柄谷行人のレビュー一覧
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世界史というわけではなく、著者がこれから行いたいこと、始めたいことについて依拠する考え方について述べられています。歴史を実験することができるのかから始まりますが、ここで実験というものについての定義付けを行われています。柳田国男と島崎藤村の比較を例に、その実験を示されています。第一部で柳田邦男を論ずるにあたっての前提知識として、第二部でその山人についての考え方を書かれています。これから著者が行おうとしている新たな試み、そのスタートライン、前提条件を著者と同様に持つことが本書でもテーマかと思われます。ここから、今までの世界へ向けていた目を、日本人とはに向けるものが書かれてくる期待感を感じることがで
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タイトルが思想的「地震」と書かれているのは、そして1995年からの講演を集めているのは、柄谷が生まれた神戸の地を襲った阪神大震災と無関係ではないだろうと考えてみる。
20年は長いようで短い。自分が柄谷を読むようになったのが、おそらく1990年頃であったので、これらの講演はそれ以降の話であり、中期の主著『探究I・II』がすでに出た後の話だ。それ以降も柄谷行人の足跡は多様で、講演の期間の中で変わっていく中でも変わらないものがあることがよくわかる。
ひとつは「他者」の問題であろう。特に『探究II』の頃より「他者」の存在と他者とのコミュニケーションについて傾注していた時期が確かにあった。そこではヴ -
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柄谷行人は『世界史の構造』を書くにあたって、色々と調べ上げたということだが、柳田国男の遊動論もその中のひとつであったという。それでも、なぜ、今となって柳田国男なのか。
その答えは、彼の交換様式論にとって、柳田国男の遊動民(ノマド)の理論が重要な位置づけを占めていたからであった。二種類の遊動民(その一つが有名な山人)をあり、それが理解の鍵でもあるとする。遊動民と交換様式論の関係について引用すると次の通りである。
「各種のノマド(遊動民)が、交換様式C(商品交換)の発展を担ったのある」そして、「遊牧民は、交換様式Cとともに、交換様式Bの発展を担ったということができる」
さらに「定住以前の遊動性 -
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柄谷行人は、自分が大学生の頃はいわゆるスタープレイヤーであった。彼の著作を読むことが一種のステータスでもあったように思う。もちろん一部では、ということだが。
本書は、その柄谷の憲法九条に関わる四つの講演を新書にまとめたものである。憲法改正が政治的なイシューになっている中で、それに対して反対であるという態度を明確にしているわけだが、現実へ与える影響は柄谷にはもうあまりないのではないかと思う。それでも、その理論的根拠を知りたいとは思うのだ。
まず第一に、憲法第九条が変えられなかったのは、日本人の無意識からきている。意識的なものであったのならとっくに変わっている、というのが柄谷さんの主張だ。「九条 -
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60年間憲法九条を廃棄してこなかった世論は、フロイトを引き合いに出して説明されます。「超自我は、死の欲動が攻撃性として外に向けられたのちに内に向かうことによって形成されるものです。現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。ゆえに、戦争が生じます。それなら、攻撃欲動はいかにして抑えられるでしょうか。フロイトがこのとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)だ、ということです。つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。(15頁
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資本=ネーション=国家の接合体から抜け出し、世界共和国への道筋を探るという、まさに壮大な論考。マルクスやカントの思想が登場するので、門外漢にとっては理解を超えている。しかし、人間と人間の関係を交換様式で分類するところから始めて、国家や商品交換の成立の歴史をたどるのは、人間社会のあり方とその歴史を理解するという意味でおもしろい。
人間と人間の関係としての交換様式は、4つに大別される(p21)。
A.互酬(贈与と返礼)
B.再分配(略取と再分配)
C.商品交換(貨幣と商品)
D.X(理念として存在)
国家は共同体の中からではなく、共同体が他の共同体を継続的に支配する形態として発生する。国家は、 -
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1960年から2011年までの日本の政治思想について柄谷氏とインタビュー形式で書かれた一冊。
お友達が柄谷氏を非常に高く評価されていたので、一度は読もうと、なるべく分かりやすい一冊を選んで読みました。
1960年代の安保の時代から始まる日本の政治やそれに対する市民の活動など、懐古しながら読み解き、60年代と70年代の活動の違いなどを読み解くには非常に分かりやすい解説がされている。
なぜデモが国民の集会や意思発信から消えていき、また2011年のあの震災から脱原発のなど自然発生的に始まった市民のデモが戻ってきたのかが大切な事だと解説され、そのデモがなければ本当の市民政治など日本に生まれないと話 -
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なんとなく20年くらいぶりじゃねえの。という感じで再読。
近代文学史を相対化するねらいがあったのに、近代文学史として読まれてしまった不幸がこの本にはあったと言われているけど、改めて読み返すと、近代文学に関する記述はかなり手薄で、ディコンストラクション以降の「現代思想」の概説的な記述にかなり割かれているという印象を持った。その意味では、時代の産物ではある。
「遠近法」というキータームは、柄谷先生の影響で人文系でかなり流行ったわけですが、これってかなりロジックをすっ飛ばした比喩なんじゃねえかな、という気もした。
とはいえ、ここ3、40年の人文科学の流れの中で、この本の果たした役割の大きさは間 -
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柄谷さん初めて読みました。エッセイや講演集なので奥行きはそれなりなんですが、ラディカルな話がたくさんあった。
・言語と国家(ネーションについて)
・日本精神分析(芥川や言語を題材に、ナショナリズムや対外性について)
・入れ札と籤引き(菊池寛の作品から、選挙制度について)
・市民通貨の小さな王国(谷崎潤一郎の小さな王国から、資本と経済の在り方について)
の四章。
心に残ったのは
カナや文字は外来だし、今もそう認識されているが、ヨーロッパなどはキリスト教は外来でも自国のものとして染まっている。
日本は借り物で構成されているのではなく、他国の文化に去勢されるのを拒否してきた。
現在の選 -
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この本を読んで思ったこと
共同体と国家の関係は太陽と北風
この本は民衆すべての対等な暮らしを目指した共和国を
模索しているが
社会の成立を物質性だけでとらえているようだ
つまり対立で成り立つバランス性だけを意識して
混乱と不安な世の中を解決しようといているらしい
最も基本である相互信頼から起こる一体感によりハーモニー性を
考慮していないようにみえる
そのためだろうか共生社会の可能性を具体的に示してくれている
宗教は人々に自律ではなく依存心を植え付けてきたわけだし
国家的なシステムと支え合って今現在も民衆を翻弄している
自律することで裏打ちされた自由と対等な互助性を摘 -
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ネットワークの世界がソーシャル化されていくことで、国家、資本に対してどういう位置づけ・価値付けを行い、そして立ち向かうのか、ということを考えてみたくて読んでみるのだけれど、柄谷行人は、そこには言及しない。
インターネットを知らないわけではないだろうし、その人類史的な動きに気づいていないはずもないだろうに、ネットワーク化された世界について具体的な指摘がないとは、どういうことだろう?
マルクスやらカントやらプルードンやら、過去の積み上げや歴史的洞察については、僕なんていう者があれこれ批評するのもおこがましいくらいの突出した内容だが、なんだか過去からの積み上げ(のまとめ)だけに終始されたような読後感