柄谷行人のレビュー一覧
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ネタバレ11 意識への問い、すなわち内省からはじまる哲学は、ある決定的な隠蔽を侵している。
・私達が意識できるレベルのことは、徹頭徹尾、先ず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている。
21 ニーチェの戦略は、意識に問いながらそこから身をかわし、すり抜けること、中心化を解体しながら、その解体作業がひそかに前提とする"中心"をさらに解体することである。
27 主観性のパラドックスとは、われわれが主観性を歴史的な幻想・病だと断定し否定したとしても、それもまた主観性にすぎないということだけでなく、逆に、主観性に対する最大の批判は最も主観的な領域からしか生じ得ないということを意味している。
30 ラングは、実際の存在ではなく、語る主体の意識に問いたずねることによって、言い換えればある現象学的還元によって見出される。
31 言語学の対象としてのラングは、外的な対象をカッコに入れ、直接体験を注視するような態度変更において見出される。
42 意識とは、本来混沌たる体系の部分的修正にすぎない。
45 ダーウィンの種の理論と同様に、ソシュールは言語システムの進化が、非方向的・非目的論的であると同時に、あたかもそれが定向的・目的論的であるかのように見える誤謬を説明しようとした。
51 ラングや音韻といった概念は、現実に積極的に観察できる現象の下部構造として意図的に見出されたものである。つまり結果(終り=目的)から目的論的に見出されたものであって、経験的な事実ではない。
55 ヘーゲルにおいては始まりと終わりが重なっている。始まりは終わりにおいて見出されるのであり、始まりは契機にすぎない。始元は終わり(目的)から見出され、また、始元は終わりを実現するものとしてある。
61 構造主義は、複雑怪奇な世界から特徴・項のみを取り出して、構造的に可知的だという西欧に固有の「信念」の上に成り立っている。
・構造主義が見出す構造は、目的論的な構えの中にある。
66 芸術におけるキュービズムやExpressionism、シュールレアリスムといった反遠近法の出現、また哲学における現象学の出現は対応しており、どちらも、奥行きや深さをもたらす配置を、配置そのものてして見ることを目的としていたにも関わらず、それが再び「深層」を生み出すような配置に帰結せざるを得なかったのである。
68 古典古代において、プラトンは、遠近法は事物の「真の大きさ」を歪め、現実やノモスのかわりに主観的な仮象や恣意を持ち出すという理由で、それを否定していた。
Q 深層(=下方)に、あらわれとは違った構造を見出そうとするわれわれの知の方向付けは、どこから来るのか?
69 遠近法と同様に、われわれに深層(下方)を感じさせているのは、ある種の遠近法的配置であるが、以上のことは忘却されてしまっている。フロイトらの仕事を「深層の発見」として位置づけてしまう時、われわれは深層を在らしめている遠近法的配置を温存し強化してしまうことになる。
74 「無意識」と呼ばれるものは、われわれの「意識」の遠近法的配置において、無意味・不条理として排除される「表層」的配置である。
皮肉なことに、フロイトの新しさは「深層」の拒否にあったにも関わらず、「深層」の発見者と見なされてしまった。
77 現代の自然科学を支えているのは、いわば時間(通時的配置)と空間(共時的配置)が変換可能であると見做す地平であり、厳密に言えばそのような遠近法的配置なのである。
81 例えば、自己意識を進化論的に説明しえたと思い込む時、そのような問いと答えを可能にする「自己意識」は見落とされている。
ヘーゲルのようにいっそ自己意識の超越性を認めない限り、この議論は背理に陥らざるをえない。
・疑問「自己意識の超越性」とは?
81 必要なのは、弁証法であれ進化論であれ、それらを不可避的に要求する遠近法的配置を注視すること。
84 現象学的還元は、世界の実在を素朴に信ずる「自然的態度」の排除であるどころか、いつもすでにそこにある「世界」を見出すための一歩後退に他ならない。
86 アリストテレスの時間論(=場所的に考えられている
時間は、ある結合状態(体系)ともう一つの結合状態(体系)の区別において、「それらの中間にそれらとは異なるなにものかがあると判断すること」によって存在する。
アリストテレスによれば、場所は、「事物を包むものの内側の境界であり表面である」。
88 時(クロノス)とは差異化としての時間である。これは前と後のすきまにはなく、長さも持たない。
例えば、あるシステムから次のシステムへの変化を見るという場合、それは順序であるとしても前後ではない。
91 ピアジェは、発生と構造とを総合することが出来るような概念として「均衡」を持ち出すが、これは目的論なしに目的論的な装置を考えることを可能にする。
92 ここで、改めて、ソシュールは共時的体系を考えることによって何を目指していたのかを考えてみるべきである。
94 ある状態から次の状態への間には、時間が考えられるが、この「時間」は前後を鳥瞰することによって生じる超越的な時間である。ヴァレリーは、我々はテクストの前と後を同時に見ることは出来ないという。時間の「前後」の問題もそのようなものである。
98 つまり我々の行為あるいは意図が、本来時間的な方向を持たない弾丸の位置に方向を与える。
99 自然科学にはもともと「因果性」がないのだから、それによって因果性を否定するとき、ひとは全くの自然科学的視点をとるか、因果性を「価値」の次元に回復させるか、のいずれかである。
101 原因の探求は、そこにある或る意図を、特に意図をもっている主体を、一つの活動者をもとめるということに他ならない。
・「なぜ?」という問いはつねに「何のために?(目的因)」を問うことである。
・因果関係を我々に確信させるのは、原因を意図から生起するものとして以外には解釈することの出来ない私たちの無能力である。全ての生起は一つの働きであって、すべての働きは働くものを前提するという信仰であり、「主体」に対する信仰である。
105 われわれはテクストそのものを見ることはできない。見ようとすれば、それは「作品」となる。ソシュールの苦悩はここにあった。
108 重要なのは、パロールやエクリチュールとかいった語をもて遊ぶことではなく、何に力点を置くかである。
・大切なのは、このような「前と後」をもたらしてしまう「作品」を解体することだ。読むということは、解釈学的な問題ではない。それは「作品」を解消すること、テクストを作品たらしめている中心化・一義性を取り払うことである。
「言語・数・貨幣」
114 生成的な自然を、人工的・自律的な形式に還元しようとする形式体系は、それ自身の中に一つの背理をはらみ、「形式化しえないもの」を逆説的に露呈する。
119 遠近法の等質的空間と非ユークリッド的知覚空間は、単にその形式的構造の差異として、つまりいかなる公理系を選ぶかということに還元されている。
120 遠近法的空間は「知覚」に反する形式的作図空間であるが、同時にそれは充分に形式的であるにはあまりに「知覚」に依存している。
122 『資本論』において、一商品が他商品すべてと交換される権利を有した結果、貨幣となったこと(一般的等価形態)と同じことが、解析幾何学についても言える。
その中心点はすべての数の存在を可能にし、すべての空間を均質にするような消失点をもっている。それはコギトと呼ばれるかもしれないが、もとより自己意識ではなく、一点に絞られた超越論的な眼差し(パースペクティブ)なのだ。
125 「構造主義」とは、明瞭に数学的なものである。そこでは、デカルト的二元論あるいは、新カント派的な「文化科学と自然科学」の分離は取り払われる。構造主義の意義は何よりもそこにある。
128 「リンネルは地方ですべての他の商品にとって一般的等価形式として現れる。それはあたかもライオン、虎、うさぎその他の(メンバーとしての)動物と並んで、(クラスとしての)"動物"なるものが一緒に現れるようなものだ」という時、彼はメタレベルに存する消失点たるクラスを、メンバーレベルに引き下ろし、ただそれらを価値形式の構造という観点で読み解こうとする。
130 いかなる対象をもそれを構成・列挙し、直接・具体的に考えられない限り、それを数学的対象とはみなさないとしたのが直観主義。(たとえば素数を例示できない無限は排除される)。
また直観主義者は排中律が成り立たない。そもそも無限の証明方法からして背理法(有限数のシステム)に頼っているが、それでも無限数の概念は認められないということ。
131 ラッセルに対する直観主義者たちの反発は、2分法に陥る。つまり、自然数全体とか実数全体というような「無限集合」を認めず、人間が構成しうるものだけを認めようとする。そこに「語り得ないものについては沈黙せねばならない」というヴィトゲンシュタインの言明が拍車をかける。
直観主義者たちの2文法は、文明と自然・現象界と叡智界(物自体)のような大きな落とし穴にハマってしまう。つまり、カントのように「超越的なもの」を別の領域に安置することになる。
カントールのパラドックスは、まさに超越的かつ消失点的な中心を集合の要素として引きずり下ろしたところからくる。そのことによって体系全体に混乱が生じたとしてもやむを得ない。
そのことに対して論理的な工夫によって「解決」を試みることも、再び「超越的なもの」を持ち込むこともどちらもカントール(あるいはマルクス、ソシュール、フロイトら形式化)に対して反動的でしかない。
134 ゲーデルは数学の形式的基礎づけの破綻を証明したが、それは必ずしも数学を窮地に追い込むものではなく、むしろ数学を解放するものである。
なぜなら、そこで破綻したのは、数学に対し確実であれと命令・信仰すると同時に、数学の確実性に依拠しようとする形而上学だからだ。
136 形式主義への批判はほとんど常に性急且つ安直である。それは、形式化が知覚・直観・指示対象・主体といった外部性を還元してしまっていることに向けられる。
140 フッサールのいう現象学的還元は、対象=客観的世界の素朴な実在性をカッコにいれる、 つまり日常的であり自然科学的であるような態度(自然主義)をいったんカッコにいれるところにある。
たとえば、それが対象の側に即して語られるとき、それは「形相的還元」(別個の事物から共通する要素を取り出して、本質に迫ること)とよばれるといってよい。つまりフッサールにとって、形式化”とは形相的還元にほかならない。
一方、それが意識の側に即して語られるとき、それは「超越論的還元」とよばれるのだといってよい。
この二つは、現象学的還元のなかで相補的なものだが、後者の方が重要だ。というのは、フッサールの関心は、なんらかの『還元」によってえられる形式体系そのものよりも、それがいかにして構成されるかを明らかにするところにあったからである。
超越論的還元によって、彼は心理的自我・主観性・コギトにかわって、超越論的自我・主観性をとりだす。形式的、イデア的なものを構成し、その存立を可能にするものとして。
144「数学の危機」
フッサールにとっての危機は、自然科学と文化科学、科学と哲学といった区別を無効にするような形式数学(集合論)を前提にしていたがゆえに生じた。
彼の言葉でいえば、「哲学に残されている」のは、そのような形式的なものの基礎、あるいはその存在性格を明らかにすることだ。
フッサールは、現象学的=形相的還元という方法によって形式的なものの基礎を求めようとする。
148 構造主義は、基礎論的にみればまったく論理主義なのであり、しかもそのことに気づかない。この構造主義を、フッサールは"自然主義"と読んで拒否しただろう。
フッサールは、形式的なものの存在を、経験論的にあるいは発生論的に基礎づけることを徹底的に退けた。
150 フッサールに対する批判は、実質的にはゲーデルの証明の変奏となる他ない。
154 例えば色を物理学的に区分して行くとき、すでに色の言語的・文化的(通時的)な分節が前提されているが、同じことが音声について言える。
ソシュールは、通時的よりもむしろ、共時的な形式を言語学を学問たらしめる理由として求めた。またマルクスも、経済学の対象を商品の「形式」に限定し、物理的・対象的な商品を「商品学」として還元した。
158 現象学的手続きが先行しない限り、我々は心理主義(主体を前提とする学問)をまぬかれない。
むしろ、なにが主体にそう考えさせるのかという形式への視点が重要。
狭義の記号は、対象物や概念といかなる関係性も持たないとされる。しかしこのような区別は外在的であって、記号一般がまず記号であり得るための前提がそれに先立って明らかにされねばならない。
162 ソシュールは、現象学的還元によって見出されるものは、すでに線条性(合理性)によって秩序化されたものに過ぎないということを省察していたと言える。
163
165 ニーチェが「身体」に見るのは、多様且つ過剰な諸力の関係なのだが、この力はむろん物理学的なものではなく、むしろ意味に近い何かである。
意識にとって明らかに見える事柄は、常に一義的・同一的であり、そこではもはや多様な非方向的な関係の闘争・戯れは中心化され抑圧されてしまっている。
「権力への意志」とは、権利上、意識に先行する一つの場あるいは網目状組織である。
170 むしろニーチェにとっては「一つの立場」こそ形而上学的である。
ハイデガーが哲学史を「存在」という一つの主題で語ってしまうとき、彼こそ形而上学である。
それは「巨大な多様性」を抑圧した一つのパースペクティブ(遠近法)を提示する。
171 フレーゲ以降の命題論理学及び述語論理学は、それまでの哲学を、インド・ヨーロッパ語族の語法によって規定された「にせの問題」として解消してしまおうとする。
174 ハイデガー
「存在そのものという最も普遍的な理解されやすいものの圏域内で、形而上学はただ存在者(たとえば人間)のさまざまな領域に属する、そしてその都度異なった段階と階層をなす普遍的なもののみを思念するのである。」
179 人間とは、自己差異的な差異体系であるがゆえに、本来的に無根拠であり過剰であり、非中心=多中心的な機械であって、まさにそのために不可避的に禁止が要請される存在者なのだ。
198 (数学の公理系や言語という)形式体系は、自己言及的な形をとる場合、その自己言及性(それは自己自身に関係し言及出来るという意味で自己差異的でもある)が禁止されるところに成立する。
その禁止とは、たとえば日常言語とメタ言語というメタレベルの区別を設けることである。つまり、『この文は誤謬である』において、「この文」を語る「文」は、メタ言語に属すると考えることで、実質的に日常言語への自己言及性を排除している。
この方法に寄らないならば、人は必ず、形式に根拠を与える外部・超越者・先行者(親)を考えるが、それは根本解決ではない(たとえば、その神に根拠を与えるものは何かと問い始めると無限遡及に陥るから)。あるいは、形式がどのように発生したか、心理的にどのような効果があるか、どのような効能があるか考えるが、これも同様に自己言及を排斥するものではない。それどころか、こうした発生論・心理主義・機能主義は人間の経験世界に属しているので、純粋に論理だけの形式体系の構造そのものを見失わせる。
208 つまり、マルクスの「貨幣の発生」と同様に、われわれは言語の起源を発生論的にではなく、形式的(論理的)に突き止める他ない。
213 形式を形式たらしめるための論理的要請という意味では、ゼロ記号も神も一般的等価形態としての貨幣も同じである。つまり、本来形式体系に根拠などないということを、ゼロや神を持ってくることにより、見せかけの根拠性を与えているのだ。
220 〇〇の形而上学といってそれを批判する場合、たいていは遠近法的倒錯を犯しているか、論証の仕方が間違っているという意味で批判されている。
たとえば「貨幣の形而上学」において、貨幣の起源を問う際に、自然主義的・心理主義的・発生論的・歴史主義的態度が取られがちだ。しかし、それらは隠蔽を前提としているし、何かを説明する際に事後的な概念を無意識に導入しがちである。
ここで、われわれはそれらすべてを還元し、ただ形式的に考えてみる必要がある。マルクスが価値形態論で行ったように。
239 ソシュールにとって、時間とは、或る共時的体系からもう一つのそれへの変容においてのみ見出される。それは、ふつう我々が使う意味での時間とは違う。
242 微細なものにおいて明証される差違は、関係がより大きな次元で考察されるとき、より容易く示されるのである。
247 「あまりにも微妙な差異や、あまりにゆっくり現れる差異は知覚されない」
マルクスが取り上げようとするのは、そのような差異である。知覚=認識装置からこぼれ落ちてしまうような差異化。それを取り出すためにマルクスは「価値形態論」や「生産力と生産関係」という"形式化"の問題に取り組んだのだ。
256 マルクスは「対立」によって物事を把握することを退けた。「身体/精神」「自然/文化」「自然性/意識性」といった対立のうえで成立する思考こそイデオロギーなのだ。
このような対立を齎す思考に対して、生成変化に着目する思考を彼は「分割」と呼んでいる。
259 イギリスに発生した「工場」あるいは「工場内分業」をもとに、アダム・スミスは社会史を捉え直した。つまり「分業」の歴史として。
この「分業」の視点は、経済学の分野のみでなく、それを批判するシステム論者(=社会工学)、生物学(植物同士の分業によるエコシステム、動物の分業で成り立つ動物社会)にまで影響を与えている。
ゆえにこそ、工業社会の弊害を語るエコロジストたちが根拠とするエコシステムの視点も、起源をたどればアダム・スミスと軌を一にする。
アダム・スミスが「工場内分業」から一般的な社会史を捉え直したように、エコロジストは「工場内分業」から自然史を見直す。言いかえれば、エコシステムとは、反工学的であるどころかまさに工学的な思考に基づいているのだ。
265 マニュファクチュアにおける分業の発展は、同一的なものを差異化し、相異なるものを横断的に結合する偶然的な過程である。このような分裂生成とは、計画的・意識的なものでもないし、でたらめでカオス的なものとも違っている。
マニュファクチュアの、このような偶然的な要素は、いったんそれが出来上がってしまった後では、分業=労働の分割は最初から意識的・計画的なものとして見なされてしまう。
エンゲルスがいうような、一方に意識的な分業があり、他方に非計画的な分業がある、という見方は、工場が確立し、マニュファクチュア的偶然性が隠蔽されたあとで初めて成立する図式である。
270 予言不可能な不意打ちによって非方向的に多様していく新しい仕事と、それを旧来のギルド的な安定的なシステムの中に封じ込めようとするリアクションとの間のせめぎ合い。
マルクスのいう「階級闘争」とは常に上のようなものだと言ってよい。それは決して、資本家階級vs労働者階級のような単純な図式ではない。階級闘争とは、実体的に存在する闘争ではなく、むしろ解釈によってのみ見出される何かだ。
279 自己言及的な形式体系あるいは、自己差異的な差異体系とは?
カテゴリーが不断に横断され、ロジカルタイプが破られているために、多数の中心が同時に成立してしまうようなあり様のこと。
295 フッサールの、デカルトやカントをより徹底化した懐疑が、同一的な意味を取り出すのに対して、ウィトゲンシュタインの懐疑は、その逆に、そのような意味による規則・内的な状態などあり得ないことを示す。
フッサールが「聴く」立場を極限まで推し進めたのだとすれば、ウィトゲンシュタインは「話す」立場を一つの極限に追い詰めている。
301 ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によって、われわれのコミュニケーションが何らかの規則によっていることを言いたいのではなく、その逆に、そのような規則とは、我々が理解した途端に見出される結果でしかないといいたいのである。
306 私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような他者にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、文脈があり、また、『言語ゲーム』が成立する。
なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。
だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる―――規則、コード、差異体系などによって。
いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、 この「暗黒における跳躍」(クリブキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ"神秘”がある。われわれが社会的、実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。
312 人間は「意識しないが、そう行う」。
このようにして語られる「社会的性格」、すなわち社会における人々の行動の無根拠的・無目的的・盲目的・実践的な在り方は、けっして「無意識」というような概念によって解消されはしない。
たとえば、「無意識」を解明しようとしたフロイト精神分析に依っても、(その精神分析は「共通の本質」の如き規則を想定してしまうユングとは違うのだが)、患者と医者の対話的関係、あるいはそこに存する「社会的性格」をけっして排除することができない。
浅田彰
323 外部に出るために追求されている方法は、内部を徹底的に掘り下げることで、自壊させるという道である。 -
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2024年、最初の本のご紹介は、柄谷行人氏の主著の一つ『世界史の構造』。昨年柄谷さんの『遊動論 柳田国男と山人』を読んで深い見識に触れた。「哲学のノーベル賞」と言われるバーグルエン賞をなぜこの人が受賞されたのか、この本を読んで少し分かった気がする。
世界の歴史を「交換様式」から説明するその説得力がとにかく圧巻。世界史の教科書はすべてこの考えた方をベースに作り直した方が良いと思うぐらい、世界の見え方が変わる。(教科書は国家の都合が入るので難しいと思うが・・)歴史は学んでいてもつい違う世界を学んでいるような感覚を受けるが、今現在を歴史のつながりの先端として捉えることができる。そして、日本がなぜ今の日本に至っているのかも納得感が深い。
いま起きていることとして、会社辞めて遊動性へ回帰しようという流れが起きる必然性も感じるし、そのために芸術や精神、宗教を今一度見直そうという動きがあることも腹落ちする。アートやヨガ、瞑想が注目を集めるのも時代の要請か。
さて、この本を読んだ私たちは遊動性を取り戻すために何をするのか、また遊動性を維持するために何が必要となるのか、新たな問いが湧いた。 -
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著者は『トランスクリティーク』以降、マルクスを生産様式ではなく交換様式で、また、カントの世界共和国をベースに、今後の世界の展望を考察してきた。近代国家は、資本=ネーション=ステートの3つの要因を孕んでおり、依然として、これらは強く結ばれている。資本の力が強まると、新自由主義社会となり、ネーション=ステートの力が強まると、国家資本主義あるいは福祉国家社会となる。しかし、これらに囚われている限り、近代を超克することはできない。その為、著者は、資本=ネーション=ステートを超えた社会システム、すなわち、交換様式Dが主力となる世界を考えてきた。本書もその一環として、交換様式A〜Dに触れているが、今回は「帝国」の特徴を、つまり交換様式Bの性質を深堀していくのが本書の主軸となる。
交換様式Bが主力となった時代とは、世界市場(交換様式C)が到来する以前の時代、別の言い方をすると、近代以前に存在した帝国の時代を指す。具体的には、ペルシア帝国、ローマ帝国、さらに時を経て、モンゴル帝国、オスマン帝国と、各時代で、政治的、軍事的に優位であった帝国のことである。本書で特に注意しないといけないのが、「帝国」と「帝国主義」の定義である。両者ともに多数の民族、国家を包括することに違いはないが、前者のほうは、これら独自の習慣(政治、経済活動あるいは宗教)に対して寛容な態度を示す。一方で後者は、民族、国家を征服し、支配者側の価値観を、それを被支配者に押しつける、つまり、同化政策を強制する。このように、著者は2つの用語を厳密に区別する。ちなみに、「帝国主義」の別の特徴として、この性質を持つ国家は、歴史的に見て「帝国」に対して亜周辺であることを指摘する。この箇所は日本にも当てはまり、明治に誕生した大日本帝国とは、まさに帝国主義である。そして、「帝国主義」とは世界=経済、つまり経済的に優位な立場で、ヘゲモニー国家、つまり、交換様式Cが主力となる。
これ以外にも、本書の終わりでは、日本社会を交換様式をもとに紐解く。興味深いことに、徳川幕府とは、拡大主義の否定、つまり世界市場(交換様式C)を抑えてきたが、幕末ごろに限界を迎えた。明治維新の成功要因としても、徳川体制がこれまで抑えてきたものを解放したことで、発展したという。その一方で、日本は周辺の理解が足りないとあり、日本が「帝国」でありたい、すなわち、多民族、国家に寛容でありたいのならば、憲法9条の実行が必要だと主張する。
巻末には、作家佐藤優との対談が収録。日本は海洋国家で、中国とロシアが海へ進出しない限り、これらの国家とうまく棲み分けができる。むしろ、日米同盟で結びつきが強いアメリカとの関係を、日本は注視しなければならないというのは、今後の地政学リスクを考えるうえでポイントとなるだろう。 -
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ネタバレ8 資本と国家に対する対抗運動は一定のレベルを超えると必ず分断されてしまう。
23 貨幣(交換様式C)に基づく力は、互酬性や再分配に基づく力とは異なっている。それは、他者を物理的・心理的に強制することなく、同意に基づく交換によって使役することができる。
33 産業資本は労働者を搾取するだけでなく、いわば自然をも搾取=開発(exploit)している。しかし、この「人間と自然の関係」は人間と人間の交換関係に根ざしている。ゆえに、人間を収奪する国家が最初にあり、それが自然の収奪に繋がることを見ないかぎり、本質的ではない。
45 互酬的交換Aが支配的な共同体の種類
農業共同体、宗教的共同体、想像された平等共同体(ネーション)
54 遊動採取民(バンド)→定住化→農業・灌漑の発展
第一部 第一章
互酬性交換の諸様態
家族内交換、共同寄託、血讐、沈黙交易、外婚制、略奪婚、呪術 -
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「世界史の構造」から深い感銘を受けていたので、深く考えずに本書を購入しました。結論は大変満足しています。毎回思うのですが、柄谷氏の論考は正しい/正しくない、という軸よりも面白さ、あるいは技量で評価すべきではないかと思います。私が思う柄谷氏の面白さとは、思いもよらぬ点を結びつける力です。本書の冒頭では柳田国男とジャレド・ダイアモンドを結びつけておられますが、この2人を結びつけられるのは世界で柄谷氏だけでしょう。その後も素人には予想もつかない分野の思想が新たに結び付けられて、柄谷ワールドとも呼べる立体曼荼羅的な世界観が繰り広げられています。その意味では、あたかもチベット密教の僧侶が多彩な色の砂を使って、地面の上に美しい砂曼荼羅をライブで描いている様をみている観光客のような気分といえるかもしれません(驚嘆のまなざしで、そういう模様が浮かび上がってくるのか・・・とみているような感覚)。
本書のなかで、柳田国男が陸の道だけでなく(識別不能な)海の道にも着目して文化の伝搬パターンを考えた、という点は特に面白いと感じました。インターネット全盛時代、つまり「電子の道」全盛の現在に照らすと、日本のアニメなどは簡単に物理的な距離を超えて伝搬し、日本語の単語も世界にひろまっているようです。そのような状況を数百年後の文化人類学者が発見したら、さてどう判断するのだろうと思ったりしました(あるいは高度なAIがズバッと伝搬経路を特定化してしまうのかもしれませんが・・)。 -
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柄谷さんの本は毎回期待しながら読むのですが、今回も期待を裏切らず面白く拝読しました。柄谷さんの本は、書いてあること自体正しいか正しくないか、という視点で読むのではなく、素直に「そう来たか」というところを面白がって読む方が私は好きです(正確に言えば私のレベルでは正しいかどうかなどわからない)。本書は複数の講演録をもとにつくられているので、章の間のつなぎというか、論理展開が飛躍している感じのある箇所もあったのですが、全体的には面白く拝読しました。憲法9条はなにか仏教で言うところのお布施、見返りを求めない純粋贈与であって、純粋贈与に対してつばを吐きかけるような国があれば世界中から非難を浴びる、よってこれこそが実は抑止力であるという視点です。ある国で市民革命が起きれば他国の干渉(領土侵攻)が起こりますが、日本の9条に関しては他国の干渉(領土侵攻)が起こらない中で導入された、これはなにか色々な偶然が重なった奇跡という感じもしました。私くらいのレベルでは、もはやこのレベルの本ですと正しい、正しくないというのが判断できる水準を遙かに超えているので、純粋に楽しんで読みました。
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Posted by ブクログ
柄谷氏の「世界史の構造」(岩波現代文庫)を読んで感銘を受けたので、続けて本書を購入しました。私は「トランスクリティーク」はまだ読んでいないので、そことの比較はできませんが、本書は「世界史の構造」の理解を深めるためにはちょうどよかったと思います。世界史の構造を交換様式から分析するということで、様式AからDまでがあるわけですが、そこの用語は「世界史の構造」から少し変更が加えられていました。個人的には本書の用語の方がしっくりきます。また「世界史の構造」ではよくわかっていなかった点についても本書でだいぶ捕捉された感じがします。よってこれは人それぞれかもしれませんが、難易度が一番低い本書から読んで、そこから「世界史の構造」に進んでもOKですし、「世界史の構造」から読んで、それをさらに補足するために本書を読んでも大丈夫とは思いました。非常に多くの示唆が含まれていると思います。おすすめです。
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Posted by ブクログ
本屋でふと目につき、あまり深く考えずに購入しました。その意味では本当に偶然の出会いで、お恥ずかしい話著者のこともまったく知らずに「題名が面白そう」ということだけで購入しました。しかし本書は本当に面白かったです。これだけ読み応えのある本は久しぶりでした。世界史をダラダラと時系列に記述している本は巷にいくつかあるのですが、本書はまさに題名にあるように世界史の「構造」ということで、フレームを通じて世界史を分析されています。具体的には交換様式A、B、C、Dという4つの形式から世界史を紐解いていて、私自身このフレームには初めて触れましたがユニークなだけでなく説得力があるとも思いました。2016年におこったブレクジット、米国トランプ政権の誕生なども念頭に置きながら本書を読むと、なおさらその説得力の高さに驚かされます。
本書はなるべく読者の読みやすさを意識して書かれているとは思いますが、用語やフレームに慣れないとなかなか読み進められませんが、後半部になるとスラスラ頭に入ってきます。その意味では、もう一度頭から読み直してみると、さらに理解度が深まりそうだと感じましたので、早速2回目読み始めています。 -
Posted by ブクログ
漱石の写生文についての論考に刺激を受けた。
柄谷は、漱石の写生文がやがて小説に発展すべきものとみる見方を退ける。そうではなく、漱石は近代小説の終わりから出発したのだと。ローレンス・スターンを日本に紹介したのは漱石だが、漱石にとって近代小説はスターンで終わっていた。そのスターンはイロニーが発生する時点に、それと対立する精神態度としてヒューモアを描いた人である。
漱石がロンドンから書き送った「文」に、まさにこのヒューモアが描かれており、柄谷は次のように評する。
「これは西洋人のなかに混じって劣等感に打ちのめされているときに、そのように『おびえて尻込みしている自我』に『優しい慰めの言葉をかける』ものだといってよい。それは、知らぬ間に優劣および優劣にこだわる自意識を無化してしまっている。」(p.343)
漱石における写生文において、「優しい慰めの言葉をかける」ようなヒューモアは、ナレーターとして現れる。写生文におけるヒューモアは、「おびえて尻込みしている」ような諸々の自我のレベルを往還しうる能力なのだ。
「ヒューモアとは、すでに終わっているにもかかわらず、あるいはもはや終わり(目的)がないにもかかわらず、書きつづけ闘争しつづけることではないのか」(p.353)
病的なものを誇示したがる文学者とは違って、漱石が読者をたえず解放させる力を持っていた理由がここにある、と柄谷は言う。 -
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遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)
(和書)2014年02月13日 22:52
柄谷 行人 文藝春秋 2014年1月20日
「思考実験=抽象化」ということと遊動性。
抑圧されたものは強迫的に回帰する。
柄谷さんの言いたいことを理解しようとそれぞれ考え思考実験(抽象化)してきた人たちにとっては柄谷さんがかなりわかり易い言葉と柳田国男という日本人にとってかなり具体的な例より解説されている。
今まで自分の中で疑問になっていた部分が氷解されています。
柄谷さんは人間が思考実験と遊動性をどのように実践していけばいいのか?抑圧された自然状態(遊動性)が強迫的に回帰するということが思考実験とどのように関係すればいいのか?を示している様に思う。
人間を弱者として体系化するのではなく弱者から格差の解消を目指すということ、それは人間の関係にある格差を止揚することを目指す姿勢であるのだろうと思う。それが思考実験としてありえるがスティグマされ不可触民のようにされているものであるが実践として非常に有効なものであると感じた。そういったものが強迫的に回帰するというのは僕のような人間にとって非常にオプティミスティックに感じるところである。
「小さきもの」の思想 (文春学藝ライブラリー)も楽しみにしています。 -
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世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて
(和書)2010年08月30日 22:18
2006 岩波書店 柄谷 行人
柄谷行人の言う理念の入門編と言った本らしい。専門家向けにも書いているけれど発表していないって何処かで言っていた。
貸したら新品になって帰って来た本です。
今回で4回目になりました。
自由の相互性というところが大好きです。
P.S.
今回5回目の再読だけど、何回読んでも新鮮に読めてしまう。「世界史の構造」「トランスクリティーク」を読んでみて、改めてこの本を読めてとても良いと思う。
カント 純粋理性宗教 というところ
1 戦争
2 環境破壊
3 経済的格差
いろいろ衝撃があって、なんでいちいち新鮮に衝撃を受けてしまうのか謎ですが、多分とても重要で本質的なことを根気強く丹念に教えられているからだろうな。
次は「世界史の構造」の3回目の再読をしてみます。 -
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文学的に相当訓練を積まないと、本書を了解していくことは困難だ。しかし、その大意を掴むことができれば、本書が扱う問題に関して、現代にも通じている事情が分かるはずである。キーワードの一つが風景の発見であるが、それは今まで人々が見てこなかった風景を発見するということである。ただ、そうした新たな風景を発見するには、同じく新たな方法を会得する必要がある。明治期は、ヨーロッパ文学の新しい潮流に触れたことで、日本文学の新しい動きが起こり、日本人は風景を発見したと本書は論じる。結びに、そんな近代文学も活力を失ってしまったという。近代文学の革新性は俳諧文学の再構成からも来ており、正岡子規の写生文にせよ、夏目漱石にせよ、俳諧のカーニバル気分を受け継ぐものであるという。つまり、江戸時代に多数人が集まり、句に句を付け足していく連歌を楽しみ、人々に開いて祭りのようだった、その気分がカーニバル気分である。翻って、私が行う、和歌の再構成や日記文学の再興、批評の立ち上げなど、それがカーニバルになるか、私も分からない。とはいえ、本書の視点は重要であった。
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神さま、ご先祖さま、ありがとう!
私たちは
これまでの無窮の時間を紡いできた見えなくなった先人達と、
有機的なつながりを持って、親しく関わって今を生きているのです。
●
本居宣長が見出した「古の道」は、
「作る」「作為」ではなく、「なる」ということ、「自然(じねん)」。
日本神話においては、中国と違い、宇宙や国を「つくる」という要素が存在しない。
「うむ」「なる」という要素が強い。
神道は理論ではなく、事実、人間が現実に生きている有様に見出されねばならないとし、
宣長は古の道を古事記に見出した。
古事記や日本書紀は大和朝廷による国内統治の正統性を示すものであった。
中国では、前代の統治は厳しく批判されたが、日本の場合はそうでなく、正統性は連続的で無窮であることに基づく。
ただし、この観念が確立されたのは、鎌倉幕府以降、大和朝廷の支配が終わり、武家政権の正統性を天皇に仕えることが不可欠となったからである。万系一世の観念が不可欠となった。
●平田篤胤の神道は幕末に討幕運動のイデオロギーを果たしたが、維新後五年に排除されることになる。
平田派が追及していた復古=社会革命は、徳川幕府の支配と結びついた仏教を批判。
神仏分離は徳川幕府の支配体制からの脱却を意図していたが、
明治五年、神道は国教化され国家機構の一端となる。
「信教の自由」が明記される反面、国家神道は「敬神」の対象であり、宗教的信仰ではないとみなされた。
そこで社会改革を目指していた平田派は排除されていく。
平田篤胤は単純に排外的ではなかった。欧米諸国のものを柔軟に取り入れることも神の心だとした。
平田は本居宣長の古道に飽き足らず、そこにないものをキリスト教から取り込む。
マテオリッチ『天主実義』を取り入れ、独自の本地垂迹説を唱え、
アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒの造化三神を三位一体の神としてみる。
キリスト教の起源も、日本の神道が外に伝わったものであるという説をいい始める。
明治中期以降、キリスト教信仰は平田神道に近づいた。
日本古来の霊性を研究し、これを基盤としてキリスト教を土着化させることを模索した。
それは事実上平田神道の回復であった。
1941年に結集した日本基督教団もキリスト教徒として皇国日本の戦争と大東亜共栄圏を支持した。
●柳田國男は平田篤胤の国学を、「空なる世界統一論者」と批判。
柳田は飢饉の時、山奥で炭焼きの男が二人の息子に殺してくれと言われ、夕陽が指す中自らの子二人の首を跳ねた事件に深い絶望をみた。
飢饉のせいではなく、人々が互いに孤立している、人と人との関係の貧しさにあると。
ここから脱するには「協同自助」しかない。
トマスモアの『ユートピア』で描かれた協同自助は、実は日本に実存していた。
それは例えば木曽山林の平田神道派の運動であり、宮崎県の山岳部の村であったり、加賀一向一揆であったりした。
柳田の活動は理論を批判しつつも平田派に近かったとも言える。
柳田は、「村々における神に対する固有の現実の信仰」を明らかにすることによって、真の神道を見出す必要があり、そのためには民俗学が不可欠だと言う。
明治維新後の神道の国教化は、それを推し進めた平田派だけでなく、神道系諸宗教も弾圧した。
国家神道を他の宗教と同じレベルに置くことが禁止された。
意外なことにこれは皇室にとっても問題であった。
明治天皇皇后や大正天皇皇后は日蓮宗に帰依しており、昭和天皇皇后も戦時中にキリスト教の講義を受け、昭和天皇もカトリック信仰に近づいた。
神社合祀政策によって、小さな神社が廃されて、神社は行政手段とみなされるようになった。
二十万あった神社のうち七万が取り壊された。
氏神とは先祖霊の集合体であり、神社合祀は氏神を殺すことに他ならない。
神社は巨大化するだろうが、そこで祀られるのは国家であって神ではない。
小さな村の氏神、先祖神にこそ神道がある。
それが柳田のいう「固有信仰」である。
人は死ぬと、御霊になり、子孫の供養を受けて、一定の時間が経つと一つの御霊に溶け込む。
それが氏神である。
祖霊は故郷の里をのぞむ山の高みから子孫の家を見守る。
そして、二つの世界の往復は自由であり、招かれれば共に食事をしたり交わったりする存在である。
祖霊はどこにでも行けるにもかかわらず、生者の元から離れない。
祖霊は子孫がどのように振る舞うかとは無関係に無条件にひたすら子孫を愛し見守っているということは重要な点だ。
実は、一神教であるイスラム教、ユダヤ教、キリスト教では祖霊信仰は退けられていると考えられがちであるが、固有信仰に類似した信仰が根付いている。