あらすじ
シリーズの最初の巻「古代篇」では、〈世界史〉の中のミステリー中のミステリー、イエス・ キリストの殺害が、中心的な主題となる。もし、〈世界史〉の中で、われわれの現在に最も大きな影響を残した、たった一つの出来事を選ぶことが求められれば、誰もが、迷うことなく、イエス・キリストの十字架上の死を挙げることになるだろう。
どうして、イエス・キリストは殺されたのか? どうして、たった一人の男の死が、これほどまでに深く、広い帰結をもたらすことになったのか? われわれの現在を、社会学的な基礎において捉えるならば、それは「近代社会」として規定されることになる。近代化とは、細部を削ぎ落として言ってしまえば、西洋出自の概念や制度がグローバル・スタンダードになった時代である。その「西洋」の文明的なアイデンティティは、キリスト教にこそある。とすれば、キリストの死の残響は、二千年後の現在でも、まったく衰えることなく届いていることになる。キリストの死は、どうして、これほどの衝撃力をもったのだろうか?
イエス・キリストは、わけのわからない罪状によって処刑された。その死は、今日のわれわれのあり方を深く規定している。必ずしもクリスチャンではないものも含めて、その死の影響の下にある。どうしてこんなことになったのか?……
(「まえがき」より)
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本書は、目下の世界で観察される諸事実を「こうではなかったかもしれない、他でもあり得た」偶有性として捉え直し、あえて現在の地平ではない場所から過去を眺め、「こうでもありえたのだが、なぜかそうはならなかった」のはなぜか、を探る試み。他のどの著書でも言えることなのだが、基本的に「逆説的なものが(逆説的であるにも関わらず)存在可能ならば、そこには表層からは窺い知れない意味深い構造が隠されているはずだ」という論理構成がとられている。やや過剰な「逆説探し」のにおいも嗅ぎ取れなくはないが、それでもやはり説得力はあると思わざるにはいられない。本書でも、「必然性」と「偶有性」が逆説的に結びつきながらも、まさにそこからキリスト教的神性が立ち現れる様が見事に描写されている。著者が古代西洋の精神史のいたるところで見出す「逆説を超克する力」の強靭さが十分に堪能できる本だと思う。
以下は再読せずとも内容を思い出せるよう要約したものだが、非常に混み入った内容のためうまく消化できず冗長なものとなってしまった。
第1章
歴史主義的な見地に立てば、自由主義を始めとする普遍主義はその実、特定の歴史的コンテクストに基づく価値観を特権視した欺瞞に過ぎない。しかしその普遍主義という形骸が、それでもなお実効的に我々の社会を形成してきたのはなぜなのか。特殊性から普遍性はいかにして立ち上がってきたのか。例えば資本主義のような西洋に固有の土壌から発したイデオロギーが、今日の普遍性を獲得したのは何故なのか。
著者はその答えをキリスト教、ヘブライニズムに求める。マルクスも貨幣経済の根底に貨幣獲得のための勤勉・節約・貪欲を促す宗教性を見ていた。ヴェーバーがプロテスタンティズムに資本主義の源流を見た例を引くまでもなく、キリスト教には特異性と普遍性を架橋する何かが備わっているのでないか?デカルトが数理的法則の普遍性の根拠を神の偶有的な意思に求めたように、キリスト教においては神の偶有的な意思と普遍的な法則が一致しており、さらにそれが今なおユニバーサルに受容されているのだ。何故そんなことが可能なのだろう?
第2章
ユダヤ教の民族性・特殊性を普遍主義へと昇華させたのがキリスト教であるとするならば、キリストの死にこそ普遍性獲得の機制があるはずだ。ではキリストの死とはなんであったのか?キリスト裁判とその復活のそれぞれの場面のルイ・マランによる記号論的分析によれば、そこでは一時的なメシアから永遠のメシアへ、民族的共同性(ユダヤ)から超民族的普遍性(ローマ)へ、そしてキリスト身体の局在性から偏在性の変換が見て取れる。著者は、これによりキリストに超越的な立場から社会の規範に妥当性を付与する〈第三者の審級〉として機能するに相応しい高度な抽象性が付与されたとする。
しかし一方で、このキリストに付与された抽象性の素地はすでにユダヤ教にも備わっていたものとも言える。ユダヤの法が、共同体への接続を保証する通常の法体系とは逆に、共同体からの断続を促進しつつなおも法として機能するという、普遍性の土台とも言うべきものを有していたのだ。なぜユダヤ教はそのような特質をもちえたのだろう?
第3章
キリスト教はユダヤ教の分派として発生したが、ユダヤ教は多くの宗教がもつ「宗教としての影響力の大きさと、共同体の政治力の大きさ」の相関を持たない。ユダヤ教の神は、自らを奉ずる民を対して保護しないばかりか奴隷状態に陥らせながら、まさにそのことによってさらに熱心に崇拝されるという、まことにふしぎな神なのだが、そこから後に普遍性を獲得することとなるキリスト教が生じたのはどういう理屈によってだろうか。
マックス・ヴェーバーによれば、近代を特徴づける「合理化(呪術からの解放)」の点で最も進歩した宗教こそがユダヤーキリスト教だという。呪術は人間が都合よく神を使役する「神強制」を本質とするが、宗教は逆に人間が専ら神に従属する「神奉仕」である。前者では一見神を要請しながら因果関係の起点に人間の行為を必要とするため循環論に陥るが、後者では神は人間を完全に超越した存在として始動因
となるためその懸念がない(=合理的)。著者によればこの超越的な神のままならなさに対する不快さが、カントのいう「崇高」つまり経験では絶対に到達できない超越論的な美=イデア、に対する不快さと通ずるのだという。すなわち今現在自分たちが「不快=不幸」であることが超越的な神の存在を担保し、そしてやがては神による救済と永遠の幸福をもたらす、というこの転倒が本書の前半では「苦難の神議論」として議論の軸になってゆく。
第4章
キリスト教の源流としてのユダヤ教の正典「旧約聖書」の「ヨブ記」では、筆舌に尽くし難いほどの艱難辛苦によって神への信仰を試されるヨブなる人物が描かれているが、そこで全能性を誇る神はヨブを救済できないというそのことによって自らの無能性を証明してしまっている。つまり神がヨブに課したはずの試練が自らに還流してしまっているのだが、この試練を神が自らに直接課した形になっているのがイエス・キリストである。
不快や苦難が神の存在と不適合であるまさにそのことこそが、神が経験の中に表層され得ない超越的な存在であることの証明であり、逆説的に快感や幸福感を生むというのが前章の展開だったが、その不快や苦難が大きすぎると逆に神の無力の証明という帰結を生ずる。と言うことは結局、経験や表象を超えたところには何もないのだが、そこになおも神性が認めれられるのであれば、それは不足感と共に経験されている現象そのものが「神」ということになるのではないか。キリストが神であり人間であるということは、神とは不足や不快として呈示される現象、つまり人間性そのものであるということに通じるのではないか。キリストが、超越的な神でありながら経験的な人間として死んだという事態はこの転倒を体現しているのだ。
そしてイエスが(洗礼者ヨハネとは反対に)「神の国はすでに到来している」と主張したのも、経験可能な世界の内にすでに自己否定の形で神が存在していることを示したかったからだ。すると、神は否定性、すなわち無力さや弱さを体現する、つまりイエスのような人物により代表され、また貧しき者や弱き者はまさにその無力さによって神の国を代表する存在だということになる。「貧しきものは幸いである」というイエスの言葉はこのような文脈で理解されなくてはならず、つまりそれは弱者は天国ではなく現世でこそ救済されねばならない、という体制への反抗者たるキリストの態度表明だったのだ。それはしかし、救済されるべき資格を現世において備えなければならない、という厳命を弱者に課すことにもなるのだが。
第5章
イエスはそもそも生前何をやっていたのだろうか。一義的にはそれは治療活動であり、旧約聖書の「荒野の行進」、すなわち神の軍勢による砂漠から肥沃土への変換と類比が可能だ。さらには古代バビロンの神話における善と悪とのダイコトミーにその範型を求めることができる。しかし善悪二元を純化したグノーシス主義とキリスト教の最大の違いは、前者があくまで善悪を人間とは分離された神性の発露と見做すのに対し、後者は神性と人間性の同居をイエスというかたちで前提としている点だということができる。イエスの死という事件を契機に「神の死」「神の破壊」という極めて重大な命題を内包するに至ったのがキリスト教なのだ。
ハイデガーは、人間は〈被投性〉、すなわち儘ならぬ特定の歴史的状況に生を受けてしまったという不安を避け難く持っていると説いたが、著者はこれがグノーシス主義のいう霊的な世界(本来人間がいるべき世界)と経験的世界(人間が投げ込まれた世界)の二分法から来ていると指摘する。このハイデガー/グノーシス主義的精神世界では、人間には戻るべき霊的な故郷があることになるが、これが民族的ロマン主義に置き換えられたのがハイデガーが没入したナチスのファシズムだった。
これに対し、キリスト教はそのような彼岸をおかず、被投の感覚は原初的なものであり避け難いとする。神と人間、善と悪の区別は、キリスト教においては予め取り払われているのであり、著者の言を借りれば「神の国は直接罪人(たる人間)に属している」のだ。
第6章
イエスは自称として「人の子」、アラム語に則せば「一人の人間」を用いていた。人間として死んだキリストが「神の否定」であるとするなら、キリストの「我が神、何ぞ我を見捨て給いし」という言葉は「神による神の否定」、すなわち無神論の言明と捉えられる。翻って前章の議論に則せば、「神」とは、現象的世界に対して人間が抱く「原初的な疎外感」であり、「現象(=人間)に内在する自己否定性」に還元できる。つまり、人間が人間でありながら、その人間に人間自身に対する否定性が宿っている(「人間=人間」と「人間≠人間」が同居する)、そのことこそが神なのだと明示したことにこそキリストの死の意味があるのではないか。
ここで著者はレヴィナスを引いて、現象世界の中で「私=私」を認識する(私が他者に触れる)〈求心化作用〉そのもののうちに、それを否定する形で「私≠私」つまり「他者」を提示する(他者が私に触れ返す)〈遠心化作用〉があり、これがキリストの死の論理の中核をなすという。つまりキリストが十字架で叫んだ「神の不在」は、人間に興味を失ったりまた逆に信仰に応えるべく応報する神なのであり、「私」の求心化の反作用としての遠心化で生じる「他者」なる「神」は死んではいない。私が苦しむ時に同じように苦しむ神が「今ここにおられる」のだ。
ここまでの議論を整理すると、キリストの死には二つの対立的な機能的側面、つまり①〈第三者の審級〉としての神を抽象化し、普遍性を担保する実体として措定することと、②その実体を経験的現象世界における自己否定性のうちに解消すること、があったことになる。これらはそれぞれ、①「人間は神である」②「神は人間である」に対応しており、片方に焦点を合わせるともう片方が輪郭を失う関係にある。キリストが預言者の墓を建立することに否定的だったのは、②の側面が隠蔽されることを恐れたからなのだという。
キリスト教の信仰は悲劇である、とする見方がある。アリストテレスによれば悲劇には〈苦難〉のほかに、必然性と偶発的な過誤を伴う〈逆転〉と、意外な事実の〈認知〉という要素がなくてはならないが、これはすなわち悲劇には分裂した「二つの視点」が必要だということ他ならない。同じ事実が、超越的な他者=第三者の審級の視点からは「必然」として、劇に内在する登場人物からは「偶然」としても捉えられ、これらを統合するのが登場人物が自らの運命を受容する〈認知〉の契機なのだ。すると、悲劇の主人公には、超越的視点は持ち得ないが、超越的他者から割り当てられた運命を引き受けるだけの最小限の威厳が求められることになる。つまり、これを見る観客は、主人公に同一化することによって、苦難の体験の中で超越的存在(第三者からの審級)からの承認を得ることになり、これが悲劇を観劇することによる浄化作用になるのだ。ではこの点から見てイエスの死は悲劇と言えるのだろうか?
第7章
イエスの死と復活を記した「福音書」は、前章のアリストテレスの悲劇の3要素を備えているが、結局はイエスは復活するため悲劇性が弱められているのでないか。著者によればそうではなく、通常の悲劇であれば現象を超越する第三者の審級は潜在化されているが、福音書においては自分の運命を予言しその通りに殺され復活する「イエス」として顕在化しており、この点でより完成された悲劇だと言える、とする。
しかし一方で、あまりに過剰な苦難の連続により、悲劇は喜劇へと転倒してしまうことがある。十字架上のイエスやアウシュビッツ収容所のユダヤ人のように、アリストテレスが悲劇の主人公に要請する「威厳」が全く損なわれると、表象される対象と表象する主体が近接してしまい、表象作用が失われる。前章のイエスの死の側面②〈神の現象的人間世界への還元〉は、神が惨めな人間として描かれる「喜劇」の契機に他ならない。ユダの裏切りも同様に「威厳の欠如」の点から説明できるとする。
この悲劇と喜劇の二重性は相反的でありながら相互に交換可能な位置関係にある。著者によれば、イエスが裏切り者ユダを弟子として傍に置いたのも、後世の崇高化によって悲劇化してしまう自らの死の悲惨さを、純粋に喪失的な生を生きる人物を配置することによって喜劇化しキャンセルしようという試みだった。つまりユダを利用してまでも自らの惨めな死を演出しようとした、というのだ。
第8章
西洋が獲得した普遍性の源泉としては、これまで思索の対象としてきた「キリスト教(ヘブライニズム)」の他にも「ヘレニズム」すなわち古代ギリシア文化がある。これら二つの文化的伝統はいかにして融合したのだろう?キリスト教におけるイエス刑死のヘブライニズムの対応物として、著者は「ソクラテスの刑死」をあげ分析の出発点とする。ともにほとんど冤罪ともいうべき希薄な根拠に基づき執行されながら、ソクラテスの刑死にある「法への帰依」というポジティブな側面がイエスのそれには全くないことが著者の注意を引く。
ここで著者はフーコーの〈考古学〉の方法論を引用する。フーコーは個人の身体が規律訓練によって権力を内面化する過程を「権力の系譜学」と呼んだが、同様のロジックで人間が性を主体的に内面化する「性の科学」が、キリスト教世界に独特の〈告白〉を通じて西洋にのみ根付いたと論じた。つまりキリスト教的〈告白〉が近代化をもたらした権力の原点であったというのだ。そうすると個人は権力から逃れえない存在だということになりそうだが、ここでフーコーが導入するのが〈自己への配慮〉なるヘレニズムの概念である。「自分にとって付属物であるようなもの(富や地位など)を自分自身に優先させてはならない。善き者、思慮ある者となるよう配慮せよ」と要請するこの概念があれば個人の主体性は保たれるというのだが、ではこの「配慮する主体」が「近代的な主体」といかに近接するに至ったのか。
フーコーの関心の対象となった古代ギリシアの概念に〈パレーシア〉という、「率直な語り、真実を勇気を持って語ること」を示す〈告白〉に似た概念がある。両者の違いは言説の算出者、つまり〈告白〉が従属的立場の者が語り、超越的立場の者は沈黙しているのに対し、〈パレーシア〉は指導的立場の者が語り弟子の方は沈黙せねばならない。パレーシアでは指導者が積極的に語り、かつその発言に沿った行動を介して「真実」が明らかにされるのだ。
ではその「真実」とは何か。ソクラテスやプラトンでは、真実は常に想起の形で見出される。新しいことを知るように見えて、その実それは「思い出している」というのだ。知ることの前段には何事かの探求という契機があるはずだが、我々は全く知りもしないことを探求することはできない。つまり潜在的にはすでに「知っていた」のだがそれを「忘れていた」というわけだ。この〈想起説〉ではこの想起のためには師が必要だとされているが(パレーシア)、一旦想起してしまえば師の存在は必要なくなる(ソクラテスの〈産婆〉)。一方、キリスト教では師(キリスト)が廃却されることはなく、真理性はキリストに固有の特質、超越的権威というべきものに直接帰せられているという違いがある。このように真理性の根拠のあり方が異なる2つの文化がどのように融合するに至ったのだろうか。
第9章
ヘブライニズムとヘレニズムの融合を論じるにあたり、著者はキルケゴールの〈天才/使徒〉の対概念を導入する。〈天才〉は人間としての特質ゆえに尊敬されるのだが、〈使徒〉が敬われるのは使徒の存在そのものに随伴する超越的権威がゆえである。これは前章の真理性の所在の議論、すなわちヘレニズムでは一旦真理の普遍性が明らかになればそこに至る特殊個別の事情は破棄されるのだが、ヘブライニズムではイエスの死、すなわち特異的事情こそが真理性を担保する絶対的根拠となっていることと対応する。ヘブライニズムでは、いわばハイデガーのいう〈事実存在〉が〈本質存在〉に優先する構造になっているのだ。
民主主義が社会においてポリスとして現れたのと同じように、個人レベルでは民主主義はパレーシアの形をとって現れた。しかし参政権を与えられたのは〈オイコス〉(≒家族)の家長、すなわち第三者の審級の位置にあった者のみであった。古代ギリシア社会はオイコス的私的空間とポリス的公共的空間の二元性を持っていたのだ。しかしソクラテスにとってポリス政治はパレーシアの阻害要因であり、民主主義からパレーシアを分離して保持すべきだと主張していたようである。さらに、プラトンは〈哲人政治〉を念頭に民主主義をパレーシアに劣後させたし、アリストテレスは民主主義からパレーシアのような倫理的側面を除外して捉えていた。著者によれば、このような民主主義とパレーシアの分離は、およそ民主主義とは相容れない思想、すなわち大衆を外的/内的差異により篩にかけようとする古代ギリシアの哲学的思考に起因するという。この差異化が要請されたのは、古代ギリシア世界全体に君臨する〈第三者の審級〉が措定されていなかったからである可能性があるという。しかしソクラテスが単一神に従おうとしていたことも考慮し、差し当たってはギリシア哲学の起点であるパレーシアが、民主主義の挫折により開始されたことが指摘される。
ポリス社会では第三者の審級は存在していたのか。ヘーゲルによれば、ローマ時代にカエサルの死が共和政の復権に繋がらなかったのは、すでにカエサルが独裁者の地位にあった時に帝政が始まっていたことに、人々が気づいていなかったからだという。カエサル存命中は二重写しの形で一体化していため可視化されていなかった「抽象的な皇帝」が、「具体的な皇帝」であるカエサルの死により意識に上るようになる。つまりカエサルの死に先立ち、ローマ人たちは無意識的にすでに「皇帝」の場所を既に措定していたのであり、これこそが〈第三者の審級〉の立ち位置だという。翻ってアテナイのペイシストラトス打倒を目論み失敗したソロンの例では、未だ具体的な僭主が占めるべき抽象的な〈第三者の審級〉の座がアテナイの人々の意識の間で確立されていなかったため、ソロンの失敗にも関わらず民主化が進展したのだ、と分析する。
第10章
本章では、ヘブライニズムとヘレニズムの相補性の起源を芸術に求める。神を見ることがタブー視されていたユダヤ教徒とは正反対に、古代ギリシアでは神々を明確に「見る」ことに宗教性が見出され、これがギリシア造形芸術発展の基礎となったというのだが、不思議なのはそれほどまでに写実性に執着していた古代ギリシア芸術が遠近法を確立できなかった点だ。これは古代西洋では視線によって把握できるモノ、つまり「手につかめるもの」だけが表現されるべき実体として扱われてきたことによるという。具象性のみを表現の対象にしたことは、神性を具体的なモノに求める態度につながる。
プラトンの〈イデア〉は「見られたもの」という語に起因するが、〈洞窟のイデア〉の例にあるようにイデアとは本来目に見えないもののはずである。しかし「パルメニデス」の議論によればイデアにも造形芸術のように「見える」側面が期待されているようでもある。また、アリストテレスの〈現実態〉も、〈質料〉に対する作用の結果として自立した作品が生じることをイメージしており、人間の制作行為が自然の営みを模倣していることを示している。
さらに言えば、プラトンらに先立つゼノンのパラドックス(運動否定説)にも同様の道行きが見てとれるという。パルメニデスの〈有/無〉の排中律を厳格に適用すると、有るものは永遠にあり無いものは永遠にないのだから、およそ事象に変化が生じる余地がないことになってしまう。そこで、ソクラテス以前の哲学者たちは、やはり〈無〉も〈有る〉のではないか、〈存在〉という条件以外の付帯物を可能な限り削ぎ落として残る〈原子〉の間隙にある空虚もまた〈有る〉のではないか、と考える〈原子論〉に至るのである。これは、シニフィアンの間隙を名指しすることによって象徴世界の有限性を突破する「浮動するシニフィアン」(レヴィ=ストロース)の自然学版とも言える。
このように「存在は非存在との差異において存在たり得ている」とする西洋哲学は、〈存在としての無〉を考察することはできるが、今度は〈無としての無〉を考察の埒外に置く。このことの代償は、キリストの死、すなわち〈存在の死=無としての無〉を思考することの困難性として立ち現れてくる。キリストの受肉は現象的なものを超越した神の不在=死に他ならないが、そのキリストが死んだのであれば、本来それは〈無としての無〉を意味するはずである。しかし無を存在の関係でしか捉えられないのであれば、「キリストが死んでも(=無)神は生きている(=存在)」という主張の余地が残るというわけである。
第11章
前章で見たように、古代ギリシアの宗教的経験の中心には2つの「見ること」があった。一つには神々「を」見ること、もう一つは神々「が/のように」見ることである。これらはどのような関係にあるのか。また視覚と知性にはどのような連携があったのか。
見ることと知ることがもし完全に同一であれば、誤りと真実の差異も消えてしまう。〈エイドス〉(形相)やプラトンの〈イデア〉は、人間の目に見えないが叡智(ヌース)をもつ神々には見えるもの、とされた。この神々の見方こそが思惟することすなわち「知性」であり、現象世界を外れ得ない人間には属さない能力なのではないか。
前章でも登場した神話学者カール・ケレーニイによれば、ギリシアの宗教的態度には、神々を「見る」ことに関する畏怖の感情〈セベイン〉と、神々のように「見られる」ことに関する羞恥の感情〈アイドース〉があるという(第5章の触覚の「求心化ー遠心化作用」の視覚版と言える)。一般に人が羞恥を覚えるのは、規範的な像に自分の在り方が合致していないと感じる時なので、そこで想定されているのはただの他社ではなく〈第三者の審級〉でなくてはならない。つまり他者が何らかの機制を通じて第三者の審級に変容したときにアイドースが生じるのではないか。
このように考えると、ギリシア世界でピタゴラス学派が影響を持ったのも理解できるという。彼らの「万物は数である」という主張は「万物は比である」と言い換えることができるが、比は二者間の闘いが決着し均衡した状態と考えることができる。さらに同時期のヘラクレイトスの「闘いは万物の父である」という言説と考え合わせれば、ピタゴラス派の主張は「自己と他者の〈まなざしの闘争〉こそが万物の生ずる源泉たる第三者の審級=〈神〉を要請する」という図式に重なっている、というのだ。
このことを補強する材料として、古代ギリシアで〈見ること〉を仕事としていた祝祭の使者「テオーロス」が挙げられる。オリンピアの競技者は英雄としていわば神々の位置に立っているが、そこに観客とし現れるテオーロスはギリシャ各地の神々の代行者であり、ここに神々のまなざしによる闘争が生じるのである。
第12章
第9章で論じられた民主主義と分離したパレーシアに関連して、フーコーはソクラテスの倫理的なパレーシアが生じた契機を3つ挙げている。それは神託を真実と照合するための「検証」「社会調査」「勇気」だが、この諸契機を通じてソクラテスは自らが〈無知の知〉を有することを知る、ということになっている。しかし、〈無知の知〉すなわち「Xを知らないということを知っている」というためには、そもそもXを知っていなければならないのではないか。著者はプラトンの〈真理の想起説〉(第8章)をも引き合いに、無知の自覚という心的構成が可能となるためには知の二種類の主体、すなわち過去に知っていた主体と、忘却してしまい今は知らない主体が必要だと説く。ギリシア世界では〈観ること〉ー〈在ること〉ー〈知ること〉が同一線上に構成されているが、距離の概念を有する〈観ること〉を超え出て、第三者の審級との照合(=検証)を経て普遍的な〈知ること〉、すなわち無知の〈知〉の領域に達するのが〈ヌース(叡智)〉だと言うことができる。
このいわば「遠くを観る」知性を実践したのが前章の「テオーロス」であり、彼は〈観ることー観られること〉の闘争関係から第三者の審級を導出したのだが、そこでは人間と神の断続が強調されている。これに比べ、ヘブライニズムのヤコブは人間と顔を合わせる対等の存在であり、人間とは連続性を有している。一方で、ヤコブは彼岸への「立ち去り」により後にキリストにつながる普遍性や超越性を示唆しているが、テオーロスでは神々が並列しており絶対性は窺えない。このテオーロスの並列性は民主主義の平等性と相同であり、やはりまだ絶対的な位置を占める〈第三者の審級〉は登場していないと言える。
ラカンによれば「存在論は主人の言説に属する」というが、単に世界の様相を記述するだけの存在論が、主人の言説の本性である命令文の形式をとるのはおかしい。しかし主人の座に神を置いた〈神託〉を考えると合点がいく。神による神託は常に的中するから、神の命令文は常に妥当する存在論でもあるのだ。ジョン・オースティンの「言語行為論」によれば、文には世界の状態を記述する「事実確認文」と、その発話がなんらかの行為を誘発する「行為遂行文」がある。前者は文の内容を世界の状態に適合させ、後者は逆に世界の状態を文の内容に適合させる。しかしこの他に「これで会議は終了です」のように、確認文の外観を持つ遂行文である「宣言文」があり、主人の言説、つまり予言や神託とはこの宣言文を指すのだという。
そして、この予言が的中するのは、予言が「自己成就性」、すなわち予言の対象者が予言の主体である神を第三者の審級の位置に置いてしまい、その意に沿う通りに遂行せざるを得ないという転移的な性質を持つからだ。しかし予言には必ず抑圧された選択肢、確認文の形式に変換されない遂行文が隠されている。それは「純粋な遂行文」、すなわち世界の自身への適合に全く顧慮しない隠者や賢者の発する〈知恵〉であり、または世界全体ではなくその一部にのみ妥当する〈技術知〉となるはずだという。ではそのような限定性を持たない、普遍的な真理についての言説はどのように語られうるのかといえば、それには抑圧された側が真である可能性を留保すること、そして予言の発話主体としての神や予言者への転移関係が解消され、第三者の審級が抽象的なレベルに措定されていることが必要になるという。著者はこの2点を満たす真理の語りの様式こそがソクラテスの〈パレーシア〉に他ならない、とする。「真理を想起する」とは、具体や現象を超えた彼岸にいる第三者の審級が知っていることを思い出すことに他ならないのである。ソクラテスが民主主義と折り合いをつけられなかったのは、当時のポリスにおいてこの抽象的な第三者の審級の座がいまだ定まっていなかったからだったのだ。この抽象的な神の措定は、第6章のキリストの死の効果①と類比的であり、ヘブライニズムとヘレニズムとの関係を考察する上で重要な鍵となっている。
第13章
ソクラテスの死の直前の言葉「我々はアスクレピオスに雄鶏一羽分の借りがある」とは何を意味するのか。著者によれば、無責任な衆愚的意見により死に追いやられたソクラテスが、これを大衆の魂の堕落すなわち病とみなし治療神に救いを求めたのだという。ソクラテスはこの大衆の病をパレーシアによる真理の語りで治療しようとしたのであり、つまりソクラテスはアスクレピオスに抽象的な第三者の審級の位置を求めていたことになる。著者はイエス教団の先駆がアスクピレオス医師団であったという山形孝夫の説を引き、ソクラテスはのちにイエスに取って代わられる神への奉献の言葉を残したのだ、との仮説を提唱する。さらに、階層化により分断されたポリスの政治体制では、連帯なきが故に民主制を支える第三者の審級も機能しなかったが、ソクラテス一派内部では自らを単一の主体としてみなす連帯感が生まれていた。冒頭の言葉は、第三者の審級としての神に対する倫理的債務の表明だというのである。
新プラトン派も同様に万物の源泉たる〈一者〉を措定する哲学だが、これも純粋形相から独立した抽象的な存在を認めるという意味で、一神教たるキリスト教に極めて親和性の高い宗教だと言える。これに対しストア派は、超越的なものがなく全ての自然的事実が因果で結合する世界を描くため、求められるのは超越的な真理との結合ではなく「自然との調和」となる。さらに、エキセントリックに真理を追求したキュニコス派は、パレーシアの本質、すなわち真理性と具象性の完全なる一致を実践しようとした。以上のようにう考えると、ギリシア的世界を抽象化の方向に推し進めていくとキリスト教が現れ、その直前で寸止めすればストア派が、そして逆方向の具象性に第三者の審級を追求していくとキュニコス派が現れるのではないか。パレーシアは真実を語るが、「私の語りたい意味内容」と「私の語りそのものの意味」には必然的に差異が生ずる。「この不一致の理由を知っている超越的存在がいる」とすればキリスト教に、「不一致を現実の行動で解消せよ」とすればキュニコス派になるのである。しかしこのキュニコス派に、どこかキリスト教団と共通する清貧さが漂っているのはなぜだろう。
第14章
アリストテレスの「善く生きよ」は西洋哲学の出発点の一つだが、この言葉は古代ギリシアでは〈ゾーエー〉(動物的な生)と〈ビオス〉(人間的な生)に分化していた二つの「生」の対比を含む。後者の生を前者の生の様式で志向したキュニコス派が、キリスト教団のスタイルを彷彿とさせるのはなぜか。
〈ホモ・サケル〉とは「聖なる人間」を意味する語だが、ローマ法では刑法上も宗教法上も法的に規定されない罪人、いわば人間的な生から疎外されたゾーエー的な存在を指していた。著者はこのホモ・サケルの類型としてイエスとキュニコス派を挙げ、ソクラテスを軸とした両者の比較検討を行う。
キリスト教の真理は、普遍性さえあれば良しとするソクラテスの〈産婆〉とは異なり、特異的な人間としてのキリストの生にも依拠しており、普遍性と特異性が極限で短絡しているとする。これに対し、キュニコス派は普遍的真理の前で特異的生を破棄しようとするものであり、これはキリスト教よりもソクラテスに近い立場と言える。一方、マックス・ヴェーバーの「倫理的預言者/模範的預言者」のくくりでいえば、ソクラテスやキュニコス派が人間を神の普遍性にまで高めようとする前者であるのに対し、キリストはどちらでもなく、むしろ神性を特異的かつ偶発的な人間へと下降させようとする力学であり、全く普通の人間が神であることこそがキリスト教の衝撃なのである、と喝破する。ソクラテスやキュニコス派は上方ベクトルを持つホモ・サケルであり、キリスト教は下方ベクトルを持つホモ・サケルなのだ。
9章でキルケゴールが、キリストの真理性はその内容でなくキリストが語ったその事実こそ由来すると言いながら、使徒(キリスト)が誰であるかは真理性とは無関係である、と主張する矛盾が紹介された。著者によればそれは、性質や生き様がことごとく凡庸であったキリストの「他であり得た=偶有性」こそが、神の真理という「そうでなくてはならない=必然性」と接続されている、まさにそれがキリスト教の真理を担保しているのだということを示しているのだという。必然性は偶有性の様相を伴わなくては、つまり「他の可能性もありえたのになぜかこうなった」という認識がなくては、必然とは認識されない。キルケゴールの言説は、真理の必然性が偶有性という否定性の支えなしには成立し得ないことを示している。「神が人間である」とは、「必然は偶有である」と同じ事実を措定しているのだ。