大澤真幸のレビュー一覧
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尊敬する社会学者の一人、大澤真幸さん。今回もおもしろかった。どこかでもう一度読み返したい。『不可能性の時代』と合わせて読むと、より効果的かと。
原子力を巡る「信と知の乖離」や、「例外の守備範囲の拡大」などは、多くの人が共感できると思う。また、ロールズの正義論の限界を乗り越えられる理由として、「未来の他者は、ここに、現在にー否定的な形でー存在しているからである」という点を上げ、「閉塞から逃れたいという渇望」を肯定的にとらえたこともおもしろかった。「プロレタリアート」をより広義に解釈してはどうかという提案も、こことつながるように思った。
ただ、神学とマルクスに関するあたりは、どうも慣れていなくて、読みづらかった。
最終章で示された集合的意思決定の方法は、東浩紀さんが『一般意志2.0』で示した方法と、似た部分も違う部分もそれぞれ感じられて、とても興味深かった。さて、どのようなスタイルが今後の民主主義に追加、あるいは代替されていくのだろうか。 -
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ネタバレ資本主義は普遍的なものなのか、過渡期的なものなのか?なぜ西洋〜キリスト教の下で発生したのか?国民国家と資本との関係は?
ローマから始まって、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカ、日本、EU…。歴史上、ヘゲモニー国家は生産拡大→金融拡大→バブル→崩壊というサイクルで移行して行きます。その指標として水野氏は「利子」に注目します。そもそもキリスト教でもイスラム教でも禁じられていた「利子」を採用する事によって資本主義は生まれたといいます。その利子が10年を超えて2%以下の超低金利が続くと、既存の経済・社会システムが維持できなくなるという仮説なのですが、現在の日本は16世紀のジェノヴァの記録を400年振りに更新してしまいました。続いて米英独なども堰を切ったように2%を切っています。この低金利では、もう投資機会がないという事ですから、本来は成熟した良い世の中を築いたということなのに、欲望にかられて余計な事をして、金融を肥大化させる。バブルを生む…
今までは、新たなフロンティアを見つけた国が次のヘゲモニー国家となって来ました。新大陸という地理的空間だったり、ITや金融工学という仮想空間だったり…。しかし、今やもうフロンティアは残っていないように思われます。果たして中国は次のヘゲモニー国家になり得るのでしょうか?それは難しいでしょう。なぜなら中国はあくまでも従来の西欧国家や日本、韓国などが歩んできた道を辿っているだけで、決して新たなフロンティアを発見したわけではないからです。このままではもっと速いスピードで我々と同様に、縮小する経済を経験するでしょう。
さて、そんな中でグローバリズム資本主義と国民国家との関係はどうなっていくのでしょうか?資本主義は、実は現在のように資本が国境を易々と越える状況を想定していないと本書では捉えます。あくまでも国民経済の総体が世界経済だという前提なのです。現実には世界経済が先にあるのだけれど、そのフレームワーク自体を説明する方法が見つかっていない。
そうして中国、インド、東南アジア、南米、アフリカ…と、まもなくフロンティアを食い尽くした世界経済はゆっくりと、ゼロ成長に向かいます。その時にどうなるのか。日本の場合、仮にゼロ成長自体は耐えられても、その時に問題になるのは莫大な借金です。それを返済する術がない。僅かでも成長しているうちに借金を減らしていかないといけない。それは身を削るようなつらい作業になるでしょう。
そもそも資本主義は、投資と回収を繰り返して発展していくことを前提に作られたシステムです。しかも古くは家畜や奴隷、石炭、石油、あるいは原子力といった「タダ同然の安価なエネルギー」を得る事で爆発的に発展を遂げ、そのために未来から富を先取りしてきたのです。持続可能なものではなかったことに我々は気づき始めたのでしょう。解答はまだありません。この事実を自覚して、考え続ける責務が我々にはあるのです。 -
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ネタバレ『夢よりも深い覚醒へ』岩波文庫・大澤真幸
正直言って自分の手には余るテーマだけれど、こういう時世だからこそあえてレビューを。3.11を受けて、原発のありかたの是非を根源的に問う哲学書。この問題設定をおこなう以前に答えは決まっている。かくも危険な存在であると分かっている原発をなぜに容認してしまうのか。
その答えは比較的簡単で、「原発はもともと相当に安全に造られているのだから、一切の原発の建設を諦めるというような極端に走らなくても、事故を起こさずに済むのではないか、と。…「われわれ」が極端に用心深くなって、原発を放棄してしまえば、「われわれ」だけが損をしてしまうのではないか、と。要するに、原発の建設を一切禁止するという極端な予防策は無意味ではないか、と。こうした思いが出てくれば、結局は、原発の建設に踏み切ることになる。」(55)
では中長期的な視点で脱原発を図ろうとする際に、「探求の主題」として挙げられるのは「どのような前提が受け入れられ、満たされたとき、こうした(脱原発への)理路に有無を言わせぬ説得力が宿るのか」(15)ということだ。
この問いに対する結論は第3章で明かされる。すなわち、「未来の他者との連帯」にこそ解決の鍵はあるという。その「未来の他者との連帯」をいかにして見いだすかというと、単なる子の代・孫の代という身近な近親者に対する“想像力”ではない。「現在のわれわれへの不安と救済への希望」だという。
「未来の他者は、ここに、現在にーー否定的な形でーー存在しているからである。たとえば、現在、われわれは、充足していると思っているとしよう。(中略)しかし、同時に、「現在のわれわれ」は、説明しがたい悲しみや憂鬱、言い換えれば、この閉塞から逃れたいという渇望をもっているだろう。 その悲しみや憂鬱、あるいは渇望こそが、未来の他社の現在への反響ーー未来の他社の方から初めて対自化できる心情ーーなのであり、もっと端的に言ってしまえば、未来の他社の現在における存在の仕方なのだ」(149)
この文面を見ると、「今感じる不安を解決するための行動こそが未来につながる」という、しごく簡単なことをわざわざ難しいレトリックを用いて説明しているように思えるが、カント〜ヘーゲル〜マルクス〜ウェーバー、そしてアメリカの自由主義という思想的な手続きを踏んだうえでのこうした結論なので、単なる言葉遊びではない。
4章・5章は、より具体的に変革を担う主体としての宗教と階級に焦点。いうまでもなくウェーバーとマルクスの再解釈にあるけれど、本書の主題を理解するには3章までで事足りる。 -
購入済み
興味がある人は必読!
個人的には無宗教ですが、マイケルムーア監督の西洋社会への風刺をかいた映画を見てから、
西洋社会が政教分離できていないことに驚きと関心があったので、この本を購入。
そもそも興味がないと読まないジャンルだと思いますが、社会学、心理学的にキリスト教にせまっていて
興味のある人にとっては大変おもしろいとおもうので★5つにしました。
今の西洋に影響を与えた宗教の成り立ちを中心に書いてあり、
(第1部ユダヤ教、第2部キリストについて、第3部まとめ、な感じでした)
なぜキリスト教に人々が特にハマることになったか、など心理的な部分もフォーカスされています。
対談形式なので、ある程度キリスト教などの基礎知識くらいはないと読みづらい部分もあるかもしれませんが、
このボリュームで、内容で、この価格は安い!
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Posted by ブクログ
ネタバレ[ 内容 ]
9・11テロは、文明の「外敵」が引き起こした事件というだけではない。
アメリカを含む「私たち」の内にも、イスラーム原理主義に呼応する側面があるのではないか?
テロリストは、私たちの内なる欲望を映し出す鏡ではないか?
文明間の衝突は、同時に私たちの文明の内なる衝突ではなかったか?
現代世界の深層に横たわる葛藤の根源的要因を、“資本”のグローバル化との関連で鋭く読み解き、この葛藤を乗り越えるための思想的・実践的課題を模索する、著者渾身の書き下ろし。
[ 目次 ]
序章 9・11テロ、そして社会哲学の失効
第1章 文明の内的かつ外的な衝突(資本主義への攻撃か?;テロリストへの憧憬 ほか)
第2章 イスラームと資本主義(「交換」の論理;ラシュディ事件再考 ほか)
第3章 原理主義的転回(国外における内戦;「生きよ!」と命令する権力 ほか)
第4章 弱くかつ強い他者たちへ(セキュリティの逆説;さまざまな「解決」 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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201103/
ウォルター・リップマンの『世論』/
世論の形成においてエリートの存在がいかに重要か/
個々の市民は群集の中におぼれている。だから、彼らにはローカルなものしか見えていない/
エリート知識人があたかもすべてを見通しているかのように人に思われることは、世論が形成され、民主主義がうまく機能するための絶対条件/
つまり、個々の市民は自分のことしか分からない。ローカルな視野しか持っていない。でも誰かが普遍的な知を持っているという幻想が成り立つことが重要なんです。このとき初めて市民は、エリートによって自分たちが代表されていると思うことができる/
ここで重要なのは、エリートが自分の代わりに見通してくれていると判断すると、そのとき個々人は自らが選んだような気分になるということです。人は、自分のために、自分に代わって何かをやってくれる他者を選ぶことができれば、自分がやっているに等しいという気分になる。これこそが民主主義の重要なトリックです。このような、誤ってはいても、しかし政治的に有意味な幻想を持つことが可能になるのが民主主義のポイント/
人々はローカルな判断しかできないし、情報が正しいか間違っているかを判断できなくとも「わかっている人」というポジションを想定できるときに、代表制民主主義というのはうまく機能する。だから、民主主義の危機はどこに生ずるかというと、実はエリートのところに来る/
民主主義が危機的状態になるのは、エリートを信頼できなくなったときです。つまり、民主主義とエリート主義は、持ちつ持たれつの相互依存の関係にある/
ジャン=ピエール・デュピュイ/
未来において現に破局が起きてしまったと仮定してみなさい/
その未来の位置に立っている人には、その破局までの過程は「必然だった」と見えているはず/
裏返しの終末論/
われわれは、どこに向かうべきかについての展望はないとしても、何を回避すべきか、どこに向かってはならないかということについての、消極的・否定的な目的ならば持っています。例えば地球生態系の全体的な破局は避けるべきことです。どこに向かっていくべきかはわからなくても、どこを避けるべきかは分かる。 -
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「あなたはすべての仮面ライダーを破壊するものです。創造は破壊からしか生まれませんからね。残念ですが…」
突然だが、この「仮面ライダーディケイド」第一話「ライダー大戦」で紅渡が主人公の門矢士に言った台詞が、やけに本書が示唆する時代背景の一面を表している。
今までいろいろ電車やバスの中でちょくちょく読んでいたものの一冊が、大澤真幸(2008)『不可能性の時代』(岩波書店[岩波新書1122])。
人は人生や社会など、身の回りのものや現象に意味づけを行いながら生きている。その意味づけを組み合わせて、大きな意味づけを作り出すことができる。
大澤は本書で1945年から現在までの様々な事象を意味づけして思想的な展開を繰り広げる。それは、敗戦後のアメリカを理想とした「理想の時代」、1970年代以降の理想的な価値観が喪失し始め、相対化が進む「虚構の時代」、1995年(オウム真理教事件)を境とした「不可能性の時代」と変遷する。
現在の「不可能性の時代」では、直接性のコミュニケーションを強要され、自己の行為の正当性・正統性を担保する価値基準を与える(と自己が想定している)「第三者の審級」なるものが立ち表れてこない。その「第三者の審級」から「見られていない」ことへの不安が、リストカットなどの極限のリアルを求める更なる<現実への逃避>とバーチャルな世界とデータベース消費に進む<極度の虚構化>の二極化を同時に進行させている。この状況下で「第三者の審級」を見ようものならば、二極化の徹底的な貫徹、即ち<破壊>するしかない。
大澤は「Six Degrees of Separation(六次の隔たり)」のような<間‐直接的>な関係の構築にこの「不可能性の時代」を乗り越える視座を見出そうとするが、逆に言えば、そうでもしない限り、<破壊>による新たな世界の創造しか、乗り越えることが難しいのだろう。 -
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まだ3ヶ月以上あるのでまだ言い切れない部分がありますが、今年一番といっても良いほどの読み応えがある本です。新書と侮るなかれ。価格と読みやすさから得られる新しい地平の広さを思えばこそ言えます。社会科学系の本において今年一番の衝撃的な指摘と解説をふくんだ本でした。恥ずかしながら著者である大澤真幸氏の名前はこの本で初めて知りました。
バブル経済崩壊後に長引き、「失われた10年」と比喩されたり、閉塞感や不景気に対して突破感をもてない戦後最長の拡大成長期をへて、たどりついた2008年という今の時代。しかし、著者・大澤真幸氏は現在の日本がなぜこうした状況にあるのかを経済の拡大か停滞かと関係なく、日本が戦後の数十年間にどのような社会的変遷をへてたどりつき、そこでなぜ私たちがこうした閉塞感や不安や不満に囲まれているのかを、著者は鮮やかに解きほぐしていきます。
社会学を勉強したことのない私にとっては「オタク」という言葉が、いまだにかなり狭い分野に異常なまでに固執して専門知識を積み重ねていく、閉鎖的な社会で悦楽を見いだすアキバ系を想像してしまいます。しかし、今ではまったく異なり、自分たちの好む世界が、狭く、その狭さゆえに同じ関心を持つものとは融和しやすい。それが、現実世界での物理的な生身の人間関係で当然とされる「差異性」が排除されていると著者は指摘します。
★《印象的文章》①
「オタクが交際を求める他者は、一般に、同じ「趣味」を共有するオタク仲間である。つまり、それは、類似性ーそれぞれのオタクを他の人々から分かつ弁別的な特性に関する類似性ーを、本質とする他者である。ところで、他者の他者たる所以は、差異性にこそある。他者についての経験は、何であれ、差異をめぐる経験である。そうであるとすれば、オタクが欲求している他者とは、他者性を抜き取った他者である。」(P.110)
この指摘が私にはショックでした。そうであるならばSNSの基幹的な機能であるコミュニティもオタクと同じではないかと思い、そこから考えを広げていけば、バーチャルな世界だけでなく、専門知識による即戦力性をもとめる組織(政府や企業など)でも暗に求められているのも、差異性を当然とした他者ではなく、他者性のない他者なのではないかとさえ思えてきたからです。しかも、大澤氏の指摘は人間が一番敏感である人間関係だけでなく、日常生活の何気ない一幕にもこうした「当然存在すべきモノの排除」が垣間見られることを列挙します。
★《印象的文章》②
「われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビールなど、「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き取った、「××」の超虚構化の産物である。こうした「××抜きの××」の原型は、〈他者〉抜きの〈他者〉、他者性なしの〈他者〉ということになるのではあるまいか。〈他者〉が欲しい。ただし、〈他者〉ではない限りで、というわけである。」(P.193)
この文章が、私たちは生きながらえる上で日々書かすことのできない食料をいただく「食べる」という行為と密接に関連していることを明らかにします。確かに××抜きの××って多いんですし、それに魅了されて消費している自分もいるのです。筆者の文章に登場するオタク像とは縁遠いと思っていた自分が、実はこの本に描かれている現代人そのものであることと驚かされたのです。
人間が求めるものが「××抜きの××」という点で類似性があることを人間関係においても、生存の密接する食品への嗜好性にも、それらの底流をなす発想にも見いだせることを指摘した著者である大澤真幸氏。本の後半にすすむにつれて、「問題」だと指摘した現代社会を包括的にみて分析するものから、問題を解決して閉塞感のただよう日本社会を個々人がどのような理解をもとに突破していけるのかという一大仮説の構築にむかっていきます。
人間関係から生じる恐怖や不安へのおそれから類似性を他者にもとめつつも、リストカットや格闘技番組が視聴率をとるなど生身の肉体を傷つけ、それを実感する行動ももつ現代人。一見、驚異的なスピードで実現したIT社会によって仮想現実が切り開いた市場もある一方で、まったくベクトルが正反対である自傷行為や肉体の衝突という身体性をかなりつよく意識できることが併存していること。それに対してどうあるべきかと一つの答えを見いだせないもどかしさを著者は、リスク社会を引き合いに出して述べます。
★《印象的文章》③
「リスクをめぐる科学的な見解は、「通説」へと収束していかないーいく傾向すら見せないからである。たとえば、地球が本当に温暖化するのか、どの程度の期間に何度くらい温暖化するのか、われわれは通説を知らない。あるいは、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも「人間の終焉」にまで至は曲に連なるのか、いかなる科学的予想も確定的ではない。
学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しをみせるどころか、全く逆である。時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ発散していくのだ。リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向にある。このとき、人は、科学の展開が「真理」への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。
さらに、当然のことながら、こうした状況で下される政治的あるいは倫理的な決断が、科学的な知による裏付けをもっているという幻想を持つこともできない。知から実践的な選択への移行は、あからさまな飛躍によってしかなしとげられないのだ。」(P.135)
さまざまな問題に対して、だれをも説得させ、理論的に屈服させることのできるほど強烈な通説をてにいれることができない問題が多く、ひとつの解や決断に到達することができない。こうした社会問題が多いことからこの本のタイトルである「不可能性」の意味が不気味に浮かび上がってきます。そして、大澤氏は社会を俯瞰していた高い視点から、一気に個人個人の間に存在する人間関係のレベルにまで降下してきて、次のように言います。
★《印象的文章》④
「〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。」(P.192)
最終的に〈他者〉とのつながりをどのようにつくりだしていくのかを体験できない人々が増えているのであるとすれば、ヒトが〈他者〉に関心を抱く瞬間にはどのような勘定が存在するかをもう一度確認してみなくてはなりません。大澤氏は、愛と憎悪という相反するかにみえる勘定の同居が、不可能性を突破する方法である解説しています。自己愛や家族愛など、広大な社会の中において一個人の関係性を内向きにとじこまる方向に作用する「愛」と、攻撃的なまでに関係性を放射する「憎悪」。
ベクトルがまったく真逆であるこの2つの同居がなしえる行動を、著者は、河野義之氏(松本サリン事件被害者)と中村哲氏(ペシャワール会代表)に見いだします。それまでに語られてきた問題の絶望的な新国際に比べ、突破口となるであろう事例紹介としてはやや力が弱い気もしますが、それだけ問題が深刻であるなか、効果的な行動のともなう療法を、発見しきれていないとも読み取れます。
この本には、マンガやアニメ、テレビゲームなどから社会の動向やゆるやかな変化を読み取っている部分があるため、そうしたものに触れる機会がさほど多くない人にとっては心に落とし込むまでに時間がかかる部分もあるかもしれません。しかし、そうした狭く小さな分野を一世界として没入するオタク的世界が無数に寄り集まってできているのが、私たちの生きている社会であることもまた事実です。そのことを知るだけでも、そして自分がそうした世界に生きていることでなぜ閉塞感や限界を感じるのかをさぐるてがかりを得ることも、この本を読むことでできると思うのです。
大学時代に、坂本義和氏の『相対化の時代』を読んで世界を見る目が広がった感覚を覚えることがありました。それから10年を経て、仕事に追われることで世の中で起きている個々の事件をしることはできても、それらの出来事を流れと解釈する視点は無くしてしまっていました。そうした俯瞰できる視野を与えてくれたことに、いまはただただ感謝です。
【印象的文章】(番外編)
あげればキリがないほど、説得力ある文章がならぶ本作ですが、その中でも抜きん出たインパクトを持っていたものを書き出しておきます。
●「東条(英機)は、MPが逮捕に来るとピストルで自殺を試みるも、死ねなかった。おまけに、「東条、これを持って」とピストルを握らされて写真を撮られる無様さであった。彼は、氏名不詳のGIからの輸血で一命を取り留める。(中略)「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓諭していたこの軍人が自死しなかったこと、しかも未遂に終わった自殺は刀ではなく、ピストルによるものだったこと。(中略)東条の身体を走る米人の血液が、敗戦という断絶が、いかに自然な連続性の中で生じているかを象徴してはいないだろうか。」(P.25)
●「「格差社会の到来」という不吉な時代診断に説得力を与えているのは、格差という現状そのものではなく、来るべき救済を読み取りうる視点の不在である。」(P.128)
●「イスラム世界の原理主義に、西洋近代の反対物ではなく、西洋近代の真実の姿を見るべきではないか。だが、両者は、どのような意味でつながっているのか。どのような意味で、原理主義が西洋近代の真実なのか」(P.230)
●「軍は、途中で、ある老女に出会った。彼女は、右手に火を、左手に水をもってさまよい歩いていた。何をしているのかという問いに対する彼女の答えはこうであった。火は天国を焼き尽くすためにのものであり、水は地獄の業火を消し去るためのものだ、と。「なぜなら、私は、人が天国での報酬への期待や地獄での恐怖から善を成すことを望まない。ただ、神への愛のためにのみそうして欲しい」と。天国と地獄を無化してしまっているのだから、老女の態度は無神論的である。だが、それは信仰の否定によってではなく、信仰の徹底かによってこそ導かれてもいる。」(P.256)
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オウムに始まり、戦前・戦後・戦後後と語っていき、思想の流れを読み解く本書。決して簡単ではなく、中盤の「経験可能領域」あたりで訳がわからなくなりました。
ですが、思考方法として、この本から学ぶことは沢山あります。
ウルトラマンやエヴァンゲリオンまで持ち出して現代思想を読み解いていこうとする試みは、とても面白いと思います。
大正天皇に世俗性をおく考え方というのは賛否両論あると思いますが、思考方法としてはありなのだと思います。とても興味深い。
「二十世紀は、とりわけその後半は、冷戦の時代でした。冷戦というのは、仮想的なままに終わった第三次世界大戦です。この対戦に関して重要なことは、これは、最後まで基本的には仮想的なままだったということ、つまり大規模な武力衝突を伴わずに終わってしまったということです」(p235) -
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大澤真幸が、911テロの問題を様々な視座から抜本的に問い直していく。
『虚構の時代の果て』でも言えることですが、やはり他者の他者性、他者としての他者、あるいは「他者」といったものが
大澤真幸を読み進めていく上で基幹となるテクニカルタームであると思う。
この「他者」という大澤氏の考えがわかると、非常に読み易いのではないだろうか。
さらにここでは、イスラームとキリスト教、そしてそこに交わる原理主義と資本主義というものを比較社会学的見地から見ていくのだが、
複雑に絡み合う中で、突破口を目指す流麗な論理の展開は見ものだが、自分でも十全に理解しているとはいえない。
しかし、高校のときに初めて大澤真幸に出会った記念すべきものなので、とても思い入れが深い一冊である。
『文明の内なる衝突』という考え方は、当時にしてみれば目から鱗だった。(!)