あらすじ
著者が長年続けている合気道修業の目的は「あらゆる敵をたおす」ことではない。「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術を磨く訓練の体系である。道場での稽古を「楽屋」とし、生業の場を「舞台」とする。新たな学びを阻止する無知や弱さを「居着き」と捉え、これを解除し、守るべき私を廃棄する。すると修業は自分を、予想もしなかった場所へ連れていく――。修業とは、強さとは…正面から問う。
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Posted by ブクログ
形にとらわれないということ。
居着かないということ。
現代の人は目標に向かって努力するが、
修行において目的は見えない。
見えないけれど、その先にある何かを信じ極める。そしてはじめの自分では想像もしない境地までたどり着く。
見えるもの把握できるものだけに、縛られないということ。
天下無敵とは、どんな相手と対峙しても勝てる、ということでは無い。
むしろ全ての敵を自分の一部にするということである。包含し、融合する。境界線は曖昧である。
自分という枠組みに、とらわれないということ。
イエスが海を歩く伝説を信じるか。
信仰とは、自分では理解できない現象が存在しうることを認めることである。起こりうると仮定することである。はなから否定することは、非科学的である。
信仰とは、自分の小ささを認めること。
この本に一貫する考えは、自分自身に居着かないという流動性である。修行とは、終わりのない自分自身の変革である。
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合気道を素人なりに齧っていると繰り返し聞かされる言葉に、「合気道の最強の技はなんですか?」との問いに塩田剛三先生が答えたという「自分を殺しにきた相手と友達になることさ」というのがあります。
合気道にも流派がありますが、著者の「武道家が目指す『天下無敵』とは、誰にでも勝つということではなく、、だれとも敵対しないこと」との趣旨の言葉も究極的には同じことを指しているのでしょう。
著者は、ここからそもそも敵とは何か、と考察を深めて、「私の心身のパフォーマンスを低下させるもの全て」と捉え直します。つまり敵が目の前にいないということは今の自分が可能な限り平静である、ということになるのですが、これをさらに進めると平静で無くなる「私」とは何か、という話になってきます。こうして、相対するものと相和す、気を合わせる、すなわち合気道とは決して神秘論ではなく、不測の事態に反応して押し勝つのではなく、外的な全てと同期する技術だということ、それは多かれ少なかれ武道に共通する思考回路だということが解き明かされていきます。
著者の議論はつねに著者本人の経験から語られるので、例えば西洋やアジアの他の国ではどうなのか、といった、普遍性のある議論にはつながっていきません。しかし、個人の体験として確かに腑に落ちるものを含んでいます。
戦前から、政治家や軍の将軍などが道場で稽古に励んだと言いますが、それは外敵を路上で倒すためではもちろんなくて、こうした瞬時の平静、言い換えれば危機での判断を研ぎ澄ますためのトレーニングだったとの捉え方は、まさに現代に生きる我々にとっての「修業」の的確な要約なのでしょう。
Posted by ブクログ
修行論は、内田樹さんの本で過去に実本で購入したんだけど処分してしまっていた。久しぶりにタイトル見て懐かしいな、と思いダウンロードして読み直したけど、相も変わらずの内田節満載で非常に面白かった。4つの文章を1つの本にまとめているので、ご本人曰く「幕の内弁当」の様な本とは書いてあるけど、どの文章も修行というのは何なのか、という本質に切り込んでおり、多面的な視点で修行についてわかるので非常に面白い本でした。また、忘れた頃に読み返したい。ただ、内田さんの語りは結構繰り返しが多いので、内田さんの類書を読んでいる人は、割と重複する内容も多いのでその点のみ要注意ですね。
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「修行」じゃなく「修業」。
『稽古は、競ったり、争ったり、恐れたり、悲しんだりすることを免れて、ただ自分の資質の開発という一事に集中することが許された、特権的な時間である。道場はそれを提供するための場である。』(P115)
『「いるべき時に、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ことができる能力。それが武道修行が開発すべき能力である。』(P212)
またいつか。
20140818
Posted by ブクログ
武田鉄矢氏のラジオでの紹介で知り読み始めました。
当たり前に日常を生きていたら絶対にぶつからない世界。「何かが違う」違和感を持ち続けている人達へのメッセージ。勝ち負けで一喜一憂する事よりも深いことでしょう。名人伝の別のバージョン、あるいは解説書ともとれます。
キマイラの頁では大相撲をの取組を想像しました。相対して勝ち負けを競っているのではない。行司、審判、観客も含めての一つの'大相撲'になるのだと。立会いから決まり手までの流れが石火の機、啐啄の機であるのでしょう。それはアマチュアの自分有利に立とうとする立会いの相撲とは質を異にする。かつての落語家が落研出身者を弟子にとりたがらなかったのも分かります。
著者も書かれているように'するめ'のように何度も噛みごたえのある良書だと感じました。
Posted by ブクログ
哲学を論じたりしていると同時に合気道の稽古を40年も続けているとは尊敬に値します。継続とは力なりで私も長く稽古を続けられるものを身につけたかったと思います。
さて、内田先生が合気道を始めたきっかけは自身の弱さを自覚していたから。身体的に虚弱であるために普通は強くなりたいと考えるのですが、先生の場合、自身の弱さの構造と機能について研究することだというのですから、いかにも哲学者らしい。
修業とは「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という理屈抜きのもの。努力すれば報われる、とか結果がこうなるとかではない予測不能、始める前は意味不明であくまで事後的、回顧的なもの。「努力とは一種の商取引である」という風潮からすると理解できないだろうと言います。
そして、稽古で身につけるべきもっとも大切な能力は、「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する力」すなわち「生き延びるため重要な力」だと言います、稽古での力を発揮する場は現代では、生業の現場となります。ここでは集団をひとつにまとめる力が必要になります。非常時には「自我」がリスクになる。とは象徴的な言葉です。
昨今の雑踏での死傷事故や安易なsns利用で巻き込まれる事件などが思いあたります。
遥か昔に人類が身につけていた危険回避や集団で動く習性は生き延びるために必然でした。他者と共生する技術、同化する技術が、一見便利で安全と思われる現代では、より養わなければならない力なのでしょう。
この他にも、弱さと無知は同一の構造で変化することへのつよい抑制だと述べています。「無知」とは学び変化することを妨げる力である。学校教育がなすべきことは、学生の頭にぎっしり詰まって、どろどろに絡みついて、ダイナミックな「学び」の運動を妨げているジャンクな情報を「抜く」ことだというのは流石です。今の世の中、情報はネットの海に溢れそれに溺れている者を救うのは容易なことではありません。
Posted by ブクログ
手軽に読めるエッセイだけど噛めば噛むほど味がでる書物(あとがき)なのが、内田先生らしい良書です。
この方、物凄く頭の良い方だと思うので、権威ばって難しく書こうとすればいくらでもできるのでしょうけど、どうやら無知蒙昧なバカな子供(私も含め)を啓蒙することをご自身の天職とお考えのようです。本書のテーマの一つに、「修行や学びは成し遂げた後になって初めて回顧的に理解できるように構造化されている」ということで、本来は、「分かってる人たち」と「分かりようもない人たちたち」に分断されているばずなのですよね。低いレベルに居着いている我らには、文字通り想像もつかない世界があり、そこは本来隔絶されてるのだけど、そこをできるだけ分かりやすく架橋しようとして不思議なサービス精神を発揮しておられ、なかなかこういう人はいない(だから人気)と思うのです。
内田先生には多くの著作があるのですが、「学び」を語らせると真骨頂で、根っからの教育者なのだろうと思いました。
あと、瞑想の章で、「自我は額縁であり、必要なときには着脱できなければ危機を生き延びることは難しい。その訓練が瞑想なのだ。」とありました。
レベルが異なる話かもしれませんが、コロナ禍で大量発生している歪んだ自我の洪水を見るにつけて、「生き残れない集団なんだな我々は…」と感じています。
Posted by ブクログ
幼児の神のくだりが最高に良かった
なぜ
レヴィナスと武道に傾倒したのか
分かりやすかった
この本は
価値あると思う!
上から目線に聞こえたらごめんなさい
Posted by ブクログ
文化放送の武田鉄矢今朝の三枚おろしで、取り上げられていたのがきっかけで読んでみた。期待した程に良くなかったけれども、次の引用箇所がとても良い。
p203「そもそも原理的に言えば、「無駄な稽古」というのはないのである。いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得がたい経験である。「なぜ、これほど稽古してもうまくならないのか」という問いをまっすぐに受け止めて、稽古に創意工夫を凝らしたものは、出来のいいプログラムを丸呑みして無駄なく上達し、ついに悩んだことがないというものよりも、しばしば深い。」
この部分があったからこの本は良いと言える。
Posted by ブクログ
けれども、兵法者の仕事を妨害するものがいる。それを「反−兵法者」と呼ぶことにする。「勝負を争い、強弱に拘る」ことをつねとする人間のことである。
彼は、キマイラ的身体というようなもののあることを知らないし、その機能も有用性も知らない。反−兵法者は自我に固執する。自分ひとりの五感や価値判断に居着き、自分ひとりの生存を優先し、他者との協働身体の校正を拒む。
そのような利己的個体は、どのような危機的状況においても必ず出現する。そして、あらゆるハリウッド・パニック映画が教えるところでは、そのような人間が真っ先に死ぬのである。
説話原型的にはそういである。だが、説話原型が「そう」であるということは、「ほんとうはそうではない」ということを意味している。同じ話が倦むことなく繰り返し語られるのは、その教訓が少しも生かされていないからである。
残念がら、危機的状況において、人々は類型的な経験則に従って粛々と適切な行動を選択するわけではない。もし、いつでもそのように集合的な叡智に従って人々が行動しているならば、パニック映画など誰も作らないし、誰も見ないはずである。
これだけ執拗に恐怖譚やカタストロフを生き抜く物語が語られ、そのつど「危機に際会したときに自我を手放さない利己的人間のもたらす災厄と、彼の破滅」について描き続けているのは、そういう人間が類的な意味でほんとうに危険な存在であるにもかかわらず、そのような人間がいなくならないからである。
自己利益の追求を最優先し、「勝負を争い、強弱に拘る」利己的個体であることの方が、平時においては資源配分の競争において有利である。だから、平時が続けば、人々は自己利益の安定的な確保を求めて、どんどん「反−兵法者的」になる。なって当然である。
けれども、平時は長くは続かない。どこかで必ず、破局がやってくる。そのときに反−兵法者的な人々は、破局をさらに破局的な状態に導く最悪のリスクファクターになる。
幼児は鏡を見ながら、その動きを真似る。母親の表情筋の使い方を模倣して自分の表情筋を動かし、「笑う」という動作を学習し、それがどういう感情であるかを学習するのと同じことを、鏡像を相手に繰り返す。私たちは感情がまずあり、それが表情に表出されるというふうに考えがちだが、実際には他者の表情筋の模倣を通じて、他者の感情を取込み、それに同化しているのである。
Posted by ブクログ
内田樹著「修行論」
「修行」について書かれた内容ですが、武道のような身体的なことだけでなく、内田先生らしい思想的な面も多く書かれています。
●努力と成果の相関
「努力と成果の相関」を信じて修行すると、人間の身体をシンプルなメカニズムとしてとらえてしまう。
そして「強化」ということを優先的に考えると、どうしても努力と成果の相関を数値的に現認したいという欲望に取り憑かれてしまう。
その例が「ダイエット」である。
「私は私の身体を支配している」という全能感は、きわめて強烈である。
●他者の成長を阻害する理由
相手の成長を阻害したくなる理由として、勝負において「私が強い」ということと「相手が弱い」ということは、実践的には同義であることがあげられる。
そして「私を強める」努力よりも「相手を弱める」ための努力の方が、効果的なのである。
なぜなら「ものを創る」のは難しいし、手間暇がかかるが、「ものを壊す」のは容易であり、かつ一瞬の仕事である。
だから相対的な優劣、強弱、勝敗に固執すると、人は無意識のうちに、同じ道を進む修行者たちの成長を阻害するようになる。
●「生きる力」を中心に
生命活動の中心にあるのは自我ではなく、「生きる力」である。
自我も実存も直観もテオリアも超越的主観性も、生命活動の中心に座することはできない。
内田先生の文章は痛快ながらも、日々感じる「モヤッ」とした現象を、明確で分かりやすい言葉で表現してくれるなあと思います。
時々自分に刺さる痛い言葉もあるのですが、それで目から鱗がボロっと落ちることも多く、これからも読み続けたい作家さんです。
Posted by ブクログ
今の時代、何かを求めれば、すぐに得られるようになってきた。人々は、見返りを期待して行動しがち。
長時間ふんばることは、どういうことか。それを考えたくて読んだ本。
時代の流れが速いからこそ、今、もらえない見返りは
将来的な価値がなくなるのか。
そうではない、普遍的な学びもあるはず。
生き延びる能力=これを鍛えるのはどの時代も同じ
集団をひとつにまとめること。
敵とは、わたしの心身のパフォーマンスを低下させる要素。これを物体的な敵に限定しないひとのほうが、生き延びる確率が、あがる。
何かの因果論があって、心身パフォーマンスが低下する。
修行とは、現在していることの連関が、開示されていない。
Posted by ブクログ
いつもながら教育論に通ずる気づきが非常に多い。
龍馬の修行について、そこにフォーカスしない司馬遼太郎の考え方ではなく、そこ自体に興味がわいたので深堀って欲しかった。
〈問い〉
①合気道って?
②鍛えるとは何か?
〈敵とはパフォーマンスを低下させるもの全て。無敵は、それが敵だと思う自分を消すこと〉
①
合気道の世界には「これでもうよい」という終着点はなく、常に上がある。だから、常住坐臥、日々の生き方そのものを稽古にしていく。
②
・師匠が弟子を殴って何かをさせると、「殴られたくないからやる」という弟子側の合理性基準に合わせていることになる。そうすると、弟子は自分の合理性判断の客観性を過大評価になる。だからあまり採用しない方が良い。言葉で殴るのも同様だろう。
・批判によって強化される「減点法」のマインドセットそのものが「負の力」をはらむ。減点法は、作り出すものより、損なうものの方が多い。減点するには、満点の状態を知っていないとできない。しかし、満点の状態を知っているという事実が、単一の度量衡に居着いていることになる。それ自体が致命的。
Posted by ブクログ
なぜ僕が内田先生の話に耳を傾けるかというと、
それは先生の思想が「身体性」に裏付けられているから。
その「身体性」の元になっているのが、「身体的な」哲学者レヴィナスの思想と合気道なわけで。
修行について書かれた本書を読むことで、その思想のエッセンスに触れることができました。
今回も思考の額縁が少しずれるという、心地よい世界観の変化を体験しました。
「いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得難い経験である」という先生の言葉は、
いくらやってもゴルフが上達しない僕にはとても嬉しい言葉でした。
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入試の現代文で頻出の内田先生の文章。本書も引っ張りだこなこと間違いなしと思いながら読み進めました。それほどに読みやすくわかりやすくまっとうな文章です。
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HANDSの行き帰りシリーズ2冊目です。
修行とはなにかばかりなのかと思えば、弱さについて考えたり、認知のことを書いていたり、とても参考になることが多かったです。
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最近気に入っている著者(昔から読んでいましたが)が合気道・武道に
関して、それから宗教と冥想に関して、最後に司馬遼太郎と坂本龍馬に
ついて書いた本。
面白かったです。
無敵の解釈。敵の解釈として『私の心身のパフォーマンスを低下させるもの』
という解釈とそこから見出された無敵の解釈。昔武道(剣道)をやっていた
私としてもよく分かる部分が多い内容です。額縁をずらす。キマイラ的身体の完成。中島敦の名人伝。レヴィナスによる正義と悪について。等々。。
日々の生活や仕事への態度として非常に役に立つというか
根幹としてもっている感覚に合っているし基準となる考え方です。
Posted by ブクログ
問い
修行とは何か。
自分はどのように修業すべきか。
答え
修業は、「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することを目的として行う。それは、実はめざしていたものとは異なるものが得られる過程でもある。
「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」。舞台とは「真剣勝負の場」である。生業と稽古は表裏一体のものでなければならない
要するに、生業でのパフォーマンスを上げるために修業する場を自覚的にもつということ。
キーワード
修業、天下無敵、石火の機、卒啄の機、木偶坊・操り人形・案山子、弱さ・無知、居着き、科学的と科学主義的、鍛える発想、稽古、瞑想、額縁、狐疑・駝鳥、キマイラ的身体・複素的身体、自我着脱の訓練、安定打座、「我なし、敵なし」、ブリコロール、無刀の刀
抜粋
因果論的な思考が「敵」作り出す
(武術は、)実践的な意味での生き延びる力である。
戦場では、先頭能力として示される力が、平時では例えば統治能力として顕現する。生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」
「敵」とは「適切な方法を採れば、事前に除去しうるパフォーマンス向上の阻害要因」
「無敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することが意味する。
「額縁」というのは、「絵を囲っているもの」である。「この中に描かれているのは現実ではありません。絵です」ということを私たちに指示するのが額縁の役割である。=「現実と非現実の境界線」
目の前に出現した「もの」に、最適の「意味の度量衡」をあてがうこと
「額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある」
「私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選定することができなければならない」
瞑想のもたらす最も重要な達成は「他者との同期」である
「今・ここ・私」という不動の定点と思われたものから離脱して、「今」ではない時間、「ここ」ではない場所、「私」ではない主体の座に移動することである。
人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。
(天才は)修業が不要な人のことではない。天才とは、自分のしているルーティンの意味を修業の早い段階で悟り、それゆえ、傍からから見ると「同じことの繰り返し」のように見える稽古のうちに、日々発見と驚きと感動を経験できる人のことである。
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好きな著者・内田氏の修行についての考え方。
【修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない】
ここでいう修行は、「与えられた努力を要するもの」という意味合いに捉えている。例えば、「古典を読みましょう」とか「滝行しましょうとか」。
その先には、「先人の知恵を得られるぜ!」「次の国語のテストでいい点取れるぜ!」というインセンティブを事前に与えてやらせることはできるけれど、それは修行の価値ではないよ、ということ。
本質的な価値は、古典を読んだ後に残る、「古典の思考を得られた」「点数の取り方がわかった」「好きな作家ができた」かわからないけれど、「個の意味付け」によって決まるから、事後的なんだよ、ということだ。
インプットは同じでも、それを介在する人が十人十色なので出てくるアウトプットがばらばらになる。至極当然。
でも現実は周りに決められた価値で染められてしまう・染められた方が楽だなと思う場合もあるから、まずやってみて、自分で解釈しないとだな。
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戦はいつはじまるか判らない。
つまり、その瞬間に最大のパフォーマンスを発揮できるようにするのが日々の稽古であり修行である。
故に「次の○○大会を目標に頑張る…」などというのは、余り賢い発想とは言えない。
とにかく生き延びること。
それ以外の、例えば競争相手やタイムなどは全然取るに足らないモノである。
その生涯を通して走り続けるところに意義がある。
鉄人レースの醍醐味もそこにある。
Posted by ブクログ
『下流志向』(講談社文庫)や『先生はえらい』(ちくまプリマ―新書)と同じテーマを扱った本ですが、それらの本が既存の知性への批判が中心だったのに対し、本書では既存の知性に代わる身体に根差した知性のありようを「修業」という言葉によって直接的に論じているような印象を受けます。
書き下ろしではなく、著者がこれまでに発表した4編の論考をまとめた本です。とくに「修業論―合気道私見」と題された最初の論考がもっとも著者の思想がまとまって提出されているように思います。
なるほどとうならされるところも多かったのですが、やはり「身体の知」を批判原理としてではなく、直接的なものとして語ることには危うさを感じてしまいます。「修業の意味は、事後的・回顧的にしかわからない」と著者は言いますが、そうだとすればなおのこと、それは従来の知のありように対する批判原理にとどまるべきものであるはずです。そうした知が直接的に提示されてしまえば、それはあらかじめ批判的検討を封じてしまう独断的なものに堕してしまうか、あるいはそうでなくとも、私たちには独断と区別する術が存在しないようなものと言わざるをえないのではないでしょうか。
Posted by ブクログ
内田樹さんが修行・修練について哲学を述べています。
自分は哲学のコトはよく分かりませんが、文章からは修行への心構えのような、また気休めのような印象を受けます。
読みやすいのですが、分かりやすいか?と問われれば返答に困る一冊です。
Posted by ブクログ
いま認識しているところの延長ではなく、別の次元にうつる感覚。
不射の射。
やっているときはわからないけれど、振り返ってみて気付くことに近いのかな?
C0230
Posted by ブクログ
喩えて言えば、「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。p96
「私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選択することができなければならない」p127
Posted by ブクログ
内田樹という作家は最近粗悪品濫造のきらいがあったが、本書は4章を除けばかなりまっとうな書である。
敵=万全の自分を阻害するもの、キマイラとしての同機、「いま・ここ・私」を離れるための瞑想など面白いと思わせる部分がある。
一見意味がないと思われるルーティンの反復から何を得るかという視点は今さらながら再認識されていいだろう。
ただ、相変わらず歴史を語り出すと、てんでダメ。論述の方法がなってない。