あらすじ
日本マンガと日本人を身びいき目線で論じる。
「これほど好きなジャンルは他にない」と語るマンガびいきの著者が、世界に誇る日本マンガについて熱く語る! 『エースをねらえ!』から、男はいかに生きるべきかを学び、『バガボンド』で教育の本質を見いだす。手塚治虫の圧倒的な倫理的指南力に影響を受けた少年時代、今なお、読み続ける愛すべき少女マンガ…。
日本でマンガ文化が突出して発展した理由をユニークな視点で解き明かす。巻末には養老孟司氏との対談を収録。言語としての日本語の特殊性と「マンガ脳」についての理論には瞠目される。マンガは、どれほどビッグビジネスになろうとサブカルチャーに踏みとどまって、その代償として自由を享受してほしい、と願う著者の「愛と敬意」のマンガ論である。
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Posted by ブクログ
もう、だいぶ内田老師の本も残り少なくなってしまった。今回のマンガ論も、ただ漫画を媒介しているだけで、なんのことはないいつも同じことが書いてある。老師は自分自身、先生というものの役割について、卒業生にとっての北極星、つまり定点であり続けることと、仰っていた。私は卒業をした記憶こそないが、数か月、内田老師の本を読まない間に、また、10年前に呼んだ老師の本を再読した時に、自分自身の変化や成長を感じることができるのは、まさに老師が定点としての役割を発揮しているおかげなのだろう。
• あらゆるマンガの中でも、主人公に成長を要請するシナリオは似ており、人類学的な普遍性すらも帯びている。人間は「こうせよ」という単一の、無矛盾的な命題に従うよりも、それぞれが相互に否認し合うような排他的命題にひきさかれているときのほうが、パフォーマンスを向上させる。つまり、ロールモデルが複数併存し、それが相互に否定し合うゼロサム的な関係にある時、人間は最も成長する。古くは韓非子の矛盾の逸話がそれを示しており、近代では、レヴィストロースの親族の基本構造で、親と叔父の2人の男性モデルが相反している場合に、子供の成長を促すという形で示されている。一般的な、凡庸な教育家であれば、人間が成長するためには、単純で無矛盾的な支持を繰り返し与え続けることが成長につながると考えているが、それは犬のしつけと同じで、洗脳はできても、成熟することはない。成塾するためには、相矛盾するおとなたちの言葉に対して、一旦正否の判断を留保したまま受け入れ、葛藤することが必要である。
• 老いの手柄(宮崎駿論):生まれたときから現在の年齢までのすべての年齢の自分を抱え込んでいて、そのすべてにはっきりとした自己同一性を感じることができるというありようのことをおそらくは老いと呼ぶのである。幼児期の自分も少年期の自分も、青年期の自分も全員が今、自分の中で活発に活きており、適切なタイミングでその中の誰かが人格後退して、支配的な人格として登場する。そのような人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」なのであろう。
• 宮崎駿論で唸ったのは、内田老師の「風立ちぬ」評である。単純に言ってしまうと、風立ちぬは、「時間の流れ方」を描いているというものである。作中では、風の描写が必要以上に丹念に描かれていることをきっかけに、宮崎駿が描きたかったものとして、戦前から戦後にかけて日本人が失ってしまった「時間の数え方」、特に「植物的時間」というゆっくりとした時間の流れではないかと挙げている。作中では、風や植物のそよぎの描写に時間がかけられている一方で、飛行機技術に関する主人公の切迫感や、まさに航空テクノロジーの進化によって、人間の時間の流れを速めていく様が描かれている。
• アメコミに見えるアメリカの自画像:これも別の本で読んだ気もするが、アメコミヒーローが描いているのは、当のアメリカ人の自画像であるというものである。そもそも、アメリカの強さは何かと言う話から始まるが、一言でいって「アメリカという国はなんのために存在するのか」という国家の根幹にかかわる問いに、常に答える準備ができているということである。アメリカは、17世紀に「わざわざ」建国された国である。アメリカは人類の理想を体現するために海を渡り、作られた国であるという建国の逸話であり、呪いが彼らにはある。これは非常にストレスフルなことで、普通の国であれば、物心ついたことにはその土地に住み着いていたために、そんな問いを自分に向けることはない。だからこそ、アメリカは、常に「存在意義」について考えさせられている。アメコミの主なプロット、特にスーパーマンもバットマンも、スパイダーマン(さらに最近では、ハンコックや、シャザムもそうかもしれない)は、高い理想を掲げて、世界の平和のために寄与しているのだが、周囲の人間たちはその努力を知らずに、彼らに感謝しようともしない。それどころか、お前のスーパーパワーを発揮することで世界の秩序はかえって乱されていると言う罵倒や無理解に悩まされて、世界を救うことを辞めてしまおうかと思う。しかしながら、彼を信じる少数の理解者のために、彼らはまた立ち上がり、世界を救う仕事に向かう。これはまさにアメリカの、国際社会の自己認識そのものである。
• レヴィナス老師の言葉として、倫理とは「お先のどうぞ」という精神であると言う。あらゆる場面で、お先にどうぞと言えるか、つまり、自分自身が今まで生きてきた人生が明日終わるかもしれないという時に、その覚悟ができており、タイタニックの最後の1隻に対して、お先にどうぞと言いきれるのかということである。これはには日ごろ、人生の有限性に思いを馳せ、今日が最後の1日かもしれないとていねいに毎日を生きることなのである。老いが進むごとにできることは少なくなっていく。しかしながら、その状態に不平不満を言うのではなく、老いと付き合いながら、「ああ今日が人生最高の日だ。明日死んでもいいや」の精神で毎日を楽しく過ごすことが重要である。
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内田樹の街場のマンガ論を読みました。
内田樹のマンガに関するblogなどを集めたエッセイ本でした。
今の教育が画一的な「犬のしつけ」のようなものになってしまっている状況で、マンガは子供たちに人間的な成長について教えている、と言う指摘は面白いと思いました。
日本でマンガが発達している理由として、日本語の特殊性について言及しています。
日本語が表意文字と表音文字をあわせて使っているため、日本人は言葉を認識するときに脳内の複数の場所を使っている。
マンガも絵と言葉が同時に書かれている表現方法なので、これは日本語の特殊性によって発達した、という説明が面白いと思いました。
少女マンガを読むためには少女マンガリテラシーというようなものが必要だ、という解説を読んで、私は少女マンガは読んでも面白いと思わないのですが、その理由が分かったような気がしました。
私はマンガはあまり読みませんが、そのうち「バガボンド」や「進撃の巨人」なども読んでおかなくちゃな、と思ってしまいました。
Posted by ブクログ
一気読み。マンガ読んでるくらい熱中して読んだ。
日本語の特殊性がマンガの読み描きを可能にしているという養老孟司の論に、日本人でよかった!と心底思った。少女漫画、宮崎アニメ、好きなジャンルがばんばん出てきて幸せだった。引用以外にもいろいろあります。ほんと内田樹は気持ちいいな。
しかし唯一ひっかかったのがボーイズラブ論。エロス、大なり、私(自己)、という図式に則って、BLはエロスの嚆矢だから私たちを魅了する説。エロスが自己決定の支配下にない、むしろエロスを抑えるから人間は人間足りうるというのには同意するんだけど、ことBLに関してはもう一歩あると思う。つまりBL世界では、登場人物は性欲が自己決定下にないことを承知の上でいようがいまいが、男女関係という住み慣れた枠組の外に立たされた時にある種の決定を迫られるのよ。そうして同性同士の関係が結ばれた時、その関係は自己決定した(かのように思える)関係性だからこそ魅力的なのではないかと思う。双方の意思でなくても、どこかに「選んだ」感がある。その主体性が登場人物の精神の純度を上げて見せる。そっちのピュアさに読み手は惹かれると思うな。エロスの純度じゃなくて、主体性の純度。内田先生の論とは逆かもしれない。でも読み手はそこを俯瞰してるから萌えるとも思うから、真逆ではないか。登場人物がピュアだピュアだと訴える思いもエロスの前には無力であることが分かってるから、やっぱ男って愛すべきばかね!って愉しめるんだろうな…。
Posted by ブクログ
内田先生の漫画愛、特に、少女漫画と井上雄彦へのリスペクトが、筆に勢いを与えている評論集。
週刊誌でハイペースに描き続ける
→画力がどんどん上がる
→作品上のキャラクターが今までに見せたことのない表情や動きを見せる
→作者自身が予想もしなかった作品ができる
そうやって、作品が作者のレベルを引き上げる。
そんな風に考えると、井上雄彦マンガがエンドレスのレベルアップをしている理由が理解できる。
そして、マンガのイノベーションが日本でしか起こらないこと、漫画がアメコミの国ではなくここ日本で特異な発展を遂げた理由が、本家養老先生によって解説される。
日本語脳、それ即ち、マンガ脳なんだな。
基本的にブログのザッピングなので、公平性とか客観性を求めるような論説ではありません。私見と割り切って、面白いこと言う人たちだなあ、という姿勢で読む方が、知性を活性化できます。
Posted by ブクログ
少女漫画の章が特に秀逸。
少女漫画は少年漫画と違い,セリフに表れない部分があるため,読めない人はとことん読めないようです。
確かに,主人公が敵をやっつけたるのを見てスカッとするのを楽しむ少年漫画と,主人公に感情移入して恋愛を追体験する少女漫画とでは,読み方が全然違う。もちろんこれは一例ですが,漫画を読んで「あー面白かった」だけで終わらせるのがもったいなくなる本でした。
Posted by ブクログ
2014.3月現在。わーい。祝1000作品目!
たくさん楽しみました。
まぁ、細かいこと言えばシリーズものを1作品にまとめてたりするんで形のうえでは、っていうだけでそこまで感動はないけど、桁が変わるのはちょっと嬉しい。
さて。この本は、常々ブログを拝見させていただいておりますゆえ、あぁ読んだことあるある、という内容のものが多かったり。
日本人の感じやマンガを読む際の脳みその構造については大変興味深いなぁと思いました。
あとね、少女志向の話はちょっと笑ったw
あぁ、そうだ、ひとつ疑問だったんだ。
少女マンガのリテラシー。
少年漫画は、「実際に口に出した言葉」「心の中で思ったけれど口に出さなかった言葉」と「擬態語」の3種類しかないけれど、少女漫画はそれに加えて、「心の中には存在するのだが、そのことに本人さえ気づいていない言葉」があると。
なるほどなぁって、思ったのだけど、
わたしそれを、少年漫画みたくって言ったら語弊があるかもしれないけれど、「すべて心に思い浮かべてはいたけれど、口に出さなかった言葉」として、読んでた。女の子って、そういう風に読んでいないのかなぁ?
少なくとも私は、心の中に、いろんな「私」がいる。
どの行動に選択するかを決める「主たる私」も確かにいるのだろうけれど、「心にはあるけれど、口に出さなかった言葉」を心の中で、何人もの私が、奏でる。
「実は心の中でこう思ってる」ってのは、1つだけじゃない。「なんでそう思ってるかっていうと、本心はこう思ってるからよ。」って言ってくれる私も同時に存在するし、「そんなこと言っても、結局はこうなんでしょ?」って反発みたいに突っ込み入れる私も同時に存在する。恥ずかしいけどモノローグみたいに、「発言している私を取り囲む環境」を、客観的にみて、「そんなセリフ吐くのは、今あなたがこういう状況にいるからだ」とか、「(例えば)それにしても月がきれいな夜だ」とかそんな風にいう自分もいる。
だから、「本人も気づいてない」のは、ほんと?って思ってしまう。
正直自分は、多重人格一歩手前なのか?とか思うことがある。必ず「自分を客観視する自分」が、いるのだ。人の心なんて知る由もないけれど、そうみんな、思っていないのかな?思っているからこその「少女漫画の在り方」が、このように言われるわけで。
でも、どれも「私」なのだ。
だから私は、「私」を信用してない(というと言葉が十分じゃないけれど。)
その時々に自分にとっての最適解を選ぶ自分がいたとしても、そうでない自分が、心にたくさんいるからだ。それは「主たる自分」がいるとしても、「サブキャラ」みたいな認識とは違う。どう考えても、それはやっぱり「私」なのだから。
男と女の脳内構造の違いか何かでしょうかね?
Posted by ブクログ
これまで刊行された著者の多くの本とおなじく、ブログに発表された文章を集めた本で、今回はマンガやその周辺のテーマをあつかったものが収録されています。ほかに養老孟司との対談「戦後漫画論―戦後漫画は手塚治虫から始まった」も収められています。
井上雄彦のマンガについて、その身体性に注目しながら論じているところはおもしろく読めました。ただしこれにかんしては、著者の対談本である『日本の身体』(新潮文庫)での井上との対談でより突っ込んだ議論が交わされており、本書のエッセイはもうすこし軽い感想めいた文章がつづられています。
マンガではありませんが、宮崎駿の『風立ちぬ』の時間性についてのエッセイも、テーマは興味深いと感じました。ただこのテーマについては、著者はこれまでもかなり立ち入った考察をおこなっているはずなのに、本書ではとりあえず時間性という問題にリンクさせただけで議論が尽きてしまっており、せっかくのおもしろそうなアイディアが十分に展開されていないように感じてしまいました。
このほか、少女マンガの言語構造などにかんする議論も含まれています。
Posted by ブクログ
【マンガリテラシー】
子どもは葛藤の中においてのみ成長があるのだ、ということを、井上雄彦の作品を通じて主張する。そうだ、白黒はっきりさせてはいけないのだ。ハチクロやもやしもんのように、大学というのはわけのわからない人が跋扈し、そこでまた少年少女はおかしな成長を遂げていくのだ。内田本の御多分にもれず、概ねブログの抜き取りなので、自分語りも多いのだけど、それは織り込み済み、でいいだろう。
インプットよりアウトプットが多く、オタクにもマニアにもなれないという著者。インプットが圧倒的に多く、オタクとマニアの間を揺れ動く僕。少年漫画と少女漫画はそれぞれ真名と仮名であり、両方を読んでバランスをとる、少女漫画はリテラシーがなければよめない、というが、オタクとマニアの間でバランスをとるってのはどうだろうか。
Posted by ブクログ
内田先生よりはやや若い年代ですが、ほぼ同世代ですから自分の少女時代はやはりここに登場するマンガを良く読んでいました。懐かしさはあるのですが、いつの頃からかマンガからはすっかり遠ざかっています。
そのため、この本に書いてあることはへえ~そうなんだあという感想が主でした。しかし、ひとつすごいと思ったのは、内田少年の「短い少女時代」のお話です。内田先生の私的事情と相まって、私の本質は「少女」であると告白しています。だから内田先生の主張は、ちょっと先を行っている雰囲気ですんなりくるんですねと納得しました。娘のるんちゃんのお話が面白かったです。
Posted by ブクログ
漫画という文化を至極真面目に論じる。
作者の内田樹さんのことを知らなかったので、もっと「このマンガのこのくだりが好き!」みたいなミーハー論調なのかと思ったら全然違いました笑
井上雄彦、手塚治虫、萩尾望都、羽海野チカ、鳥山明、赤塚不二夫、、、
数多もの漫画界のビッグネーム作品を取り上げながら、なぜ漫画が日本文化にこれほどまでに強く根付いたのか、日本語の持つ漫画への適応性などを大学の講義でも聞いているかのように学ぶことができました。
読めば読むほど日本人に生まれて良かったなー!と声を大にして叫びたくなります。日本語も日本のマンガも大好き!
養老先生との対談の中で語られる、漫画家の進化の話が印象的でした。
小説家は書けば書くほど文章力は上がって行くかもしれない。でも急激な進化はなかなかみられない。
漫画家は描けば描くほど確実に絵が上達していく。絵が上手くなればそれまで表現出来なかった世界が展開でき、作品に深みが増すようになる。その時が突然進化するタイミング。
掻い摘んで言うとこんな感じ。。
井上雄彦がペンから筆に切り替えたときから圧倒的な画力を存分に発揮しているのが分かりやすい例なのかしら。
元々伝説のスラムダンクですら素晴らしいと思っているけれど、スラムダンク初期の花道とバガボンドの武蔵とでは…迫力が違いすぎる。
そういった感じのことを勉強させてもらいました。
文庫版加筆としてONE PIECEや進撃の巨人、風立ちぬなどがあり楽しめます。