あらすじ
内田樹・釈徹宗の二人が、自らの足で歩き、立ち止まり、心ふるわせ、日本各地の霊性を再発見する好評シリーズ「聖地巡礼」。第1弾「大阪・京都・奈良」、第2弾「熊野」につづく、待望の第3弾は「長崎・京都・大阪」。テーマは日本人とキリスト教。日本人にとってキリスト教は、いかなる宗教であったのか。キリスト教はどのように受容され、またなぜ広まることがなかったのか。長崎に聖地をもとめた内田樹・釈徹宗が見出したものは何であったのか。1549年、フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸の話から、巡礼は始まった。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
この夏は長崎に行きたかったが、コロナで行けず、代わりにと手にしたのが本書。キリシタンをテーマに長崎、大阪を紀行する。内容的には潜伏キリシタンを多く扱っている。
釈徹宗、内田樹両先生の当意即妙なやり取りが心地よい。出典等はなく、学術的なものではないのだが、ラフな「しゃべくり」の方がこのコンビには合っている気がする。特に内田先生がその土地に触れて反射的に発するコメントにはキラリと光るものがある。信長や秀吉は成長型の社会システム、家康は定常型として、アメリカも実は定常系なんだというのは面白い指摘だと思う。
4年前の刊行なので、その後、社会は変わっている。アメリカの定常的な社会に、中国が対抗できるほどに台頭してきた。長崎と天草の潜伏キリシタン遺産が世界文化遺産に登録。本書でも話題になった長崎県庁跡地活用はお2人の懸念通り混迷している。内田先生の自論の観光立国日本は、カジノはやめてよねという願いは叶わず、妙な方向へ進みかけていた矢先、コロナ禍で尻つぼみに。
宗教的に日本はあなどれません、という釈先生の言葉は印象的。身近なところに脈々と受け継がれる信仰を探すのもいいなと思うお盆のこの頃。
Posted by ブクログ
宗教って、ある種のひとつの「病み方」なんですよ。健全な人ってこの世に一人もいないですから。程度の差はあれ、みんな心を病んでいる。そして、人間の持つ本質的な弱さは必ず「物語」を求める。宇宙を統べるひとつの統一的な摂理があって、自分の個人的な祈りが、そこに伝わると、宇宙の風景に、自分の祈りによってわずかではあれ変化がもたらされる。人間は個人としては、空間的にも時間的にも限定的な生を営むしかないわけですけれど、どこかで類的な宿命に繋がっていたい。ゆうげんてかな存在が、無限の境位と、ある超越性の回路を経由して繋がることを夢見る。そういう物語を人間はどうしても必要としているんだと思います。その「レバレッジ」になるのが宗教です。
Posted by ブクログ
今回の聖地巡礼はキリシタン。
長崎・京都・茨木・高槻。
最近、遠藤周作の『沈黙』がスコセッシ―監督で映画化
されるそうで、予告編を見ましたが、本を読んだときの
想いがよみがえってきて、震える感じがしました。
本を読んだ時も、なんと説明していいのかわからない
特殊な感情を持った覚えがあります。
その”沈黙”の聖地である長崎の外海や、26聖人殉教の地。
原爆。浦上天主堂。大浦天主堂と信徒発見(信徒告白)の地。
茨木の隠れキリシタンの里。フランシスコザビエルの
有名な絵(教科書に載っているやつ)が茨木から
出てきたことを初めてしりました。昔茨木に住んでいた
時はそういうことをあまり知らずにいたのですが。
うまく書けませんが、宗教はやはり人間であること、その
存在意義(レゾンデトール)なのであろうと思います。
Posted by ブクログ
巡礼ということで分類では旅ジャンルに入っているんですが自分は宗教かなとそっちに登録。
シリーズ化していて1作目読んでいて、二作目と思って手に取ったらこちらはまさかの三作目でした。
長崎ということで興味津々。
神仏混淆は聞いたことがありますがまさかの神仏デウス混淆(p160)
本書を読むまでキリシタンと呼ばれる人たちがカトリックであると意識したことがなかったので言われてみると確かにそうだなとそんなところから納得。
バスチャンの預言と言うものを読んで信仰の強さの凄まじさのようなもの(うまく表現できません)を感じました。拷問や踏み絵についても別の書籍などでこれまで読んだことはあり、それについても信者の方の信仰心の強靭さに怖れを抱いたことはありましたが、それとはまた違う畏敬のようなものを感じました。
七代先の未来を信じるって想像出来ません。自分の10年後だって想像出来ないのに(そういう卑小な話を比較に出してしまうこと自体がなんか情けないですが⋯)、どうしてそんなふうに思えたのか、感じることができたのか、理解を絶すると思いました。信仰を傷つけられたときの痛みというものも(p277)無宗教である自分には想像もつかないです。
現代社会の構造を理解するにはキリスト教を学ばねばなりませんね(p67)と釈先生がおっしゃっていますが、本書を読むと確かにそう言える状態は今の日本にならあるかもと思わされてしまいます。信じる信じないという話ではなくして。
本書は2016年発刊。この時コロナもまだなく、ウクライナの戦争も起きてなかったことを思うとp236からのアメリカとイスラム圏の話は一段と興味深い見方のように思えます。
内田先生は「強い物語を求める人間の弱いところに着目する」ことで相互理解が進んだらいいと仰っていますが(p185)とっても日本人的な考え方だなぁと。希望はそうであってもしかし実際はそうはやはりならないですよね残念ながら、と思いました。
本筋とは全然関係ないけど気になる箇所をあと数点。
遠藤周作先生の著作が若い頃好きで文学記念館にも行ったことがあり、外海を歩いた懐かしい記憶を掘り起こしながら読んでいました。
そんな気持ちで読んでいくと、本書に登場するナビの方が吉村昭先生は先生って呼んてるのに遠藤先生は呼び捨てなところに「ああ(あなたはそういう気持ちなのですね)」と残念を感じてしまいました。いや、個人のお気持ちなので良いのですけどね。
確かに現地に住む人にとっては遠藤周作先生の「沈黙」が与えた影響を思うと明るい気持ちやありがたい気持ちにはなりにくいのかもしれません。そういうことを知ることができたのは貴重だったと思いますし、これはやはりそこに住んでいる人にしかわからないものが良きにせよ悪しきにせよ絶対にあるのだろうなと本書を読んではじめて思い至りました。でも著作を愛読してきたものとして少し哀しい気持ちになりました。
p203苦しんでどうにもならないということの積み重ねによってしか戦争は抑止できない
覚えておきたい言葉でした。
p230遺髪への信仰はない。お坊さん髪の毛ありませんので。
お坊さんが言うところがまたいい。吹き出してしまいました。笑えるところがあって良かった。
たまたま前日まで読んでいた小説が「信じる」について考えさせられる内容だったのでこちらはまた別の「信じる」を考察する一冊で偶然なのですが何だか不思議でした。
あとがきに内田先生は「グローバル」と「習合」についてずっと考えてるとありました。その後「日本習合論」という本を出されているので多分そこにまとめられたのでしょう。実は発刊されてすぐに買ったのですが読んでおらず年季の入った積読に⋯。
本書を読んで思い出し。読まねばと思います⋯