柄谷行人のレビュー一覧
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柄谷行人 「漱石論集成 」
漱石作品の批評集。
漱石小説において、他者との葛藤が提示され、他者との関係では解決できない自己の問題に転換され、自殺か宗教か狂気かで終わる〜漱石は表象、言語化できないものを言語化しようとした
従前の漱石論とは異なる視点
*漱石作品を「明暗」を頂点とする発展過程として読むべきでない
*初期と後期を区分しない〜漱石の文学観は変わらない
*則天去私の境地は単なる神話にすぎない
*漱石が三角関係を経験したか否かは関係ない〜漱石は あらゆる愛は三角関係にあると考えているだけ
*漱石は 近代小説に適応しなかった〜漱石は 小説より文(写生文)を書き続けた
漱石は何を見て、 -
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柄谷行人 「畏怖する人間 」
夏目漱石の存在論的な恐れ(内側から見た私)を抽出し、その系譜として 小林秀雄、吉本隆明、江藤淳らの思想的到達点をたどる構成。夏目漱石から吉本隆明への系譜はわかりやすかった。
意識と自然(漱石試論1)
漱石小説の二重構造を指摘し、漱石の存在論的な恐れ から漱石の内的世界を論じている
意識と自然とは
*意識=自分に始まり自分に終わる=自分=社会
*自然=当然あるべき世界〜社会の規範と背立する=存在しないもの
*自然と人間の関係〜人間は「自然」を抑圧し、無視して生きるが、それによって自らを荒廃させるほかない
漱石は人間の心理が見えすぎる自意識の持ち主だったた -
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柄谷行人 「世界共和国へ」 資本、ネーション、国家の原理を解明しつつ、資本=ネーション=国家 を超える道筋として、世界共和国を提示した本
著者の結論「各国が軍事的主権を国際連合に譲渡し、国際連合を強化、再編成する〜日本の憲法9条は軍事的主権を国際連合に譲渡したもの」 諸国家を上から封じ込めることによってのみ、分断を免れる
マルクス「資本論」
アンダーソン「想像の共同体」
チョムスキーの国家形態
により 資本、ネーション、国家の原理を解明し
カント「永遠平和のために」により世界共和国の必要性を提示している
名言「国家の自立性は戦争において示される〜戦争は長期的な戦略によって用意されたもの -
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本書と問題関心が共有される『世界史の構造』は、社会構成体の歴史を「交換様式」から見る企てであった。
互酬的=相互扶助的関係(交換様式A)を高次元で回復しようとする交換様式Dについて、著者は思索する。これまでそれは普遍宗教の形で現れてきた。しかし、それは祭司・神官の支配に帰してしまい、宗教は国家に回収されてしまう。それ以外に現れた事例を、著者はイオニアの政治と思想に見出し、その意味合いを本書で論じていく。
キーワードは、イソノミア(無支配)である。それは理念であると同時に、著者によれば、イオニアで実現したものであり、植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放 -
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「戦後思想のエッセンス」というシリーズを創刊するに当たり、第0号として、柄谷行人、見田宗介を取り上げたのが本書である。同シリーズは、一冊につき一人の戦後の思想家を取り上げて、後続の世代の書き手たちがその思想家について論じるというスタイルを取る予定だが、ここでは編者である大澤真幸が戦後思想の代表者としての二人にインタビューをする形を取っている。
インタビュー形式は、ことに聞き手が、対象の思考圏に嵌っていて(決して悪いことではない)、対抗的な異論を差し挟む余地が少ないときには、ことさら当たり障りのないものになりがちだ。至極、当たり前のことを言ったような気がするが、本書もそういった状況でのインタビ -
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批評家の柄谷行人(1941-)と浅田彰(1957-)により各種の媒体にて行われた対談六編。学生時代に別の書籍で読んだ対談もいくつか含まれているが、当時はカントもマルクスも未だあまり読んでいなかったので、そのときの理解は甚だ怪しい(今も決して十分に読めているわけではない)。先日読んだばかりのマルクス『経済学批判』の議論を思い返しながら本書を読むことで、却ってマルクスの議論について理解を深めることができた部分もある。
□ 《形而上学》批判
二人とも、一貫して「体系の《外部》を実体的に措定し、それを体系の内部に組み込んでおくことで成立している、当の体系」(例えば、疎外論、オリエンタリズム、「大き -
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世界史というわけではなく、著者がこれから行いたいこと、始めたいことについて依拠する考え方について述べられています。歴史を実験することができるのかから始まりますが、ここで実験というものについての定義付けを行われています。柳田国男と島崎藤村の比較を例に、その実験を示されています。第一部で柳田邦男を論ずるにあたっての前提知識として、第二部でその山人についての考え方を書かれています。これから著者が行おうとしている新たな試み、そのスタートライン、前提条件を著者と同様に持つことが本書でもテーマかと思われます。ここから、今までの世界へ向けていた目を、日本人とはに向けるものが書かれてくる期待感を感じることがで
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タイトルが思想的「地震」と書かれているのは、そして1995年からの講演を集めているのは、柄谷が生まれた神戸の地を襲った阪神大震災と無関係ではないだろうと考えてみる。
20年は長いようで短い。自分が柄谷を読むようになったのが、おそらく1990年頃であったので、これらの講演はそれ以降の話であり、中期の主著『探究I・II』がすでに出た後の話だ。それ以降も柄谷行人の足跡は多様で、講演の期間の中で変わっていく中でも変わらないものがあることがよくわかる。
ひとつは「他者」の問題であろう。特に『探究II』の頃より「他者」の存在と他者とのコミュニケーションについて傾注していた時期が確かにあった。そこではヴ -
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柄谷行人は『世界史の構造』を書くにあたって、色々と調べ上げたということだが、柳田国男の遊動論もその中のひとつであったという。それでも、なぜ、今となって柳田国男なのか。
その答えは、彼の交換様式論にとって、柳田国男の遊動民(ノマド)の理論が重要な位置づけを占めていたからであった。二種類の遊動民(その一つが有名な山人)をあり、それが理解の鍵でもあるとする。遊動民と交換様式論の関係について引用すると次の通りである。
「各種のノマド(遊動民)が、交換様式C(商品交換)の発展を担ったのある」そして、「遊牧民は、交換様式Cとともに、交換様式Bの発展を担ったということができる」
さらに「定住以前の遊動性 -
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柄谷行人は、自分が大学生の頃はいわゆるスタープレイヤーであった。彼の著作を読むことが一種のステータスでもあったように思う。もちろん一部では、ということだが。
本書は、その柄谷の憲法九条に関わる四つの講演を新書にまとめたものである。憲法改正が政治的なイシューになっている中で、それに対して反対であるという態度を明確にしているわけだが、現実へ与える影響は柄谷にはもうあまりないのではないかと思う。それでも、その理論的根拠を知りたいとは思うのだ。
まず第一に、憲法第九条が変えられなかったのは、日本人の無意識からきている。意識的なものであったのならとっくに変わっている、というのが柄谷さんの主張だ。「九条 -
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60年間憲法九条を廃棄してこなかった世論は、フロイトを引き合いに出して説明されます。「超自我は、死の欲動が攻撃性として外に向けられたのちに内に向かうことによって形成されるものです。現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。ゆえに、戦争が生じます。それなら、攻撃欲動はいかにして抑えられるでしょうか。フロイトがこのとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)だ、ということです。つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。(15頁
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資本=ネーション=国家の接合体から抜け出し、世界共和国への道筋を探るという、まさに壮大な論考。マルクスやカントの思想が登場するので、門外漢にとっては理解を超えている。しかし、人間と人間の関係を交換様式で分類するところから始めて、国家や商品交換の成立の歴史をたどるのは、人間社会のあり方とその歴史を理解するという意味でおもしろい。
人間と人間の関係としての交換様式は、4つに大別される(p21)。
A.互酬(贈与と返礼)
B.再分配(略取と再分配)
C.商品交換(貨幣と商品)
D.X(理念として存在)
国家は共同体の中からではなく、共同体が他の共同体を継続的に支配する形態として発生する。国家は、 -
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1960年から2011年までの日本の政治思想について柄谷氏とインタビュー形式で書かれた一冊。
お友達が柄谷氏を非常に高く評価されていたので、一度は読もうと、なるべく分かりやすい一冊を選んで読みました。
1960年代の安保の時代から始まる日本の政治やそれに対する市民の活動など、懐古しながら読み解き、60年代と70年代の活動の違いなどを読み解くには非常に分かりやすい解説がされている。
なぜデモが国民の集会や意思発信から消えていき、また2011年のあの震災から脱原発のなど自然発生的に始まった市民のデモが戻ってきたのかが大切な事だと解説され、そのデモがなければ本当の市民政治など日本に生まれないと話 -
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なんとなく20年くらいぶりじゃねえの。という感じで再読。
近代文学史を相対化するねらいがあったのに、近代文学史として読まれてしまった不幸がこの本にはあったと言われているけど、改めて読み返すと、近代文学に関する記述はかなり手薄で、ディコンストラクション以降の「現代思想」の概説的な記述にかなり割かれているという印象を持った。その意味では、時代の産物ではある。
「遠近法」というキータームは、柄谷先生の影響で人文系でかなり流行ったわけですが、これってかなりロジックをすっ飛ばした比喩なんじゃねえかな、という気もした。
とはいえ、ここ3、40年の人文科学の流れの中で、この本の果たした役割の大きさは間