内田樹のレビュー一覧
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初版2009年。著者内田樹はこの本の要約を梅棹忠夫の「文明の生態史観」の次のような文章を引用して述べています。
「日本人にも自尊心はあるけれども、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」
そして結論として、
『日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。』
と述べている。
日本人とはどんな民族なのか。人類の発生源はアフリカだから、地図上で言うと日本は遠い所の一つだし、アラスカ通ってアメリカ大陸に行ったのはさらに遠いような気がする。
地理的にみると日本は中華思想の辺境にいて元々貧しい国であったようだし、現在は地政学的にみると端にあって魅力に乏しく、アメリカと中国の2強に挟まれていて落ち着かない。しかし、2000年代に中国に国力を追い越された時、実は日本はお得なポジションに陥ったと考えた方が良い。法則として、1番と2番が競う形になるのだ。漁夫の利のような現在の状況が良く、3番以下位の方が余計な摩擦がない。
人生についての考察も無限に続くように、国家についての考察も無限に続くんだから、日本はよく考える人の国と言えるだろう。 -
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学問の自由は私たちの生活とも関係している。学問をすることが自由なのもあるが、学問はそれ自体国の権力から自由で独立したものでなくては、また再び、戦争に使われる可能性がある。過去の過ちを繰り返さないという学者の決意から生まれた学術会議の経緯を知っていれば、今回の件は学者集団にとって、赤信号であるとともに、私たちの身にも危険が近づいていることを示している。
さまざまな学会から声明が出され、報道を賑わせたが、最近また忘れられそうになっている気がしてならない。しかし、このことは決して忘れてはならない。
個人的には内田樹さんの部分が、自分が薄々感じていたことをはっきりと明文化して提示されたようで戦慄が走った。 -
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『日本霊性論』内田樹×釈撤宗
東日本大震災以降、新たに日本の霊性を捉え直すというのが本書のテーマ。内田老師が常々仰っていることが新たに霊性という観点で書かれている。
・霊性とは人智を越えたものを感じ取る構え。「ここに何かがありそうだ」という直感を推し進め、とにかく触ってみる。そして、それを様々な用途で検討し続ける、そのようなブリコロール的な知性も、ここでは霊性と呼べるであろう。非常に面白いのは、科学的知性と宗教的知性は本質的に同じものであるという記述である。「神の摂理が存在する。宇宙の全てを統御している理法が存在するという宗教的な覚知と、万象の背後には数理的な秩序が存在するという直感は構造的には同じである」という言葉は納得がいく。このあたりは、池内了先生の『物理学と神』という本を読むと面白いのだが、ニュートンはまさしく神が創りし美しい世界の論理を解明すべく、物理学の扉を開いたのである。その点では、世界で有数のニュートンは科学者であるとともに、明確なキリスト教徒であった。ダンブラウンの『天使と悪魔』は科学者とバチカンの対立を描いていることや、感覚論として宗教と科学は相反するテーマに思えるが、実はその根本は同じであるという指摘は非常に面白い。日本史上最高の数学者であり、同時にエッセイストであった岡潔もまた、問題が解ける瞬間について「最初に直感的にわかるということが起き、その後5日間くらいかけて、それを数式に落とし込む作業を行う」と述懐している。岡潔もまた、敬虔な仏教徒であったが、宗教的なバックボーンと科学的発見に並々ならぬ関係性があるのは間違いないだろう。内田老師は、ジョブズの「自分の直感に従う勇気を持つ」ことの大切さについて、引用しているが、創造的な仕事をしている人に訪れる「知らないけれども知っている」という力動的な感覚を体感しているのであろう。
・人間社会が存続する為に必要な4つの要素とは、「裁き」「学び」「癒し」「祈り」である。「裁き」:自己利益と集団の利益の葛藤を内包できる人が、裁きの人である。まさしく集団が生き延びる為に、裁きは必要であるが、裁きを下せる人は、個人を越えた集団的な規範を深く内面化した、葛藤を抱えられる人間なのである。古来、人々は集団的な規範を宗教や神に頼ったのである。イーリアスでも神の声に従うという形で、集団的な理法を説く人間がおり、フランス革命も「一般意志」を聴くことがキーコンセプトであった。これらは形を変えて集団を守る、裁きの理法を伝える上で、何らかの形で仮象された存在である。
「教育」:教育論については、今の日本の教育への批判が中心であった。教育は集団が生き延びるためのものであり、自分自身が立身出世できるものではない。そもそも教育の受益者は集団でなければならないという原則が今現在忘れられている。ノブレスオブリージュではないが、教育を受けた人間は、社会に還元せねばならない。まさしく、教育とは贈与なのである。贈与されたものを退蔵するとき、もうその人に贈与はされなくなる。教育という贈与を受けた場合には、必ず贈与をもってこれに応えなければならない。ニーズがあるから学校を始める人はあまりいない。多くの学校設立者は皆、これを教えたい、この知見を贈与したいという欲求から、学校を設立する。その意味では、正確性はさておき、ユーチューバーが世の中にあふれかえっていることは、まさしく人々の贈与の欲望にかなっているからなのかもしれない。
「癒し」:これはまさしく医療であるが、集団を存続させようと思った時、制度設計の基準は集団でもっとも弱い者でなければならない。社会的弱者は、自らの変容態であるという自覚と、弱者の声を聴くという姿勢が社会を存続させる手段なのである。
「祈り」:祈りは、人間が生きる力を高めるマインドセットなのである。それは何かと言えば、外部のものを感じ取るセンサーのようなものである。祈りは、とにかく体中の感覚を研ぎ澄まし、感じることに集中する構えである。偶像崇拝が数多の宗教で禁じられているのは、「人智をもっては知りえぬもの、人間の言葉をもっては語りえぬものと対面するという根源的な経験の絶対的他者性、絶対的な未知性を無傷で保つため」なのである。この絶対的他者性を毀損しないために、偶像が禁止され、祈る姿勢によって、絶対的他者を感じ取るという命がけの跳躍を達成させるのである。世界には人間にとって絶対的に不可知なものが存在するという敬虔さというものをはぐくむことは、まさしく祈りなのである。
そして、これらは現在、資本主義にさらされていると言える。宇沢弘文先生は、これは社会共通資本の中の制度資本と捉え、資本主義や国家とは異なる時間軸で保存されねばならないことを提唱していたが、現状、特に教育と医療の商品化マインドは日本社会全体に横溢している。
また、これらに対置されて「七つの大罪」が挙げられていることは面白い。上記の4つの要素は自他の一体化が自分でも他人でもない共身体の形成を目的にしているか、自我による他者の支配や収奪・占有を目的にしているかで、聖なる行為と罪なる行為に分けられる。
これらを分かつ役割を、内田老師はセンチネル=歩哨と表現しており、現在日本には急速に歩哨の存在が減少していることを述べる。
歩哨とは、共同体の外部と内部の境界線に立つものであり、その資質は他者の思考や体感を同期させる能力である。この能力はまさしく共身体形成能力とも呼ぶべきものであり、歩哨の重要な能力である。他者と自己を分かつ境界線を壁と捉え、壁があることによりできなくなったことを数えることよりも、壁があることでできるようになったことを数え上げる精神性こそが、歩哨の資質である。現代では、自分の弱さや卑しさ、幼さを前面に出す人が増える。開き直りや居直りが政府中枢や大企業幹部でも目立つ。弱さや卑しさは人間の本質的な部分である一方で、一歩も間違えると、非人間的なものを人間社会に招いてしまう扉をあけることになる。まさしく、アイヒマンが一人の凡庸なひとであったように、人々は、非人間的なものを呼び寄せる扉と隣り合わせで生きているという切迫感を持たねばならない。
先程の歩哨という役割について、会社ではどうかと考えたが、これはやはり営業なのだと考える。営業の主題は課題の解決である。しかし、課題というものはなかなか見つからないのが正直なところである。AIに真似できない高度に人間的な営業とは、顧客の思考や感覚と同期し、顧客と共身体を創り出すことで、天下無敵状態で自社のリソースを販売することである。営業はまさしく会社と会社の間に立つ境界人である。会社と会社の境界に立ち、教会があることでできなくなったことよりも、境界があることでできるようになったことを数え上げる。そして、顧客企業と共身体と造り上げることで、自社リソースを前提にしたビジネスを造り上げる。これこそがまさしく究極の営業であり、AIには代替的不可能な、極めて人間的な仕事ではないかと感じた。 -
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何げなく手にとった本だったけど、
最初の方から泣けてしまった。
お互い言葉づかいが丁寧で優しい。
この往復書簡で、あのときききたかった
こととか思っていたこととか、
自分の想いや考えなんかを
整理していってるような感じ。
でも共有した出来事でも、お互い
思ってたことは違っていたりする
という。
最近あきらめとかではなく個人的に
他人でも身内でもやっぱり自分以外と
わかりあえるなんてことは
ないなと思っていたところだったので
この本を読んで安堵するような気持ちに
なったりもした。
とはいっても、そんななかでも
わかりあえたって
思うような一瞬もあるってようなことを
るんちゃんが書いていて、それもよかった。 -
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この夏は長崎に行きたかったが、コロナで行けず、代わりにと手にしたのが本書。キリシタンをテーマに長崎、大阪を紀行する。内容的には潜伏キリシタンを多く扱っている。
釈徹宗、内田樹両先生の当意即妙なやり取りが心地よい。出典等はなく、学術的なものではないのだが、ラフな「しゃべくり」の方がこのコンビには合っている気がする。特に内田先生がその土地に触れて反射的に発するコメントにはキラリと光るものがある。信長や秀吉は成長型の社会システム、家康は定常型として、アメリカも実は定常系なんだというのは面白い指摘だと思う。
4年前の刊行なので、その後、社会は変わっている。アメリカの定常的な社会に、中国が対抗できるほどに台頭してきた。長崎と天草の潜伏キリシタン遺産が世界文化遺産に登録。本書でも話題になった長崎県庁跡地活用はお2人の懸念通り混迷している。内田先生の自論の観光立国日本は、カジノはやめてよねという願いは叶わず、妙な方向へ進みかけていた矢先、コロナ禍で尻つぼみに。
宗教的に日本はあなどれません、という釈先生の言葉は印象的。身近なところに脈々と受け継がれる信仰を探すのもいいなと思うお盆のこの頃。 -
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本好きが本棚に並べているのは、いま読む必要がある本ではなく、いつか読めるようになることを希望している本である。という内容が印象に残った。たしかに私やお父さんを見ても、本棚にある本をすべて読んでいるわけではない。「この人は、こんな難しそうな本も読んでいるんだ」と思われたい、とまでは、私はまだ思っていないが、その考え方も面白かった。
著作権についての話も、長く書いてあった。本そのものに価値が内在しているのではなく、受け取った人が「これには価値がある」と思ったときに初めて価値が生まれる、という話。本に限らずコミュニケーションや経済活動の根本はそのような様相らしい。よって、内田さんは本をタダ読みすることも否定しない。むしろ、それを否定する人たちを否定する。本を商品として、読者を消費者としてしか見ていないからこそ、そんな発想になるのだ、と。
本が売れないようになったからと言って、本を読みたい人が減ったわけではないともある。これは、紙の本を守りたい私からしても、心強い言葉だ。しかし私も本をタダ読みすることへの抵抗感が若干あった。読ませてもらっておいて、払わないなんて、と。しかし無料で読書する人を、もう責めまい、と思った。払う必要があるかどうかは彼ら自身が決めて良いことなのだ、きっと。 -
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「古典の知識つけたいな。難しいかな、でも学んで知ることができたらこれからもっといろんな本を楽しく読めるだろうな。ものの見方も変わるかもしれない」そんな思いを持ちながらも何もしていなかった私が、入門のようなものになるかもしれないと思って手に取った本です。読んだから知識が増えた、とは言えないけれども、自分のいろんなところが沢山の刺激を受けて、興味を示す範囲がぐんっと広がった感じがしました。心境の変化があったり、環境の変化があったり、少し期間を開けてみたり、そういう風にしながら何度も手に取って、言葉を咀嚼して、長く長く自分の変化を感じながら読んでいきたい本です。
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イスラム、ユダヤ教に関する討議はもちろんとても勉強になったし面白かったのだけど、現在のアメリカ主導のグローバリズムに関する話が特に面白かった。
今の英語教育、グローバル化というのは結局日本が繁栄する手段というよりアメリカ主導の資本主義の中で個人プレーでどう成功するかの手段にすぎない。わたしもなんとなくグローバル人材という耳触りの良さで英語を勉強したりや海外勤務を希望したりしていたのだけど、自分が目指していたものは一体何なんだ??と考えさせられた。
もう少し自分の働き方というか、行動の軸を詰めて考えたい、と思わせられた本だった。内田樹の本ってだいたいそうなるんだけど。