朝日新聞社・編『女たちの太平洋戦争』朝日文庫。
太平洋戦争勃発から50年に朝日新聞の読者投稿欄で募集した女性の戦争体験記をまとめた朝日新聞社刊の『女たちの太平洋戦争①〜③』を再編集し、128編を収録、復刊。
主に戦争当時15歳前後だった市井の女性たちにより50年後に綴られた戦争の記憶が生々しく刻まれる。中には戦地に赴いた男性たちの告白も収録されている。
戦時中、一銭五厘の葉書1枚で戦地に赴いた成人男子たち。男性に代わって家庭を守りながら、青春時代を犠牲にし、過酷な勤労奉仕に携わった若い女性たち。様々な立場の人びとの生々しい告白は、これまでに読んだ戦争ノンフィクションや戦争小説など足下にも及ばない。
徹底した軍国主義は戦後、突如として民主主義、自由主義へと転換する。軍部により祀り立てられた天皇陛下の御名の元、軍国主義に同調しない者は非国民となじられ、過剰な暴力や不条理がまかり通る時代から、主権は国民に移り、平和が重んじられ、自由に発言出来る時代へと180°転換したのだ。
戦時体制下の強圧。戦地の父親に宛てた手紙や私物のメモなどが憲兵隊や法務官の目に触れたために、呼び出されて長々と尋問され、さらには説教される様子が書かれている。今の世の中はSNSなでで匿名で好き勝手な発言が出来ることを考えると、当時は異常な時代であったのだろう。
可哀想なのは挺身隊として、御国のために懸命に働いていたにも関わらず、スパイ扱いされた女性の告白であった。彼女の父親がもはやこの老体では御国に尽くすことが出来ないと自殺する。そして、戦後、女性は極端な男性不足により結婚を諦めるのだ。現代の日本は戦中、戦後にも関わらず少子高齢化が加速している。いつの時代も国を統治する者たちの愚かさが、こうした状況を作り出しているのだろう。
フィリピンや中国など異国で様々な苦難を味わった方の告白もあった。米軍の攻撃を受けた日本軍とその家族は泣く泣く我が子を手に掛けたという。
挺身隊として風船爆弾の製造に携わったという方の告白が複数ある。嘘か真か解らぬが風船爆弾の1つは偏西風に乗り、アメリカ本土に到達し、戦争とは無関係の少年の生命を奪ったという。
結婚しても翌日には夫が入営したり、離れ離れの生活を余儀なくされたりと束の間の新婚生活の体験談もあった。
中でも、沖縄の国内戦の描写は悲惨極まりない。あちらこちらに日本兵や民間人の死体が転がり、野戦病院には薬も無く、腕や足、顔を失い、ウジにたかられた兵士が呻いているのだ。ひめゆり学徒隊の仲間が、米軍の馬乗り攻撃で1人また1人と亡くなっていく描写には背筋が震えた。
戦後から20年余り後に岩手県の盛岡市に生まれた自分が戦争というものを意識したのは幼稚園の時である。両親に連れられ、八幡宮の秋祭り見物の帰り道に手足が欠損し、白い衣装に身を包み、軍帽とゲートルという出で立ちで、足元に募金箱を置き、ハーモニカを吹く男性たちを初めて見たのだ。父親にあれは何者かと尋ねると、『傷痍軍人』だと話し、戦争で怪我をした人のことだと教えてくれた。
父親は昭和一桁生まれで、兵隊として戦地に送られることは無かったのだが、戦争により青春時代を台無しにした世代である。父親からはよく戦時中の大変な生活の様子などを聞かされた。父親は6人兄弟の3番目で、兎に角食べる物が無く、県南に米や野菜を買い出しに行ったりしていたようだ。また、父親によれば、比較的被害の少なかった盛岡でも終戦間際に駅前に焼夷弾が落とされたということだ。
岩手県の沿岸部に位置する釜石に製鐵所があったので、艦砲射撃の標的にされた。自分が父親の転勤で移り住んだ釜石の小学校の裏山には艦砲射撃の砲弾の跡が多数あった。父親の話や戦争の痕跡を目にすると、日本の今の世が平和であることに安堵する。
しかし、世界では各地で戦争が続いており、平和に見える日本もいつ戦火に包まれるか油断は出来ない。
本体価格1,090円
★★★★★