内田樹のレビュー一覧
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⚫︎対談形式が多いからサクッと読めるね
⚫︎内田さんは日本辺境論は面白かったし、わかりやすくて読みやすい。ゆっくり読めば咀嚼できる丁度いい内容。あ、これ以上いくと無理だなってとこで止まる絶妙な文体。
⚫︎成熟した大人がいないのは、まあしょうがないのかもなあとか、そもそも自分だってなあとか…政治家は国民のレベルを写す鏡だから、結局日本人が成熟していないってこと?でもそれもなんだか安易な自虐論理みたいで嫌だなあ。
⚫︎内田さん、ネットだとよく炎上しているイメージだけど、本はしっかりしているよね。大学の教授だったこともあり、話が分かりやすい。
⚫︎なんというか、ちょっと神霊的な話も出てくるけど、それはそれで一つの考え方だし、あまり極端ではないから受け入れやすかった。 -
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ネタバレ国民国家という概念は中くらいの現実。太鼓から存在したモノではない。
グリーバル企業は国民国家に帰属意識はないことが要件。
ウクライナの戦争がどうなっても、ロシアは没落する。勢力圏はなくなる。
『フェデラリスト』の中に合衆国憲法の制定の議論がわかる。連邦派と独立国派の争いがあった。連邦と州の自由とのせめぎあい。軍隊は、同胞に向けられるべきではなく、国外に向けられるべき、という論法で連邦の下に常備軍を置くことになった。一方で、民衆の武装権も保障した。
アメリカでは19誠意に公教育の導入の反対があった。
合衆国憲法は、常備軍の保持を禁止している。軍は時の権力者の私兵になる。議会が招集して編成するもの、という建前。
シオンの議定書=ユダヤの世界政府の陰謀論を書いた書物。
ロシア・ロマノフ王朝のユダヤ人迫害があったため、ニューヨークのユダヤ人銀行家シフの協力により、日露戦争の公債による資金調達が可能になった。
陰謀論は、一神教の国々で広まりやすい。日本では広まらない。陰謀論は一神教の裏返し。
ポストモダニズム=大きな物語の否定=自分が見ているモノは真性かどうか疑わしい。行き過ぎると反知性主義になる。知的虚無主義。
歴史修正主義=世界の見え方はいろいろあり、どれも等権利である。現代はポスト真実の時代になった。
平等は自由のり後回し=平等は、公権力によって作り出されるモノだから。
民主政は、民衆による民衆の支配が起きた。
マルクスとリンカーンは同時代に生きた。
中国は多民族国家。王朝の交代は繰り返し同じパターンでおきた。
生産年齢人口の減少は2015年から始まっている。
習近平の反腐敗闘争は、誰を失脚させるか権限をもつものに一極集中する。腐敗がなくなれば、一極集中はできない。腐敗がなくならない構造は温存したまま、腐敗を摘発することで権限が保たれる構造。
中国の国民監視は世界一。社会的信用スコアが高いと何かと有利になる社会。
教育の商品化を禁止した双減政策。宿題を制限して学習塾を非営利化した。親の格差を子供に引き継がない共産的な政策。
アメリカでは、アメリカが滅ぶシナリオが熱心に読まれる。日本では、敗北主義が敗北を呼び込む、というロジックで、それを避ける。 -
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著者が、神戸市東灘区に約80坪の土地を得て、合気道の道場「凱風館」を建てるまでのてんまつをえがいたエッセイです。
著者は、若き建築家の光嶋裕介との縁に感じるものがあり、彼に道場の設計を依頼します。その後、光嶋とともに理想の道場を実現するために職人たちと交渉しつつ、理想の道場をめざします。彼らの「アンチ効率主義」と形容されるスタンスは、著者の思想に通じるものがあり、道場の建築から運営まで一貫しておなじ精神がつらぬかれていることが語られています。
また著者は、道場は「アジール」(避難所)としての役割を担うべきだと主張します。人びとがその場所につどい、彼らのあゆみを測定するための定点となることが、著者の考える公共性のあるべきかたちです。長年大学に勤務していた著者は、大学もまたそうであるべきだという考えをいだいていますが、「効率主義」が大学教育にも浸潤しつつある現在、著者の立ちあげた道場は、まさしく「アジール」なのだろうと思います。 -
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ー 私たちが共同体として生きてゆくために必須の資源を「社会的共通資本」と呼ぶ。大気、海洋、森林、河川といった「自然資源」、交通・通信・上下水道・電力といった「社会的インフラストラクチャー」、司法、医療、教育といった「制度資本」がそれに当たる。これらはどのようなものであれ、政治イデオロギーやマーケットに委ねてはならない。専門家が専門的知見に基づいて、管理運営しなければならない。「森林をこうした方が金が儲かる」とか「医療はこうする方が政治的に正しい」というようなことを言わせてはならない。政治的正しさや市場的価値は所詮「脳内」の現象である。平和で安全な場所でなら、いくらでも論じるがいいし、人々がそれでつかみ合いの喧嘩をしても私は与り知らない。だが、大気や森林や、水や食べものや、裁きや癒しや学びは「生身の人間が集団として生き延びる」ために必須のものである。それは、フェアで合理的な管理システムのもとに、価値中立的な立場を貫く専門家によって運営されていなければならない。どのような政治的な正しさとも費用対効果とも無関係に、純粋に専門的な見地から、国土の安全と国民の幸福だけを配慮する人々によって管理運営されねばならない。 ー
12年前の作品なんだけど、今読んでも違和感はない。
何となく積読本にあったので読んだだけだけど。 -
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今回まとめて読んだ新書群は、ほとんど自分が書店で選んで入手したってこともあるんだろうけど、驚くほど似た主旨のものばかりになってしまった。興味の対象だから仕方ないとはいえ、もっと多方面的に選書しないとって、ちょっと反省。それはさておき、本書も内田印の安心の一冊。新たな戦前よろしく、もはや新たな戦中って主張にはドキッとしたけど、言われてみれば…ってところ。何を言ってもどうしようもないなら、いっそ行き着くところまでっていう、加速主義も確かに分からんこともないんだけど、やっぱり自分としては、あくまで内田さんの言うような、ソフトランディングを期待してしまいます。中高一貫でキャラが固定、体育座りは自分を縛る、などなどいちいちごもっとも。
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女性へ告白する際に「今付き合ってる人いる?」と聞くのが卑怯だという話があったが、個人的には「それくらい許してやれよ」と思った。相手に彼氏がいるかどうかは素朴に気になるのが当たり前だし、質問する男性は別にそこまで深く考えてないのでは?「女性が強くなった」現代では告白したことをネタにされ周囲に言いふらされて自分の身が危うくなるリスクもある。
お見合い婚を肯定するくらいなら、交際の始まりがその程度の優柔不断であることくらい目を瞑ればいいのにと思う。「男女平等」が正しいとされているのに、世の中の殆どの女性はそのような優柔不断なアプローチ「すら」自分からはしようとしないのだから。
またこれは筆者ではなく本書に登場する女子大生についてだが、草食男子が「弱者を装うことで利益を得る」ことに関しても、女性という生き物がその総本山のようなものなのに、いざ男が同じことをすると批判するというのも自己矛盾だなと思った。 -
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今日は令和4年8月15日だ。正午少し前から毎年の様に戦没者への哀悼を示す番組が国営放送(NHK)で流れ、武道館には天皇皇后両陛下だけでなく岸田首相も訪れ、正午の時報がなれば1分間の黙祷が捧げられる。1945年8月15日は昭和天皇による玉音放送が流れた日であり、ラジオで初めて聞く天皇の言葉の前に、何やら難しい事を言っている様だが、日本が戦争に負けた事だけは確からしい、と膝をついて泣き出すもの、心の中では生き残れたと安堵するもの、様々な感情が渦巻いた日でもある。特に戦争遂行の最前線にいた軍部には腹を切って自決するものも多数いた。
終戦記念日と呼ばれるこの日は、この様に先の大戦において国民が戦争に負けた事を実感した日というのが正しいところであろう。実際に世界を見渡せば韓国は抗日戦争の終結は、日本支配が終わって独立した事を祈念する日だ。当然の事ながら中国もそうである。あれから78年の月日が過ぎた。
日本では長く「戦後」という言葉で一括りにしている今に至る時代を果たしていつまで戦後と呼ぶか。これについて「本と新聞の大学」と題して朝日新聞社と集英社が共同で実施した講義が本書の内容となっている。本書が記載されたのは2016年であるから、当時はちょうど戦後70年の節目にあたり、果たして後10年、戦後80年は訪れるかを大きなテーマとしている。
戦後に対して「戦前」という言葉がある。戦争に至るまでの歴史の経緯を辿った時、いつからが全然と呼ばれるかは、対象となる「戦争」を何にするかにもよる。石原莞爾がアジア・太平洋戦争のきっかけが何かと問われた際に、ペリー来航こそが外国からの侵略の始まりと捉えたのは有名な話であるが、海外からの侵略的行為に対して、国力をつけ国防を整備する、その流れの中から西洋と同じ様に外地に資源や労働力を求めて戦争に突入するという対極的な観点からは当たっていると感じる。本書はまずはそうした日本と海外との交戦の歴史に触れながら、先の大戦以降の「戦後」の具体的な話に入っていく。
戦後は次の戦争が始まるまでの一時的な呼称であるから、日本が戦後80年より前に再び戦争をする可能性があるのか。この観点が本書の軸となっている。戦後の平和な時代を支えてきた平和憲法、在日米軍の抑止力、そして日本自体の国力となる経済および喫緊の最大の課題とも言える少子高齢社会の問題などを一つ一つ講義形式で読むことができるため非常にわかりやすい内容となっている。
特に多額の借金を抱えながらも異次元の政策を取り続けた当時の黒田総裁下の日銀の施策などは、それから8年近く経った今、答え合わせもできる。実際には株価は上がったが、本書予測通り円の価値は下がり、本書執筆時点では存在しなかった新型コロナやウクライナ侵攻などが再び日本をはじめとする世界経済に大きな影響を及ぼしている。
日本の周辺東アジア情勢を見てみれば、親日的な政策に舵を切った韓国に対して、相変わらずの嫌韓振りから目が覚めない日本、中国の脅威に晒されて、沖縄独立も現実味を帯びてきている。国を動かすのは非常に難しい事であるのは百も承知であるが、相変わらずの選挙投票率の低さを見ていると(直近の埼玉県知事選挙も30%を切っていた)、先ずは幼い頃から政治に参加するのが当たり前になる様な教育改革が必要ではないかと感じる。勿論長い目で見なければ成果がわからない様な施策を政治家が好むはずはない。株価を上げる様な目先の利益に囚われ、国債を乱発し将来にツケを残し、尚且つそれが原因で利上げもできずに円の価値暴落を引き起こすのが政治ではない。勿論、国家百年の計を意識しない政治家は皆無だろうから何らかの意図がある事は信じている。ただ持ち前の日本人らしさである、黙して語らずでは国民の「不安」は払拭できない。子供に苦労をさせる様な未来への懸念は、人々の心にいつも不安と壁を作っていく。
開かれた政治を期待するとともに、自分からドアを開いて政治の中に入っていくような双方歩み寄りに必要なのは、本書の様なテーマの投げかけ(戦後80年は来るのか)になるのかもしれない。本書を出版する経緯に、人が集まって座談会形式で一つのテーマについて語る世の中にしたい、という意図がある。正にその通り、将来的に今の時期を戦後と見続けられるか、戦前になるのかは私たち一人一人が政治に参加して決めていかなければならない。 -
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2020年、COVID-19が席巻した世界では次々と社会の歪みが露呈した。そのコロナ期とポストコロナ期に、次世代の若者たちがどう生きるべきかを内田樹をはじめとした様々な年代の言論人たちが語る。
内田さんが声をかけて集まった様々な分野の今をときめく著名人たちがコロナとコロナ後の世界をテーマに執筆しました。内田さんのセレクトだけあってみんなけっこう尖っていて(偏っていて)どれも読み応えのある内容でした。中学生向きということで平易な文章で一編が短いのも読みやすくていいと思います。そしてみんな分野が違うので、コロナ期というものを違う角度から見ているのも面白い。また、分野が違っても結局、多くの著者が今世紀に入ってからの日本の教育が間違っていると言及しているところが内田さんセレクトらしくていいし、実際にその通りだと感じます。
近代に入ってから特徴的なのは膨大な富を得た後に残る負債を残らず次世代に押し付けるところ。これを明確にあぶり出したのがコロナで、コロナがあってもなくても次世代の若者たちは老人たちのケツを拭きながら生きる羽目になります。そのことに若者たちと、おそらく現役世代に含まれる私たちがどう向き合って生きなければならないのか、時代のまさに転換点に生きているということを感じさせる本でした。
特にキューバを例とした無料医療に言及した三砂ちづるさんの章が勉強になりました。ということでゲバラの若き日の旅路を描いた「モーターサイクルダイアリーズ」も併せてお楽しみください。この映画はすごくよかった。本も出てる。
あ、あとバランスを取るために武田邦彦の「君が地球を守る必要はありません」もどうぞ。 -
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少子高齢化社会でも経済成長を続けることは、お米が足りないのにおにぎりをもっと作れって言ってるようなものなのかな。無理よね。
まず、無理を認めること。
それから、資本主義社会の外の世界があることを知り、体験し、その世界の間でバランスをとっていくことが鍵だと思った。
・大切なことを持続させるために、我々はこれまでの手法からの撤退を学ぶべきなのである。
・社会の内と外、此岸と彼岸、文明と自然、常識と非常識などなど、二つの原理を行ったり来たりすることで、問題を「なんとなく」暫定的に解決する。これが地に足を着けることである。
・現代における下野とは、他社のニーズを全く気にせず、とにかく徹底的に主観を認めることだと言えます。
・僕らが生きている時間の中には、大きく分けて二つの相があります。ひとつは必ず前に進む「文明の時間」、もうひとつは循環し回帰する「自然の時間」です。猫には、循環する時間だけが流れているのです。彼らにら「進歩」の概念がない。
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ネタバレ個人的には「僕が家庭科を大事だと思うわけ p56 家事というのは、本質的には、他人の身体を配慮する技術」。家庭科という教科を大事にしたいと思ったという点に共感。家庭科等、生きる力に必要な技術が高等学校教育で減っているような気がしている。
日本に住むということ、構造的にも生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間。日本文化を象徴する意味合いでも金魚鉢の表現がすごく納得した。表紙の「1匹の金魚」。金魚鉢にたくさん金魚いるのではなく1匹というのが、生きづらさとともに、「金魚鉢も含めた世界はどこからきて、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしるのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。」という表現を読んでいて腑に落ちた。
この混乱期を生き延びてゆくためには、できるかで視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の風景を俯瞰することが必要。
自分が機嫌よくいられる場所はどこにあるのか、心身のどこにも詰まりやこわばりの痛みが生じないような姿勢をどうやったら見つかるか。
・「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということ。生き延びる方途を自力で見つけるか、創り出すなりする。これが難しい。
・書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。それができる力をいかにして習得していくかが課題。
・「学びたいことを学ぶ。身に付けたい技術を身に付ける」
「やりたいこと」だけにフォーカスする。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代。
・様々な媒体に発表された短編のため、読みやすかった。
本文より気になった文章 以下引用
情理を尽くして説く――書き手に求められているもの
P.65「身内」以外の読書が読んでも、教官も同意も期待できない読者が読んでも、なお読み応えのあるものを書く以外に新たな読者を獲得する手立てはないと思うからである。
「新潮45」事件を振り返る
p.68言論で生きる人間が自説を世に問うときには「自分が言わなければ誰も言う人のないこと」を選択的に言うべき「自分しかいう人がいないこと。自分が黙ったらこの世から消えてしまうかもしれない知見」
p.77 今後、新聞も民放も衰退してゆくでしょう。でも、メディア全体が衰退するわけじゃない。社会からメディアの役割がなくなることはありません。今の若い人たちは新聞も読まないし、テレビも見ない。でもそれぞれ自分の才覚で信頼できるメディアを探し出してきて、情報を収集している。
p.78-79 人間が自分の不自由さに気づくのは、自分の想像を超えて自由に生きている人に出会ったときです。「なんだ、これくらいのことはしてもいいんだ」と知ったときに人間は解放される。僕があえて過激な発言をするのは、若い人たちに対して、「これくらいのことはしゃべっても大丈夫」ということを伝えるためでもあるのです。先に地雷原を歩いてゆく人が、歩いた道筋にフラグを立てておけば、「あそこまでは行ける」とわかるでしょ。そういうかたちでリスクを引き受けることが年長者のつとめだろうと思っています。
第2章 気が滅入る行政:安倍政権と米朝対話
p.104-105 一人一人が帰属できる共同体、相互扶助的な手触りのたしかな共同体を国民国家の内部にもう一度構築するほか手立てはないと私は考えています。私が現在、日本国内で行っている活動は、そのような「相互扶助的な共同体」の再構築の試みです。同じような志を持ち、同じような共同体再生をめざしている人は、世界の各地にすでに広く存在していると私は信じています。
第3章 ウチダ式教育再生論:「教育」まで株式会社化したこの国の悲劇
p.166 「社会的共通資本」とは「それなしでは人間が集団として生きてゆくことのできない制度」のことであり、専門家によって、専門的知見に基づいて、定常的に管理運営されるべきものである。収益を上げたり、株主への配当金を増やしたり、あるいは特定の政治イデオロギーを宣布するために存在するわけではない。そのことをまったく理解していない人が少なくない(どころではない)
p.168 「人間が集団として生きてゆくためにほんとうに必須のもの」と「(あってもなくてもよい)商品」を混同して、商品の開発・製造・流通と同じ要領で社会的共通資本も管理できると思い込んだ。そのせいで、いまの日本は「こんなざま」になってしまったのである。
格付けできないのが「知」
p.175 「限りある資源を分配するのだ。生産性・有用性を数値的に格付けし、その査定に基づいて資源を傾斜配分すべきだ」
「数値的な格付けに基づく共有資源の傾斜配分」=貧乏シフト
「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能
日本の大学の劣化は「貧して鈍した」」せい。
「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
p.202 コミュニケーションをすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイデアを他人から得ることがや自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になること
p204 いまの若者たちが気の毒だなと思うのは、自己責任論を深く刷り込まれ、それが内面化してしまっている点です。物事がうまくいかなかったり、十分な評価を得られないと「自分が悪い。能力がなく、努力が足りないせいだ」と自分を責めてしまう。いまの若者たちは総じて自己肯定感が乏しく、自己評価も低いですけれど、それは幼い頃から単一の評価基準で査定され、格付けされ続けてきたからだと思います。格付けされ慣れてしまったせいで、逆に、格付けされないと不安になる。客観的で精度の高い格付けをされて、自分の同学齢集団内部でのランキングを知りたがる。それに基づいて、自分は「どの程度の野心」を抱いてよいのか、「どの程度の学歴」や「どの程度の地位」や「どの程度の配偶者」をめざしてよいのか、その「シーリング」を少しでも早く知ろうとする。
極端な同調的コミュニケーションにしても、自己責任論にしても、格付け志向にしても、彼らの責任ではないんです。社会がそうさせているんです。それが先ほど申し上げた「金魚鉢の硬直化したルール」です。
p.205 自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。
学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている金魚鉢のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢も含めた世界はどこからきて、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしるのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。この混乱期を生き延びてゆくためには、できるかで視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の風景を俯瞰することが必要です。
p.213 若い人たちが感じている「生きづらさ」は「正しい位置」にいないことで生じた心身の歪みがもたらす詰まりや痛みです。自分が機嫌よくいられる場所はどこにあるのか、心身のどこにも詰まりやこわばりの痛みが生じないような姿勢をどうやったら見つかるのか、大学生活では何よりもそれを求めて行ってほしいと思います。
「最悪の時代」を生き抜くための学び方
p.222-223
正しい選択肢はない。「やりたいこと」に注力する
わかっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。初めて経験する状況ですから、成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか、創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。そして、その選択の成否については自分で責任をとるしかない。誰も皆さんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任は取ってはくれません。
p.223 「学びたいことを学ぶ。身に付けたい技術を身に付ける」
「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしているときに、人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代に皆さんは踏み込むのです。
p260-261 マルクスより
人は誰も平等であるべきですけど、その理想を実現するためには「自分には他の人よりも多くの責務がある」という自覚を持つ人間が要る。貴賤の差のない世界を実現するためには「ノブレス・オブリージュ(高貴であることの責務)」を感じる人が要る。自分には他の人より多くの責務があると感じる人がいなければ、この社会を住みやすいものにすることはできません。
p280-281
人間が「落ち目」になるのは、単に金がないとか、健康状態が悪いというような理由からではない。これからどう生きればよいかわからなくなったときに、人間は毒性の強い脱力感に囚われる。
p.282
日本が「落ち目」になったのは個人の努力と国力の向上を結び付ける回路が失われてしまったからである。(中略)
道徳教育の強化や「日本スゴイ」キャンペーンや「クールジャパン」幻想や、排外主義的言説を撒き散らすことを通じて個人の努力を公的なものに向けろと必死になって煽っているのである。
日本が「落ち目」だということについての国民的合意が形成され、なぜそうなってしまったのか、そこからの回復の方位はありうるかについての自由闊達な議論が始まらない限り、この転落に歯止めはない。
日本人の「自由」を再定義する
p285-286 自由の達成が日本人には不自由
日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人はほんとうは望んでいない。それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。
集団のなかにいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。
理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して・・・というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成したときに、日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。
p287 ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、ひとつナカとって・・・」というのが日本における問題解決の成熟したマナーでした。それは正解を得るための方法ではないのです。いざこざを避けるための方法です。原理を貫徹する、心境や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。それよりは非協力的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。
p289
「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
自由なんか前からなかったんだから。
日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらいに切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと僕は思っているのです。