【感想・ネタバレ】夢よりも深い覚醒へ 3.11後の哲学のレビュー

あらすじ

「不可能性の時代」に起きた3.11の二つの惨事は、私たちに何を問うているのか。日本で、脱原発が一向に進まないのはなぜなのか。そもそもなぜこれほど多数の原発が日本列島において建設されてきたのか。圧倒的な破局を内に秘めた社会を変えていくための方法とは? オリジナルな思考を続ける著者渾身の根源的な考察。

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夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)
(和書)2012年07月22日 15:51
大澤 真幸 岩波書店 2012年3月7日


原発についてからイエス・ソクラテスへそしてヘーゲルとマルクスの思考方法など思考がなされている。

ハンナ・アーレントが危険思想はない思考することが危険なのだと言っている。
そして思考停止こそ悪である。

そういう意味で、3.11後から神・世界・人間を思考し続けるその姿勢は、それ自体、思考停止することを強烈に批判している。

見習った方が良い姿勢だと思う。

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2020年09月27日

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1「未来の他者」はどのようにしたら、私達の意思決定コミュニティーのメンバーに入れることができるか?

2「神の国」に近づくためには、現実をどのように位置づけることができればよいのか?

3自分たち自身を「プロレタリアート」として認識することはできるか?

同じ頂に登るための3つのアプローチについてのスリリングな論考。
リーダブルであるが、私には難しいことも多いのが正直なところ。
要再読か。

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2020年04月03日

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尊敬する社会学者の一人、大澤真幸さん。今回もおもしろかった。どこかでもう一度読み返したい。『不可能性の時代』と合わせて読むと、より効果的かと。

原子力を巡る「信と知の乖離」や、「例外の守備範囲の拡大」などは、多くの人が共感できると思う。また、ロールズの正義論の限界を乗り越えられる理由として、「未来の他者は、ここに、現在にー否定的な形でー存在しているからである」という点を上げ、「閉塞から逃れたいという渇望」を肯定的にとらえたこともおもしろかった。「プロレタリアート」をより広義に解釈してはどうかという提案も、こことつながるように思った。

ただ、神学とマルクスに関するあたりは、どうも慣れていなくて、読みづらかった。

最終章で示された集合的意思決定の方法は、東浩紀さんが『一般意志2.0』で示した方法と、似た部分も違う部分もそれぞれ感じられて、とても興味深かった。さて、どのようなスタイルが今後の民主主義に追加、あるいは代替されていくのだろうか。

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2013年07月31日

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ネタバレ

震災・原発事故のお話を、フロイト、ロールズ、江夏、イエス・キリスト…と相変わらずの「そんな無茶な」と思わせるアクロバティックさを保ちつつ、その説得力に今回も驚きました。

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2012年08月26日

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ネタバレ

『夢よりも深い覚醒へ』岩波文庫・大澤真幸

正直言って自分の手には余るテーマだけれど、こういう時世だからこそあえてレビューを。3.11を受けて、原発のありかたの是非を根源的に問う哲学書。この問題設定をおこなう以前に答えは決まっている。かくも危険な存在であると分かっている原発をなぜに容認してしまうのか

その答えは比較的簡単で、「原発はもともと相当に安全に造られているのだから、一切の原発の建設を諦めるというような極端に走らなくても、事故を起こさずに済むのではないか、と。…「われわれ」が極端に用心深くなって、原発を放棄してしまえば、「われわれ」だけが損をしてしまうのではないか、と。要するに、原発の建設を一切禁止するという極端な予防策は無意味ではないか、と。こうした思いが出てくれば、結局は、原発の建設に踏み切ることになる。」(55)

では中長期的な視点で脱原発を図ろうとする際に、「探求の主題」として挙げられるのは「どのような前提が受け入れられ、満たされたとき、こうした(脱原発への)理路に有無を言わせぬ説得力が宿るのか」(15)ということだ。

この問いに対する結論は第3章で明かされる。すなわち、「未来の他者との連帯」にこそ解決の鍵はあるという。その「未来の他者との連帯」をいかにして見いだすかというと、単なる子の代・孫の代という身近な近親者に対する“想像力”ではない。「現在のわれわれへの不安と救済への希望」だという。

「未来の他者は、ここに、現在にーー否定的な形でーー存在しているからである。たとえば、現在、われわれは、充足していると思っているとしよう。(中略)しかし、同時に、「現在のわれわれ」は、説明しがたい悲しみや憂鬱、言い換えれば、この閉塞から逃れたいという渇望をもっているだろう。 その悲しみや憂鬱、あるいは渇望こそが、未来の他社の現在への反響ーー未来の他社の方から初めて対自化できる心情ーーなのであり、もっと端的に言ってしまえば、未来の他社の現在における存在の仕方なのだ」(149)

この文面を見ると、「今感じる不安を解決するための行動こそが未来につながる」という、しごく簡単なことをわざわざ難しいレトリックを用いて説明しているように思えるが、カント〜ヘーゲル〜マルクス〜ウェーバー、そしてアメリカの自由主義という思想的な手続きを踏んだうえでのこうした結論なので、単なる言葉遊びではない。

4章・5章は、より具体的に変革を担う主体としての宗教と階級に焦点。いうまでもなくウェーバーとマルクスの再解釈にあるけれど、本書の主題を理解するには3章までで事足りる。

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2012年07月04日

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 大澤真幸は、『誰でもわかるハイデガー』筒井康隆(著)の解説に、とても鋭い文章に驚いた。大澤真幸は、社会学者である。本書を読みながら、次々に広がるテーマ。それにしても、日本人は、矛盾したものを呑み込んでしまうものだ。大澤真幸の語り口の構成は素晴らしい。

 2011年3月11日の津波が海岸から市街地に向かう様子をインターネットの動画で見た時、それは現実に思えなかった。私は、雲南省の昆明市のサルバドールという喫茶店にいて、見た。そして、原発が電源を喪失して、水素爆発、炉心から放射線の飛散。二つのことが同時に起こった。日本の歴史を根底から変える事件だった。そして、その被害について、膨大なニュースが流された。日本から遠く離れた昆明市で、私は日本がどうなるのか?心配だった。そうだ。夢であって欲しいと思った。

 大澤真幸は、その洪水のような報道は「あの夢、3•11という悪夢に匹敵する深さをもっていただろうか。われわれが受けたショックをすべて汲み尽くすにたる言説になっていただろうか。」と問いかける。とても、鋭い問いかけである。そして「凡庸な解釈は、むしろ、真実を隠蔽する」とさえいうのである。

 大澤真幸は、どう言葉を費やして、自然の猛威と人間の愚かさを表現するのか?大澤真幸は、「3•11の夢に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない。」という。

 大澤真幸は、「不可能性の時代」(全てが可能であり、不可能がなくなった時代)において、それでもなお突きつけられた圧倒的な「不可能性」(破局)であり、社会の根幹を変えることが起こっているという。3•11の破局は、まさに大澤が「不可能」になったと論じたはずの「制御不能なカタストロフ」として発生した。この出来事をどう説明するか?なのだ。

 大澤真幸は、時代を3つに分けている。 「理想の時代」(戦後~1970年頃まで)この時代は、「現実を改変して理想を実現できる」という素朴な信念が共有されていた時代。「虚構の時代」(1970年代~1995年頃まで)高度経済成長の終焉とともに、理想の実現が困難だと認識され、「理想」そのものが後退した時代。そして、「不可能性の時代」(1995年頃~現代:一般には失われた30年に相当する。)オウム真理教事件や阪神・淡路大震災など、それまでの虚構の時代では覆い隠されていた「救いようのない現実の暴力性や限界」が露わになった時代。

 原発事故を踏まえて、これまでの枠組みと座標軸を変えることができるのか?が、政治に問われている。ドイツは、福島の事件を見て、脱原発に向かった。

 進化論は、産業の発展によって着想ができた。古生物学者のデイヴィッドラウプは、40億年の地球の生物の歴史の中で、99.9%の種は絶滅してきた。進化は、生き残りの歴史というより、むしろ、圧倒的な絶滅の反復であるということから進化論をみる。
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 絶滅のシナリオは、3つある。第一は、公正なゲーム。繁殖戦略上で有利な遺伝子をもっていた種が生き残り、不利な遺伝子をもっていた種が絶滅するというシナリオ。第二は、弾幕の戦場。単純に運が悪い生物が絶滅する。白亜紀末期(6500万年前)の天体(隕石)の衝突のことを考えてみよう。このときの衝突のエネルギーは、広島型の原爆の10億倍だった。過酷な場所に住んでいた運の悪い種が絶滅。第三は、理不尽な絶滅。ゲームのルールが変わって、たまたまそのルールにあったものが生き残る。それは、進化ではない偶発性のものだ。

 進化論は適者生存が正論とされているが、絶滅から考えると運や偶発性が関与しているというのは、事実のようなきがする。それにしても、絶滅の歴史という視点に立つのは重要だ。

 破局はおとづれる。そのための準備が本来必要だった。
大澤真幸は、「3•11に起きたような破局、すなわち高さ20メートルを超える大津波とか、原発の爆発や炉心溶融といった破局は、論理的には起こりうることを、3•11の前から知ってはいた。それらが、論理的にはありうること不可能なことではないことを知ってはいた。しかし、同時に、われわれのほとんどは、実際にはそんなことがあるはずはない、と思っていたのだ」それは、「知ってはいながら、信じてはいない」という心的態度が構成される。

 破局が論理的に可能なだけではなく、現実的であることを納得したのが3•11と言える。原発事故の恐怖は、放射線やそれを発する放射性物質への恐怖である。  
 放射線や放射性物質が恐ろしいのは、人間の生体はそれらをまったく感知しないのに、生体に深く侵入し、DNAに致命的なダメージを与えるからである。

 大災害の後の無法地帯に出現するのは、利己的な個人の間の葛藤ー殺人や強盗をも辞さないような葛藤ではなく、むしろ、普段にはとうてい見ることができない驚異的な利他性に支配された相互扶助的な共同性である。

 ハイデガーは、次のように論じている。最も不気味なもの、それは、人間そのものである、と。故郷喪失をも意味する「不気味な​unheimlich」​という形容詞は、ハイデガーにとっては最も強い否定を意味している。興味深いのは、人間の不気味さを示すのに、ハイデガーは、カントに倣って自然災害を基準としている点である。

 日本は、原爆による被害を受けた国であるにもかかわらず、原子力の平和利用を考えている。大澤真幸は、「核アレルギーがあるからこそ、原子力に魅了され、その導入に熱心になったという。アメリカの使用した原爆に、打ちのめされた自尊心を回復するには、日本としては、どうしたらよいのか。科学・技術の象徴であるところの原子力を味方につけ、わが物とし、それを自由に使いこなすことこそ、敗戦によって失われた自尊心を取り戻す、最も確実な方法であろう。」という。大江健三郎さえ、原子力の平和的利用を賛成していた。そして、科学の子、アトムがあった。

 大澤真幸は「憲法九条や非核三原則があったがために、日本人は、かえって安心してたいした良心の呵責を感じずに原発の開発ができた」という。原発の核燃料リサイクルは、核兵器の主要な原料となるプルトニウムを分離・抽出する工程を含むため、核兵器への転用が可能だ。再処理技術は、核兵器の保有を目的とする国にとっては、プルトニウムを大量に、かつ効率的に取得するための最も重要な手段となる。

 このため、核兵器を持たない国が再処理施設を持つことには、核不拡散(核兵器の拡散を防ぐ国際的な取り組み)の観点から厳しい監視と国際的な規制(IAEAの保障措置)がかけられている。日本は「利用目的のないプルトニウムは持たない」という原則を国際的に約束し、非核兵器国として唯一再処理を行っている国である。

 3•11以降において、原発推進派が地方自治体で勝ち、脱原発を支持する人は多くなかった。地方自治体は、原発交付金、固定資産税、雇用創出など、グリコのキャラメルを買う子供のように、おまけが欲しいからだと大澤真幸はいう。

 そして、ソフィーの選択となる。原発を止めるべきか、それとも続けるのか?
そこから、キリストの話になり、マルクスの労働者階級の話に持っていく。あちゃー。自分の得意の分野に持っていって、原発はどこにいったのか?

 さらに、原発はノンアルコールビール(この例えが、私はどうも気になる。ノンアルコールでは、酔えない。)であり、江夏の21球の19球目が、カーブからウエストボールに持っていったのは素晴らしいという話になる。
 大澤真幸は、夢の中を彷徨い、いつまでも覚醒もしなかった。読んでいて、この人は寂しい人だと思った。自分の言いたいことをいいたいだけで、核心にも触れないのだ。ご苦労様。確実に、絶滅する社会学者なんだろうね。ちなみに「夢よりも深い覚醒へ」という言葉は、見田宗介の発案だそうだ。

 本書を読んだ田中優子は、「本書は哲学の本である。カントやヘーゲルや「神の国」論などと往復しながら書かれているのだが、私は自分のわだかまり(悪夢)を、その往復の筋道のなかで考えようとして読んだ。そういう読み方でもよいのではないか。」という。3・11の悪夢を、どう受け止めるかと言うことを本書は鋭く提起し、それぞれの自分の悪夢として捉えるものだろう。深い覚醒まで至っていない自分を見いだす。

 でも、本書からいろんなノイズをいただいた。イーグルトンの悲劇、デイヴィッド・ラウプの大絶滅、ゴーギャンの道徳的な運、カントの地震論、東善作のウラン爺、原子力の平和利用、核燃料サイクル、手塚治虫のアトム、旧約聖書の洪水と方舟、神の全能性の神義論、自由意志論、プルトニウム・ファイル、ジョン・ロールズの正義論、ハンスヨハス、原発ジプシーの堀江邦夫、レヴィストロースの『浮遊するシニフィアン』などなど、読みたい本がたっぷりあった。ありがとう。

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2025年10月08日

Posted by ブクログ

自分では当然と思っている事が、周りには受け入れられない。

著者にとって、その1つが原子力発電です。危険で廃止するのが自明と思っているのに、3.11にもかかわらず廃止という意見が少ない。

そんな時、ただ声高に主張するのではなく、どう行動すればよいか?

著者は持論を展開していきます。それを成功/失敗と批評するより、「では、自分ならどうするか」と読後に各々が行動を工夫する事が、この本の効果になると思います。

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2018年01月07日

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被爆の経験を持つ日本人が原子力発電をなぜ受け入れたのか.3/11後の様々な問題について哲学者が幅広い考察をしているが、数多くの引用文献を駆使した理論展開には付いていけない部分が多かった.IV章で「江夏の21球」が出てきたのは意外だったが、このような事象を哲学的に考えている人がいることに驚きを感じた.最後の章で総括的な記述があるが、ここを先に読んで最初からアタックするのが上手い方法ではないかと感じた.難しい議論だが、このように考えることは重要だと思う.

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2015年07月16日

Posted by ブクログ

東日本大震災と原発事故が問いかけている倫理的な問題について、さまざまな思想的資源を活用しながら、考察をおこなっている本です。

著者は本書の冒頭で、脱原発という方針を「いきなり結論」として提出します。しかし問題は、これまでもこれからも、原発をめぐる議論がロールズの想定するような民主主義的な議論の枠組みによって正解に到達することができないという点にあります。著者は、バーナード・ウィリアムズの提起した「道徳的運」の概念を用いて、行為の倫理的な価値が偶発的な結果によって遡及的に決定されてしまうという問題や、ロールズの「無知のヴェール」という装置では未来世代との連帯を基礎づけることができないといった問題をあげて、このことを明らかにします。

そのうえで著者は、ユダヤ・キリスト教における神義論や、マルクスによるプロレタリアートをめぐる議論、さらには江夏の二十一球のエピソードなどを紹介しながら、問題を掘り下げていきます。著者は、この否定的な現実が神の国であるという逆説をバネとすることで、新しい倫理を立ちあげることができるという見通しを語り、さらに真理を知らない社会運動の指導者が、いまだわれわれによっては到達しえないでいる未来の他者との連帯の道筋を切り開くことの可能性が論じられています。

本書では、原発をめぐる問題が、倫理というフィールドにどのような問題を投影しているのかということについて議論が展開されていますが、中心的な問題はむしろ、ロールズの想定する民主主義によっては連帯することが不可能な他者との連帯の可能性を示すことにあると理解することができます。ただその結論については、アポリアをすべてパフォーマティヴな次元に投げ込んでしまっているだけではないかという疑問も感じます。

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2021年11月23日

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この話は鮮度が大事で、仮に3.11から数年を経てこの本が出されたのだとしたら大澤氏にしてはあまりに思考が浅いのでは?と思ったけど3.11から1年も経たずに出版されてたことをあとがきで知り、そのスピード感はさすがだなと思った。
震災・津波や1F事故を宗教的、哲学的観点から捉えて社会構造、意識構造を問うていくのはやはりこの人の持ち味だろうなと思う。けど『虚構の時代〜』から続けて読んできてある種「大澤ワールド」が深化してどんどん氏のフィールドの中だけで話が膨らんでいってるような印象も受ける。読み物としては面白いけど、わたしにはどこかフィクションを読んでるみたいで、実践的かと言われるとうーんと思う。と言いつつやっぱり面白いので、これからも読むと思うのだけど。
ところどころ、さすがに暴論では?と思う箇所もいくつかあったけど、わたしと氏との思想の違いなのかな。100%賛同はできないけど、読んでよかったと思う。

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2019年03月02日

Posted by ブクログ

 最低限、同著者の『不可能性の時代』(岩波新書)を読んでいないと、まったく理解できないと思われる。相変わらずの衒学趣味とアクロバットな力技には辟易させられることもあるが、さまざまな社会問題に対するちまちました対症療法の繰り返しにうんざりしている向きには魅力的な問題提起ではある。少なくとも第3章と第5章は社会運動論として読むに値する。

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2014年09月05日

Posted by ブクログ

知が融合するとこんな風になるのかなぁ・・・・。
百科全書的でおもしろかった。
でも・・・・、原発に無理やり???って感じも無きにしも非ずかなぁ。
ソクラテスとキリストとマルクスと原発かぁ・・・。
理念としてはわかるし、視座も角度も愉快なんだけど・・・・。
全体としては現実的ではないですね。
2012年5月現在、日本のすべての原発は停止してますが、著者はどのような判断を下すのか楽しみです。

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2012年05月06日

Posted by ブクログ

近年、著者が巡らせてきた様々な哲学的論考(『不可能性の時代』、『ふしぎなキリスト教』など)を切り口に、3.11を読み解いた作品。著者独特の表現が多用されていること(「第三者の審級」、「アイロニカルな没入」など)も踏まえると、はじめて著者の本を手に取る方には難しいような気もします。
論考の中身も、キリスト教の終末思想や、ノン・アルコールビールの思想などをむりくりに3.11に結びつけて語っているようなところもあります。私個人としては『不可能性の時代』を読んだ時に感じた衝撃(特に秋葉原の事件を切り取る社会学的視点に驚いたわけですが…)は感じることはなかったのでした。期待が高かったといえばそうかもしれませんが…。
それにしても、3.11を契機に何かがもっと大きく変わる気配が合ったのですが、いつの間にかそれもしぼんでしまった感じがするのは私だけではないと思います。見て見ぬふりをしてきて、技術的な出発点は同じである原子力を、原爆という形で恐ろしさを知っていながら、原発を抱え続けたこの国のこれまでの道を、どのような視点から見つめなおすべきなのか。その最初の一歩でもあるような気がします。タイトルにある「深い覚醒」はまだ先だとも感じました。

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2012年04月24日

Posted by ブクログ

正直、特に前半が大変難しく感じられた。
読み進めて後半になってまとめのところまで行き着いて、わかる部分が実感できるようになった感覚を受けた。
たまには頭をギュッと絞る読書も必要だと思う。

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2012年04月07日

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