内田樹のレビュー一覧
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面白かった。
本人も書いておられるように「ずいぶん力んで書いている」力作であります。
消費者として全てを同時性の中で生き、世の中を等価交換で見る体質。
こういったことが学びを馬鹿にし、労働を無意味なものと見る価値観に結びつくと見る。
解明していく際の気押される程の勢いある文章に引き込まれて行く。
学校内の状況は改善はされてきているのだろうか。
ニートの数は減少しているのだろうか。
外からは見えない隠れた部分。実態を知る術が無いが、良くなってきていることを望む。
対談部分は文庫化に際して削っても良かった気がする。何か著者にもしがらみがあるのかも知れないが… -
Posted by ブクログ
ネタバレ内田樹自身による自分の著作物紹介。
リストアップされた自著の解説、というよりそれを契機に思いついた話を展開するというウチダ先生のいつもの流れ。ともあれ1冊で何冊分ものウチダ節を聴けるお得なものとなっている。
1.ためらいの倫理学
著者のデビュー作。フェミニストなどの「正しさ」に欠けている「倫理」の考察。
2.先生はえらい
中高生向けに初めて書かれた師弟論、教育論。教師に勇気を与える内容。内容が大学入試に多く採用されることで有名。
3.レヴィナス序説
コリン・デイヴィスによるレヴィナスの解説書を和訳したもの。
フランソワ・ポワリエ「暴力と聖性」は読みやすい。
サロモン・マルカ「レヴィナスを読む」
以上3翻訳はいずれも絶版。
4.困難な自由
レヴィナスによるユダヤ教についての試論。
内田氏が最初に触れて虜になったレヴィナスの書。
5.レヴィナスと愛の現象学
内田氏によるレヴィナス解説書の第一弾で代表作。
6.街場のアメリカ論、街場の中国論、日本辺境論
最初の2冊は神戸女学院での講義録から作成
最後の1冊は新書大賞2010受賞作品。
→いずれも日本のプロの社会学者には出来ない視点からの考察
7.昭和のエートス、おじさん的思考
昭和的なものへのオマージュと、リベラルで真面目で勤勉な日本の正しいおじさんによる常識的な世相批判→ウチダファンが増大する契機となる
大きな義理と小さな義理の対立→小さな義理を大切にする
8.下流志向
市場原理主義の教育への持ち込みにより、学びや労働の意義が損なわれている現状批判。 -
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本書は現代社会に蔓延する「生きづらさ」を緩和するために、政治や教育における最善の選択肢を提示し、想定されうる暗い未来について思考が停止する日本の国民性については批判的に書かれている。本書では「生きづらさ」を、自分の機嫌が損なわれる場所にいることで起こる心身の不一致と定義している。本書では「生きやすさ」について直接語られることはない。なぜなら文中で列挙されていた「生きづらさ」やその要因を再考し、解消していくことで、心身のズレが修正され、自由度が増し、その結果生きやすくなるという筆者のメッセージだからである。そして我々は後の世代へ「生きづらさ」を残してはいけない。
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『健全な身体に狂気は宿る』
日系大企業から外資系企業に転職し、まず聞かれたことが「あなたのDifferentiatorは何か?」ということだった。そして、海外から来た上司や英語話者によって、Differentiatorと強みは同義ということにも衝撃を受けた。差異がそのまま強みになる。あなたにとって何が人と違うところなのかという問いを突き付けられ、あなたにしかできないことはなんですかと聴かれることは初めてであり、爽快だった。本書でも、自分のミッションを考えるときは、自分が他の人とどう違うかということを考えると言う点があり、先述の考えに非常に近いなと感じた。さらに、もう一歩踏み込んで、自分自身の謎があるからこそ、生きる意味があり、何かを創造する源泉があるということは面白かった。常に自分自身への謎を持つことが良い。
私自身、性別を問わず、好きなタイプの人は一見物静かだが、話始めると熱いという人物だが、そういう人々は、絶えず疑問を持っているケースが多い。あまり疑問を持たないようなところに疑問を持ち、悶々としている。悶々とはしているが、なぜなんだろうと常に謙虚な姿勢で日々過ごしている。だからこそ、物静かに見える。しかし、一見話始めるのは熱いなと感じるのは、彼らにとってその疑問を解消しなければ、動けない、生きていけないような根源的な疑問だからだろう。薄っぺらな仮説とか、ビジネスアイデアとはレベルの違う、この問題を解かなければどうにもこうにも生きていけないという重さで、疑問に立ち向かっている。そう言う人間の熱量が低いわけもないのは当たり前だろう。
時折、仕事のモチベーションについて考えるときがあるが、やはりそれは疑問なのだと思う。人と話せば話すほど謎が深まり、なぜそうなのかと考えるからこそ表現しようとする。わかり切った仕事はいくら稼げてもおもしろくない。自分自身に置き換えれば、自分はリスク認知度が異常に低いように思う。保険の営業をかけられても常に疑ってしまう。人々が保険に入らない理由を常に考えている。未来はよくわからないし、リスクなんで考えたくもない。リスクシェアをする共同体にわざわざ身銭を切ってい入る価値があるのかわからない。だから、この仕事をしているのだと思う。営業には2つのタイプがあって、自社商品やソリューションを盲信して、その熱量で押し切る人もいるが、一方で、常に自社商品に入る必要があるのかと考え続ける人がいる。前者も後者も強い。前者で上手く行っている人は、自分の熱量で押し切れる人を探すのが上手い。当たりはずれが激しいので、数を打ちまくり、感覚を磨いている。一方で、後者は数を打つことはできない。ただ、長期的に多くの人が納得するような解決策を出せると思う。なぜなら、その商品の要否を誰よりも考えた経験や引き出しがあるから、いかなる質問にも答えられるし、いらないときはいらいないと言うので信頼はされる。(営業としては失敗だが)。しかし、頼られる存在になることで、長期的な関係性は築くことができる。
とりとめのない話になってしまったが、いつもそうなのだが、内田老師の本は、脳にドライブをかけ、何かを書きたいと思わせる伝染力がある。
<以下、引用(一部)>
信仰というのは、自分と言うのは自己決定・自己実現によって主体的に構築したものではなくて、超越者によってこの世界に送り出された被造物であると言う意識のことですから。ぼくが生まれてここにいることも、いつか死ぬことも、僕には選ぶことができない。そのことには何かの意味があるはずだ。自分がこの世に送り出されてきたのはどのようなミッションを果たすためなのだろうと発想するのが信仰ですからね。
では、私の使命は何かという風に考える人は、自分が他の人とどう同じかじゃなくてどう違うかということを考えますでしょう。これは私以外の誰にもできないことなんじゃないかとか、ここは私以外には誰も行きそうもないところではないか。
自分自身に対する無知というものがあって、その欠落こそが、いわば創造の泉みたいなものなんですから。
(中略)人間は自分について「知らない」からこそ生きていける。自分自身の核に無知がない人は、ものを作ることができないんですよ。
コミュニケーションとは分かり合うこととは次元が違うことなんですよ。コミュニケーションというのは、深まれば深まるほどわからなくなっていく。わからないから「もっと知りたい」と思う。わからない人だからこそ、経緯やイフの気持ちが深まっていく。自分自身についてだってそうなんだから。自分自身と五十何年つきあってきて、ますますわからなくなってきた。(中略)自分が何を考えているかわからないから、本を書いたり、こうやって人と話したりして、自分の考えを知ろうとしているわけでしょ。自分の考えていることを知っていたら、本なんか書きませんよ。退屈で書けません。 -
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ネタバレめちゃめちゃ面白かった。
時事系のエッセイを読むのは初めてな上、トピックは2018年ごろのものが多く若干古かったが、どの章も楽しんで読むことができた。
筆者の語り口がとてもロジカルで冷静であることが特に印象的だった。全体的に内容は暗く、日本に対する警鐘を鳴らすものが多かったが、特に筆者が悲観的な見方をしてるわけではなかったので、日本の将来に正しく危機感が持てたと思う。
他の著作も読んでみたいととても思った!
【余談】『トップガン』を見て、(1986年、戦後40年しか経ってない時期によくこの映画が日本で流行ったな…)と思ったことがあるが、この本のあとがきを読んで、その理由が分かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ武田鉄矢さんのラジオを聞いていると、内田先生の話がしばしば。ずっと気になっていた人だけど、やっと一冊手に取ることになりました。民主主義とは何か、株式会社と民主主義、アメリカとの関係と護憲の問題、リバタリアニズム、それと大学の話。自分の考え方がいかに薄っぺらな表面的なものなのか、改めて考えさせられる一冊でした。先生は「皆が言っていないようなことを言う」と本人がおっしゃっているけど、確かに。根っこにこういうもんだいがあって、そこから考えると見える姿も変わる。もう少し色々勉強したいと思わされる深い内容でした。そして、株式会社と民主主義を改めて考える機会を持てたのは、自分にとってとても良いタイミングだったような気がします。
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『変調 日本の古典講義』 内田樹×安田登
本書のあとがきで、安田登さんが内田樹の本について、読み終わったあとに何も覚えていないということをお話されていたが、全く同じことを私も正直なところ、思っていた。おそらく大学1年生から約10年間で70冊程度の内田樹の著作を読み漁ってきたが、この本について何が語られていたのかを話すのは至難の業である。ただ、全く覚えていないのであるが、読んでいる途中の自分、読んだ後の自分は不可逆的に何か違うものになっていることはわかる。
特に、読んでいる最中には、どこかで思考のスイッチが入り、今自分の身の回りで起きていることや仕事等で悩んでいたことへの打開策が見えてくるというとても不思議な力が内田樹の本にはある。
本はただ知識を得るためのものではなく、知識と知識の連関が見えるまで抽象度を飛ばし、そこから足元までゆっくりと丁寧に下りてくる(どうしても身体的な言葉での表現になってしまうが)ような、一つのアクロバシーに身体と脳をゆっくりと漬け込んでいく全身的(漸進的でもある)なプロセスであると内田翁は教えてくれる。
以下、とりとめもないがメモ。
日本文化の特徴は世阿弥の言う「ものまね」である。「もの」とは、「もの思い」や「物の怪」として書かれる場合の、「もの」の意味で、ある漠とした状態を指す言葉であり、言語で分節化される前の状態を指す。そうした何か言語化できない「もの」をまねて、自分の文化に吸収してしまうことが、日本文化の特徴である。わからない概念をわからないまま受け入れる姿に、日本文化の本質がある。本書では書いていなかったが、福沢諭吉や西周が西洋文化を受け入れるときに、英単語の訳語にあてたものが漢語であったのも、そうしたことなのではないか。漢字のニュアンスを和語で表現することはできないが、日本人は平然と運用している。そうした意味で、既に内容された異質なキャリアとしての漢語に、英語を当てることで、異質な感覚を、その異質さや本質を分解して棄損せずに受け入れるという方法は、まさに日本文化そのものであるとも感じた。
何度も内田樹の本に出てくる、張良の沓を落とす話であるが、重要なポイントとして、意味はその時点では分からないが、自分宛のメッセージをとして受け取って、わからないなりに覚えておく、考え続けることが弟子のスタンスであり、極めて本質的な学びの姿勢である。また、そうした学びの姿勢を土壌として、一見するとランダムに見える個々の事象の背景に「見えない秩序」が存在することを直感し、それらを関連付ける能力こそが、人間の知性の本質である。アイザック・ニュートンも、神が作ったこの世界には美しい秩序があると直感し、リンゴが落ちるというある種のランダムな事象から、背景にある科学的秩序を予感し、直感した。そうした関連付けのアナロジー思考こそが、人間の知性の基本である。
さらに、別のページで、能は当時の人々の想いを型に封じ込めることで、冷凍保存し、それらを現代人が型どおりに行うことにより、想いが氷解し、演者を伝播して観客に流れ出るものであると記載があったが、型という頭では理解できないものを徹底的に身体化することにより、現代的な身体技法、既存の自分の身体の使い方では到底思いつかなかった想いを、直感できることが、能の凄さであり、恐ろしさでもある。
ユダヤ教も、わからない状況をわからないまま後世に伝え、決着させることを自制する宗教である。現代的には意味がわからないが、ユダヤ教はその教義において、そうした様式にこそ、人間の知性が発揮されることを直感し、戒律としたのであろうと内田翁も言っている。
武道においても、何においても、「共身体」を形成することが肝要である。何かを為そうとするときに、自分の能力には限界があり、多くの人間の身体を一つの多細胞生物のように癒合して動かすようなことができる人間が求められる。いかなる伝達もなしに、直感的に「いるべきときに、いるべきところに立つ」ということができる集団を形成する能力が、集団を率いる人間には必要である。内田翁はそれを合気道であったり、イギリスのパブリックスクールのスポーツに見ているが、私自身、バレーボール部に10年間所属して、同様の感覚がある。まさに、バレーボール部9×9メートルのコートを6人で守り、皆がいるべきときに、いるべきところに立つという訓練そのものである。誰かが動けば、必ずその穴を埋める行動を取る(相手の攻撃を起点に守備体形を1つの生物のように瞬時に変化させる)。何年も同じメンバーでやっていると、まさにそうしたことが阿吽の呼吸でできる。また、レシーブが上手い人に、その極意を聴くと、レシーブこそ最も主体的なものであると言われたことである。相手が打つ瞬間に、相手のスパイカーとレシーバーを一つの共身体として解釈すると、身体が勝手にボールが来るところに動くというのである。ある意味、男子バレーでは、打たれたから動くような受動的なレシーブは、スピード的に間に合わない。そうした中でもレシーブができる人は、打たれる前に直感的にその場所に動いている。まさに、いるべきときに、いるべき場所にいるというものである。そうした意味で、バレーボールもまた、人と何かを為すときの重要なことを教えてくれる。スポーツ経験のある人が、就職に有利と言われることもあるが、スポーツはある意味で、集団として誰かがいなくなったところ、手薄なところを埋めて常に自分自身の存在している意味を作り出すという一連の動作を、脳で考える前にできるようになる訓練なのかもしれないと思うと、企業組織といっても人と人の集まりなので、そうした訓練が一定済んでいる人を取ることも、効率が良いと解釈されてしかるべきであろう。
こちらは内田翁の妄想的な仮説であるが、海の民と山の民の争いという視点で日本の歴史を見ると言う発想は面白かった。長らく日本には海部という操船技術に長けた集団と、飼部と呼ばれる野生獣の制御技術に長けた集団がいた。前者は風と水のエネルギーを、後者は野生生物のエネルギーを御する異能集団として天皇にそれぞれ仕えていた。源平の合戦は、海部の末裔たる平家と飼部の末裔たる源氏の闘いであるとみると、非常に面白い。平清盛は、福原遷都により、日宋貿易を基軸としつつ東シナ海や南シナ海まで広がる巨大な海上帝国の構想があった。(内田的直感では、その後、この海部の構想と引き継ぐのは朝鮮出兵を経て中華帝国への挑戦を夢見た豊臣秀吉と、海軍操練所を幕末に創設した勝海舟である)。それに対して、鵯越や俱利伽羅峠での戦法等、野生獣と共に戦に出向き、勝ちを重ねる源氏はまさに飼部の闘い方そのものである。結果、源平合戦を経て、源氏がその後の歴史の中心となるが、海部的思想は辺境(日本にとっては辺境だが、異国の地からのインターフェースである)に残り、その後の中心的な人物によって、再起が図られる。もっと言えば、陸軍と海軍の権力争いすらもそう見えてくる。こうした見方はもちろん妄想のデタラメ仮説と内田翁も断っているが、驚くべきことに、このようなプロットにそっくりなのが、最近のワンピースの展開である。ワンピースでは古代兵器と呼ばれるものが3つあり、天(おそらく風)を操るウラヌス、水を操るポセイドン、野生獣を操るプルトンがある。無論、四元素や基本的な自然現象の要素ということもあるが、海の民たる海賊と、地上を支配する世界政府の構図と取ってみても、どうにも海部と飼部の争いのようにも見える。(ワンピースでは、飼部たるワノ国のプルトンは、海賊側になるが)。そうした意味で、非常に空想的に示唆のあるストーリーであると感じた。 -
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学生時代、政治社会学やガバナンス、政治思想哲学だとかに関心があって、内田先生の『ためらいの倫理学』を読んだ。
その本が面白かったのと、本書の帯の紹介文にそそられて買った一冊。
自己啓発本は苦手だけど、「風」なタイトルなだけで、実際の内容は現代政治思想史に近いかなと思った。
雑誌や新聞への寄稿を集めて一冊の本にしているもので、明確な起承転結があるわけではない。
気に入った文をまとめておく。
P222-223
〈生き延びる方途は皆さんが自分で見つけるか、創り出すなりするしかない。
(中略)
そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰も皆さんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任は取ってはくれません。〉
p260-261
〈人は誰も平等であるべきですけど、その理想を実現するためには「自分には他の人よりも多くの責務がある」という自覚を持つ人間が要る。貴賤の差のない世界を実現するためには「ノブレス・オブリージュ(高貴であることの責務)」を感じる人が要る。自分には他の人より多くの責務があると感じる人がいなければ、この社会を住みやすいものにすることはできません。〉
p280-282
〈人間が「落ち目」になるのは、単に金がないとか、健康状態が悪いというような理由からではない。これからどう生きればよいかわからなくなったときに、人間は毒性の強い脱力感に囚われる。
・・(中略) ・・
日本が「落ち目」になったのは個人の努力と国力の向上を結び付ける回路が失われてしまったからである。
・・(中略) ・・
日本が「落ち目」だということについての国民的合意が形成され、なぜそうなってしまったのか、そこからの回復の方位はありうるかについての自由闊達な議論が始まらない限り、この転落に歯止めはない。〉
p285-286
〈日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人はほんとうは望んでいない。それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。
集団のなかにいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。
(中略)
もろもろの干渉が相互に相殺さらて、一種の「ニュートラル」状態を達成したときに、日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。〉
p289-290
〈「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
(中略)
日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらいに切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと僕は思っているのです。〉
なにかを悲観するにしても楽観するにしても
自分自身が立つ場所の背景や特性を理解した上で、思い至りたい。
そう強く思った一冊。よかった。 -
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当たりの本でした。
大人とは、幅のある人。本音と建前とか。矛盾を理解。
今は一様、幅がない。
・学びの意味、価値は事後的に知る。消費者マインドは受入れ不可。
・個性とは他者から与えられるもの。探すものではない。
・対話:両義的。善し悪しを理解して変わらないと成果ではない。
・周りの大人の価値観はずれてた方がいい。両親の価値観一致は有害な条件。心のひだ(人としての幅)ができる。
・SNS 投稿は呪い。だから匿名が有効。ネットのでのいじめ自殺は呪殺。言論の自由は呪詛を許容するわけではない。誤解。
言論の自由とは、何でも言って良いのではなく、その価値、扱いを世間に決めてもらうことに同意すること。
・話を「ずらす」ことも大切。煮詰まる前に。
・子供のまま、は厄災。矛盾を受入れ納得して幅が出てくる
・オノマトペ。オメオメ。日本語は特集号。舌が内臓の先端。ケアしていきましょう。外しましょう
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Posted by ブクログ
現在のシステムの潮流でのカタストロフィの生じる前の方向転換を撤退論としている。
コモンの再生と撤退ということで、斎藤幸平が、『資本主義から撤退して里山に行くだけでは不十分。何故ならそのままでは、資本主義が里山を含めた環境を破壊するから。』と言っていたところに納得。彼はだからこそ資本主義は止めなければならないという。当方はまだ、サステナビリティは社会という形での対応が必要と思っている。戦争、技術進化などに対応する上で、経済を止め切ることはできないと思うため。
撤退とは、単に行くか戻るかの二者択一を意味しない。そのような二者択一を自分に迫っている世界観とは、全く異なる世界観へのパラダイムシフトを意味しているということである。
難しいと考えているシステムの転換は、現代のシステムの思考の中て考えているから。
そのためには、イメージから先に変われ。かえ?とは、目標わ着地点をへんこうすることではなく、現在流通している思考や、言葉遣いそのものを変えるということに他ならない。 -
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夜明け前が一番暗い
以下、引用
未来予測をするのは当たった場合に自分の治世の順調な機能を言祝ぐためではない。外れたときに自分がどんなデータを見落としたのか、どんな情報を過剰評価したのか、主観的願望が状況判断にどれほどバイアスとかけたのか点検するためである。 P18
私たちは自分の利口さを誇示するのと同じ程度の努力を、自分の馬鹿さを適切に開示するためにも向けるべきなのだ。 P19
無作法と批評性は相関しない。 (中略)。依頼、人の文章を読むときには、「批評的でありながら礼儀正しい言葉遣いができる」かどうかを読む基準としている。P33
己の人生が須臾であることを、生涯をかけて踏破しうる空間が芥子粒ほどのものであることを知ったことから、人間は知性的・感情的・霊的成熟をはじめた。人間性なるものを基礎づけたのは、実にこの広々とした時間意識なのである。 P57
人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治すること」だと高らかに宣言した。(中略)国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。(中略)文明的であると言うのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えることである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団を分裂していくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。アメリカは「文明」と「野蛮」の岐路に立っている。 P170
最後の引用文は、非常に含蓄がある。最近、社内のダイバーシティ&インクルージョンイベントで、各々が話す機会に接することが多いが、「偏見を壊す」にはというお題目で、女性やミックスの面々が「実際に差別を受けた経験」について滔々と語っていた。さらに、女性管理職が少ないことについて、「結局のところ、女性でしかわからない育児の悩みなどもある」という形で締めくくっていた。仰っていることは十分に理解できるし、男性は男性で女性に対してステレオタイプを無くすべきであると思う。しかし、解決策じみたものが「実際に差別を体験してみないとわからない」というものになってしまうのは、正直なところあまり建設的ではないと感じてしまう。個人的に、「女性の生活や見られるという感覚を経験してみなさい」ということは理解できるのである(実際のところ、女性からしてみても私の理解は不十分であろう)が、その論理は、結局のところ、女性に不利益なヒエラルキーの評価軸を、そのまま「差別を受けた経験をしているか」という軸に切り替えただけで、「差別を受けた経験をしていない人」を低位に位置づけてしまうような危険性があることも考える必要がある。私はこの危険性をもって建設的ではないと申し上げるのである。そうした場合に、やはり上記の文章にあるような理解も共感も絶した他者とどのように関係性を結んでいくのかという内田老師が追い求めるレヴィナスの教えに立ち戻るのではないかと思う。ダイバーシティ&インクルージョンに関する問題提起や提言について、理解や共感にその基礎づけをすることの危険性はもう少し議論されてもしかるべきであろう。(残念ながら、どのように差別を認識するのか、理解も共感も絶しているのに、どうやって私たちの苦しみを知ることができるのであろうかという疑問に対しての解答は未だ持ち合わせていない) -
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ネタバレふわっとしていた結婚や結婚生活についての捉え方が非常に明確になるだけでなく、葛藤や人間的成熟など哲学的な視点も豊富で、個人的には金言に溢れた一冊となった。
見方によっては、硬派で時代錯誤的な結婚観と捉える人もいるかなとは思ったが。
「祝辞」も示唆に富み、読み応えがあった。
以下、気になった内容の要約。
■結婚
・結婚というのは、
①「病めるとき」や「貧しいとき」といった人生の危機を生き延びるための安全保障契約
②配偶者双方にとって市民的成熟のためにきわめて有意義な訓練の場
・配偶者を選ぶときに絶対見ておくべきは、「健康で、お金があって、万事うまくいってるときに、どれくらいハッピーになれるか」のピークじゃなくて、「危機的状況のときに、どれくらいアンハッピーにならずにいられるか」、その「危機耐性」
■結婚式
・結婚式の本質は、男女の結びつきという私的な出来事を、公共な場において公開し、参列した人々に向かって「誓言をなす」ということ
・人を好きになる、一緒にいたくなるという心情そのものの起源を人間は誰も知らないから、結婚式に神さま仏さまを「ステイクホルダー」としてお招きし「神頼み」することが大事
■結婚生活
・傷だらけの中古車を運転しているような気分で結婚生活をしていると、そのうち大事故が起きる
・家庭には「ボス」がいた方がいい
・自分にはよくわからない人といっしょに暮らせるということ、そんな人と折り合ってゆけるような幅の広い「ゆるい」空間を作り上げること、結婚する前は共有されていなかったものが気がつくといつの間にか共有されていること(だんだん似てくる)が結婚のおもしろみ、醍醐味
・その「よくわからない人」がいつも自分のかたわらにいて、いっしょにご飯を食べたり、しゃべったり、遊んだりして、支えが欲しいときには抱きしめてくれる、それって感動的じゃないですか
・結婚生活にかぎらず他者との共同生活を適切に営む上でいちばんたいせつなことは「機嫌がよい」ことであり、そのためには目標を低めに設定してひとつずつ積むこと、機嫌がよいを先取りすること
・さまざまな微細な「不調」が加算されて、水がコップのふちからあふれそうになったときに、「最後の一滴」となるのが、だいたい家の中のいさかいなので、ちまちました補正によって「コップのふち」までたまっていた水を、「コップのふちから指1本分」くらいまで水位を下げておく努力の積み重ねが夫婦の危機を解消する唯一の方法
・結婚生活が破綻しかけたときに最後の支えになるのは、「私たちの結婚生活というのはたまたま二人の合意によって成り立った暫定的な制度ではなくて、山や川や海のような自然物と同じく、存在すべくして存在しているリアルだ」という確信犯的な嘘
・結婚ははじめから公共的なもの「である」わけじゃなく、公共的なもの「にする」ための日々の努力が結婚生活を支えている
■家事
・家事なんて気がついた方がすればいい、厳密に区別するとグレーゾーンに落ち込んだ家事は誰も手を出さなくなり家の中はたちまちカオス
・家事分担のおすすめは「家事は誰の担当でもない」というルールを採用すること、これを長くやっていると、阿吽の呼吸でなんとなく予測が立つようになる
・女の人がものを置く秩序については、あなたの理解を絶した秩序に従って構成された「都市」の風景を見ているようなつもりで「鑑賞する」という立場に徹底することをおすすめ
■哲学的内容
・ある特権的条件においてのみ発現してくる唯一無二の「ほんとうの自分」なんてものはなく、ぜんぶ等しく同格の「自分」
・仕事を「続けるべきか辞めるべきか」はシンプルな基準で判断せず、悩み、できるだけ葛藤した方が成長できるからいい
・仕事選びや結婚相手などの本質的な問いにシンプルな一般解などなく、そのつど唯一無二の特殊なケースなので、真剣に葛藤しないといけない
・葛藤とは、「自分固有のオリジナルでパーソナルな判断基準」を手作りするための生成的なプロセス
・たった一つの正解に固執するせいで、さっぱり問題が解決しないということより、「正解はなんだろう」と悩んでいるうちに、気がついたら問題が消えていた…という方が効率的だし現実的
・ランダムに生起しているかに見える移ろいやすい現象の背後に、ある種の美的な階調というか、数理的秩序というか、多いなる意志が存在すると直感することは、自分たちが閉じ込められている「いま・ここ・わたし」という「檻」から一歩踏み出すことを要請するため、人間的成熟にとって必要不可欠
・転機というのは、不意に、なんの脈絡もなく、でも、抵抗しがたい圧倒的なリアリティを以て切迫してくる
・病気になっても、投獄されても、人に裏切られても、裏切っても、何かを失っても、何かを得ても、それらの経験のうちに無駄なものは一つもなく、「人生の厚み」が増す
・およそ人間が経験できる極限まで経験してきた人が読んでも頷かせるだけの迫力がないと哲学にならない
・他者に対する好奇心は、自分に対する好奇心に相関する
・ある年齢を過ぎた人間に「人生観を変えろ」と言うのは無意味で、問題をこじらせるだけ