あらすじ
「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しないし、昔からいなかった。あなたが「えらい」と思った人、それが「あなたの先生」なのだ。さまざまな例を引きながら、学ぶことの愉しさを伝授し、素晴らしい先生との出会いを可能にさせてくれる、常識やぶりの教育論。誰もが幸福になれる悦びの一冊。
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Posted by ブクログ
バッカ面白かった。
貨幣経済、大航海時代、映画、文学評論等に話が脱線しながらも先生はえらいという結論に持っていく手腕は見事。これらの脱線も全てコミュニケーションが本質的に誤解を含むものであるという導入になっていた。最後の文章
私たちは「あなたがそうすることによって、私に何を伝えたいのか?」という問いを発することができる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。
という金言にやられ、その文がどういう文脈で使われているのか知りたくて読んだが、想像以上に面白かったし、上記の文章の意味をよく理解できた。(完璧に理解できたと言わないことがポイント。)
行為にすぐ説明を求めてしまう今の若者に読んで欲しい。
Posted by ブクログ
まず、文章そのものが軽妙で(ブラック・ユーモア満載で)読みやすかったです。
かつては「聖職者」ともいわれた「教師」という仕事ですが、いまでは「生徒」や「保護者」という「お客様」に教育サービスを提供する職業になり、かつての権威は薄れ…と、何かとブラックな扱いをされることが少なくありません。
はたして、内田樹が定義する「理想的な教師像」とはどのようなものなのか、と思って読み進めましたが、目からうろこが落ちたような気がします。
冒頭の「理想の教師は存在しない」というどんでん返しから始まり、コミュニケーション論にもふれながら展開された論考を経て、「学ぶ側の主体性」の大切さに気付かされました。
なるほど、私自身が弓道で師事している先生方が、自分たちが教わっていた大先生についてそれぞれに語っているところ、その師弟関係の「不思議さ」の理由の構造が何となくわかったような気がします。
本書で幾度となく言及される、「分かり合うために行うコミュニケーションだが、完全に理解し合ってはいけない」という矛盾したようにも思える、その在り様に面白さを感じられるようになってきたのも、自分が「大人」になったからなのかもしれません。
「で、あなたは何が言いたいんですか?」と思う、その姿勢こそが学びへの開かれた扉であるとのこと、肝に銘じて日々過ごしていきたいと思います。
Posted by ブクログ
★恋愛というのは、「はたは色々言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しない。いい先生に出会うことと同じです。★
本の題名に対する先入観は捨てた方がいいと思います。
「先生は偉いんだから、なんでも言うことを聞こう」ではなく、
「一人一人の先生から何か一つでも学び取ろうという姿勢」が大事という話です。
この本を買う人は尊敬する先生に出会った人たちだと思いますが、著者が読んで欲しいのは、先生は偉くないと思っている人達だと思います。帯にそのような内容があればいいなと感じました
Posted by ブクログ
内田樹を読むことの1番の魅力は、本気か冗談か分からない主張を、屁理屈まがいにロジカルに成立させた文章を、面白おかしく読んでいるうちに、読者自身が、なんかすごい大事なことに気づいてしまう、という図式です。敷居が低く、出口が高くなっている。
第二次安倍内閣あたりから、政治への怒りが閾値を超えてしまい、最近は面白おかしく読ませてくれる文章が減っていて残念なのですが、この頃の内田先生は最高です。特にこの本は、(ちくまプリマー新書シリーズ全般そうですが)言葉が平易で、長すぎず、非常に読みやすいです。ヤングにもアダルトにもオススメ。
Posted by ブクログ
ー 私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、「もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから」という促しです。でも、これって要するに、「あなたが何を言っているのか、まだよくわからない」ということでしょう?
私たちが話をしている相手からいちばん聞きたいことばは「もうわかった(から黙っていいよ)」じゃなくて、「まだわからない(からもっと言って)」なんですね。恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げることばですけれど、「あなたって人が、よーくわかったわ」というのはたいてい別れのときに言うことばです。
ごらんの通り、コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。
対話へと私たちを駆り立てるのはその欲望です。理解を望みながら、理解に達することができないという宙づり状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。 ー
簡単に読めるけれど、書かれていることは非常に奥深いコミュニケーションについての話。本題は、“自己の学び”と“先生”と自分が思う人は本質的に“偉い”という話。
コミュニケーションがなぜ難しいのか、という本質を突く論考。
だって、ロジカルかつ極めて明確に自分が相手に伝えたいことを伝えようと努力して、相手にも同等の努力を求めかつ期待した方が、圧倒的にコミュニケーションにかける労力は減るはずなのに、どうしてそうしないのか、あるいは出来ないのか。って永遠の疑問じゃん?
Posted by ブクログ
一読しただけではすっきりと掴みきれないものの、「ここには何かとても重要なことがある」と思わせてくれる一冊です。
凝り固まったものの見方を、軽やかな文体で説きほぐしてくれる感じは、外山滋比古さんの「思考の整理学」に近いものを感じました。
読み返すたびに新しい発見がありそう。
Posted by ブクログ
内田さんらしい一冊です。タイトルの意味が読み終わるまでわかりません。いやきっと私は誤解していると思いますが...。コミュニケーションと言うもの、学ぶと言うこと、それらについて考えることができます。「誤解の幅」「訂正の扉」、これらは自動車のハンドルの遊びとかで例える場合もありますが、確かに必要です。なぜ必要かと言うと、コミュニケーション継続のため、そしてなぜコミュニケーションが必要かと言うと?この辺は書くと長くなるので、ぜひお読みください。
Posted by ブクログ
自分が先入観にとらわれている事に気付かせられた。一冊かけて筆者は「先生」「コミュニケーション」についての凝り固まった考え方を解いてくれた気がする。
謎に対する考え方は十人十色で皆違っていいと思えた。
Posted by ブクログ
よかった。多くの人に向けて文章を書きたいと思っていたので、見事にささった。
おもしろい、読みたいと思われる文や物語には、解釈がないのだと思った。今さらなのかもしれないけども。そこを混同していた。解釈は読む人がくわえるもの、書く人は描写をするか、誤解を生むような解釈の文章を書かなければいけない。
文章だけでなく、ビジネスやマーケティングへの示唆にも富んでると感じた。買いたいと思ってもらえるものは、きっぱりと分かるものではなく「なんかよくわからないもの」である。
そのわからなさに人は惹かれる。さらに話は広がって「経済」や「貨幣」についても言及。貨幣の価値や役割を学びたかったので勉強になった。物事のそのいちばん最初はどういう気持ちで始まったのか?を考えるという方法も面白い。
先生や教育論という切り口だが、「わくわくする」ことについて書かれた本のように感じた。
人によってまさに読みとることや胸にささるところのが違う本だと思う。
なるべく多くの人がいろいろ学べるように、方向や角度を変えて語っている。それぞれの「引っかかりポイント」が具体的で学術的で面白い。
子ども向けの語り口だけど、内容は大人向け。というか、内容が難しいのに無理に子ども向けに口当たりだけ直してるのがもったいない。そこだけ気持ち悪かった。最初は苦しかったが、我慢して読んでよかったと感じた。満点。
Posted by ブクログ
先生というテーマの本かと思っていたけど、「話し合う」ことや「学ぶ」ということを根源的に考えることでコミュニケーションについての姿勢の取り方を知ることが出来た。単純に筆者の考えという「答え」を伝えて、おしまい!ではなく、コミュニケーションはもっと自由であることを教えてくれる本だと思う。自分自身で作っていた、枠(という名の思い込み)を取り払ってくれる素晴らしい本だと思う。
Posted by ブクログ
コミュニケーションについて、今までとは違う角度で知り得ることができた。分かり合うことばかりを考えていたけど、そうでなくても良いんだなと心が楽になりました。「謎の先生」の教育的効果も目から鱗でした!
Posted by ブクログ
感想。自分教師のため、自己肯定感をあげるために読み始めたがまったく自己肯定感をあげることにはつながらなかった。がとても面白い視点で書かれており今後の教師生活に活かせそうである。
反面教師という言葉の取り上げ方が印象に残った。いわゆる出来の悪い教師であっても学習者はなぜこんなへぼなんだ?という問いを立て、考えることを通して学ぶことができる。この考えはどんな状況(先生)であっても学習はできる。学習の主体というのは教師ではなく学習者にあるとした点が、この先生はえらいという題名につながるように感じた。先生はえらいと学習者が考えること(思い違い)によって学習者の学び、問いを立てるということは促進されるということか?
この問いを立てるのは学ぶ側であるという点が大切なのではないか?何も教えていなくとも、この先生はなにやらすごい知識や謎をもっていそうという自分では計り知れないなにかをもっているという感覚(誤読、誤解、思い違い)が自分自身に問いを立てさせる。そして自分自身でその問いの答えを考えることを通して何かの答えに自分が辿り着くことでやはり先生はえらい、すごいとなる。
最後の張良のエピソードが非常に示唆に富んでおり、なにも教えていないのに弟子が奥義に開眼するということがまさに問いを立てることの大切さメッセージを自分からつかみにいく解釈することが学びであると言えるのかもしれない。作品の紹介文が全てを表している。(自分が先生は)「えらいと思いさえすれば学びの道は開かれる」
Posted by ブクログ
中高生向けということでしたが、私にはちょうど良く腑に落ちました。
まさしく「先生運が悪い!」と思っており、自分が尊敬する先生(人)は、誰もが尊敬できる先生なんだと思っていました。こんなに様々な人がいて、感じ方が同じわけないのに。
分かりやすく伝えて相手に理解してもらうこと、それも大事なことだけど、(少なくとも自分は理解したことを)何度も言われると退屈だし、その時点でシャットアウトして終わってしまう。誤解の余地が残っている方がコミュニケーションが続くって面白い。
何でも謎があった方が惹かれるもんね。
Posted by ブクログ
「学び」は「教わる」ものだと、つい考えがちであるけれども、学ぶ者に視点を置いてみると、結局は「教わったつもり」になったものなのだ。学ぶ側には、解釈の自由がある。だからこそ「学び」が成立するのだ。
Posted by ブクログ
そこには無い何かを感じ、抽出し、意味付けをする力こそが学ぶ力である。
意味のある(数値化でき、効用が明確である)ものを選択的に受容することに骨の髄まで浸ってしまうと意味のない(と思えるもの)は無きものとなる。
Posted by ブクログ
尊敬できるような先生に出会えないのは、先生が悪いのではなく、漫然とえらい先生の出現を待っている自分が悪いのだと内田センセイはおっしゃる。
それはまあ、そうかもしれない。
どんなに先生が素晴らしいことをおっしゃっても、聞く気のない人の耳にその言葉は届かない。
逆に先生が何の気なしに言ったことが、人生を変えることだってある(かもしれない)。
そもそも、万人向けの言葉の中に大切な言葉はない。
たった一人の自分のために言われた言葉だから価値があるのだ。
わかりやすくある必要はない。
この人の言う言葉がわかるのは自分だけだ!くらいの勘違いが、尊敬できる先生との出会いのきっかけになるのだそうだ。
恋愛しかり。
「わかりやすい=誰にでもわかる」よりも「自分にしかわからない良さ」が、ポイントなんだって。
”わからないけれど、何か心に響く。「たしかに、そうだ」と腑に落ちるのだけれど、どこがどう腑に落ちたのかをはっきりと言うことができない。
だから、繰り返し読む。
そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。”
この文章を読んだとき、なぜ村上春樹が人気あるのかわかった気がしました。
私はわからないうえに腑に落ちないから、村上春樹にハマれないんだということも。
ところで「反面教師」ってことば、中国の文化大革命の頃の用語なんですって。
「資本主義に毒された反革命的な先生」という意味だったそうです。
単純に「ああいう人になってはいけない」ような人ってことではないんですね。
勉強になりました。
Posted by ブクログ
内田樹の教育論。と言っても、「学ぶこと」とはどのような状況で起こるのか、ということを平易な言葉で中高生向けに書かれている。学ぶことを学習に限定していないところがとても良い。
ちょっと回り道が長いので、ついてこれる子どもはどれくらいいるかわからないが、最後までたどり着くと実に面白い例が出ていて、納得する。教員にも読んでほしい本。
Posted by ブクログ
全体としてはなんだかよく分からないような気がするけど、それさえも術中のようで誤解できたんじゃないかと思います。
内容は面白いの一言でこれ以上言うことはないのですが、個人的にはこんなに話しかけるような書き方(悪く言うとものすごく内容に関係ない文が多い)さえも狙っているのではないかと思わずにいられませんでした。(本の中でトイレ休憩とかコーヒー休憩入れる人見たことないです!)
それも含めてこの本で言いたい事が表れているのは素直にすごいと思います。(少なくとも自分はそう誤読させてもらいました。)
感想は書けるけど、自分で読んだ方が早い気がします。
Posted by ブクログ
初内田樹だけど面白かった
大学生もっと早くに読めば良かったなあ
学びは学びたいと思うものにしか現れない。
よくわかる気がする
よく分からん難しい教科書に、あれこれ考えて無理やり解釈つけてわかった気になって、先生にボコボコにされてあーそういうことかってなることよくある。
謎があって、誤解の余地があるから人は想像するようになってるって、あーいいなって思う
突っ込み所のないパッケージトークつまんないしね。
逆に誤解するようにできてるから、人には想像力があるんだろう。
突っ込み所が適度にあるよう会話って、考える前に自然にそこに突っ込んでて、突っ込まれた方もあーそれはこうだからって自然に展開して、
考えてないから確かに第三者が操ってるような、会話がうまくドライブしていく感覚になる
そういう会話ができたときはすげー気持ちいい
会話のゾーンなんじゃね??
好きな人と喋ってるとうまくんできんのはなんでなんですかね。知って欲しい欲とか知りたい欲とかが勝って変なただの思い出とかをポーンと言っちゃうからなのかね
わかりたいんだよなあ。わかりきったらつまらんくなるのよなあ。人間めんどくせえなあ
Posted by ブクログ
「先生はえらい」? タイトルが意図するものがわからなかった。はじめにを読んで、要約すると・・・
『先生はえらい』と題したこの本では、「どういう条件を満たす先生がえらいか」ではなく、「人間が誰かを『えらい』と思うのはどういう場合か?」ということについて論じているらしい。ちょっとこの意図はタイトルでは伝わりにくいは、まあ本のタイトルとしては”つかみ”はOKなのだろう。
要は学びの主体性ということが重要だと言っている。
人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない、学ぶことを欲望するものしか学べないという自明の事実なのだ。
Posted by ブクログ
「教える」と「学ばせる」は違うんですよーってことを内田節で示す本。
「この人何を伝えたいんだろ?」って考えさせるのが真に主体的に学ばせる「えらい」先生。
でもそれは学校の「教師」に限らない。他人とのコミュニケーションの中でそういうことを考えさせるのが「えらい」人。その意味ではあなたも含めみんなえらい「先生」になりうる、って言いたいのかな。
教育論として真面目に読むと肩透かしくらうし、ここに書いてること真に受けてマネするには深い人生経験と教養が必要になる、と思う。
「わかりやすさ」が求められ、もてはやされる時代に、わかりやすいのは「教えてる」だけで、「学ばせ」てませんよって痛烈なメッセージかもしれない。
黄石公と張良の話が面白かったけど、この話でこの本書いたんじゃないかな(笑)。
Posted by ブクログ
中高生向けに書かれた本という体裁ですが、内容はかなり難解に思えました…
えらい!という先生に出会うのは偶然なんかではなく必然で、受け手の感覚次第ということなんでしょうか…?
こんな考察も、最後の章を読むと学びに内包されていて勝手に私が誤解してるだけなのかしら…?
色々と考えるきっかけになる本でした。
Posted by ブクログ
万人にとっていい先生は存在しない。師を恋人で例えているのは面白かった。
学ぶことを欲望するものしか学ぶことができない。そして私たちは「わからない」から、満たされないから知りたいと思う。
私たちは自分のこともわからない。自分が考えていることが上手に言葉になっていかない。言い淀んで言い直してジタバタして、だからコミュニケーションは終わらない。全部わかったら対話はいらない。
今現在も目下教育界で課題の主体的対話的な学びって、子どもたちの上手くいかないなーわかんないなーこの人のこと知りたいなってところから出発してるんだよね。
Posted by ブクログ
「先生はえらい」というタイトルから、先生を肯定するような内容かな?と思っていたが、コミュニケーションや学ぶことの条件について、かなり論理的に、そして、内田樹さん的に解説してあった。
その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生、それが「謎の先生」=「学べる先生」「尊敬できる先生」
Posted by ブクログ
「正確に何かを伝える」
「自分には伝えたいことが明確にある」
などの考えが間違っていることに気付かされた。
特に、オチのない話=まだ自分の中でどんな価値があるのかわからない話 をしてしまう相手こそ親友であり、恋人である、という話には大変驚いた。
この感覚を現代の子ども達はどれくらい持つことができるのだろう。
Posted by ブクログ
心に響くフレーズ
① 漱石が先生の条件として挙げているのは、二つだけです。一つは、なんだかよくわからない人であること。一つは、ある種の満たされなさに取り憑かれた人であること、この二つです。
Posted by ブクログ
タイトルからは、どんな内容なのか想像がつかない本。
結論としてはたしかに、「先生は、その定義からしてどんな場合でも必ずえらい」というところに持っていくのだけれど、それは話題のきっかけに過ぎず、「人から学ぶ」というのはどういう現象なのか、ということについて主に語られている。
面白いと思ったのは、コミュニケーションは誤解の余地が残されているからこそ質の高いコミュニケーションになる、ということだった。これは経済活動においても、何かを教えるということとも関わっていて、一見すると効率からはかけはなれた「無駄」や「曖昧な部分」があるからこそ上手く機能することが多くある、という。
たとえば、著者が「あべこべ言葉」という用語で表現した、「適当」や「いい加減」のようにまったく真逆の二つの意味を同時に持つ単語というのは、どの言語にもあり、それはコミュニケーションに曖昧性を持たせようとする、本能的な性質であるらしい。
その、完全じゃない部分を補う想像力を人は持っていて、そこにこそ豊かさが生まれるというのは、言われてみればその通りのことだ。ちょっと変わった視点からの話しの展開ばかりなので、どんな人が読んでも、新しい気づきを与えられる本であることは間違いないと思う。
私たちが「この先生から私はこのことを教わった」と思っていることは、実は私が「教わったと思い込んでいること」であって、先生の方にはそんなことを教える気がぜんぜんなかった、ということがあります。
というか、教育というのは本来そういうものなんです。(p.41)
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないようだけれど、はじめてかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。(p.62)
ここで、たいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。それは、人間はほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える、ということです。
コミュニケーションはその典型的な事例です。
私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。(p.72)
古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。これはもう必ずそうです。構造的にそうなんです。(p.135)
教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。(ジャック・ラカン「教える者への問い」)(p.170)
子どもは彼が生まれる以前に成立した言語に絶対的に遅れて生まれます。言い換えれば、子どもは「すでにゲームが始まっており、そのゲームの規則を知らないままに、プレイヤーとしてゲームに参加させられている」という仕方でことばに出会うわけです。(p.172)