多和田葉子のレビュー一覧
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実に難解な小説である。タイトルの『変身のためのオピウム』からして意味不明だ。オピウムはアヘンや麻薬のことであり、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』の中の言葉「宗教は民衆のためのオピウムである」からとられているのは明白。しかし、そうだからといって何が分るといういうものでもない。スタイルは一見したところは長編小説だ。しかし、物語全体を貫流するプロットは、これまたあるような無いようなだ。表現のところどころはシュール・レアリスムを想わせるのだが、シュールではない。しいて言えば西脇の「旅人かへらず」に似ているか。
この小説はけっして観念的な意味で難解なのではない。ひとえに小説作法のあり方において難解 -
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表題より前掲のペルソナがよい。
まあ、読みにくい。
異国の生活でのアイデンティティについて。外国人とも日本人とも意識が乖離。私はこの問題に関して留学中は諦めてたなと反省。むしろ韓国人やベトナム人に見られることで新たなペルソナを被り匿名性の快感を感じてました。
壁も、ステロタイプの像も他者の頭から無くなるわけない。諦めた方がいいはず。でもこの作者は戦っている人でした。非常にタフ。
ついでに犬婿入りのメモ。
長文を繋げてリズミカルに。
口上。興行師の話し方に似ている。書き方で連想するのはなめとこ山の熊、樋口一葉。きっと後者が近い。
口上を目指すことで民話的な、昔々的な世界観を作る?
段階別の異様 -
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ペルソナ、表題作の二篇。ちょっと歩いただけで体中に小さい棘が刺さる。端的なようでねじれた文章、意地の悪い目線。散らされた毒に、違和感の集積が肩にのしかかる。重ならないが故のあきらめ、一方の引力、思いやり。ひとり目の道子と似た環境にいたことがあるけれど「あーあるねー」ってところと、そういう風に感じるのか、と思うところと。アジアは総じて「アジアチック」、「トヨタ」ではなく「ソニー」だった。顔指して言われた事はないしいわれても別に気にならなかったと思う。
正直なところ、主人公が神経過敏でなんてめんどくさいんだ、と思った。でも、その感覚を知っている気もする。読後こってりした澱が残る。 -
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ドイツのとある修道院の尼僧たちの生活を描いた小説です。ここに登場する修道女たちは一般的なイメージと異なり、あまりに世俗的でした。プロテスタントの修道院ということが、理由のひとつなのかもしれません。カトリックだと、その暮らしぶりはもっと厳格なのでしょうネ。この小説は二部構成になっていますが、本来その構想はなかったようです。でも、この物語は二部があってこそ、登場人物ひとりひとりの個性が際立ってくるような気がしました。二部では駆け落ちして修道院を去った、元尼僧院長の過去が語られます。しかしながらそれは、タイトルから連想されるようなロマンチックなものではありません。ここにはひとりの女性の半生が、切々と
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日本語を母国語に持ちながら、ドイツ語でも小説をものしている著者が、「母語の外へ出る旅」を語るエッセイ集。元来、僕は言語は思考の枠組みを変える(ので、第二言語を喋っているときは性格が変わる)という説の信奉者であり、様々な思考の枠組を手に入れるために様々な言語を学ぶのは良いことだと考えている。しかし、この著者は単に新しい言語を手に入れるに留まらず、母国語と第二言語、そしてそれらの境界についての思索をさらに深めていく。二つの言語の境界線上では、日本語を母国語としたドイツ語話者に特有の Japanisch Deutsch が誕生し、言語表現はさらに豊かなものに……。
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「雲を拾う女」が最も面白い。次に表題作。見れば前者は95年に後者は96年に発表されたもので、そのほかの作品(「所有者のパスワード」「枕木」「目星の花ちろめいて」)は2000年前後に書かれている。これらは多和田文学におけることばあそび(言葉の語感から喚起されるイメージで小説を展開していくスタイル)への習作といったイメージ。「光とゼラチンのライプチッヒ」の、音とことばに執拗にこだわる独特な世界観と、これらの作品は近いと思う。
「雲を拾う女」では、所有や主体や存在に対して直接的な説明が随所に織り込まれている。ここでは主体はものである(わたし)であり、その視点から外側にアプローチをかけているのだが、語