作品一覧

  • 柄谷行人ディスカッション

    柄谷行人ディスカッション

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻3,740円 (税込)
    ・「戦後文学」は鎖国の中でつくられた:青野聰・坂本龍一・中上健次と(1985年) ・〈分裂病〉をめぐって:木村敏、中井久夫、市川浩と(1988年) ・〈近代の超克〉をめぐって:廣松渉、浅田彰、市川浩と(1989年)  ・芸術の理念と〈日本〉:磯崎新、岡﨑乾二郎、浅田彰と(1993年)  ・中上健次をめぐって 双系性とエクリチュール:蓮實重彦、渡部直己、浅田彰と(1993年) ・〈戦前〉の思考 1930年代的状況と現在:小林康夫、絓秀実、西谷修、福田和也、山城むつみ、浅田彰と(1994年) ・日本文化とジェンダー 〈家父長制〉とその批判から始めて:水田宗子、上野千鶴子、浅田彰と(1994年) ・ハイパーメディア社会における自己・視線・暴力:浅田彰、大澤真幸、黒崎政男と(1995年) ・ 冷戦終結後の政治と文学 スーザン・ソンタグとの対話:スーザン・ソンタグ、浅田彰と(1995年) ・現状に切り込むための「足場」を再構築せよ 理念、社会、共同体:山口二郎、中島岳志と(2008年)
  • 定本 力と交換様式

    定本 力と交換様式

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻2,068円 (税込)
    「交換」から生じる目に見えない謎の「力」――.物理的ではない観念的,霊的なこの「力」によって人間と社会は知らない間に動かされている.資本主義の物神と国家という怪物がもたらす危機の克服には交換様式の転換が必要である.世界史の構造を規定する力を交換様式で読み解き,二一世紀に『資本論』を継ぐ,未来への書.

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  • 私の謎 柄谷行人回想録

    私の謎 柄谷行人回想録

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻2,530円 (税込)
    「私の謎」は「人類の謎」につながる――左翼だった父、戦後文学者たちとの出会い、くじ引きで決まったアメリカ滞在、建築から哲学までに至る世界的知識人との交流、ある日突然「やってきた」交換様式論……現代日本の批評・思想を代表する哲学者の人生を彩るさまざまな出来事を振り返る。 メモワールにして柄谷思想への最良の入門書。朝日新聞好評連載を大幅増補のうえ書籍化! 「このインタビューを読み返すと、驚きと感慨を禁じ得ない。自分がこれまでたどってきた道が、偶然の連続であったことに思いいたるからである。そのなかにいるときには気づかなかったが、振り返ってみたとき、人生を決めるのは偶然であるとすら思えてくる。 私は、小学校に入ってから二年間、教室で口をきかなかった。そのような引っ込み思案な人間が、偶然の出会いが重なるなかで、自然と、日本のみならず外国でまで、著作を発表したり教えたりするようになっていったのだ。それは、努力したり目指したりして、実現したことではなかった。いわば、「向こうから来た」ことだった。」(あとがきより)
  • 帝国の構造 中心・周辺・亜周辺

    帝国の構造 中心・周辺・亜周辺

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻1,837円 (税込)
    『世界史の構造』では十分に書ききれなかった「帝国」の問題を,従来の歴史観とは全く異なる「交換様式」の観点から解き明かす.近代国家にはない要素を持っていた旧帝国のはらむ可能性を再検討する,柄谷国家論の集大成.ウクライナ戦争の問題を考察するにも必読.巻末に佐藤優氏との対談「柄谷国家論を検討する」を併載.

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  • 定本 柄谷行人文学論集

    定本 柄谷行人文学論集

    小説・文芸

    -
    1巻3,520円 (税込)
    60年代末に文芸批評家としてデビューした著者の今日にいたるまでの全文学評論から,著者自身が精選改稿した12篇を収録.さらに各作品を解説する序文をあらたに付した.修士論文のダレル論から,近代文学の終りを見据えた漱石論まで,著者の文学的営為の全体像が一望のもとに.思想家柄谷行人の原点を知るための決定版.

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  • 柄谷行人の初期思想

    柄谷行人の初期思想

    ビジネス・実用

    -
    1巻2,310円 (税込)
    【本書は『柄谷行人初期論文集』、のち『思想はいかに可能か』として刊行された単行本の文庫化です】 2022年に「哲学のノーベル賞」と呼ばれるバーグルエン哲学・文化賞をアジア人として初めて受賞した柄谷行人が、1969年の群像新人文学賞評論部門当選作「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」以前に書いた「思想はいかに可能か」(東大新聞五月祭賞佳作)「新しい哲学」(同)や、群像新人賞当選作を読んだ「ユリイカ」編集長三浦雅士の依頼によって書かれた「サドの自然概念に関するノート」など、1966年から72年にかけて発表された7編からなる初期論文集。 著者によれば「遠い過去でありすぎ」また「幼稚な考え方や言葉使いが多くて閉口」しつつも「近年において自分が考えていることに近いところが少なからずあって、驚きもした」テクストである。 すでに思想家柄谷行人の思考の基本的構造が現れていたという意味において、本書を味読することは、最新刊『力と交換様式』読解にも役立つであろう。
  • 新版 漱石論集成

    新版 漱石論集成

    小説・文芸

    4.3
    1巻1,694円 (税込)
    「マルクスを読むように漱石を読んできた」と自ら語るように,漱石はつねに柄谷行人の思考の原点であり続けてきた.群像新人文学賞を受賞した代表作「意識と自然」(1969年)から90年代に至るまでの著者の漱石に関する評論,講演録,エッセイ等を集め,その思考の軌跡をたどる.多面的な切り口からせまる,漱石論の決定版.

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  • 定本 日本近代文学の起源

    定本 日本近代文学の起源

    小説・文芸

    4.2
    1巻1,760円 (税込)
    明治20年代文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置それ自体を豊かな構想力で再吟味した論考.文学が成立して思考の枠組みになる過程を精神史として描いた.「西洋の文学批評に根源的な衝撃を与えるだろう」(F.ジェイムソン)と評価された古典的名著を全面的に改稿した決定版.

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  • トランスクリティーク カントとマルクス

    トランスクリティーク カントとマルクス

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻2,002円 (税込)
    カントによってマルクスを読み,マルクスによってカントを読む.社会主義の倫理的根源を明らかにし,来るべき社会への実践を構想する本書は,絶えざる「移動」による視差の獲得とそこからなされる批評作業(トランスクリティーク)の見事な実践であり,各界に大きな衝撃を与えた.2003年英語版に基づき改訂.

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  • 柄谷行人対話篇1 1970-83

    柄谷行人対話篇

    ビジネス・実用

    3.0
    1~3巻2,200~2,640円 (税込)
    1969年に「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」が第12回群像新人文学賞評論部門当選作となり、文芸評論家としての執筆活動をスタートした柄谷行人氏は様々な相手と刺戟的な対話をおこなってきた。本書ではこのうち気鋭の文芸評論家として活躍していた1970年から『探究』連載開始前年の1983年になされた7篇を精選。現在は思想家としての執筆・発言が主な活動となっている柄谷氏が当時どのような知識人に関心を抱き、どのように語ってきたかあらためて知ることは、現代の社会を行きていくうえでも重要な道標となるであろう。柄谷ファンに限らず、知的刺戟を求める読者必読の書。 第一弾は、吉本隆明、中村雄二郎、安岡章太郎、寺山修司、丸山圭三郎、森敦、中沢新一。
  • 哲学の起源

    哲学の起源

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,452円 (税込)
    デモクラシーの理想とされるアテネの直接民主制は,実は自由ゆえに平等であった古代イオニアのイソノミア(無支配)再建の企てであった.イオニアの自然哲学をイソノミアの記憶を保持するものとして読み解き,アテネ中心のデモクラシー神話を解体する.『世界史の構造』を経て,社会構成体の歴史の起源を刷新する野心的試み.

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  • 日本近代文学の起源 原本

    日本近代文学の起源 原本

    小説・文芸

    4.0
    1巻1,870円 (税込)
    「歴史主義的普遍性」の基盤を大胆に覆す鋭い知性。 新たな思考の視座を極めて丹念に布置・構築して行く、最も現代的な「知の震源」柄谷行人の、鮮やかにして果敢な挑戦。 名著『マルクスその可能性の中心』につづく柄谷思想の原点となる歴史的快著。
  • マルクスその可能性の中心

    マルクスその可能性の中心

    小説・文芸

    -
    1巻660円 (税込)
    作品を読むことの意を問う、画期的マルクス論。作品の外に、どんな哲学も作者の意図も前提にしないで読むこと、まだ思惟されていないものを読むこと、可能性の中心においてマルクスを読むとは、そういうことである。柄谷行人の不朽の名作。 ◎ある作品の豊かさは、著作家が意識的に支配している体系そのものにおいて、なにか彼が「支配していない」体系をもつことにある。……私にとって、マルクスを「読む」ことは、価値形態論において「まだ思惟されていないもの」を読むことなのだ。……マルクスをその可能性の中心において読むとは、そういうことにほかならない。<「序章」より>
  • 反文学論

    反文学論

    小説・文芸

    5.0
    1巻1,650円 (税込)
    抜群におもしろい文芸時評の白眉――1977年から78年にわたり、初期代表作となる『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源』と並行して書かれた、著者唯一の文芸時評集。100人近い現役作家を俎上に載せた短い<時評>と<感想>に、この類稀な批評家のエッセンスが凝縮し、横溢する。転換期に立つ「近代文学」の終焉を明瞭化した記念碑にして、これから文学にかかわる者の、必読の書。 ◎「……この『反文学論』は、著者の批評活動すべてが圧縮されたものだと言える。読者は、本書に対して、まるで「柄谷行人」という映画の予告編をみているような印象をもつであろう。そのことを可能としているのは、ひとえに本書が「文芸時評」という制約を受けていることによるのだ。」<池田雄一「解説」より> ※本書は、1991年11月『反文学論』(講談社学術文庫)を底本としました。
  • 坂口安吾と中上健次

    坂口安吾と中上健次

    小説・文芸

    4.0
    1巻1,650円 (税込)
    闘う知性が読み解く、事件としての安吾と中上――日本の怠惰な知性の伝統の中で、「事件」として登場した坂口安吾と中上健次。二人は、近代文学の根源へ遡行しつつ、「自然主義」と「物語」の止揚を目指す。安吾は、自らを突き放すような他者性に文学の「ふるさと」を見出し、中上は、構造に還元することなく、歴史の現在性としての「路地」と格闘する。闘う知性としての安吾と中上を論じた、74年から95年までの批評を集成した、伊藤整文学賞受賞作。 ◎「文学」とは、どんな秩序にも属さず、たえず枠組を破ってしまう荒ぶる魂であった。文学をやっている人がすべてそうなのではない。むしろその反対である。文学という枠組を吹き飛ばすようなもの、それが「文学」だった。私と中上は文壇において暴風雨のような存在であった。そして、われわれがともに敬愛していたのが坂口安吾である。(中略)私は安吾を高く評価していた。しかし、小説家としてではない。私にとって、彼の作品は、哲学であり、歴史学であり、心理学あり……、それらすべてをふくむ何か、要するに、「文学」であった。<「著者から読者へ」より>
  • 畏怖する人間

    畏怖する人間

    小説・文芸

    4.0
    1巻1,870円 (税込)
    その出発以来、同時代の「知」に、圧倒的な衝撃を与えつづけて来た著者の、秀れた光芒を放つ第一評論集。群像新人文学賞受賞作「意識と自然――漱石試論」をはじめとし、その後の『マルクスその可能性の中心』『日本近代文学の起源』『探究1』『探究2』など、柄谷行人のその後の力業を予告する、初期エッセイ群。
  • 意味という病

    意味という病

    小説・文芸

    4.0
    1巻1,870円 (税込)
    日本のシェークスピア論のパラダイムを批判し、明晰な論理と思考の下に、新しい「マクベス」像を描く、柄谷行人の初期秀抜エッセイ「マクベス論」をはじめ、秀作『マルクスその可能性の中心』につながる、その明視力の圧倒的展開を収録。
  • 戦後思想の到達点 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る

    戦後思想の到達点 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,320円 (税込)
    2人の「知の巨人」は、いかに思考を紡いだのか? 戦後思想を牽引した柄谷と見田。2人の思想のポイントとは何か? 2人は日本人と人類の未来をどう展望しているのか? 巧みなインタビューと解説で、両者の思考の軌跡を浮かび上がらせる。柄谷思想&見田思想のまたとない入門書!
  • 柄谷行人浅田彰全対話

    柄谷行人浅田彰全対話

    ビジネス・実用

    3.3
    1巻1,980円 (税込)
    1985年になされた最初の対談「オリエンタリズムとアジア」で、柄谷行人は「政治と離れた言説などはありえないということを、もう一度強調すべき時期にきて」いると言う。本書では、思想や芸術など多様な話題を次々繰り出しつつ、かならず世界そして日本はいかにあるべきかという問いかけに戻っていく。二人の知識人は縦横無尽に語り合うことを通して、読む者に思考と発言を続けることの重要性を訴えているのである。日本を代表する知識人二人が、自在に語りあった諸問題――解決にはほど遠くさらなる混迷に突き進む世界の現在を予見した、奇跡の対話集。目次オリエンタリズムとアジア昭和の終焉に冷戦の終焉に「ホンネ」の共同体を超えて歴史の終焉の終焉再びマルクスの可能性の中心を問う あとがき 浅田彰と私(柄谷行人)
  • 世界史の実験

    世界史の実験

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻968円 (税込)
    大勢の死者が出た東北大震災の後,著者は柳田国男が戦争末期に書いた『先祖の話』を読み返す.外地で戦死した若者たちの霊を思う柳田にとって「神国日本」とは,世界人類史の痕跡を留める「歴史の実験」場だった.柳田の思考の「方法」を見極め,ジャレド・ダイアモンド,エマニュエル・トッドらを援用した卓抜な世界史次元での「文学」と「日本」批評.

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  • 大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人

    大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,980円 (税込)
    1994年の大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞前後に行われた全対話三篇を集成。小説と批評の両面から日本文学界を牽引してきた二人が、文学、思想、言語、日本と日本人について、縦横無尽に語り合う。柄谷氏の書き下ろし序文と年譜を付す。
  • 内省と遡行

    内省と遡行

    小説・文芸

    4.5
    1巻2,200円 (税込)
    1969年、漱石論で文芸評論家として出発した著者が、『日本近代文学の起源』を経て85年の『探究』連載を前に格闘した、哲学的評論「内省と遡行」と「言語・数・貨幣」。否定に否定を重ねながら、〈内部〉に留まることを徹底して〈内部〉を自壊に導き、〈外部〉へ出ることをめざした本書は思想家誕生の軌跡であり、「驚くべき戦争の記録」(浅田彰)でもある。極限まで思考する凄味に満ちた名著。
  • 柄谷行人講演集成1985‐1988 言葉と悲劇

    柄谷行人講演集成1985‐1988 言葉と悲劇

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,287円 (税込)
    ソシュールからウィトゲンシュタインへ、西田幾多郎からスピノザへ──。1980年代後半の代表的講演を収録した本書で、柄谷は哲学、文学、宗教、言語学、経済学、数学など多様な領野を自在に行き来しつつ議論を繰り広げる。そこで執拗に追求されるのは、言語コミュニケーション(交換)における人間の悲劇的条件であり、他者との交通を可能にする普遍性がいかに生み出されうるかという問いである。いまなお多くの示唆に満ちたこれらの講演は、後の柄谷理論の展開を予感させるのみならず、批評という営み自体をも再審に付す魅力的な内容となっている。旧版の内容を再構成し、改稿を加えた決定版。
  • 柄谷行人講演集成1995‐2015 思想的地震

    柄谷行人講演集成1995‐2015 思想的地震

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,067円 (税込)
    われわれは、もはや脱構築ではなく、建設をこそ語らねばならない──。あらゆるものが瓦解したこの20年間に、思想家・柄谷行人は、はたして何を考え、語ってきたか。本書は、その崩壊が誰の眼にも明らかとなった1995年以降の講演を著者みずから精選した、待望の講演集である。近代文学の使命とその盛衰を反照的に論じた「近代文学の終り」、日本にいつしか根づいた特異な民主主義観を、近代における個人化という根源から再考する「日本人はなぜデモをしないのか」など、計11本の講演を収録。その言葉には、いま最も必要とされる強靭な思想が確かに宿っている。学芸文庫オリジナル。
  • 憲法の無意識

    憲法の無意識

    ビジネス・実用

    4.4
    1巻990円 (税込)
    なぜ戦後70年を経てもなお改憲は実現しないのか。なぜ九条は実行されていないのに残されているのか。改憲、護憲の議論が見逃しているものは何か。糸口は「無意識」である。日本人の歴史的・集団的無意識に分け入り、「戦争の末の」平和ではない、世界平和への道筋を示す。デモで社会を変え、国際社会に九条を贈与しよう。「憲法の無意識」が政治の危機に立ち現れる。
  • 世界史の構造

    世界史の構造

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻1,540円 (税込)
    資本=ネーション=国家が世界を覆い尽くした現在、私たちはどんな未来も構想し得ないでいる。しかし本書は、世界史を交換様式の観点から根本的にとらえ直し、人類社会の秘められた次元を浮かび上がらせることで、私たちの前に未来に対する想像力と実践の領域を切り開いて見せた。英語版に基づいて改訂した決定版。
  • 倫理21

    倫理21

    ビジネス・実用

    4.1
    1巻924円 (税込)
    子供の犯罪は親の責任なのか? 戦争責任とは? そして、未来に対するわれわれの責任とは? 生活の中の具体的な問題を徹底的に問うことによって、新しい思想を構想する。
  • 政治と思想 1960-2011

    政治と思想 1960-2011

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,100円 (税込)
    日本を代表する思想家が、半世紀に及ぶ自らの知の歩みを語る。デモの必要性を説いた、原発震災後のインタビューを増補した決定版。柄谷行人の入門書としても最適。
  • 日本精神分析

    日本精神分析

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,155円 (税込)
    「日本精神分析」というエッセイは、日本の文化に関する考察である。私はいつも、日本人の経験を、自民族中心主義に陥ることなく、普遍的に意味をもつようなかたちで提示したいと思っていた。しかし、ある意味で、本書のエッセイはすべて、そのような姿勢で書かれている、といえる。ゆえに、本のタイトルを「日本精神分析」としたのである。――〈「学術文庫版へのあとがき」より〉 (講談社学術文庫)
  • 遊動論 柳田国男と山人

    遊動論 柳田国男と山人

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻865円 (税込)
    「私は柳田論を仕上げることをずっと待ち望んでいた」(「あとがき」より) 既成の柳田論を刷新する衝撃の論考が出現! 柳田国男は「山人」の研究を放棄し、「常民」=定住農民を中心とした「民俗学」の探求に向かった――。柳田は長らくそのように批判されてきた。本書はその「通説」を鮮やかに覆し、柳田が「山人」「一国民俗学」「固有信仰」など、対象を変えながらも、一貫して国家と資本を乗り越える社会変革の可能性を探求していたことを示す。読み進めるうちに柳田の「可能性の中心」がくっきりした像を結ぶ、知的興奮に満ちた一冊。
  • 世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて

    世界共和国へ

    ビジネス・実用

    3.9
    1巻1,034円 (税込)
    資本=ネーション=国家という結合体に覆われた現在の世界からは、それを超えるための理念も想像力も失われてしまった。資本制、ネーション、国家をそれぞれ3つの基礎的な交換様式から解明し、その結合体から抜け出す方法を「世界共和国」への道という形で探ってゆく。21世紀の世界を変える大胆な社会構想。

ユーザーレビュー

  • 私の謎 柄谷行人回想録

    Posted by ブクログ

    不勉強で著作は過去問以外で読んだことなかったのだけれど、思想を人付き合いや経歴と追っていけるのは私に合ってた。文芸批評から哲学への転向というのも興味深い。近代文学から現代小説への移行期を、渦中いた批評家から聞けるのは面白い。

    0
    2026年07月09日
  • 内省と遡行

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    11 意識への問い、すなわち内省からはじまる哲学は、ある決定的な隠蔽を侵している。
    ・私達が意識できるレベルのことは、徹頭徹尾、先ず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている。

    21 ニーチェの戦略は、意識に問いながらそこから身をかわし、すり抜けること、中心化を解体しながら、その解体作業がひそかに前提とする"中心"をさらに解体することである。

    27 主観性のパラドックスとは、われわれが主観性を歴史的な幻想・病だと断定し否定したとしても、それもまた主観性にすぎないということだけでなく、逆に、主観性に対する最大の批判は最も主観的な領域からしか生じ得ないということを意味している。

    30 ラングは、実際の存在ではなく、語る主体の意識に問いたずねることによって、言い換えればある現象学的還元によって見出される。
    31 言語学の対象としてのラングは、外的な対象をカッコに入れ、直接体験を注視するような態度変更において見出される。

    42 意識とは、本来混沌たる体系の部分的修正にすぎない。

    45 ダーウィンの種の理論と同様に、ソシュールは言語システムの進化が、非方向的・非目的論的であると同時に、あたかもそれが定向的・目的論的であるかのように見える誤謬を説明しようとした。

    51 ラングや音韻といった概念は、現実に積極的に観察できる現象の下部構造として意図的に見出されたものである。つまり結果(終り=目的)から目的論的に見出されたものであって、経験的な事実ではない。

    55 ヘーゲルにおいては始まりと終わりが重なっている。始まりは終わりにおいて見出されるのであり、始まりは契機にすぎない。始元は終わり(目的)から見出され、また、始元は終わりを実現するものとしてある。

    61 構造主義は、複雑怪奇な世界から特徴・項のみを取り出して、構造的に可知的だという西欧に固有の「信念」の上に成り立っている。
    ・構造主義が見出す構造は、目的論的な構えの中にある。

    66 芸術におけるキュービズムやExpressionism、シュールレアリスムといった反遠近法の出現、また哲学における現象学の出現は対応しており、どちらも、奥行きや深さをもたらす配置を、配置そのものてして見ることを目的としていたにも関わらず、それが再び「深層」を生み出すような配置に帰結せざるを得なかったのである。

    68 古典古代において、プラトンは、遠近法は事物の「真の大きさ」を歪め、現実やノモスのかわりに主観的な仮象や恣意を持ち出すという理由で、それを否定していた。

    Q 深層(=下方)に、あらわれとは違った構造を見出そうとするわれわれの知の方向付けは、どこから来るのか?
    69 遠近法と同様に、われわれに深層(下方)を感じさせているのは、ある種の遠近法的配置であるが、以上のことは忘却されてしまっている。フロイトらの仕事を「深層の発見」として位置づけてしまう時、われわれは深層を在らしめている遠近法的配置を温存し強化してしまうことになる。

    74 「無意識」と呼ばれるものは、われわれの「意識」の遠近法的配置において、無意味・不条理として排除される「表層」的配置である。
     皮肉なことに、フロイトの新しさは「深層」の拒否にあったにも関わらず、「深層」の発見者と見なされてしまった。

    77 現代の自然科学を支えているのは、いわば時間(通時的配置)と空間(共時的配置)が変換可能であると見做す地平であり、厳密に言えばそのような遠近法的配置なのである。

    81 例えば、自己意識を進化論的に説明しえたと思い込む時、そのような問いと答えを可能にする「自己意識」は見落とされている。
     ヘーゲルのようにいっそ自己意識の超越性を認めない限り、この議論は背理に陥らざるをえない。
     ・疑問「自己意識の超越性」とは?

    81 必要なのは、弁証法であれ進化論であれ、それらを不可避的に要求する遠近法的配置を注視すること。

    84 現象学的還元は、世界の実在を素朴に信ずる「自然的態度」の排除であるどころか、いつもすでにそこにある「世界」を見出すための一歩後退に他ならない。

    86 アリストテレスの時間論(=場所的に考えられている
    時間は、ある結合状態(体系)ともう一つの結合状態(体系)の区別において、「それらの中間にそれらとは異なるなにものかがあると判断すること」によって存在する。 
     アリストテレスによれば、場所は、「事物を包むものの内側の境界であり表面である」。
     
    88 時(クロノス)とは差異化としての時間である。これは前と後のすきまにはなく、長さも持たない。
     例えば、あるシステムから次のシステムへの変化を見るという場合、それは順序であるとしても前後ではない。

    91 ピアジェは、発生と構造とを総合することが出来るような概念として「均衡」を持ち出すが、これは目的論なしに目的論的な装置を考えることを可能にする。

    92 ここで、改めて、ソシュールは共時的体系を考えることによって何を目指していたのかを考えてみるべきである。

    94 ある状態から次の状態への間には、時間が考えられるが、この「時間」は前後を鳥瞰することによって生じる超越的な時間である。ヴァレリーは、我々はテクストの前と後を同時に見ることは出来ないという。時間の「前後」の問題もそのようなものである。

    98 つまり我々の行為あるいは意図が、本来時間的な方向を持たない弾丸の位置に方向を与える。

    99 自然科学にはもともと「因果性」がないのだから、それによって因果性を否定するとき、ひとは全くの自然科学的視点をとるか、因果性を「価値」の次元に回復させるか、のいずれかである。

    101 原因の探求は、そこにある或る意図を、特に意図をもっている主体を、一つの活動者をもとめるということに他ならない。
    ・「なぜ?」という問いはつねに「何のために?(目的因)」を問うことである。
    ・因果関係を我々に確信させるのは、原因を意図から生起するものとして以外には解釈することの出来ない私たちの無能力である。全ての生起は一つの働きであって、すべての働きは働くものを前提するという信仰であり、「主体」に対する信仰である。

    105 われわれはテクストそのものを見ることはできない。見ようとすれば、それは「作品」となる。ソシュールの苦悩はここにあった。

    108 重要なのは、パロールやエクリチュールとかいった語をもて遊ぶことではなく、何に力点を置くかである。
    ・大切なのは、このような「前と後」をもたらしてしまう「作品」を解体することだ。読むということは、解釈学的な問題ではない。それは「作品」を解消すること、テクストを作品たらしめている中心化・一義性を取り払うことである。

     
    「言語・数・貨幣」
    114 生成的な自然を、人工的・自律的な形式に還元しようとする形式体系は、それ自身の中に一つの背理をはらみ、「形式化しえないもの」を逆説的に露呈する。

    119 遠近法の等質的空間と非ユークリッド的知覚空間は、単にその形式的構造の差異として、つまりいかなる公理系を選ぶかということに還元されている。

    120 遠近法的空間は「知覚」に反する形式的作図空間であるが、同時にそれは充分に形式的であるにはあまりに「知覚」に依存している。

    122 『資本論』において、一商品が他商品すべてと交換される権利を有した結果、貨幣となったこと(一般的等価形態)と同じことが、解析幾何学についても言える。
     その中心点はすべての数の存在を可能にし、すべての空間を均質にするような消失点をもっている。それはコギトと呼ばれるかもしれないが、もとより自己意識ではなく、一点に絞られた超越論的な眼差し(パースペクティブ)なのだ。

    125 「構造主義」とは、明瞭に数学的なものである。そこでは、デカルト的二元論あるいは、新カント派的な「文化科学と自然科学」の分離は取り払われる。構造主義の意義は何よりもそこにある。
     
    128 「リンネルは地方ですべての他の商品にとって一般的等価形式として現れる。それはあたかもライオン、虎、うさぎその他の(メンバーとしての)動物と並んで、(クラスとしての)"動物"なるものが一緒に現れるようなものだ」という時、彼はメタレベルに存する消失点たるクラスを、メンバーレベルに引き下ろし、ただそれらを価値形式の構造という観点で読み解こうとする。

    130 いかなる対象をもそれを構成・列挙し、直接・具体的に考えられない限り、それを数学的対象とはみなさないとしたのが直観主義。(たとえば素数を例示できない無限は排除される)。
     また直観主義者は排中律が成り立たない。そもそも無限の証明方法からして背理法(有限数のシステム)に頼っているが、それでも無限数の概念は認められないということ。

    131 ラッセルに対する直観主義者たちの反発は、2分法に陥る。つまり、自然数全体とか実数全体というような「無限集合」を認めず、人間が構成しうるものだけを認めようとする。そこに「語り得ないものについては沈黙せねばならない」というヴィトゲンシュタインの言明が拍車をかける。
     直観主義者たちの2文法は、文明と自然・現象界と叡智界(物自体)のような大きな落とし穴にハマってしまう。つまり、カントのように「超越的なもの」を別の領域に安置することになる。
     カントールのパラドックスは、まさに超越的かつ消失点的な中心を集合の要素として引きずり下ろしたところからくる。そのことによって体系全体に混乱が生じたとしてもやむを得ない。
     そのことに対して論理的な工夫によって「解決」を試みることも、再び「超越的なもの」を持ち込むこともどちらもカントール(あるいはマルクス、ソシュール、フロイトら形式化)に対して反動的でしかない。

    134 ゲーデルは数学の形式的基礎づけの破綻を証明したが、それは必ずしも数学を窮地に追い込むものではなく、むしろ数学を解放するものである。
     なぜなら、そこで破綻したのは、数学に対し確実であれと命令・信仰すると同時に、数学の確実性に依拠しようとする形而上学だからだ。

    136 形式主義への批判はほとんど常に性急且つ安直である。それは、形式化が知覚・直観・指示対象・主体といった外部性を還元してしまっていることに向けられる。

    140 フッサールのいう現象学的還元は、対象=客観的世界の素朴な実在性をカッコにいれる、 つまり日常的であり自然科学的であるような態度(自然主義)をいったんカッコにいれるところにある。
     たとえば、それが対象の側に即して語られるとき、それは「形相的還元」(別個の事物から共通する要素を取り出して、本質に迫ること)とよばれるといってよい。つまりフッサールにとって、形式化”とは形相的還元にほかならない。
      一方、それが意識の側に即して語られるとき、それは「超越論的還元」とよばれるのだといってよい。
     この二つは、現象学的還元のなかで相補的なものだが、後者の方が重要だ。というのは、フッサールの関心は、なんらかの『還元」によってえられる形式体系そのものよりも、それがいかにして構成されるかを明らかにするところにあったからである。
      超越論的還元によって、彼は心理的自我・主観性・コギトにかわって、超越論的自我・主観性をとりだす。形式的、イデア的なものを構成し、その存立を可能にするものとして。

    144「数学の危機」
    フッサールにとっての危機は、自然科学と文化科学、科学と哲学といった区別を無効にするような形式数学(集合論)を前提にしていたがゆえに生じた。
     彼の言葉でいえば、「哲学に残されている」のは、そのような形式的なものの基礎、あるいはその存在性格を明らかにすることだ。
     フッサールは、現象学的=形相的還元という方法によって形式的なものの基礎を求めようとする。

    148 構造主義は、基礎論的にみればまったく論理主義なのであり、しかもそのことに気づかない。この構造主義を、フッサールは"自然主義"と読んで拒否しただろう。
     フッサールは、形式的なものの存在を、経験論的にあるいは発生論的に基礎づけることを徹底的に退けた。

    150 フッサールに対する批判は、実質的にはゲーデルの証明の変奏となる他ない。

    154 例えば色を物理学的に区分して行くとき、すでに色の言語的・文化的(通時的)な分節が前提されているが、同じことが音声について言える。
     ソシュールは、通時的よりもむしろ、共時的な形式を言語学を学問たらしめる理由として求めた。またマルクスも、経済学の対象を商品の「形式」に限定し、物理的・対象的な商品を「商品学」として還元した。

    158 現象学的手続きが先行しない限り、我々は心理主義(主体を前提とする学問)をまぬかれない。
     むしろ、なにが主体にそう考えさせるのかという形式への視点が重要。
     狭義の記号は、対象物や概念といかなる関係性も持たないとされる。しかしこのような区別は外在的であって、記号一般がまず記号であり得るための前提がそれに先立って明らかにされねばならない。

    162 ソシュールは、現象学的還元によって見出されるものは、すでに線条性(合理性)によって秩序化されたものに過ぎないということを省察していたと言える。
    163

    165 ニーチェが「身体」に見るのは、多様且つ過剰な諸力の関係なのだが、この力はむろん物理学的なものではなく、むしろ意味に近い何かである。
     意識にとって明らかに見える事柄は、常に一義的・同一的であり、そこではもはや多様な非方向的な関係の闘争・戯れは中心化され抑圧されてしまっている。
    「権力への意志」とは、権利上、意識に先行する一つの場あるいは網目状組織である。

    170 むしろニーチェにとっては「一つの立場」こそ形而上学的である。
    ハイデガーが哲学史を「存在」という一つの主題で語ってしまうとき、彼こそ形而上学である。
    それは「巨大な多様性」を抑圧した一つのパースペクティブ(遠近法)を提示する。

    171 フレーゲ以降の命題論理学及び述語論理学は、それまでの哲学を、インド・ヨーロッパ語族の語法によって規定された「にせの問題」として解消してしまおうとする。

    174 ハイデガー
    「存在そのものという最も普遍的な理解されやすいものの圏域内で、形而上学はただ存在者(たとえば人間)のさまざまな領域に属する、そしてその都度異なった段階と階層をなす普遍的なもののみを思念するのである。」

    179 人間とは、自己差異的な差異体系であるがゆえに、本来的に無根拠であり過剰であり、非中心=多中心的な機械であって、まさにそのために不可避的に禁止が要請される存在者なのだ。

    198 (数学の公理系や言語という)形式体系は、自己言及的な形をとる場合、その自己言及性(それは自己自身に関係し言及出来るという意味で自己差異的でもある)が禁止されるところに成立する。
    その禁止とは、たとえば日常言語とメタ言語というメタレベルの区別を設けることである。つまり、『この文は誤謬である』において、「この文」を語る「文」は、メタ言語に属すると考えることで、実質的に日常言語への自己言及性を排除している。
    この方法に寄らないならば、人は必ず、形式に根拠を与える外部・超越者・先行者(親)を考えるが、それは根本解決ではない(たとえば、その神に根拠を与えるものは何かと問い始めると無限遡及に陥るから)。あるいは、形式がどのように発生したか、心理的にどのような効果があるか、どのような効能があるか考えるが、これも同様に自己言及を排斥するものではない。それどころか、こうした発生論・心理主義・機能主義は人間の経験世界に属しているので、純粋に論理だけの形式体系の構造そのものを見失わせる。

    208 つまり、マルクスの「貨幣の発生」と同様に、われわれは言語の起源を発生論的にではなく、形式的(論理的)に突き止める他ない。

    213 形式を形式たらしめるための論理的要請という意味では、ゼロ記号も神も一般的等価形態としての貨幣も同じである。つまり、本来形式体系に根拠などないということを、ゼロや神を持ってくることにより、見せかけの根拠性を与えているのだ。

    220 〇〇の形而上学といってそれを批判する場合、たいていは遠近法的倒錯を犯しているか、論証の仕方が間違っているという意味で批判されている。
    たとえば「貨幣の形而上学」において、貨幣の起源を問う際に、自然主義的・心理主義的・発生論的・歴史主義的態度が取られがちだ。しかし、それらは隠蔽を前提としているし、何かを説明する際に事後的な概念を無意識に導入しがちである。
    ここで、われわれはそれらすべてを還元し、ただ形式的に考えてみる必要がある。マルクスが価値形態論で行ったように。

    239 ソシュールにとって、時間とは、或る共時的体系からもう一つのそれへの変容においてのみ見出される。それは、ふつう我々が使う意味での時間とは違う。

    242 微細なものにおいて明証される差違は、関係がより大きな次元で考察されるとき、より容易く示されるのである。

    247 「あまりにも微妙な差異や、あまりにゆっくり現れる差異は知覚されない」
    マルクスが取り上げようとするのは、そのような差異である。知覚=認識装置からこぼれ落ちてしまうような差異化。それを取り出すためにマルクスは「価値形態論」や「生産力と生産関係」という"形式化"の問題に取り組んだのだ。

    256 マルクスは「対立」によって物事を把握することを退けた。「身体/精神」「自然/文化」「自然性/意識性」といった対立のうえで成立する思考こそイデオロギーなのだ。
    このような対立を齎す思考に対して、生成変化に着目する思考を彼は「分割」と呼んでいる。

    259 イギリスに発生した「工場」あるいは「工場内分業」をもとに、アダム・スミスは社会史を捉え直した。つまり「分業」の歴史として。
    この「分業」の視点は、経済学の分野のみでなく、それを批判するシステム論者(=社会工学)、生物学(植物同士の分業によるエコシステム、動物の分業で成り立つ動物社会)にまで影響を与えている。
    ゆえにこそ、工業社会の弊害を語るエコロジストたちが根拠とするエコシステムの視点も、起源をたどればアダム・スミスと軌を一にする。
    アダム・スミスが「工場内分業」から一般的な社会史を捉え直したように、エコロジストは「工場内分業」から自然史を見直す。言いかえれば、エコシステムとは、反工学的であるどころかまさに工学的な思考に基づいているのだ。

    265 マニュファクチュアにおける分業の発展は、同一的なものを差異化し、相異なるものを横断的に結合する偶然的な過程である。このような分裂生成とは、計画的・意識的なものでもないし、でたらめでカオス的なものとも違っている。
    マニュファクチュアの、このような偶然的な要素は、いったんそれが出来上がってしまった後では、分業=労働の分割は最初から意識的・計画的なものとして見なされてしまう。
    エンゲルスがいうような、一方に意識的な分業があり、他方に非計画的な分業がある、という見方は、工場が確立し、マニュファクチュア的偶然性が隠蔽されたあとで初めて成立する図式である。

    270 予言不可能な不意打ちによって非方向的に多様していく新しい仕事と、それを旧来のギルド的な安定的なシステムの中に封じ込めようとするリアクションとの間のせめぎ合い。
    マルクスのいう「階級闘争」とは常に上のようなものだと言ってよい。それは決して、資本家階級vs労働者階級のような単純な図式ではない。階級闘争とは、実体的に存在する闘争ではなく、むしろ解釈によってのみ見出される何かだ。

    279 自己言及的な形式体系あるいは、自己差異的な差異体系とは?
    カテゴリーが不断に横断され、ロジカルタイプが破られているために、多数の中心が同時に成立してしまうようなあり様のこと。

    295 フッサールの、デカルトやカントをより徹底化した懐疑が、同一的な意味を取り出すのに対して、ウィトゲンシュタインの懐疑は、その逆に、そのような意味による規則・内的な状態などあり得ないことを示す。
    フッサールが「聴く」立場を極限まで推し進めたのだとすれば、ウィトゲンシュタインは「話す」立場を一つの極限に追い詰めている。

    301 ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によって、われわれのコミュニケーションが何らかの規則によっていることを言いたいのではなく、その逆に、そのような規則とは、我々が理解した途端に見出される結果でしかないといいたいのである。

    306 私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような他者にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、文脈があり、また、『言語ゲーム』が成立する。
    なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。
    だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる―――規則、コード、差異体系などによって。
    いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、 この「暗黒における跳躍」(クリブキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
    この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ"神秘”がある。われわれが社会的、実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。

    312 人間は「意識しないが、そう行う」。
    このようにして語られる「社会的性格」、すなわち社会における人々の行動の無根拠的・無目的的・盲目的・実践的な在り方は、けっして「無意識」というような概念によって解消されはしない。
    たとえば、「無意識」を解明しようとしたフロイト精神分析に依っても、(その精神分析は「共通の本質」の如き規則を想定してしまうユングとは違うのだが)、患者と医者の対話的関係、あるいはそこに存する「社会的性格」をけっして排除することができない。

    浅田彰
    323 外部に出るために追求されている方法は、内部を徹底的に掘り下げることで、自壊させるという道である。

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    2026年01月02日
  • 世界史の構造

    Posted by ブクログ

    2024年、最初の本のご紹介は、柄谷行人氏の主著の一つ『世界史の構造』。昨年柄谷さんの『遊動論 柳田国男と山人』を読んで深い見識に触れた。「哲学のノーベル賞」と言われるバーグルエン賞をなぜこの人が受賞されたのか、この本を読んで少し分かった気がする。

    世界の歴史を「交換様式」から説明するその説得力がとにかく圧巻。世界史の教科書はすべてこの考えた方をベースに作り直した方が良いと思うぐらい、世界の見え方が変わる。(教科書は国家の都合が入るので難しいと思うが・・)歴史は学んでいてもつい違う世界を学んでいるような感覚を受けるが、今現在を歴史のつながりの先端として捉えることができる。そして、日本がなぜ今の日本に至っているのかも納得感が深い。

    いま起きていることとして、会社辞めて遊動性へ回帰しようという流れが起きる必然性も感じるし、そのために芸術や精神、宗教を今一度見直そうという動きがあることも腹落ちする。アートやヨガ、瞑想が注目を集めるのも時代の要請か。

    さて、この本を読んだ私たちは遊動性を取り戻すために何をするのか、また遊動性を維持するために何が必要となるのか、新たな問いが湧いた。

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    2025年11月20日
  • 倫理21

    Posted by ブクログ

    薄い小さな本だけど、柄谷行人が今まで(今も)ずっと問い続けている、他者性と外部性について、講演のようにより日常的なことばでわかりやすく説いている。『トランスクリティーク』や『世界史の構造』等を読んでいて、理解に不安が出てきたらこれを読んでみたらいいと思う。小著だけど、柄谷の問題意識のコアを諄々と説いている貴重な著作。

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    2025年08月23日
  • 憲法の無意識

    Posted by ブクログ

    図 p141, 142

    146 『資本論』は、国家の経済政策・税制や国家間の関係をあまり取り上げていないので、そのような要素が前面に出てくる事態には、簡単に適用できない。
     特にマルクス以降の金融資本や帝国主義の現象をうまく説明できない。
     そこで、マルクス主義者は『資本論』を再考・修正する必要に迫られた。

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    2025年02月04日

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