11 意識への問い、すなわち内省からはじまる哲学は、ある決定的な隠蔽を侵している。
・私達が意識できるレベルのことは、徹頭徹尾、先ず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている。
21 ニーチェの戦略は、意識に問いながらそこから身をかわし、すり抜けること、中心化を解体しながら、その解体作業がひそかに前提とする"中心"をさらに解体することである。
27 主観性のパラドックスとは、われわれが主観性を歴史的な幻想・病だと断定し否定したとしても、それもまた主観性にすぎないということだけでなく、逆に、主観性に対する最大の批判は最も主観的な領域からしか生じ得ないということを意味している。
30 ラングは、実際の存在ではなく、語る主体の意識に問いたずねることによって、言い換えればある現象学的還元によって見出される。
31 言語学の対象としてのラングは、外的な対象をカッコに入れ、直接体験を注視するような態度変更において見出される。
42 意識とは、本来混沌たる体系の部分的修正にすぎない。
45 ダーウィンの種の理論と同様に、ソシュールは言語システムの進化が、非方向的・非目的論的であると同時に、あたかもそれが定向的・目的論的であるかのように見える誤謬を説明しようとした。
51 ラングや音韻といった概念は、現実に積極的に観察できる現象の下部構造として意図的に見出されたものである。つまり結果(終り=目的)から目的論的に見出されたものであって、経験的な事実ではない。
55 ヘーゲルにおいては始まりと終わりが重なっている。始まりは終わりにおいて見出されるのであり、始まりは契機にすぎない。始元は終わり(目的)から見出され、また、始元は終わりを実現するものとしてある。
61 構造主義は、複雑怪奇な世界から特徴・項のみを取り出して、構造的に可知的だという西欧に固有の「信念」の上に成り立っている。
・構造主義が見出す構造は、目的論的な構えの中にある。
66 芸術におけるキュービズムやExpressionism、シュールレアリスムといった反遠近法の出現、また哲学における現象学の出現は対応しており、どちらも、奥行きや深さをもたらす配置を、配置そのものてして見ることを目的としていたにも関わらず、それが再び「深層」を生み出すような配置に帰結せざるを得なかったのである。
68 古典古代において、プラトンは、遠近法は事物の「真の大きさ」を歪め、現実やノモスのかわりに主観的な仮象や恣意を持ち出すという理由で、それを否定していた。
Q 深層(=下方)に、あらわれとは違った構造を見出そうとするわれわれの知の方向付けは、どこから来るのか?
69 遠近法と同様に、われわれに深層(下方)を感じさせているのは、ある種の遠近法的配置であるが、以上のことは忘却されてしまっている。フロイトらの仕事を「深層の発見」として位置づけてしまう時、われわれは深層を在らしめている遠近法的配置を温存し強化してしまうことになる。
74 「無意識」と呼ばれるものは、われわれの「意識」の遠近法的配置において、無意味・不条理として排除される「表層」的配置である。
皮肉なことに、フロイトの新しさは「深層」の拒否にあったにも関わらず、「深層」の発見者と見なされてしまった。
77 現代の自然科学を支えているのは、いわば時間(通時的配置)と空間(共時的配置)が変換可能であると見做す地平であり、厳密に言えばそのような遠近法的配置なのである。
81 例えば、自己意識を進化論的に説明しえたと思い込む時、そのような問いと答えを可能にする「自己意識」は見落とされている。
ヘーゲルのようにいっそ自己意識の超越性を認めない限り、この議論は背理に陥らざるをえない。
・疑問「自己意識の超越性」とは?
81 必要なのは、弁証法であれ進化論であれ、それらを不可避的に要求する遠近法的配置を注視すること。
84 現象学的還元は、世界の実在を素朴に信ずる「自然的態度」の排除であるどころか、いつもすでにそこにある「世界」を見出すための一歩後退に他ならない。
86 アリストテレスの時間論(=場所的に考えられている
時間は、ある結合状態(体系)ともう一つの結合状態(体系)の区別において、「それらの中間にそれらとは異なるなにものかがあると判断すること」によって存在する。
アリストテレスによれば、場所は、「事物を包むものの内側の境界であり表面である」。
88 時(クロノス)とは差異化としての時間である。これは前と後のすきまにはなく、長さも持たない。
例えば、あるシステムから次のシステムへの変化を見るという場合、それは順序であるとしても前後ではない。
91 ピアジェは、発生と構造とを総合することが出来るような概念として「均衡」を持ち出すが、これは目的論なしに目的論的な装置を考えることを可能にする。
92 ここで、改めて、ソシュールは共時的体系を考えることによって何を目指していたのかを考えてみるべきである。
94 ある状態から次の状態への間には、時間が考えられるが、この「時間」は前後を鳥瞰することによって生じる超越的な時間である。ヴァレリーは、我々はテクストの前と後を同時に見ることは出来ないという。時間の「前後」の問題もそのようなものである。
98 つまり我々の行為あるいは意図が、本来時間的な方向を持たない弾丸の位置に方向を与える。
99 自然科学にはもともと「因果性」がないのだから、それによって因果性を否定するとき、ひとは全くの自然科学的視点をとるか、因果性を「価値」の次元に回復させるか、のいずれかである。
101 原因の探求は、そこにある或る意図を、特に意図をもっている主体を、一つの活動者をもとめるということに他ならない。
・「なぜ?」という問いはつねに「何のために?(目的因)」を問うことである。
・因果関係を我々に確信させるのは、原因を意図から生起するものとして以外には解釈することの出来ない私たちの無能力である。全ての生起は一つの働きであって、すべての働きは働くものを前提するという信仰であり、「主体」に対する信仰である。
105 われわれはテクストそのものを見ることはできない。見ようとすれば、それは「作品」となる。ソシュールの苦悩はここにあった。
108 重要なのは、パロールやエクリチュールとかいった語をもて遊ぶことではなく、何に力点を置くかである。
・大切なのは、このような「前と後」をもたらしてしまう「作品」を解体することだ。読むということは、解釈学的な問題ではない。それは「作品」を解消すること、テクストを作品たらしめている中心化・一義性を取り払うことである。
「言語・数・貨幣」
114 生成的な自然を、人工的・自律的な形式に還元しようとする形式体系は、それ自身の中に一つの背理をはらみ、「形式化しえないもの」を逆説的に露呈する。
119 遠近法の等質的空間と非ユークリッド的知覚空間は、単にその形式的構造の差異として、つまりいかなる公理系を選ぶかということに還元されている。
120 遠近法的空間は「知覚」に反する形式的作図空間であるが、同時にそれは充分に形式的であるにはあまりに「知覚」に依存している。
122 『資本論』において、一商品が他商品すべてと交換される権利を有した結果、貨幣となったこと(一般的等価形態)と同じことが、解析幾何学についても言える。
その中心点はすべての数の存在を可能にし、すべての空間を均質にするような消失点をもっている。それはコギトと呼ばれるかもしれないが、もとより自己意識ではなく、一点に絞られた超越論的な眼差し(パースペクティブ)なのだ。
125 「構造主義」とは、明瞭に数学的なものである。そこでは、デカルト的二元論あるいは、新カント派的な「文化科学と自然科学」の分離は取り払われる。構造主義の意義は何よりもそこにある。
128 「リンネルは地方ですべての他の商品にとって一般的等価形式として現れる。それはあたかもライオン、虎、うさぎその他の(メンバーとしての)動物と並んで、(クラスとしての)"動物"なるものが一緒に現れるようなものだ」という時、彼はメタレベルに存する消失点たるクラスを、メンバーレベルに引き下ろし、ただそれらを価値形式の構造という観点で読み解こうとする。
130 いかなる対象をもそれを構成・列挙し、直接・具体的に考えられない限り、それを数学的対象とはみなさないとしたのが直観主義。(たとえば素数を例示できない無限は排除される)。
また直観主義者は排中律が成り立たない。そもそも無限の証明方法からして背理法(有限数のシステム)に頼っているが、それでも無限数の概念は認められないということ。
131 ラッセルに対する直観主義者たちの反発は、2分法に陥る。つまり、自然数全体とか実数全体というような「無限集合」を認めず、人間が構成しうるものだけを認めようとする。そこに「語り得ないものについては沈黙せねばならない」というヴィトゲンシュタインの言明が拍車をかける。
直観主義者たちの2文法は、文明と自然・現象界と叡智界(物自体)のような大きな落とし穴にハマってしまう。つまり、カントのように「超越的なもの」を別の領域に安置することになる。
カントールのパラドックスは、まさに超越的かつ消失点的な中心を集合の要素として引きずり下ろしたところからくる。そのことによって体系全体に混乱が生じたとしてもやむを得ない。
そのことに対して論理的な工夫によって「解決」を試みることも、再び「超越的なもの」を持ち込むこともどちらもカントール(あるいはマルクス、ソシュール、フロイトら形式化)に対して反動的でしかない。
134 ゲーデルは数学の形式的基礎づけの破綻を証明したが、それは必ずしも数学を窮地に追い込むものではなく、むしろ数学を解放するものである。
なぜなら、そこで破綻したのは、数学に対し確実であれと命令・信仰すると同時に、数学の確実性に依拠しようとする形而上学だからだ。
136 形式主義への批判はほとんど常に性急且つ安直である。それは、形式化が知覚・直観・指示対象・主体といった外部性を還元してしまっていることに向けられる。
140 フッサールのいう現象学的還元は、対象=客観的世界の素朴な実在性をカッコにいれる、 つまり日常的であり自然科学的であるような態度(自然主義)をいったんカッコにいれるところにある。
たとえば、それが対象の側に即して語られるとき、それは「形相的還元」(別個の事物から共通する要素を取り出して、本質に迫ること)とよばれるといってよい。つまりフッサールにとって、形式化”とは形相的還元にほかならない。
一方、それが意識の側に即して語られるとき、それは「超越論的還元」とよばれるのだといってよい。
この二つは、現象学的還元のなかで相補的なものだが、後者の方が重要だ。というのは、フッサールの関心は、なんらかの『還元」によってえられる形式体系そのものよりも、それがいかにして構成されるかを明らかにするところにあったからである。
超越論的還元によって、彼は心理的自我・主観性・コギトにかわって、超越論的自我・主観性をとりだす。形式的、イデア的なものを構成し、その存立を可能にするものとして。
144「数学の危機」
フッサールにとっての危機は、自然科学と文化科学、科学と哲学といった区別を無効にするような形式数学(集合論)を前提にしていたがゆえに生じた。
彼の言葉でいえば、「哲学に残されている」のは、そのような形式的なものの基礎、あるいはその存在性格を明らかにすることだ。
フッサールは、現象学的=形相的還元という方法によって形式的なものの基礎を求めようとする。
148 構造主義は、基礎論的にみればまったく論理主義なのであり、しかもそのことに気づかない。この構造主義を、フッサールは"自然主義"と読んで拒否しただろう。
フッサールは、形式的なものの存在を、経験論的にあるいは発生論的に基礎づけることを徹底的に退けた。
150 フッサールに対する批判は、実質的にはゲーデルの証明の変奏となる他ない。
154 例えば色を物理学的に区分して行くとき、すでに色の言語的・文化的(通時的)な分節が前提されているが、同じことが音声について言える。
ソシュールは、通時的よりもむしろ、共時的な形式を言語学を学問たらしめる理由として求めた。またマルクスも、経済学の対象を商品の「形式」に限定し、物理的・対象的な商品を「商品学」として還元した。
158 現象学的手続きが先行しない限り、我々は心理主義(主体を前提とする学問)をまぬかれない。
むしろ、なにが主体にそう考えさせるのかという形式への視点が重要。
狭義の記号は、対象物や概念といかなる関係性も持たないとされる。しかしこのような区別は外在的であって、記号一般がまず記号であり得るための前提がそれに先立って明らかにされねばならない。
162 ソシュールは、現象学的還元によって見出されるものは、すでに線条性(合理性)によって秩序化されたものに過ぎないということを省察していたと言える。
163
165 ニーチェが「身体」に見るのは、多様且つ過剰な諸力の関係なのだが、この力はむろん物理学的なものではなく、むしろ意味に近い何かである。
意識にとって明らかに見える事柄は、常に一義的・同一的であり、そこではもはや多様な非方向的な関係の闘争・戯れは中心化され抑圧されてしまっている。
「権力への意志」とは、権利上、意識に先行する一つの場あるいは網目状組織である。
170 むしろニーチェにとっては「一つの立場」こそ形而上学的である。
ハイデガーが哲学史を「存在」という一つの主題で語ってしまうとき、彼こそ形而上学である。
それは「巨大な多様性」を抑圧した一つのパースペクティブ(遠近法)を提示する。
171 フレーゲ以降の命題論理学及び述語論理学は、それまでの哲学を、インド・ヨーロッパ語族の語法によって規定された「にせの問題」として解消してしまおうとする。
174 ハイデガー
「存在そのものという最も普遍的な理解されやすいものの圏域内で、形而上学はただ存在者(たとえば人間)のさまざまな領域に属する、そしてその都度異なった段階と階層をなす普遍的なもののみを思念するのである。」
179 人間とは、自己差異的な差異体系であるがゆえに、本来的に無根拠であり過剰であり、非中心=多中心的な機械であって、まさにそのために不可避的に禁止が要請される存在者なのだ。
198 (数学の公理系や言語という)形式体系は、自己言及的な形をとる場合、その自己言及性(それは自己自身に関係し言及出来るという意味で自己差異的でもある)が禁止されるところに成立する。
その禁止とは、たとえば日常言語とメタ言語というメタレベルの区別を設けることである。つまり、『この文は誤謬である』において、「この文」を語る「文」は、メタ言語に属すると考えることで、実質的に日常言語への自己言及性を排除している。
この方法に寄らないならば、人は必ず、形式に根拠を与える外部・超越者・先行者(親)を考えるが、それは根本解決ではない(たとえば、その神に根拠を与えるものは何かと問い始めると無限遡及に陥るから)。あるいは、形式がどのように発生したか、心理的にどのような効果があるか、どのような効能があるか考えるが、これも同様に自己言及を排斥するものではない。それどころか、こうした発生論・心理主義・機能主義は人間の経験世界に属しているので、純粋に論理だけの形式体系の構造そのものを見失わせる。
208 つまり、マルクスの「貨幣の発生」と同様に、われわれは言語の起源を発生論的にではなく、形式的(論理的)に突き止める他ない。
213 形式を形式たらしめるための論理的要請という意味では、ゼロ記号も神も一般的等価形態としての貨幣も同じである。つまり、本来形式体系に根拠などないということを、ゼロや神を持ってくることにより、見せかけの根拠性を与えているのだ。
220 〇〇の形而上学といってそれを批判する場合、たいていは遠近法的倒錯を犯しているか、論証の仕方が間違っているという意味で批判されている。
たとえば「貨幣の形而上学」において、貨幣の起源を問う際に、自然主義的・心理主義的・発生論的・歴史主義的態度が取られがちだ。しかし、それらは隠蔽を前提としているし、何かを説明する際に事後的な概念を無意識に導入しがちである。
ここで、われわれはそれらすべてを還元し、ただ形式的に考えてみる必要がある。マルクスが価値形態論で行ったように。
239 ソシュールにとって、時間とは、或る共時的体系からもう一つのそれへの変容においてのみ見出される。それは、ふつう我々が使う意味での時間とは違う。
242 微細なものにおいて明証される差違は、関係がより大きな次元で考察されるとき、より容易く示されるのである。
247 「あまりにも微妙な差異や、あまりにゆっくり現れる差異は知覚されない」
マルクスが取り上げようとするのは、そのような差異である。知覚=認識装置からこぼれ落ちてしまうような差異化。それを取り出すためにマルクスは「価値形態論」や「生産力と生産関係」という"形式化"の問題に取り組んだのだ。
256 マルクスは「対立」によって物事を把握することを退けた。「身体/精神」「自然/文化」「自然性/意識性」といった対立のうえで成立する思考こそイデオロギーなのだ。
このような対立を齎す思考に対して、生成変化に着目する思考を彼は「分割」と呼んでいる。
259 イギリスに発生した「工場」あるいは「工場内分業」をもとに、アダム・スミスは社会史を捉え直した。つまり「分業」の歴史として。
この「分業」の視点は、経済学の分野のみでなく、それを批判するシステム論者(=社会工学)、生物学(植物同士の分業によるエコシステム、動物の分業で成り立つ動物社会)にまで影響を与えている。
ゆえにこそ、工業社会の弊害を語るエコロジストたちが根拠とするエコシステムの視点も、起源をたどればアダム・スミスと軌を一にする。
アダム・スミスが「工場内分業」から一般的な社会史を捉え直したように、エコロジストは「工場内分業」から自然史を見直す。言いかえれば、エコシステムとは、反工学的であるどころかまさに工学的な思考に基づいているのだ。
265 マニュファクチュアにおける分業の発展は、同一的なものを差異化し、相異なるものを横断的に結合する偶然的な過程である。このような分裂生成とは、計画的・意識的なものでもないし、でたらめでカオス的なものとも違っている。
マニュファクチュアの、このような偶然的な要素は、いったんそれが出来上がってしまった後では、分業=労働の分割は最初から意識的・計画的なものとして見なされてしまう。
エンゲルスがいうような、一方に意識的な分業があり、他方に非計画的な分業がある、という見方は、工場が確立し、マニュファクチュア的偶然性が隠蔽されたあとで初めて成立する図式である。
270 予言不可能な不意打ちによって非方向的に多様していく新しい仕事と、それを旧来のギルド的な安定的なシステムの中に封じ込めようとするリアクションとの間のせめぎ合い。
マルクスのいう「階級闘争」とは常に上のようなものだと言ってよい。それは決して、資本家階級vs労働者階級のような単純な図式ではない。階級闘争とは、実体的に存在する闘争ではなく、むしろ解釈によってのみ見出される何かだ。
279 自己言及的な形式体系あるいは、自己差異的な差異体系とは?
カテゴリーが不断に横断され、ロジカルタイプが破られているために、多数の中心が同時に成立してしまうようなあり様のこと。
295 フッサールの、デカルトやカントをより徹底化した懐疑が、同一的な意味を取り出すのに対して、ウィトゲンシュタインの懐疑は、その逆に、そのような意味による規則・内的な状態などあり得ないことを示す。
フッサールが「聴く」立場を極限まで推し進めたのだとすれば、ウィトゲンシュタインは「話す」立場を一つの極限に追い詰めている。
301 ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によって、われわれのコミュニケーションが何らかの規則によっていることを言いたいのではなく、その逆に、そのような規則とは、我々が理解した途端に見出される結果でしかないといいたいのである。
306 私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような他者にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、文脈があり、また、『言語ゲーム』が成立する。
なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。
だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる―――規則、コード、差異体系などによって。
いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、 この「暗黒における跳躍」(クリブキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ"神秘”がある。われわれが社会的、実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。
312 人間は「意識しないが、そう行う」。
このようにして語られる「社会的性格」、すなわち社会における人々の行動の無根拠的・無目的的・盲目的・実践的な在り方は、けっして「無意識」というような概念によって解消されはしない。
たとえば、「無意識」を解明しようとしたフロイト精神分析に依っても、(その精神分析は「共通の本質」の如き規則を想定してしまうユングとは違うのだが)、患者と医者の対話的関係、あるいはそこに存する「社会的性格」をけっして排除することができない。
浅田彰
323 外部に出るために追求されている方法は、内部を徹底的に掘り下げることで、自壊させるという道である。