柄谷行人のレビュー一覧
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産業資本の本質はあくまで、「労働力の商品化」にある(本書p.319)
ここにはカールポランニーの悪魔の碾き臼をさらにわかりやすくしている。土地、資本、労働力(労働ではない)の商品化のうち、土地や資本の商品化は昔からあったが労働力の商品化によって全面的な商品化が可能となる。万物の商品化とウォーラーステインの指摘とも一致する。
「そして信用とは商品交換の困難をとりあえず超える手段」(p319)
信用創造という機能を銀行が持つこと、それは誰かの借金でなければならないこと。
信用は儚いものである、誰かの借金と誰かの返済能力は労働力商品の評価という会計的に非常に困難な人的価値の評価を含んでいるからだ。価値の評価は難しい。
また恐慌は資本主義の発展に必要だから起こる暴力的な現象で、失敗というより必然であり、必然的に中小の資本家や労働者は淘汰される。320〜321
景気循環をもたらすのは労働力商品に固有の性格。 -
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2016年度、H大学にいたときに受けた授業のテキストだった。先生は柄谷行人の弟子だったらしく、ゴシップ満載だった。もっとも哲学科の専門科目ではなく、私含めて学生は哲学の知識がなかったから、中身を読み進めるのではなく序文の最初の30ページくらいをいったりきたりしつつ哲学史を総ざらいしていた。通年で30回の講義で、シラバスは全部読み切る予定で書いてあったのだが… のちに一応なんとか通読して、『世界史の構造』も読んだのだが、さっぱりだった。しかし、哲学とか思想の世界にグワーッと惹き込まれた、講義とともに思い出深い1冊。
まあ、各々の議論が学問的にOKなのかどうかは全然わからないのだが、知識をつけつつ折に触れて見返したい。 -
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某国公立大の現代文の入試問題で引用されていたのが記憶にあった。
五十歩百歩の中にも、五十歩の差異は「絶対」としてある。
我々は絶対的視点から罪人であることに置いて同等であり、そこに相対的な見方は意味を成さないが、「ドングリの背くらべ」の小さな差異はやはり厳然としてあるということか。
人間の中にある根源的な罪や悪について考えさせられる。
自由とは何か。
ただ他者の欲望を自分の欲望とした自由は自由ではありえない。
私たちの考える自由は本当に自由かといえば他律的な自由でしかない。
責任とは何かという問題。
子の犯罪の責任は親にあるのか。世間は自分に利害がないのに責任を取って死ねと暗黙的に圧力をかける。
また原因の問題。
人が罪を犯すとき、確かに環境などの原因が背景にあるがそれは無限にある。
しかしその人の罪は許され責任がなくなるかといえばそういうことではない。
罪がないといえば、彼は自由な主体としての尊厳を失う。
同じ環境や生まれでも、犯罪者になる人間もいれば、成功者になる人間もいる。 -
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文体というものにさほど注目してこなかった自分にとって、たとえば言文一致のような仕組みが私たちの文化に影響を与えてきたという指摘には軽い衝撃を受けた。「言葉の書き方など本質には関係ない」というようなナイーヴな主張はもともともっていなかったし、むしろ文体が内容を決定づけるところがあるという程度のことは思っていたが、それでも、である。
著者があとがきで示しているように、この本は決して文学史の本ではない。文学という素材を使いながら、その時代の思想の特異性を明らかにしようとしているのが本書である。ここで文学が用いられているのは、文章の変化がもっとも速く、バラエティに富むという性質に由来しているに過ぎないのだろう。
また、あとがきを読んで、僕もあずまんよろしく「批評家」になってみたいなと喚起させられるところがあった。今はこの本が書かれた当初に比べ、ポストモダン的思想もだいぶ落ち着いて(というか浸透して)いるだろうけれども、それでもこの本の持つ魅力はまだまだ衰えてはいないように思う。
それにしても翻訳が英語、ドイツ語、中国語、韓国語であるのはすごいな。こういう本を書けるようになりたひ。 -
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60年代の安保闘争に参加し、現在は脱原発のデモに参加する柄谷行人。本作は、インタビュー形式で、柄谷氏の思想と実践を紐解きつつ、日本のあるべき姿を考えている。
日本が専制国家である理由とは。
国民が主権者であるといっても、どこにも明確な個人は存在しない。正体不明の視聴率と支持率があるだけだ。与えられた候補者、政党から選ぶことは、本当に政治的な参加と言えるのか?モンテスキューは、代議制とは、貴族制ないし寡頭制だという。そして民主主義の本質は、くじ引きにある、と。つまり行政における実際上の権利において平等であるということだ。
そして、個人が主権をもった主体として存在するためには、直接行動、すなわちデモのようなかたちでのみ実現される。
この数が数万人から数百万人と規模が多くなり、長い闘争の後、新しい社会状況をもたらす。
なるほど。選挙権=くじ引きする機会、という意味では、平等であり、これこそが民主主義ということ。ただし、当たりとハズレがあることは承知の上で、と。
どこかの誰かが選挙で当選した事実を盾に、国民の意見を代弁しているかのような語り口に、近ごろ食傷気味な感情を、スッキリさせてくれた。
足尾銅山鉱毒問題の民衆による抵抗運動が20数年続いたことを考えれば、脱原発に対する行動は、さらに長く険しい戦いになるのだろうか。 -
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ネタバレ「トランスクリティーク」と、「世界史の構造」の概念を分かりやすくまとめられた一冊。
ネーション→国家→資本と生まれ、それが互いに連関し合っている状態。資本主義がどのように生まれて発達していったかを、前半にて解説されています。そして資本主義に発生する問題より(不平等的なものかと私は感じました)脱出するためにアソシエーションという運動(社会主義など)が発生。
その発生したものの代表として、マルクス(社会主義)とカント(国際連合)を出し、どちらも問題を起こしたし、起こすだろうし、正しく導くための考察を最後に問題提起されています。
現代史というものを、もっと真剣に見る必要を感じ、目を覚まされた本でした。 -
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帯の通り「柄谷行人入門として最適な一冊」。
語り起こしなので、読む上での難易度が低い。
「反原発」。それだけを心情として決定してはいても、理的なよりどころのない自分には、骨を通してくれる一冊だった。
日本はなぜ原発を持つのか。
原子力の平和的利用、石油が枯渇する危機感、炭酸ガスによる温暖化……。
その理由が次々と変わってきた一連のあり方が、ブッシュ政権時のイラク戦争と同じであることを指摘したのち、
「真の動機は核兵器を作ることにあると思います」
と語っている。
また自然エネルギーへの転化、という「脱原発」側のお題目についても柄谷は手厳しい。
「……まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものを作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろその論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです」
原発を止めることは、無限に拡大する消費の欲を止めることと同義であること。漠然と気づいてはいたことに、言葉を与えてくれたように思う。
本書の主題は「思想」だから原発自体が主題になる部分は多くない。現在の「新自由主義」の時代が実は「自由主義」のではなく「帝国主義」の再来であると説くなど、近代の思想を語ることに主眼が置かれている。
が、「反原発」を貫こうとすれば、おのずと直面するこの国と世界の民主主義の状況が丁寧に描かれているから、自分の考えを補強するのに大いに役立つだろう。
橋下大阪市長が「自分は選挙によって付託されたのだから、自分の方針はすなわち市民の考えでもある」と事もなげに言うような不安定な現在。
原発事故後50年ぶりにデモに参加したという柄谷は、
「代議制とは、代表者を選ぶ寡頭制です。それは民衆が参加するデモクラシーではありません」
と語り、
「デモクラシーは、議会ではなく、議会の外の政治活動、たとえば、デモのようなかたちのみで実現されると思います」
と説く。
わかってはいたことだが、原発を止めるにせよ、政治の右傾化を阻むにせよ、結局誰でもない自分がデモクラシーに主体的に関わり続けるしかない。 -
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ネタバレ本書は、端的に言えば、著者である柄谷行人が目指そうとしている「世界共和国」という在り方への道標を、丁寧なテクスト読解を通じて示したものである。世界共和国は、哲学者のイマヌエル・カントによる永遠平和の理念に基づいている(cf. イマヌエル・カント「永遠平和のために」)。つまり、世界共和国というのは、今の「国家」(著者の言葉でより厳密に言えば、「資本=ネーション=ステート」)という体制が抱えている問題を乗り越え、人類の永遠平和を目指すために考えられた体制なのだと言っていいだろう。
世界的な永遠平和は、「国家」間の敵対状態を解消しなければありえない。柄谷によれば、カントの理念を突き詰めていくと、究極的には各国が主権を放棄することで形成される「世界共和国」という枠組みに行き着く(cf. 柄谷行人『世界共和国へ』222ページ)。世界共和国は、一国のみが「国家」を捨て去るという形では成立できず、世界的かつ同時に改革を行わなければ成立しえない。そして、世界共和国の成立の鍵となるのが、後の方で述べる「交換」と「アソシエーション」である。
ところで、本書では、「世界共和国は達成可能だ」という断言はしていない。しかし、世界共和国を達成するための考え方を提示し、道標を示すことで、達成のために必要となる思考の土台を固めようと試みている。そして、土台固めの要として、本書では2人の思想家が大きく取り上げられている。1人は、先に挙げたイマヌエル・カントであり、もう1人は、資本主義の矛盾や問題点を鋭く突いたことで知られるカール・マルクスである。
■カントの著作の読解を通して
柄谷によるカントの著作の読解で、私が重要だと感じたのは、「普遍性」について触れている部分である。やや長くなるが、該当の箇所を引用しよう。「カントが『普遍性』を求めたとき、不可避的に、『他者』を導入しなければならなかったこと、その他者は共同主観性や共通感覚において私と同一化できるような相手ではないということである。それは超越的な他者(神)ではなくて、超越論的な他者である。そのような他者は『相対主義』をもたらすのではなく、それのみが普遍性を可能にするのだ」(80ページ)。引用した文章の中にある「超越論的な」というのは、徹底的な自己吟味のことである(75ページ)。私の理解の範囲内で説明すると、自己吟味というのは、自分自身の思考や行動などを批判的に見つめ直すことであるが、ただ主観的に見つめ直すだけではなく、他人からの視点も含んだ上で見つめ直すことをいう。
ここまでのことを私なりに言い直すと、次のように言えると思う。つまり、「普遍性」というものを述べるためには、ただ主観的に反省するだけのものではなく、他人からの視点も含んだ上での反省を促すような「他者」が必要である、と。
ところで、柄谷がカントを参照して述べるところによると、「普遍性」は「一般性」と区別されるものであるという(147、150、154ページ)。「一般性」は「個別性」と対になるものであり、これらは経験的なものである。一方、「普遍性」は「単独性」と対になるものであり、これらは超越論的である。そして、カントの思考の中において、「普遍性」というのは――同じ時間を生きる他者というよりはむしろ――未来の他者を前提にしている(147、187ページ)。そういう意味では、「普遍性」というのは歴史的なものである。
世界共和国の成立のためには、各人が他人を手段としてのみならず同時に目的として扱うような経済システムが実現される必要があると述べられている(192ページ)。世界共和国の背景にあるカントの理念は、道徳的な次元に留まらず、政治的、経済的なものとして、歴史的に実現されるべき理念を孕まずにはいられないのだという。ここから柄谷は、マルクスの著作の読解へと移っていく。
■マルクスの著作の読解を通して
ここで、最初のキーワードである「交換」が登場する。
マルクスは宗教研究を経て経済研究へと移行した人なのだが、彼は経済活動の中にも宗教的な部分があることを見出していた。「広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべての人間の行為を『経済的なもの』として考えることができる」(280ページ)。「貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである」(ibid.)。
ところで、マルクスの主著であり、彼が資本主義の矛盾や問題点を鋭く突いた本である『資本論』は、経済学の書であるが、柄谷はこの書にマルクスの哲学や革命論をも読み取る(ibid.)。ただし、柄谷は『資本論』を、マルクスの最終的な立場を表すものとしては見なしていない(243ページ)。柄谷がそう述べるのは、この書が断片的で未完成であることもあるのだが、マルクスが支配的な言説に対して自身の思考の「移動」と「展開」を繰り返しながら批判を行ってきたのであり、それが重要なのだと見なしているためである。
『資本論』が、マルクスのそれ以前の著作と異なる点は、価値形態論が出現することにある(292ページ)。これは、「貨幣」(cf. 282-283ページ)による交換、あるいは「交換の形態」と「価値」の結びつきを系譜学的にたどったものである。マルクスはここで4つの形態を挙げている。すなわち、1. 単純な価値形態(294-296ページ)、2. 拡大された価値形態(296ページ)、3. 一般的な価値形態(296-297ページ)、4. 貨幣形態(297-299ページ)、である。そして、これらの形式は、「1.」から「4.」へと発展していくものとして考えられた。それぞれの内容についての説明は省略するが、これらの形態を見ることで、柄谷は、マルクスが「物を貨幣たらしめる形式、あるいは、物を商品たらしめる形式」(303ページ)を発見したことを指摘する。マルクスが『資本論』で「価値形態」を導入したことは、「物」ではなく、「物が置かれる関係の場」を優位に置くことなのである(304ページ)。
ところで柄谷は、経済人類学者のカール・ポランニーが主著『大転換』において、市場経済以前の交換では贈与の互酬性と再分配が主要であったと述べている点について触れている。しかし、「『再分配』は本来強奪の一形態であり、継続的に強奪するためになされる」(308ページ)。一方で柄谷は、贈与の強制力についても触れている。「強奪は強制的であるが、贈与の互酬性にも別の強制力を強いる。この強制力は、(中略)心理的な債務感情である」(ibid.)。
ここで、もう1つのキーワードである「アソシエーション」が登場する。
マルクスやポランニーなどの読解から、柄谷は、3つの交換形態(贈与の互酬性、収奪と再分配、貨幣による商品交換)を見出してきたが、彼はさらにここから、「アソシエーション」と呼ばれる交換形態を見出す。「アソシエーション」とは、「国家や資本と違って非搾取的であり、また、農業共同体と違って、その互酬性は、自発的であり且つ非排他的(開放的)である」(310ページ)というものであり、それまでに挙げられた交換形態と異なった原理に基づく。
交換形態の類型を、近代の枠組みにあてはめると、資本制市場経済(貨幣による商品交換)、国家(収奪と再分配)、ネーション(贈与の互酬性)、アソシエーション、となる(415ページ)。資本制市場経済は、放っておくと必ず経済的格差を引き起こして対立に帰結する。ネーションは平等性を志向するため、格差の解決を要求する。国家は格差解決の要求を、規制や税の再配分によって実現する(柄谷行人『世界共和国へ』)。ところで、政治学者のベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートとは、本来異質なものであるネーションとステート(国家)の「結婚」であったと述べているが、柄谷はさらに踏み込んで、(やはり異質なもの同士である)国家と資本の「結婚」についても触れている(417ページ)。そして、ブルジョア革命によって、資本、国家、ネーションは、互いに切り離せないものとなった。柄谷が、近代国家は「資本=ネーション=ステート」と呼ばれるべきであると述べているのは、それゆえである(31-32ページ)。
現在の経済活動は、国家内で完結するシステムではなく、国家間の繋がりの中で営まれている。ゆえに、資本と国家の問題を越えるためには(そしてアソシエーションを成立させるためには)、トランスナショナルな改革、つまり、世界的かつ同時に改革が行われる必要がある。
では、どのようにしてアソシエーション成立のための道筋を導くのか。柄谷は、通貨と商品のやりとりを「交換」という大きな視点から考察することを通じて、「資本に転化しないような代替通貨、そしてそれにもとづく支払い決済システムや資金調達システムが不可欠である」(442ページ)という具体的な提案をする。代替通貨を考える際に、柄谷は、マイケル・リントンが1982年に考案したLETS(Local Exchange Trading System: 地域交換取引制度)を紹介している(445ページ。LETSの詳細については500ページを参照)。また、アソシエーションの「中心」に中央評議会を置き、代表選出の際は(古代ギリシャで行われていたような)くじ引きを導入することをも併せて提案している。
■アソシエーションの達成への課題
アソシエーションを達成するにおいて、私の中にひとつの疑問が湧いた。アソシエーション実現のためには、個々人が自身の行動に対して責任を持つことを強く自覚しなければならないだろう。なぜならば、アソシエーションは個々人の主体性に基づくものであるからだ。それでは、個々人が主体的に行動を起こすためには、個々人がどのような動機づけを行えばよいのだろうか――これが、私の感じた疑問である。
経済活動のみならず、政治的な行動も含め、社会にコミットするための行動を起こそうとする意思は、個人差がどうしても生じてしまうだろう。このことは、教育によってある程度その差を縮めることはできるかもしれないが、個々人が育つ環境というのがそれぞれに異なる以上、行動意思の強い者もいれば弱い者もいるという状況が出てきてしまうことは避けられない。
私は、「本当に賢い人はそうそういない(と同時に、本当にバカな人もそうそういない)」という考えを持っているせいか、アソシエーションを執り行う際には、個々人が主体的な行動を起こせるような「アーキテクチャ」(cf. Lessig『Code 2.0』Chap. 7)を構築しなければ実現は難しいのではないかと考えてしまう。ただし、アーキテクチャは、構築がなされる際に、権力の制御を誰がどのように行うのかが問題となるため、非搾取性の実現を目指すアソシエーションとの相性はどうなのかが未知数であるように思われる。とはいえ、今までアソシエーションは国家に匹敵するレベルでは成立したことがない、つまり「やってみなければわからない」という状況であるのだから、「未知数」であるのは当たり前ではあるのだが。
先にも書いたように、アソシエーションはまだどこにおいても達成されていない。また、本書は世界共和国の成立に向けての「萌芽」でしかないことを著者自身が認めているように、本書で述べられてきたことはまだ議論の発展の余地がある。しかし、私は本書を読むことを通じて多くの刺激を得ることができたし、本書の続編として位置づけられている『世界史の構造』を読む際に、どのように議論が発展したのかを追うことができる地点にようやく立つことができた。一方で、私は本書の濃密な記述を完全に理解できたとは思っていない。ゆえに、機会を改めて、いずれまた本書の再読をしたいと思う。 -
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ネタバレ東浩紀が『思想地図β』にて、文学は村上春樹などによって更新されたが、批評は柄谷行人『日本近代文学の起源』で更新が止まっている、と書いていた。随分と刺激的な暴言だ。柄谷行人にはその後『トランスクリティーク―カントとマルクス』、『世界史の構造』などの著書があるが、マルクス主義化した後の政治的思想家柄谷行人の仕事は、ばっさりと切り捨てられていることになる。政治を語ることに意味を見出していないオタク思想家東浩紀なりのはったりだが、僕も東の意見に賛成で、『日本近代文学の起源』の頃の柄谷の方が、政治化した後の柄谷より好ましい。というわけで『定本 日本近代文学の起源』。
日本近代文学は、ヨーロッパの近代文学の歴史を模倣して、発展していった。しかし、夏目漱石は、日本の近代文学が、ヨーロッパの近代文学と同じように発展していく必然はないとする。漱石は当時のリアリズムの作家よりも、フィールディングなど近代イギリス文学が明確に起立する前の作家を好んだという。
例えば、ロシア文学における近代主義は、ツルゲーネフの文体である。二葉亭四迷は、現代口語体の発見者として、日本近代文学史にその名を刻まれているが、柄谷によれば、二葉亭四迷は、ツルゲーネフの翻訳者として、同時代の作家に影響を与えたという。二葉亭が翻訳したツルゲーネフの近代的な文体から影響を受けて、同時代の作家は日本近代文学を構築していった。
ロシアに近代文学をもたらしたのはツルゲーネフだが、ロシア文学にはゴーゴリ的な文体の伝統もある。ほら話、ロシア特有の悲しみ、寓話、こうした近代文学におさまりきらないゴーゴリ的な文学の素養を、ドストエフスキーは継承したという。
近代文学に特徴的な記述方法とは、ルネッサンス近代絵画に見られる遠近法と関係する。遠近法の見方で世界を観察すると、風景が生まれる。遠近法があったからこそ、近代文学に風景が描写される。さらに遠近法で風景が描写されると、個人の内面も発見される。客観的に世界を観察するまなざしは、自分自身の心をも遠くから、冷静に観察し始める。遠近法があったからこそ、個人の内面が発見されたという逆説。
近代文学は風景を描写し、個人の内面を描写してきたわけだが、柄谷が『日本近代文学の起源』を書いていた当時からして、近代文学の語法は破綻し始めていた。現代はさらに破綻が加速している。ケータイ小説では、風景が描写されない。ネットでは個人の内面を赤裸々に吐露することは、ポエム始まった、メンヘラーだとして嘲笑の対象になる。何故ネット社会では、風景も内面も不要になったのか。風景の文章化を待つまでもなく、写真画像や動画ファイルでより濃密に風景を体験できる。内面描写は何故嫌われるのか。ネットは、一つの社会である。たくさんの情報が集積する。読者に役立つ肯定的情報こそ、ネットでは評価される。ネガティブな情報は、そういう意見もあるだろうねと見られがちだ。
ネットの普及で、価値観が多様化した。一つの事実を前にして、肯定的に評価する人もいれば、否定的に評価する人もいるということが、明白になった。小難しい小説や評論なんて、実は大勢の読者が望んでいないこともまたはっきりした。評価が集積している情報が、ネットでは評価される。日本近代文学は、ネットの時代に足場を失う。しかし、新しい形の文学はどんどんネットで生まれている。『うみねこのなく頃に』など、今までのものさしでは評価できない新しい文学たち。東浩紀による『ゲーム的リアリズムの誕生』などの仕事は、『日本近代文学の起源』を更新しただろうか。 -
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今年のベスト候補だな、こりゃ。すんげー分かりやすい。だけど、これって真面目に勉強している学生にとって大部分は普通に知っていることだったりして。一応、資本主義の自由と国家社会主義や共産主義の平等の両立を目指すアソシエーショニズムについて書いた本。mixiで長く書いたから説明は以上で終わり。思想的にはマルクス(実践で失敗)とカントが正解らしい。んで、9条護持と。他のいろんな人の考えがどうダメか、っていうのを順に説明していくのが面白い。分かりやすい。あんまり引っかかる部分がなかったんだけど、無学な俺はこれを鵜呑みにしていいかどうかが分からん。ただ理想でそこに目標を持つべきってのは分かるんだけど、日本の国益追求のほうがそれが身勝手でも、俺にとって支持したい姿勢になるということはありうると思うんだが。