内田樹のレビュー一覧
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超えてはいけない一線があるのではなく、「超えてはいけない一線が私たちの内部に実在するということにしませんか。」ともう一度道徳と言うフィクションを再構築しないといけない。
私も親を殺したいと思った。でも殺したら自分の方が損だなと思って、何くそ!と戦ってきた。きっと、子供のころにそんな風に考える人は少なくないのではないか。だから、少年犯罪は、特異なことだと型通りに決めつけるのはおかしい。
だから、子供達がそのような犯罪を犯さないように人を殺してはいけないという道徳を親が教えなおして子供達の心に再構築すればいい。
「ルーティン(躾)は大事」植木鉢の土と同じで練れば練るほどよい花が咲く。「親は役割」母性の幻想に惑わされず、フィクション(親)を演じればいい。
「おばさん」って女としてあがっちゃっているからではなく、前思春期の状態から思考が止まって女同士牽制し、嫉妬し、見栄張り合うから。前思春期とは、異性との恋愛の予行演習に同性同士で深い友情を築く大事な時期。
我が家のレゴくんも大好きな親友の男の子と仲が良くてちょっとママとしては理解しがたいと思っていたが、自分の前思春期も同じだったことを思い出した。成長過程で必要な時期なのだろう。
でも私は思春期を終えた、色気のある女性になりたいな。 -
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なぜついつい内田樹の本を手に取りたくなるのかが、読み始めて5年目(くらい)にして初めて気が付いたような気がする。単純に話題が豊富で話が面白いというのもあるけど、何より読んでいて「気持ちよく」なるからなのだと思う。内田樹自身も、自分が気持ちよくなるような仕方で文章を書いている(あるいは話している)のは間違いない。その気持ちよさが読者にもよくよく共振するのだと思う。まあ文章に限らず、氏は人生においても自身の気持ちよくなるようなそれを希求しているのだろう。だから氏は疲れる対談は絶対にしない。その姿勢は見事に濁りのないもので、ある種の清清しさすら感じられる。またそうした生き方は、一つ間違えれば非常に”態度の悪い”ものになるはずなのだが、そこにはきちんと一歩線を引いていて、そこはかとなく”ディセント”である。これらはこの本を読んだだけでは感じにくいことかもしれないけれど、このバランス感覚が他の単純に"態度の悪い"作家とは一線を画していると個人的には感じる。
ということで、この対談は、基本的には、内田樹がいつものように話しまくって終わりました、という感じのものです(そうとう加筆したんだろう。今回に限ったことではないけど、会話のバランスが不自然だ)。対談相手も内田樹的に態度の悪い人(養老孟司とか)であれば「対談」になり得るんだけど・・・。
春日武彦は一人で書いた文章の方が絶対に面白いと思う。巻末こそが氏の特色がよく出ていて、読み応えがあった。
以下メモ
人間が精神的に健康である条件について(p224)
・自分を客観的に眺められる能力
・物事を保留(ペンディング)しておける能力
→自分も前からこの能力の重要性についてしばしば考えていた
・秘密を持てる能力
→「自分の世界を持てる能力」と置き換えたい
・物事には別解があり得ると考える柔軟性
非常に納得のいく4点でした。 -
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最近『スプートニクの恋人』を読んだ。ぐいぐい惹き込んでいくような面白さがあったので、英語版も買おうかなと(英語の勉強になるし)、昨日新橋の文教堂で迷ったんだけど、あまりの値段の高さ(1920円)に断念した。
それはさておき、こういう文学批評っていったいどこにその価値があるのだろうか。橋本治が「批評とマーケティング」で言っていたように、批評が社会をリードするのは(批評に意味があるのは)、”社会はいつでも未完成で、しかし、その社会にすむ人間は、いたって簡単に「未完成である」ということを忘れてしまうから”というのが一つの理由として考えられる。
また人間は一人一人その価値観、世界観が違うから、その「ずれ」を埋め合わせるため、あるいは議論を活発化させるために批評は存在している、とも言えるかもしれない。
しかし殊文学に至っては、それがうまく当てはまらない。
文学とかそういうものはとても「個人的」なものであり(あるいは「単なる娯楽のようなもの」)、そこに批評が介在することで、作品そのものが昇華されるとは思えないからである(じゃあこのレビューは何なの、とか言わないでね)。
その作品をどう捉えるかは、あくまで読者側が行うことだ。
であるからして、文学批評(文芸評論)というのは、その批評家が提示する批評内容に読む側が同意できるか否か、ただそれだけのことである(と思う)。
(だから文学批評って必要ないと言われれば、ないとも言える気がするし)
僕は小説はあまり読まないけど、村上春樹は好きだし、また内田樹の(村上春樹に対する)捉え方もよくよく同意できる。
ただそれだけのことで、文学とかそういうものは本当に個人的な営みなんだな、と思う。厳密な意味で、それは他の人と共有できるとはあまり思えない。
(2007年11月10日) -
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この人の「考え方の構造」を考える。
考え方のテンプレートがある気がする。
対外考え方を量産できる人は、それなりの、自分なりのテンプレートを持っているもんだ、と考えるからだ。
気にかかることを、なぜ気にかかるか徹底的に考える。
ヒントになるフレーズがあったな。
「親密圏について」の件
私は骨の髄までビジネスマインデッドな人間なので、どのような社会制度についても、「この制度は、いかなる人類学的起源を有するものか、これまでどのような歴史的使命を果たしてきたのか、現状では、どのような点で制度疲労や機能不全を起こしているか、どのへんを補正すれば使いの延ばせるか、どのあたりのタイミングで修理を断念して『新品』に乗り換えるか」というふうな機能主義的な問いのたて方をする
というところ。
あ、以降のところは、自分のテンプレートの作り方への考えのまとめなので、「内田樹さんのものの見方はこうだ」というものとはズレがあります。
気になることに対する問いへのアプローチの仕方がすごくたくさんある。
そのアプローチひとつひとつに、また細かい解決への道への考えたたくさんあるのだろうけれど、きっと、「相手」に合わせて、そのアプローチにテーマを持ってより集めて編纂していく。対象は無数(ではないかもだけどかなり多くいる)ので、量産が可能になる。という構造。「問題解決」へのこれでもかというくらい能率的な思考構造のモデル。
※実際頭の良い人は男女問わずこの思考モデルが良く機能しているのだろうと思うけれど、私レベルだと「男性的な思考のモデル」のように思われる。実際自分は漠としたテーマを、一種の不定形な粘土のように捉えていて、その感触から粘土の中にある(であろう)核に迫るような気がする。「わたしは何が気になってんだ?」と。確かめようとしてるうちに、いつのまにか粘土の外形が気になっちゃって、いつの間にか粘土で像を造ってみました。でもそれはそれで面白くていいじゃない?みたいな。私の思考回路っていつもそんな感じだ。あれ、それって「女性的」だと思ってたんだけどただの「頭の悪い人の考え方?」
それだといつまでも「真理」にたどり着けない。いや、そもそも「真理」があるのか、とか聞かれたら「分からない」んだけどさ。ただ、外から内か、内から外か(広がる形か、閉じられた中のものか)という違いはある。そこを飛び出せば、私の思考回路って大きく飛躍するんじゃないか?ひとまず「問い」を立てること(その立て方)か。「核」を追求しようとしすぎて漠然としすぎてるんじゃないか。日常レベルにまで落としてみる努力か。いや、この発言自体ひどく漠然としてるんだけど。「問いを具体的に置き換えてみる。」ことを気にして置いてみよう。あ、あとオチだな。「立てた疑問にはそれなりの答えを見つけること」違っても明日変わってもなんでもいい。とりあえずの答えを見つける。まずはそこからだ。
で、話は変わって。ちょっと外形が見えてきた「内田樹」さん。テンプレートを察してみたところで、彼の根幹をなすものはまだつかみきれてない。色んな相手を想定したアプローチが多すぎて、見えてきにくい。あぁ、この思考こそが外から内なんじゃないか・・・。もういまさらこれは変わらないんだろうか。
次の本で、「気になるところ」を取り上げ、なぜ気になるのか考えてみる。
その訓練をする。
余裕があったら、内田樹さんの思考の枝葉を逆に辿ってみることを、ちょっとしてみよう。これで7冊目を読んでしまった(ちなみにネットの研究室もよくみている)そろそろ本質にたどり着き「思考の賞味期限」を感じてもいいころではないか。
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村上春樹のことだけでなく、いろんなことについて感じて自分なりに考えて、意見を持って。でも、それが果たして正しい考えなのか、ほかの人はどう考えているのか意見を聞いてみたい。
そういうときに、この筆者の考えはすごく説得力があって、共感できるし、新しい発見も多い。
村上春樹の文学では、「雪かき仕事」の大切さがよく取り上げられているというのも慧眼だった。
「雪かき仕事」は特に賃金が払われるわけでもなく、社会的敬意も向けられないけれど、誰かがやらなければ必ず困る人がいる。
生活の中で突然ふりかかる「邪悪なるもの」に取り込まれてしまわないために、「僕」は「雪かき仕事」をきちんと続けている。
かなりざっくりと自分の特に気に入ったことをまとめてしまうとこんな風になるんだけれど、
なるほどなあ、と思う。
こういう風に考えると、私が村上春樹に惹かれる理由も、すごくしっくりくるんだよねえ。
シンプルな朝食を手際よくこしらえて食べたり、
毎日きまったコースをジョギングした後に浴びるシャワーの気持ちよさであったり、そういう描写は読んでいてもさっぱり気持ちよくて、神聖ですらある。
簡単そうでいて、日常で実践し続けるのはなかなか難しいんだよね。
それこそ、すぐに邪悪なほうに取り込まれてしまうから。
話は変わって、文章を書くということについて。
書き手は完璧に正確な表現者でなければ書いてはならないなんてことないんだ。
オーソリティーがこうすっぱりと言い切ってしまうすがすがしさ。
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「あ、この本面白かった。またこの人の本出たら買おう」と思うのはせいぜい十人に一人くらいである。
それで十分だと思う
十人のうち八人、九人に支持される本を書こうなどと大それたことは考えないほうがいいし、そもそも考えても書けない。
私の書くものは、私の書くものが「読みたい」人のために書かれたものであって、私の書くものが「読みたくない」人のためには書かれていない。「私の書いたものを読みたくない人」は読んでも意味がよく分からないか、意味は分かるが腹が立つかのどちらかである。
私の考え方や書き方が「気にくわない」という意見をお持ちの方はそう思う権利があり、私はそれを尊重する。そういう方にお薦めしたいのは、とりあえず読まないことと、運悪く読んでしまった場合には、読んだという事実そのものを忘れてしまうことである。 -
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違う角度から物を見ることが出来て刺激的。
たまにすごく、まっとうな指摘も。
小学校の英語教育についての不安、白川静先生追悼、親族の基本構造、ひとはなぜ葬礼を行うか、少子化問題は存在しない、日本辺境論、など。
少子化について、行政がそれを問題だと思うのは納税者が少なくなるから。日本は狭い国で社会的資源が不足しているから、人口が減るのは自然な現象。少なくなった方がむしろ住みよい??もう一つ、家族単位で消費していた人たちが個人の好みで生きるようになった。他人を我慢しなければ共同体は成り立たない。う~ん、なるほど…
「不快という紙幣」は、両親の不機嫌さを見て、子供達は自分も嫌なことをしている、それが仕事だと受け止めているという…!
戦後日本がアメリカに憧れて学んで成長したが、それは伝統的に外国から学ぶことは習慣づいていたから。その性質は生かすべき。80年代に入って日本がバカにされるようになったのはもう辺境ではないと思い上がったため。そういう面はありますね~。
哲学の話になると、まったく要約できないが…
人を挑発するような書き方をすると自分でも書いているとおり。
部分的には極論だったり、言葉の遊びに思えるので、反論したくなるが~全体通してみて引っかき回すのが好きなんだなあという書き方なので、いちいち反論するほどでもない…?
2008年7月発行。 -
Posted by ブクログ
僕は基本的に親子関係は希薄な方がいいという考え方。取り越し苦労はやめよう。なにが起こるのかわからないのだから、全方位的にリラックスして構えていないと対応できないよということ。取り越し苦労するひとは、その最悪の事態の到来を願うようになる。 育児というのは待つことなしにはあり得ない事業。子供相手にすぐ結論をだせっていったって無理なんだから。大切なことは時間に委ねるしかない。育児を経験すると、即断即決なんてできないことの方が世の中には多いことがよくわかる。 結婚生活のトラブルはその八割が双方の親族が原因でおこる。 宣言というのは幽王。人間て、自分がいったん口に出した言葉には本当に呪縛されちゃう。愛しているという言葉も言っているうちにその気になってくる。 いま家族がうまくゆかなくなっている原因の一つは、全部がショートスパンになってきて、本来ロングスパンで成否をみるはずの相手や親子のあり方を、はやく決断しろ、はやく結果をだせというビジネス的な時間感覚がゆがめているせいじゃないかな。 アントニオ猪木 ピンチというのは無数のファクターの総合的な効果である。 部屋の片付き度と頭のなかの整理度はパラレル。 アメリカ 自己決定したという事実だけでアチーブメントが獲得できる。この治療法を決定したのは私だという心理的効果でぐいぐい治ることがあり得る。 日本では無理。 がん告知にしてもインフォームドコンセントにしても、制度みたいなものが先行して、まだ患者側の人間的な成熟が追いついていない。 とりあえずまるごと承認してきいてくれるのは弁護士と精神科医だけ。 人間が精神的に健康的である条件 1。自分を客観的に眺められる能力 2。物事を保留しておける能力 3。秘密をもてる能力 4。物事には別解がありえると考える柔軟性