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Posted by ブクログ
いつもながら教育論に通ずる気づきが非常に多い。
龍馬の修行について、そこにフォーカスしない司馬遼太郎の考え方ではなく、そこ自体に興味がわいたので深堀って欲しかった。
〈問い〉
①合気道って?
②鍛えるとは何か?
〈敵とはパフォーマンスを低下させるもの全て。無敵は、それが敵だと思う自分を消すこと〉
①
合気道の世界には「これでもうよい」という終着点はなく、常に上がある。だから、常住坐臥、日々の生き方そのものを稽古にしていく。
②
・師匠が弟子を殴って何かをさせると、「殴られたくないからやる」という弟子側の合理性基準に合わせていることになる。そうすると、弟子は自分の合理性判断の客観性を過大評価になる。だからあまり採用しない方が良い。言葉で殴るのも同様だろう。
・批判によって強化される「減点法」のマインドセットそのものが「負の力」をはらむ。減点法は、作り出すものより、損なうものの方が多い。減点するには、満点の状態を知っていないとできない。しかし、満点の状態を知っているという事実が、単一の度量衡に居着いていることになる。それ自体が致命的。
Posted by ブクログ
問い
修行とは何か。
自分はどのように修業すべきか。
答え
修業は、「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することを目的として行う。それは、実はめざしていたものとは異なるものが得られる過程でもある。
「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」。舞台とは「真剣勝負の場」である。生業と稽古は表裏一体のものでなければならない
要するに、生業でのパフォーマンスを上げるために修業する場を自覚的にもつということ。
キーワード
修業、天下無敵、石火の機、卒啄の機、木偶坊・操り人形・案山子、弱さ・無知、居着き、科学的と科学主義的、鍛える発想、稽古、瞑想、額縁、狐疑・駝鳥、キマイラ的身体・複素的身体、自我着脱の訓練、安定打座、「我なし、敵なし」、ブリコロール、無刀の刀
抜粋
因果論的な思考が「敵」作り出す
(武術は、)実践的な意味での生き延びる力である。
戦場では、先頭能力として示される力が、平時では例えば統治能力として顕現する。生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」
「敵」とは「適切な方法を採れば、事前に除去しうるパフォーマンス向上の阻害要因」
「無敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することが意味する。
「額縁」というのは、「絵を囲っているもの」である。「この中に描かれているのは現実ではありません。絵です」ということを私たちに指示するのが額縁の役割である。=「現実と非現実の境界線」
目の前に出現した「もの」に、最適の「意味の度量衡」をあてがうこと
「額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある」
「私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選定することができなければならない」
瞑想のもたらす最も重要な達成は「他者との同期」である
「今・ここ・私」という不動の定点と思われたものから離脱して、「今」ではない時間、「ここ」ではない場所、「私」ではない主体の座に移動することである。
人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。
(天才は)修業が不要な人のことではない。天才とは、自分のしているルーティンの意味を修業の早い段階で悟り、それゆえ、傍からから見ると「同じことの繰り返し」のように見える稽古のうちに、日々発見と驚きと感動を経験できる人のことである。
Posted by ブクログ
好きな著者・内田氏の修行についての考え方。
【修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない】
ここでいう修行は、「与えられた努力を要するもの」という意味合いに捉えている。例えば、「古典を読みましょう」とか「滝行しましょうとか」。
その先には、「先人の知恵を得られるぜ!」「次の国語のテストでいい点取れるぜ!」というインセンティブを事前に与えてやらせることはできるけれど、それは修行の価値ではないよ、ということ。
本質的な価値は、古典を読んだ後に残る、「古典の思考を得られた」「点数の取り方がわかった」「好きな作家ができた」かわからないけれど、「個の意味付け」によって決まるから、事後的なんだよ、ということだ。
インプットは同じでも、それを介在する人が十人十色なので出てくるアウトプットがばらばらになる。至極当然。
でも現実は周りに決められた価値で染められてしまう・染められた方が楽だなと思う場合もあるから、まずやってみて、自分で解釈しないとだな。