内田樹のレビュー一覧
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もう、だいぶ内田老師の本も残り少なくなってしまった。今回のマンガ論も、ただ漫画を媒介しているだけで、なんのことはないいつも同じことが書いてある。老師は自分自身、先生というものの役割について、卒業生にとっての北極星、つまり定点であり続けることと、仰っていた。私は卒業をした記憶こそないが、数か月、内田老師の本を読まない間に、また、10年前に呼んだ老師の本を再読した時に、自分自身の変化や成長を感じることができるのは、まさに老師が定点としての役割を発揮しているおかげなのだろう。
• あらゆるマンガの中でも、主人公に成長を要請するシナリオは似ており、人類学的な普遍性すらも帯びている。人間は「こうせよ」という単一の、無矛盾的な命題に従うよりも、それぞれが相互に否認し合うような排他的命題にひきさかれているときのほうが、パフォーマンスを向上させる。つまり、ロールモデルが複数併存し、それが相互に否定し合うゼロサム的な関係にある時、人間は最も成長する。古くは韓非子の矛盾の逸話がそれを示しており、近代では、レヴィストロースの親族の基本構造で、親と叔父の2人の男性モデルが相反している場合に、子供の成長を促すという形で示されている。一般的な、凡庸な教育家であれば、人間が成長するためには、単純で無矛盾的な支持を繰り返し与え続けることが成長につながると考えているが、それは犬のしつけと同じで、洗脳はできても、成熟することはない。成塾するためには、相矛盾するおとなたちの言葉に対して、一旦正否の判断を留保したまま受け入れ、葛藤することが必要である。
• 老いの手柄(宮崎駿論):生まれたときから現在の年齢までのすべての年齢の自分を抱え込んでいて、そのすべてにはっきりとした自己同一性を感じることができるというありようのことをおそらくは老いと呼ぶのである。幼児期の自分も少年期の自分も、青年期の自分も全員が今、自分の中で活発に活きており、適切なタイミングでその中の誰かが人格後退して、支配的な人格として登場する。そのような人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」なのであろう。
• 宮崎駿論で唸ったのは、内田老師の「風立ちぬ」評である。単純に言ってしまうと、風立ちぬは、「時間の流れ方」を描いているというものである。作中では、風の描写が必要以上に丹念に描かれていることをきっかけに、宮崎駿が描きたかったものとして、戦前から戦後にかけて日本人が失ってしまった「時間の数え方」、特に「植物的時間」というゆっくりとした時間の流れではないかと挙げている。作中では、風や植物のそよぎの描写に時間がかけられている一方で、飛行機技術に関する主人公の切迫感や、まさに航空テクノロジーの進化によって、人間の時間の流れを速めていく様が描かれている。
• アメコミに見えるアメリカの自画像:これも別の本で読んだ気もするが、アメコミヒーローが描いているのは、当のアメリカ人の自画像であるというものである。そもそも、アメリカの強さは何かと言う話から始まるが、一言でいって「アメリカという国はなんのために存在するのか」という国家の根幹にかかわる問いに、常に答える準備ができているということである。アメリカは、17世紀に「わざわざ」建国された国である。アメリカは人類の理想を体現するために海を渡り、作られた国であるという建国の逸話であり、呪いが彼らにはある。これは非常にストレスフルなことで、普通の国であれば、物心ついたことにはその土地に住み着いていたために、そんな問いを自分に向けることはない。だからこそ、アメリカは、常に「存在意義」について考えさせられている。アメコミの主なプロット、特にスーパーマンもバットマンも、スパイダーマン(さらに最近では、ハンコックや、シャザムもそうかもしれない)は、高い理想を掲げて、世界の平和のために寄与しているのだが、周囲の人間たちはその努力を知らずに、彼らに感謝しようともしない。それどころか、お前のスーパーパワーを発揮することで世界の秩序はかえって乱されていると言う罵倒や無理解に悩まされて、世界を救うことを辞めてしまおうかと思う。しかしながら、彼を信じる少数の理解者のために、彼らはまた立ち上がり、世界を救う仕事に向かう。これはまさにアメリカの、国際社会の自己認識そのものである。
• レヴィナス老師の言葉として、倫理とは「お先のどうぞ」という精神であると言う。あらゆる場面で、お先にどうぞと言えるか、つまり、自分自身が今まで生きてきた人生が明日終わるかもしれないという時に、その覚悟ができており、タイタニックの最後の1隻に対して、お先にどうぞと言いきれるのかということである。これはには日ごろ、人生の有限性に思いを馳せ、今日が最後の1日かもしれないとていねいに毎日を生きることなのである。老いが進むごとにできることは少なくなっていく。しかしながら、その状態に不平不満を言うのではなく、老いと付き合いながら、「ああ今日が人生最高の日だ。明日死んでもいいや」の精神で毎日を楽しく過ごすことが重要である。 -
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(2022/1/8)
2020年、まだコロナ第2波くらい、オリンピック延期、という段階で書かれたアンソロジー。
日本の知性が集結している。多くの方が参加している。
読み始めたとき、それぞれのお名前の横に簡単な肩書しか書かれておらず、
もう少し人物紹介すればいいのに、、、と思ったのだが、巻末にまとめて紹介されていた。
この本は中高生向きなので、それぞれの著者を知らない可能性が高く、人物紹介が長いとかえって予断を持って読み始めてしまうので、避けたのかな、と推察。
私は彼らの著作を結構読んでいるので、背景を知って読むとより立体的に読めた気がする。
一つ一つのコラムにコメントをするのは野暮なので辞めておくが、一番心を動かされたのは、雨宮処凛さんのコラム。
ペット連れの要生活保護者をどう支援するか。役所は「犬を処分してから来い」と言い放つ。
確かにその考えは自分の頭の中にもある。生きるか死ぬかの状態で支援を求めるのにペットなんて贅沢!と。
しかしその一方、モノではなく生きているペットを捨てる、殺すなどできるはずもないと、、、
我が家にも猫がいるが、極端に憶病なので、地震で避難所に行くことになったらどうなるのか?いやそもそも避難所が受け付けないか、、
話戻ってそうした人を支援する彼女たち。当然お金が必要。これをどう集めるか。
自分は寄付できるか?
日ごろ人の役に立ちたい、などと言っていても、そこに目が向くか。
反省。
それに関連して、ベーシックインカムに注目するコラムもいくつか。
クソ面白くない仕事をAIに任せる。
イギリスをダメにした高福祉、働かなくても食えることに劣等感、感情を持たせるようにしたサッチャー。これは今の日本にもある。生活保護を受けづらくする。
しかし金はあって暇がある、という状態が様々な文化を生む側面もある。
オリザさんも別の切り口ではあるが、不要不急の芸術の必要性を訴える。
・・・もしAIが何でもやってくれて、富がうまく社会に分配されるようになれば、人々は金のためにあくせくするのではなく、本当に人の役に立つために、自分の好きなことをして働けるのではないかな。
なまじ労働が貨幣価値に代替されるから、怠ける人が出るのでは、、、
いくつかのコラムからそんなことを感じた。
あ、それと、「椎名林檎になるための方法を教えてくれるのはどこの学校か?」と真剣に聞く大学生がいたという話は衝撃的だった。増田聡さん。
正解が学校にある、と思っている日本の教育システムの膿のような話。
。。。しかし、こういう本があるということは、日本の知性が捨てたもんじゃないことの証でもある。希望はある。
こんなコロナ禍ではあるが、前を向いて生きていきましょう! -
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至言に溢れた一冊でした。
「勇気とは何か」を、論理的に体系的に説明するのではなく、編集者との往復書簡という形で考察をしながら導き出していく、という内田さんの思考の過程を辿ることができて、とても面白かった。
「勇気」についてだけでなく、その過程で考えたとりとめのないことの中にも、「なるほど」と膝を打つ言葉が出てきて、子育てをする中でも大事にしたいと思えることがたくさんあった。
特に心に留めておきたいと思ったのは、以下。
「自分がほんとうに思っていること、感じていることを自分の言葉で語る時、口ごもったり小さな声になってしまうのは当然のこと。『大きな声で、はっきりと自分の思っていることを言いなさい』と言ってはいけない。大きな声で言えるのは、他人からの受け売りの言葉であるからだ」
自分の子どもや、他人や、自分自身が口ごもってしまうとそわそわモゾモゾしてしまうが、口ごもることは悪いことではなく、むしろ推奨するべきもの、待つべきタイミングであるということを忘れずにいたい。 -
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「だからあれほど言ったのに」
うまい題名だこと!
5音7音で題名を考えるという種明かしをしていたけど、確かにそれはいい考えだと思う。
キャッチーで、尚且つ、何度も胸に響く。
しかも今回のこの本は一つずつが短く読みやすいので、読み終わるたびに、「だからあれほど言ったのに」という内田樹の声が聞こえてきそう笑
この人はホントやばいくらい魅力的なおじ様ですね。近くにいたらクラクラしたと思う笑
「今の日本の『ダメな組織』はこの『督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊』によく似ている」
督戦隊とは「前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて『前線に戻って戦い続けろ、さもないと撃ち殺す』と脅すのが仕事だ」
あー胸がすく!
日本の国力は低下したとはいえ、気を取り直して余力をうまく利用して伝統芸能や観光資源を大切に使い延ばしで豊かで暮らしやすい国として存続させることはできそうなのに、
「しかしまことに不思議なことだが、そういう穏やかな未来図を描くひとは政官財にはいない」「見かけるのは目を血走らせて『起死回生の大博打』を狙っている人たちばかりである」
「大博打」笑。確かに!
目の前のモヤモヤを霧が晴れたようにスッキリ整理してくれる気持ちよさ。
もちろん何でも二項対立で単純化しようなんしてるわけではなく、複雑なものは複雑なままで受け取れる知性の大切さをきちんと述べる。
そういった整理の仕方を私たちに提示してくれる貴重な存在だと思う。
学ぶことに関しても
「無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無知の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力ができない状態のことを無知と呼ぶのである」
なるほどなるほど。
5月下旬には複数の本が出版されるようだ。全部買ってしまうだろうなぁ。
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とても面白いし、かなり納得して読めた。
民主主義、政治、憲法、教育の4つについて各所に書いた文章のコンピレーション。教育のところはご自身が当事者だったためか、実体験に基づく感情が表れているところもあったが、その他は本当にまともなことを普通に冷静に、しかもとてもわかり易く説明してくれている。
日本社会の株式会社化という言葉が出てくるが、これは本質よりも効率性を求めるケースや、数的帳尻合わせを良しとする評価軸が今だに蔓延っているこの国を上手く表している。また、政治、憲法の章では対米追従・隷属の歴史や背景・経緯がウチダ先生らしい筆致で描かれており、本当に納得できた。
この国は先進国ではあるが、一流国にはなっていない。どうあるべきか、という議論に国民が参加していくようになるまでにはもう少し時間が掛かりそうだ。時間をおいてもう一度読みたいと思う。 -
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米中論のタイトルから、アメリカと中国について、特に米中対立、台湾問題、などが中心になっているかと思って読み始めた。
アメリカが8割、中国論が1割、米中関係が1割位の印象だろうか。初めにでもあるように、ほとんどが米国論であろうか、解決不能な自由と平等については非常に興味深い点が多かった。平等と言うのは、公権力が市民の自由に介入し、強者の権利を制限し強者の富を税金として徴収し、それによって弱者を保護し、貧者に分配することによってしか実現しない。市民を自由に競争させていたら、そのうち平等が実現すると言う事は絶対に起きません。自由の国アメリカが、世界有数の格差社会の国である事はよく言われている通りです。
それでは翻って中国はどうなのだろうか、凄まじい経済格差の社会である中国で、国民の不満が抑制されているのは、自分にもそのうち冬になるチャンスが巡ってくると言う期待があるからだと言う説明には説得力があるが、この期待が維持されるためには、中国はこれから豊かになり続けると言う成長の保証が必要である。
中国は共産主義の国であるが、日本の方がより共産主義的であるとよく言われている。では、中国において現在の様々な矛盾の解決策は、中国を共産化することというのが作者の結論。平等を達成すると言う事は、権力を持ち、富裕である人々が私権の行使を抑制し、私財の相当部分を吐き出して、それを公共財として供託することなしには実現しません。中国で権力者たちが日常的に行ってきたのは、公権力を私的用い、公共財を私財に付け替えることでした。共産党は倫理的に潔白でなければならない腐敗キャンペーンの行く先はどこへ向かうのであろうか学習塾の廃止も、共産化の一旦であり、青少年のゲームできる時間の制約も、アヘン戦争前のアヘンと同様に考えることができると言う指摘には納得した。 -
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当座の報酬の期待値の低さ・不確定性に対し、経済合理性の下、消費者マインドで「こんなん何になるんだよ」と突っぱねちゃうのがニートと不登校、つまり労働や学びの拒否の始まり。
その曖昧さや不確定性に対して「きっとなにかになるはず」と、気長かつ楽観的・期待的に身を投じて、労苦を負って行くこと。そして自己の不確定な変化という性質を認め、受け入れ、期待し、勘定に入れた上で学びに向かうこと。それらの勇気ある殊勝な態度が知性。
また「自身の存立」時点で社会や周囲の人間から受けてきた恩義、つまりは贈与に負い目を認められ、その反対給付義務意識に駆られて積極的に労働という(返報)贈与を社会に行っていくこと。それこそ伝統的人間らしさ・文化人類学的知見に合致する労働者マインドであり、労働の倫理・哲学・美学である。
※ただこの倫理に関しては(薄給なだけならともかく)ハラスメントや長時間労働強制、肉体的・心理的安全性侵害が横行するような、日本に跋扈するブラック職場では成立しないと思うけど(2005年の本だししゃーなし?)。
含蓄が多い本だと感じました。
勇気と忍耐のある、道徳的な内発的動機づけに強く意志付けられた人間になりてぇ。 -
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街場の米中論
内田翁の新刊。出版イベント?ではないものの、直近の隣町珈琲のイベントでも言及されており、今後を占う上での指針となる。
米中いずれにも、政治的な意思決定の基盤となるような歴史的趨向性(無意識)のようなものがあり、そうした趨向性を捉えるための内的葛藤や歴史的な動きがあり、そうした内容を読み解くものである。
米中論はさながら、組織にも個人にも当てはまる内田翁の私見にもやはり唸らされた。
また、今回の読書体験は、内田翁の思考の癖を読むことができた、うれしいこともあった。P94で、自由と平等の話が出た際に、食い合わせの悪い二つを接ぎ木するものとして、博愛/友愛をフランスはもちだしたのではないか、さらにその博愛の精神とは、アダムスミスの言うempathyや、中国における惻隠の情にも近い、倫理的な呼びかけではないかとメモしていたが、まさに自分が思い、書いたことが終わりにの部分でそのまま書かれており、非常に驚き、そして喜ばしかった。
「深い葛藤を抱えている人間は定型に居着かず、一度崩れた後も復元力が強い。逆にシンプルな信条を掲げて、どんな局面でもすぱすぱと決断を下し、内的葛藤のない生き方をしている人間は、短絡的には効率的な生き方をしているように見えますが、成長がない。そして、一度崩れるともう立ち直れない。」
ここが個人的には米中論のハイライトであると感じる。
前者はまさにアメリカそのものである。アメリカは理念においても、自由と平等という食い合わせの悪いものを掲げ、そのせめぎ合いの中で常に葛藤をしてきた。無論、自由に偏る面もあったが、それでも国内に平等の流れを内包してきた。さらに、地理的にも政治的にも各州の自治を認め、その合衆国としての矜持と葛藤を持ち続けてきた。そして、まさにそれゆえに現在でも唯一の覇権国家としての立ち位置を持っている。
一方で、中国は習近平の一党独裁体制により、局所戦(コロナ対応)では強いものの、やはり内面に大きな問題を抱えている。無論、中国は平等に重きをおいている政治システムであるが、実のところ党員とそれ以外、都市と農村の格差、さらには一国二制度における資本主義の部分的な流入による経済格差、さらにはマクロトレンドとしての人口減少といういくつかの爆弾を抱えている。
その行く末は、非常に面白い。
また、こちらもマルクスの引用で、以下の文章も非常に含蓄がある。
「生きている者たちは、ちょうど自分自身と事態を変革し、いまだになかったものを創り出すことに専念しているように見えるときに、まさにそのような革命的危機の時期に、不安げに過去の亡霊たちを呼び出して助けを求め、その名前やスローガンや衣装を借用し、そうした由緒ある扮装、そうした借り物の言葉で新しい世界史の場面を演じるのです。」 -
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武道的な力とは、端的に言えば、一個の生き物としてあらゆる状況を生き延びることができる能力。自分自身が愉快に、気分良く生き続けられるために心身の能力を向上させること。
ただ、自分ひとり愉快であればよいというものではなく、社会格差のせいで苦しんでいる人がいれば、自分も楽しくなくなる。だからこそ、武道家としての自分であれば、そういう問題も何とか解決するように努力する。自分自身の心身の能力の開発を阻害するすべてのファクターを「敵」だと考えて、どうやってその敵を無力化していくのか、それを工夫する。
内田老師はそう述べた上で、現在の武道がある種無菌状態の中で競技化されているものは、晴れた日の武道=晴天型の武道であり、本質的に重要であるのは、あらゆる足場も崩れた上で、荒れ狂う初期条件の中でいかにふるまうかという荒天の武道であるとする。
荒天型の武道家は、まず自分が置かれている状況を大づかみな歴史的な文脈でとらえるところから始まる。政治も経済も社会問題も宗教も学術も、自分が投じられている状況の変化に関するさまざまな因子については、できる限り情報を集め、それぞれの知見を深める。
主体的に受け身を取る。武道では、常いかなる状況でも「場を主宰する」人間であらねばならない。それはつまり、先手を取るということである。攻撃されたではなく、攻撃させたという地点から物事を考える。武道では後手に回ったと思った瞬間に、人間は絶対的に遅れてしまう。相手が提示した状況に応じるための最適行動を直ちに選らばなければならないという形になる。相手に出された問題に正解を迫られるという状況は全く武道的ではない。そう考えると、受け身という受動的な行動に見えるものすらも、主体的に実施している状態としなければならない。これは、自分自身仕事をしているときも感じる。状況に先手を取られている時にパフォーマンスは低い。常に、状況よりも先手を取り、場を主宰する。現代的に言えば自分のペースで仕事をできるように、努力する、準備する、行動するということが重要である。
武道のみならず、仏語でも「随処に主となれば、立処皆真なり」という言葉もある。常に、場の主人公であれ、そうすれば、そこが正しい立ち位置となる。仕事では、多くのMTGやPJTが進行する中で、状況に先手を取られ、MTGも無目的になんの発言もせずに終わってしまうことも最悪のケースとしてある。もちろん、船頭多くして船山に上るではあるが、常に自分自身がその場の主人公であるという自覚をもって主体的に立ち向かうことが重要である。 -
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内田樹の書いた本は非常に好きで、沢山読んでいる。沢山読んだ、内田樹の本の中でも、この本はかなり好きな部類に入る。
「ウチダ式教育再生論」という副題からも分かる通り、本書は教育、特に大学教育について語った本である。本書は2007年の発行であるが、内田樹は2011年まで神戸女学院大学の教授を務めていた。本書掲載の文章が書かれた当時は、更に、神戸女学院大学で教務部長のような仕事をされていたようだ。内田樹の大学教育に対しての問題意識というか危機感は強烈である。また、文科省の大学政策には非常に批判的なのであるが、教務部長という仕事は、文科省の指示を、居並ぶ教授陣を説得しながら行う必要がある仕事のようで、本書には、そういった、問題意識・危機感・文科省や同僚の教授たちに対しての怒り、等が、ものすごくビビッドに示されている、というか、かなり感情的になっていることがよく分かる文章が多く収められている。内田樹は生きの良い文章を書く人であるが、あまり感情的になった文章を読んだ記憶がなかったので、珍しく感じた。
内田樹の大学教育、というか、文科省の政策に対しての問題意識は数多く書かれているが、その内の大きなものの1つが、文科省が大学に対して、市場原理を持ち込んだという点である。大学とは、そもそも「弱肉強食・適者生存」の世界であるはずがなく、「若い人々を学びへ動機付け、学術の水準を上げ、さらには日本人全体の知性的・道徳的成熟を期する」場所であるはずだというのが、その批判の内容である。そういったことは、効率とか費用対効果という考え方に最もなじみにくい(というか、短期的な費用対効果を測るのは無理)ものだと主張する(私もそう思う)。その他にも批判のネタは沢山あり、それらが本書の中で延々と続いていく(しかし、それは面白い)。
また、それとは別に、「1966年の日比谷高校生・吉田城と新井啓右の思い出」という一文が掲載されている。内田樹は日比谷高校の出身(2年で退学しているので、正確には"出身"とは言えないのかもしれないが)であり、吉田城氏と新井啓右氏は、日比谷高校の同期生である。文章は、吉田城氏が亡くなった際に編まれた、追悼文集に寄せた内田樹の追悼文である。本書の中で(というか、内田樹の他の著作を含めても)、この一文はかなり異質である。吉田城氏(および、新井啓右氏も若い頃に亡くなられており、この文章は新井氏に対しての追悼の意味も含んでいるはず)に対しての想いが詰まった、しっとりとした美文である。これも、読み応えのある文章であった。 -
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村上春樹と並んで、うちの本棚の占有面積1位、内田樹先生。
その出会いとなった1冊。
日本論や日本人論は、国内にとても多くある。
自国の文化や国民性についてこれほど多くの知的資源を割く国は、他にない。
そもそもなぜ、僕たち日本人は、こんなに日本論が好きなのか。
日本人は、他国を参照し、比較して、常に自分が何者であるかを確認しなければ、不安だからである。
日本人はいつの時代も、外の世界に向けてキョロキョロと目を向けてきた。
キョロキョロ目を向ける先は、中国だったりアメリカだったり北欧だったり、時代によって変わる。
けれど、この「キョロキョロしかた」だけは、いつの時代も変わらない。
これが日本人の持つ普遍的な「辺境性」である。
明解な論理。
突飛な論理の飛躍はない。
しかし、その論理の向かう先は、他の誰とも違うオリジナリティ。
これぞ、知識ではない、知性。教養。
僕は、知識ではなく、この知性に憧れて、今日も本を読むのだ。