デュルケームは宗教が社会の連帯を生み出すということに注目した。それに対して、マルクスは階級概念に宗教的な含みを入れながら、むしろ、資本主義という宗教の中で、見捨てられている人と見捨てられていない人がいる、救われている人と救われない人がいることを問題にしたのです。救われている人は、資本主義という宗教の中ではブルジョワジーと呼ばれ、見捨てられている人がプロレタリアートになるわけです。つまり、資本主義という宗教が、社会に亀裂と闘争をもたらしている、というのがマルクスの基本的な認識です。対して、デュルケームは、宗教が社会に一つの統合と連帯をもたらしている。
どんな相互行為にも結合アスペクトと分離アスペクトの両面があって、それは必ずしも矛盾しない。むしろ、これらの両面あるがゆえに相乗効果で強まったりする。あるいは、 そのバランスが崩れたときに集団が壊れる。これが、ジンメルの洞察の中で、基本にあるアイデアです。
なぜ相互行為は形式をもつのか。それは、相互行為に分離と結合の両面があるからなのです。なぜコミュニケーションが独特の形式を必要とするのか。相互行為にかかわる個人の心的な内容(動機・心情・狙い・利害・・・・・・)はおのおの別々です。ここから、分離のアスペクトが生まれる。分離の部分をもっているさまざまな人が、さまざまな思いや違いがあってもなおつながることができるのは、形式の側面があるからです。
あるいは、逆に、人々が結合している中にあって、それぞれの動機や目的を保持し続け、互いの間の分離を保存するためには、相互行為の形式が必要です。たとえば、呉越同舟みたいなことだって起きるわけです。それぞれの個人が違う目的、違う動機、違う背景をもっていますが、協力し合うとか、模倣し合うとか、助け合うということもできる。内容のレベルでの人々の間の差異を保存しつつ、その同じ人々の間の結合を担保しなくてはならない。この両面の調停のためには形式が必要になります。形式のこのような働きをわかりやすく、そしてあからさまに表現しているのが、先に述べた「社交」なのです。
簡単に言うと、神がふつうの人格に体現されるものから貨幣という物象に変わったときに、貨幣のほうが自由だと言うのがジンメル。それに対して、お前は自由になったつもりかもしれないが、貨幣に拝跪している以上は神に従っているのと同じだぞ、というのがマルクスです。
二十世紀になるかならないかの時期に社会学を成熟させたデュルケームやヴェーバーは、そのような内面の素直な延長線上には見出すことができないところに社会現象が生じるということを自覚したのです。これがこの時代に社会学が決定的な力をもつ、重要な理由になっています。
ルーマンの理論の一番の基本になっているアイデアは、私の考えでは「偶有性(独 Kontingenz, 英 contingency)」です。ルーマン自身は、そう考えていないかもしれませんが、私から見ると、この概念は社会理論的含意も深く、ルーマンのシステム論の基本的な着想を知る上でよい手がかりになります。
日本語の「偶有性」は難しい言葉です。英語の“contingency”のほうがまだ少しはわかりやすいかもしれません。偶有性は、抽象的には、「不可能性」と「必然性」の両方の否定によって定義される様相ということになります。つまり、「不可能ではなく(可能であり)、そして必然ではない」というわけです。わかりやすく言えば「他でもありえた」ということです。他でもありえたのに、たまたまこうだ、というのが偶有性の意味です。他でありえないことは、必然性です。また端的にありえないことは不可能性です。これらのどちらでもないことが偶有性です。
偶有性という言葉は、パーソンズもシステム論の中でかなり使っていましたが、力点の置き所を変えつつ、これを中核に据えたのがルーマンです。システムの要素(コミュニケーション)も他でもありえたし――現に起きたことをしないことが可能だったし――、要素の間の関係(コミュニケーションの接続)も他でありえた。これが、偶有性がある状態です。
パーソンズもそうだったのですが、それ以上にルーマンは、「二重の偶有性(独 doppelte Kontingenz, 英 double contingency)」ということを重視します。これは、どういうことか。(パーソンズの論は無視してルーマンに関してだけ述べますが)偶有性を二重だと考えるのは、 自他の関係の中で偶有性を考えているからです。私の選択が他でありうるだけではなく、 私と関係している他者の選択も他でありうる、というわけです。
ただ、この点について、ルーマンよりもさらに踏み込んだことを言いたい気がします。 二つの偶有性が単に足し算されて二重になるのではなく、偶有性というものは、本来的に二重でしかありえないのではないか、と。どういうことかというと、偶有性ということが意味をもつためには、現に起きたことに対して、起きなかったり、なされなかったりした潜在的なことが、起きたことと同じくらいのアクチュアリティがなければいけません。実際には起きなかったり、起きていなかったことが、どうして現実と同じ権利でアクチュアルなどと言う権利があるのか。それは、他者が存在するからだと思うのです。偶有的というのは、究極的には、私が他者だったら、あるいは他者が私だったら、そのようにはやらなかった、ということに原点があるのではないでしょうか。
もし世界が独我論的で、私しか存在しなかったら、偶有性ということは無意味だったのではないか。偶有性は、他者が存在する世界でのみ有意味な概念ではないか。そう考えると、偶有性は本来的に自己と他者との関係の中にしかなく、定義上、二重なのではないか。これがルーマンを超えて指摘しておきたいことです。 -
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ネタバレ帯につられて読んでみた。
久しぶりのキリスト教関連書。橋爪氏と大澤氏の軽妙かつド直球なやりとり。特に大澤氏の問いは時に読者が予想する以上の深堀というかそんなこときいていいのかな的な内容であり質問も面白い。そういう見方もできるなと。
ユダヤ教とキリスト教の違い、清書に書かれている理不尽なことなど、真面目に面白かった。特に哲学を知るためにはやはりキリスト教の素養がないとわからんというのはそうだなと思った。
でもこれ日本的多神教の感覚とは別にキリスト教的一神教の感覚も理解するって難しいなと思った。頭で理解しても多分この本を離れたらまた忘れるなあみたいな。
キリスト教の成り立ち、概論について宗派の偏りなく知りたいのであればおすすめの一冊である。 -
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キリスト教を、それを基盤とする資本主義を根っこから学び直す。
・神との関係は安全保障
・人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目
・Godはメートル原器のようなもの。正しさの規準。コミュニケーションの不可能性。Godとの不断のコミュニケーションを祈りと言う
・一神教と多神教に対立軸があるのではなく、古代の神々の否定という点で仏教、儒教との類似性
・偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だから
・神と人間、神と被造物の差別・差異が圧倒的・絶対的であるがために、ヤハウェという例外的な点との関係で、すべての人が平等化されるという仕組み
・福音派を非科学的と馬鹿にする日本人が、現人神と進化論の矛盾を意識していない
・信仰というのは、意識のレベルと、本人が意識していない態度や行動のレベルとがある
例)宗教をアヘンと斥けるマルクス主義の世界観・形式自体が一神教
・歴史的イエス、メシア、神の子の違い -
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大澤真幸は、『誰でもわかるハイデガー』筒井康隆(著)の解説に、とても鋭い文章に驚いた。大澤真幸は、社会学者である。本書を読みながら、次々に広がるテーマ。それにしても、日本人は、矛盾したものを呑み込んでしまうものだ。大澤真幸の語り口の構成は素晴らしい。
2011年3月11日の津波が海岸から市街地に向かう様子をインターネットの動画で見た時、それは現実に思えなかった。私は、雲南省の昆明市のサルバドールという喫茶店にいて、見た。そして、原発が電源を喪失して、水素爆発、炉心から放射線の飛散。二つのことが同時に起こった。日本の歴史を根底から変える事件だった。そして、その被害について、膨大なニュースが流された。日本から遠く離れた昆明市で、私は日本がどうなるのか?心配だった。そうだ。夢であって欲しいと思った。
大澤真幸は、その洪水のような報道は「あの夢、3•11という悪夢に匹敵する深さをもっていただろうか。われわれが受けたショックをすべて汲み尽くすにたる言説になっていただろうか。」と問いかける。とても、鋭い問いかけである。そして「凡庸な解釈は、むしろ、真実を隠蔽する」とさえいうのである。
大澤真幸は、どう言葉を費やして、自然の猛威と人間の愚かさを表現するのか?大澤真幸は、「3•11の夢に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない。」という。
大澤真幸は、「不可能性の時代」(全てが可能であり、不可能がなくなった時代)において、それでもなお突きつけられた圧倒的な「不可能性」(破局)であり、社会の根幹を変えることが起こっているという。3•11の破局は、まさに大澤が「不可能」になったと論じたはずの「制御不能なカタストロフ」として発生した。この出来事をどう説明するか?なのだ。
大澤真幸は、時代を3つに分けている。 「理想の時代」(戦後~1970年頃まで)この時代は、「現実を改変して理想を実現できる」という素朴な信念が共有されていた時代。「虚構の時代」(1970年代~1995年頃まで)高度経済成長の終焉とともに、理想の実現が困難だと認識され、「理想」そのものが後退した時代。そして、「不可能性の時代」(1995年頃~現代:一般には失われた30年に相当する。)オウム真理教事件や阪神・淡路大震災など、それまでの虚構の時代では覆い隠されていた「救いようのない現実の暴力性や限界」が露わになった時代。
原発事故を踏まえて、これまでの枠組みと座標軸を変えることができるのか?が、政治に問われている。ドイツは、福島の事件を見て、脱原発に向かった。
進化論は、産業の発展によって着想ができた。古生物学者のデイヴィッドラウプは、40億年の地球の生物の歴史の中で、99.9%の種は絶滅してきた。進化は、生き残りの歴史というより、むしろ、圧倒的な絶滅の反復であるということから進化論をみる。
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絶滅のシナリオは、3つある。第一は、公正なゲーム。繁殖戦略上で有利な遺伝子をもっていた種が生き残り、不利な遺伝子をもっていた種が絶滅するというシナリオ。第二は、弾幕の戦場。単純に運が悪い生物が絶滅する。白亜紀末期(6500万年前)の天体(隕石)の衝突のことを考えてみよう。このときの衝突のエネルギーは、広島型の原爆の10億倍だった。過酷な場所に住んでいた運の悪い種が絶滅。第三は、理不尽な絶滅。ゲームのルールが変わって、たまたまそのルールにあったものが生き残る。それは、進化ではない偶発性のものだ。
進化論は適者生存が正論とされているが、絶滅から考えると運や偶発性が関与しているというのは、事実のようなきがする。それにしても、絶滅の歴史という視点に立つのは重要だ。
破局はおとづれる。そのための準備が本来必要だった。
大澤真幸は、「3•11に起きたような破局、すなわち高さ20メートルを超える大津波とか、原発の爆発や炉心溶融といった破局は、論理的には起こりうることを、3•11の前から知ってはいた。それらが、論理的にはありうること不可能なことではないことを知ってはいた。しかし、同時に、われわれのほとんどは、実際にはそんなことがあるはずはない、と思っていたのだ」それは、「知ってはいながら、信じてはいない」という心的態度が構成される。
破局が論理的に可能なだけではなく、現実的であることを納得したのが3•11と言える。原発事故の恐怖は、放射線やそれを発する放射性物質への恐怖である。
放射線や放射性物質が恐ろしいのは、人間の生体はそれらをまったく感知しないのに、生体に深く侵入し、DNAに致命的なダメージを与えるからである。
大災害の後の無法地帯に出現するのは、利己的な個人の間の葛藤ー殺人や強盗をも辞さないような葛藤ではなく、むしろ、普段にはとうてい見ることができない驚異的な利他性に支配された相互扶助的な共同性である。
ハイデガーは、次のように論じている。最も不気味なもの、それは、人間そのものである、と。故郷喪失をも意味する「不気味なunheimlich」という形容詞は、ハイデガーにとっては最も強い否定を意味している。興味深いのは、人間の不気味さを示すのに、ハイデガーは、カントに倣って自然災害を基準としている点である。
日本は、原爆による被害を受けた国であるにもかかわらず、原子力の平和利用を考えている。大澤真幸は、「核アレルギーがあるからこそ、原子力に魅了され、その導入に熱心になったという。アメリカの使用した原爆に、打ちのめされた自尊心を回復するには、日本としては、どうしたらよいのか。科学・技術の象徴であるところの原子力を味方につけ、わが物とし、それを自由に使いこなすことこそ、敗戦によって失われた自尊心を取り戻す、最も確実な方法であろう。」という。大江健三郎さえ、原子力の平和的利用を賛成していた。そして、科学の子、アトムがあった。
大澤真幸は「憲法九条や非核三原則があったがために、日本人は、かえって安心してたいした良心の呵責を感じずに原発の開発ができた」という。原発の核燃料リサイクルは、核兵器の主要な原料となるプルトニウムを分離・抽出する工程を含むため、核兵器への転用が可能だ。再処理技術は、核兵器の保有を目的とする国にとっては、プルトニウムを大量に、かつ効率的に取得するための最も重要な手段となる。
このため、核兵器を持たない国が再処理施設を持つことには、核不拡散(核兵器の拡散を防ぐ国際的な取り組み)の観点から厳しい監視と国際的な規制(IAEAの保障措置)がかけられている。日本は「利用目的のないプルトニウムは持たない」という原則を国際的に約束し、非核兵器国として唯一再処理を行っている国である。
3•11以降において、原発推進派が地方自治体で勝ち、脱原発を支持する人は多くなかった。地方自治体は、原発交付金、固定資産税、雇用創出など、グリコのキャラメルを買う子供のように、おまけが欲しいからだと大澤真幸はいう。
そして、ソフィーの選択となる。原発を止めるべきか、それとも続けるのか?
そこから、キリストの話になり、マルクスの労働者階級の話に持っていく。あちゃー。自分の得意の分野に持っていって、原発はどこにいったのか?
さらに、原発はノンアルコールビール(この例えが、私はどうも気になる。ノンアルコールでは、酔えない。)であり、江夏の21球の19球目が、カーブからウエストボールに持っていったのは素晴らしいという話になる。
大澤真幸は、夢の中を彷徨い、いつまでも覚醒もしなかった。読んでいて、この人は寂しい人だと思った。自分の言いたいことをいいたいだけで、核心にも触れないのだ。ご苦労様。確実に、絶滅する社会学者なんだろうね。ちなみに「夢よりも深い覚醒へ」という言葉は、見田宗介の発案だそうだ。
本書を読んだ田中優子は、「本書は哲学の本である。カントやヘーゲルや「神の国」論などと往復しながら書かれているのだが、私は自分のわだかまり(悪夢)を、その往復の筋道のなかで考えようとして読んだ。そういう読み方でもよいのではないか。」という。3・11の悪夢を、どう受け止めるかと言うことを本書は鋭く提起し、それぞれの自分の悪夢として捉えるものだろう。深い覚醒まで至っていない自分を見いだす。
でも、本書からいろんなノイズをいただいた。イーグルトンの悲劇、デイヴィッド・ラウプの大絶滅、ゴーギャンの道徳的な運、カントの地震論、東善作のウラン爺、原子力の平和利用、核燃料サイクル、手塚治虫のアトム、旧約聖書の洪水と方舟、神の全能性の神義論、自由意志論、プルトニウム・ファイル、ジョン・ロールズの正義論、ハンスヨハス、原発ジプシーの堀江邦夫、レヴィストロースの『浮遊するシニフィアン』などなど、読みたい本がたっぷりあった。ありがとう。 -
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桜庭一樹さん、平田オリザさんとともにリレーする「朝日新聞」の「古典百名山」という連載のために書いた原稿に加筆したものだそうだ。
そのうち、大澤さんの選んだ本は50冊。
誰もが「古典」に選ぶと思われる著作もあるが、初めて知った本もある。
新しいものではエドゥアール・グリッサン『〈関係〉の詩学』で、1990年。
どれも簡単に読み通せる気がしない本ばかりだが…。
自分が読んだことがあるのは2冊。
部分的に読んだことがあったり、本書のようなブックガイドなどを通してなんとなく内容を知っていたものを数えて12冊。
研究者が一体どれだけの「古典」と現在も発表され続ける論文を読んでいるのか、と空恐ろしい気持ちになる。
さて、本書は大澤流ガイドブックである。
それぞれの著作のエッセンスを大澤流に解釈していく部分もあるため、面白い。
これまで理解していたものと別の側面を知ることができたりすることもあった。
その一例はマキャベリの『君主論』。
この本が「政治的支配のためにはどんな悪徳でも許される」という一般的な理解は不十分なものだと明かされる。
この本はマキャベリが失職中、新支配者であるメディチ家当主に顧問として自分を売り込むために書かれた本であり、個別的な状況に対しあれこれ具体的な指南を示したものだそうだ。
むしろ、マキャベリは支配者の「力量」を重視しており、神ならぬ身で統治の全責任を負うという「不可能な責任」を負うために、様々な例外が許されるというのが趣旨だった、と解説されている。
『君主論』を自ら読むことはないだろうと思っていたので、こういった視角を得られたことはとてもよかったと思う。
W.ジェイムズ『プラグラティズム』についての章も同様。
パースが提唱したプラグマティズム。
「真理であるとは、その信念が行為に対して有効であるということだ」というジェイムズの主張を通して広まっていった。
神に対する冒涜だ、主観的すぎるなどの批判もあり、パース自身もこのような形で広がったことを受け入れづらかったようで、自分の説を「プラグマティシズム」だと区別しようとした、などという話も紹介されて、ちょっと面白かったりする。
大澤さんは、パースのアブダクションについての議論を見る限り、ジェイムズの考えとそれほど違っていない、とバッサリ。
その著作の意義が同時代の文脈で確認されるため、見通しが良くなる感じがする。
あとがきに紹介された「先人の研究に縛られずに自由に考える」と標榜するものは、大概凡庸だという話がとても印象的だった。
だいぶ長く生きてきたのに、ちっともものが分かった気がしない。
そう思いながら、残された時間で読めるものを探しているのだが、さて、どうしよう。
カントローヴィチ『王の二つの身体』
フーコー『言葉と物』
バフチン『ドストエフスキーの詩学』
ロールズ『正義論』
レヴィ=ストロース『野生の思考』
三上章『象は鼻が長い』
この辺りから、どれか一冊は読み通してみたい。 -
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並行して読んでいたハラリの本とテーマがどこかしら被る。
時代背景としてやむを得ないか。
コラム集の形をとっているため、いくつかの塊に分かれる。
1部は民主主義と資本主義が離婚思想、、、全体主義のせい
2部はおたくがテーマ。そこからなぜかジブリ映画「君たちはどう生きるか」の話に。
映画館で観る気はせず、でも日テレの放送は録画して、そのうち観ようと思ってた。
上映中はネタばれ絶対禁止だったし、その後もそうだと思っていたが、
この本で思い切りネタバレしてる。核心まで。観る気が半分失せた、、、
3部はガザ進行。ジェノサイドと言い切る。私もそう思う。
しかしアメリカはそう思わない。日本もそれにつきあう。。
4部はトランプ旋風そのものが主題。なんだかなあ、だ。1部とつながっている。
とらえどころのない新書ではあった。
第1部 離婚の危機を迎えている民主主義と資本主義
(1) 民主主義の幸せな結婚
民主主義の劣勢?/民主主義の二つの定義/近代民主主義のための「超越論的な条件」 /すばらしい結婚――民主主義と資本主義
(2) 離婚しようとする資本主義
離婚がささやかれる/商品物神・貨幣物神/ローダーデールのパラドクス/資本主義 の下での伝統の「強化」/資本主義の二人目の配偶者/離婚の恐れ
(3) 自由――資本主義の魅力の中心
資本主義の優位の源泉/自由の劣化――西側の資本主義における/功利主義の中国 /説明責任の二つの方向/二つの監視社会/中国人だけが……
(4) 離婚の決心がつかない民主主義の運命
民主主義的な決定は必ずしも正義ではない/離婚を受け入れられないと……/グロー バルな民主主義は可能か/結論は離婚
第2部 西洋近代の罪と向き合うとき
Ⅰ 市民的抵抗が極端に少ない例外的な国
1 21世紀、世界では「非暴力抵抗」が非常な勢いで増加している
「ママ.クリーニング小野寺よ」/オタクたちの超能力/非暴力抵抗の有効性/日本 社会の極端な例外性/トータルな破局への予感
2 〈世界〉ではなく、セカイで
「フリーライダー」狙い/セカイ系/なぜ非現実になるのか/脱線――『党生活者』の 夫婦とセカイ系のカップル/「認知地図」の歪み
3 「オタク」から「クイズ」へ……しかし……
オタク――〈世界〉ではなく「世界」/この縮減はなぜ生ずるのか/クイズ――「オタクのオタ ク」/それは私への問いかけだった――君のクイズ
Ⅱ どうすれば日本は「戦後」を清算できるのか
1 選ばれるのを拒否した主人公
スタジオジブリの『君たちはどう生きるか』/眞人は拒絶した/鬼殺隊に入るのを拒絶 した炭治郎……ではないとしたら/漫画版『ナウシカ』の結末/「現実」と「虚構」/ 選ぶこと=選ばれること
2 「悪」に汚染された者として出発する
類似の先行作品から/拒否の理由/死者との二律背反的関係/「虚構=現実」への逃避 /問題は「その後」である
Ⅲ ガザ戦争と普遍的な価値
1 ガザ戦争とは何か
これはジェノサイドである/ハマースがロシアで、イスラエルがウクライナなのか?/ガザ戦争の歴史的背景西洋近代の罪悪
2 「交響圏とルール圏」の一形態としての二国家解決
二国家解決の挫折/交響圏とルール圏/ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト/「カ エサルのものはカエサルに、神のものは神に」なのか?
3 内的な敵対関係
司法改革への反対運動――イスラエルにおける/共通の敵による団結/内的な敵対関 係──ユダヤ人の側/内的な敵対関係──パレスチナ人の側
4 交響性はどこにあるのか?
希望はある/交響性の所在/片目のダヤン
5 仲介者はどこにいる
二つの学生運動――「反ガザ戦争」と「反ベトナム戦争」/哲学のアクチュアリティ/ アメリカは仲介者たりうるか?/ほかにも仲介者がいる、だが……
6 日本は何をなすべきか――ガザ戦争に対して
敗戦のトラウマ/日本の過ち――植民地主義と人種主義/「善意の犠牲者」だった?/ 西洋の自己批判能力/西洋の偽善/普遍性を律儀に受け取ること/「絶望」から「希 望」へ
Ⅳ 西洋近代の自己否定?
1 世界的な大事件は二度起きる――ただし二度目は……
大事件は二度起きる/トランプが勝った、というよりも……/不可能な極端vs可能な 中庸/最も「大胆な主張」――日本の総選挙まで
2 ふしぎなトランプ支持
反体制運動のノリで/トランプ支持の二つのタイプ
3 ヨーロッパの(自己)否定としてのトランプ
「我々」労働者は包摂されているのか?/既成支配層の欺瞞/寛容な社会の二つの極 限/最も不品行な男が道徳の保守者になる仕組み/マスコミはマスコミゆえに拒絶さ れた/なぜ小児性愛なのか?/ヨーロッパの否定/ならばどうすべきか? -
Posted by ブクログ
2022年刊行だから、少し前。
大きく、イスラムとアメリカのこと。
ウクライナとロシアのこと。
中国と西洋資本主義国のことが語られる。
対談を読んで考えたことなので、分かっていない部分も多いと思う。
一つは、ロシア(プーチン)のジレンマのこと。
どこからも歓迎されない大国の疎外感。
今尚、ウクライナとの戦争は続いていて、私を含めて世界中の人はそれを知っている。
けれど、終わらない。終わらせられないということ。
一つは、中国の成功のこと。
二人は、中国式の資本主義がある程度の成功を収めているのは、特異な事象だとして、それでも今後は中国とアメリカが中心になるという図を描く。
それは、中国か西洋かという問題ではないと橋爪さんは割と強めに語る。
結局、中国の人件費、それから品質なんかを我々はある意味、低く見ている部分がある。
そしてそれを、利用しようとしてきた。
そうした態度は、中国の在り方を肯定してきたことと同様で、モラルの観点から間違ってるとも言う。
利用してきたものが、無視できない力を蓄えた時、今度は我々の在り方を問い直さなくてはならない時が来る。
ネットを見ていると、いわゆる爆買や品位に対する負の感情が多く見られる(ような気がする)。
けれど、搾取という意味で、直接的でないだけで、同じようなことをしてきたのではないか。
そんな我々を支持してくれるのは、誰なんだろう? -
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わが日本の歴史において、成功した革命はただ一度しかない、それは北条泰時による法(貞永式目)の制定である、と著者は言う。この着想自体は、山本七平の「日本的革命の哲学」に依拠している。
大澤の本領は、なぜ欧米で可能であった革命が日本では不可能であったか、しかしその不可能性の中でなぜ北条泰時は革命を起こすことができたのか、を問う。
いつものことながら、ミステリー仕立ての論理運びは知的にスリリングで、一歩間違うと大澤の論理展開は知的な遊戯に堕してしまうのであるが、ここでは一定の説得力をもった議論が展開されている。
一般に革命は、その変化の意志が人民に外在する「例外的な一者」(第三者の審級)に帰せられる時に実現する。それは中国では「天」であり、西洋では「唯一神」である。日本における「一者」である天皇は、しかし外在するのではなく、内在している。ゆえにこの一者はすでに与えられたことを追認することしかできない、というのである。すなわち日本における革命の不可能性だ。ではなぜ泰時は、革命を成しえたのか。
ここで大澤は、山本とともに明恵上人を持ち出す。
その思想の中核にある「自然発生的な秩序の過剰な肯定」という契機が、革命を可能にしたというのである。
この展開は単なる論理遊びではない。
日本的な精神の運動の本質的なものに触れえている、と私は感じた。