内田樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「下流志向」というタイトルを見て、林真理子さんの「野心のすすめ」に出てくる「低め安定」を連想したのですが、論旨には共通する点もあったように思います。
「学びからの逃走、労働からの逃走」という本書の主題は非常に示唆に富むもので、年月を経てもまだまだ説得力のある部分が多かったです。
若者たちの合理性という点について、本書では経済的な観点から、彼らが幼いうちから労働の主体ではなく「消費」の主体として自己を確立していったと言います。
そのため、教育も消費の対価と捉え、教育に価値がないと判断すれば学びから積極的に逃避するが、それが合理的な価値判断になっていることを論じています。
「これを勉強して何の意味があるんですか?」このように教育を消費の対象として問うことが自らの成長を妨げ、自分自身の未来を売り払っている、という指摘は厳しく、しかし鋭いものでした。
また、第四章では、コミュニケーションの重要性や師弟関係の本質などについて対話形式で語られており、人への敬意や尊敬のあり方などが深く印象に残るポイントでした。
もう一つ、巷でよく語られる「自己決定・自己責任論」について、弱者は弱者であることの自己責任を自分で引き受けなければならないが、強者とは違ってそれを引き受けることができないから、弱者を支える「余計な仕事」は行政が引き受けるべきだということになり、結果、自己決定・自己責任論と高度社会福祉論は実は背中合わせである、という考え方にもなるほどと思わされました。
共同体的なコミュニケーションが失われることで、共助的な助け合いの領域がどんどん狭まっているのは、まさに今の社会が抱える大きな課題なのです。
著者の主張は、分析に基づくというよりは独自の教育論的な部分も多く、ちょっと考え方が違うかな?と感じる部分もありましたが、自分の中で色々と思考を巡らせることが出来た面白い一冊でした。 -
Posted by ブクログ
内田さんの道徳観とか公共の中の個のあるべき姿と思っていること、またそこから来る教育に対する考え方とか組織論、政治や国際関係に対する考え方まで、私にはしっくりくることばかりだった。
数字で語るよりも肌感覚で言っていることが多く、昭和感も強めに感じるが、今だからこそそういう感覚が大事なのだと感じさせられる。どんなに文明が発達しようが、技術が発展しようが、民主主義のトレンドが変わろうが、金の稼ぎ方が変わろうが、根底にある、社会の中の人として平和で幸福な世の中にするためにみんなが共有すべき道徳は、ちゃんと受け継がれていくようにしなければならないと強く感じた。
「市民的成熟」とか「統治コスト」とか、私は耳慣れないが、それらの中に重要な考え方が詰め込まれている、深くて対象をうまく言い表すことばがチョイチョイ出てきて感心させられた。
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Posted by ブクログ
この本には理想論が溢れている。「そんなこと無理だよ」と、切って捨てるのは簡単だ。
しかし、筆者は教育者だ。教育者が理想を語らなくてどうする。たとえ、その声が多くのひとに届かなくても、人に教える人間は理想を説き続けなければならない。さもなくば、身勝手な人間が蔓延り、酷い世界に、日本に、気づいたら変わってしまっている。
私はこの本に大賛成だ。
SNSに溢れかえる中傷に関しては、承認欲求が強い人は「破壊者」にはなるが、「創造者」にはなり得ない。
また、なぜ私が自己啓発本、成功者の本が嫌いかということにも、勝ちに居着いた人が成長を止め、己の生き方が標準的なものとして他人に押し付けようとするからだと、この本で気付かされた。 -
Posted by ブクログ
『内田)最近はよく「ナラティブ」という言葉が使われますけれど、それを「物語」とか「幻想」とか「フィクション」と言い換えてもいいんですが、要するに、脳内に形成された「現実を解釈するためのお話」です。客観的実在の裏づけがないにもかかわらず、この「物語」が大量の感情エネルギーを動員することがある。そして、その物語に引きずられて、劇的に現実が変わることがある。感情が歴史を変えることがある』―『第一章 情念と政治』
養老孟司と内田樹。この二人の先達の言葉を聞いている時、思考という脳の働きを越えて意味が直接響いて来るような感覚に襲われることがしばしば起こる。展開する論理に共鳴していることはもちろんだけれど、何か得体の知れない感覚で直截的に「解る」という感覚に辿り着いてしまうのだ。それはある意味では「思考停止状態」でもあり、決して褒められた話ではないのだけれど、その快感とでも言うべきものを求めて、時々著書やネット上に散らばる文章を読む。
もちろん、解剖学者と仏文学者という思考の癖の違いはあるのだけれど、このお二人に共通するのは「思考の身体性」への信ということになるだろうか。「唯脳論」という題名の著書を記している養老先生ではあるけれど、「意識」が全てを司っているとは考えていない。そしてデジタルという言葉が象徴するような「言葉(情報)が全てを記載できるとする世界」と「現実に存在するものからなる世界」との違いを、科学的な思考も交えて整理し何が自分たちの感覚(意思決定)に関与するかを読み解いて見せる。その一方で内田師は合気道を修めるものとしての身体性への感覚から言葉を越えた理解への道筋を常に語りつつ、映画や現実世界で起きている動きに対する読み解きを大脳皮質的な論理ではない、身体の感覚に根差した理屈として語る。
常々、この二人の理路はどちらも刺激的だと感じてきては居たのだけれど、冒頭の内田樹師の言葉を聞きながら、はっ、とする。そうか、この「物語性」に惹かれているのか、と。物語が、聞いている側を「思考停止」にさせてしまうのか、と。例えば、仕事上の混み入った話や、技術的な議論でも、こちらが尊敬するような人との会話では、その場でこそ判ったような感覚になるものの、後から振り返ってその論理の展開を自力で追いかけようとすると何も理解できていなかったことが解る、という話にも似た感覚。この二人の著書を読んでいる時に陥る感覚はこれなのかと、はっ、と気付いた。
『内田)異界に引き込もうとするシテと日常に戻ろうとするワキのこのやりとりが能の前半の面白いところだと安田さんに教えて頂きました。
養老)伺ってて、あれを思い出した。ニーチェのギリシャ悲劇論 『悲劇の誕生」。
内田)コロスの話ですね。
養老)そう。二重性を語っているでしょ。僕流にあれを解釈すると、眼と耳。眼的なアポロ。アポロ的な明晰な論理でしょ。それに対してディオニュソス的というのは耳なんです。歌なの。
内田)アポロが眼で、 ディオニュソスが耳。
養老)そうそう。というふうに僕は思うんですけど。眼は本当にそういう意味では、単純に論理的なんですよ。ところが、耳のほうは非常に深い。奥底につながっていて、だからまさにディオニュソス的ってそういうことじゃないですか』―『第四章 言語の身体性』
アポロとディオニュソスの対比の話は結構有名な話ではあるけれど、どちらかと言えば「静と動」の対比というような感覚で捉えていた。かつてとある男声合唱団のエールで自分たちをディオニュソスの末裔と擬えてみたことがあるのだけれど、それも有名なローマ神話の酒の神にて冬季限定のアルコール飲料入りのチョコレート菓子の名前でもあるバッカスのギリシャ神話での神がディオニュソスであるというところから思い付いたことであり、参加していない側からは「動きのない」活動に見られ勝ちな合唱、特に男声合唱への思いも込めて擬えたのだった。それ故、このアポロとディオニュソスの対比を「眼と耳」と読み解く養老先生の言葉を聞いて、意外なところで「音」への繋がりがあると改めて教わった。確かに、音楽は楽譜という情報を基に再現されるものではあるけれど、そこで表現されるものは楽譜に書かれている最小限の情報の伝達以上のものであり、それは伝える側の「声」と受け取る側の「耳」との間が交わされる何か。恐らく声が語るもの、耳が聴き入るものは「物語」なのだろう。もはや自分は歌を忘れた鳥であるけれど、そのことはかつての歌仲間に教えてあげたいと切に思った。
それにしても、あとどれだけこのお二人の話を聞くことが出来るのだろうか。そんなことをしみじみと思う読書になったことを、少しさみしく思いながら読み終える。 -
Posted by ブクログ
驚いた。
これまで著者のことは存じ上げず、たまたま(なぜか)本屋で手に取ってなんの前情報もなしに読んでみた。
賢い人だなぁ程度で読み始め、気付いたら止まらなくなっていた。
この人は、今まで読んだ本の中で全く違う思考の持ち主だ。
自分の考えを述べているのに押し付けられる感じはなく、もともと自分の考えであったかのように「そうだよな」となる。
かと言って、正直何を言いたいのかは理解できない。
理解できないことを言っているのになんとなく全体像だけ掴まされる。
例えるなら、ぱっと山の景色を見せられて「山だ」ということは分かるけど、どれだけ深いのか、どんな種類の木々や生き物がいるのかは全く分からない。しっかり読めば分かりそうだけど、それでも全ては分からない、という感じ。
なぜ今までこの著者の本と出会わなかったのだろう。
今から開拓できることに楽しみしかない。