川上弘美のレビュー一覧
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ネタバレ川上さんのあたたかいお人柄が感じられる本。幼少期の思い出から最近の小話まで、身近な話と季語の融合がよかった。
北窓開くーー冬の間締め切っていた北に向かう窓を、春が来たのでひいらく、という意味をもちます。ずっと耐えた冬がゆるみ、ようやく明るくあたたかい空気が北側の部屋にも入るようになった喜びを表しているのです。
春愁(はるうれい)ーー小説内では、ひとはしばしば恋に落ち恋に敗れ友と別れ大切なものをなくし、人生を憂え、深い哀愁を覚えるものなのです。
鯖ーー鯖の目が、大きくてつぶらだったこと。油がよく乗っていて、包丁が油まみれになったこと。内臓も豊かだったこと。などなど、お店で買ったのでは実感できないことを、たっぷりと味わいました。
蚯蚓ーー大蚯蚓空に桃色たなびけり(磯貝碧蹄館)
空に桃色がたなびく。きっと、夕方なのでしょう。夕焼けにもいろいろありますが、桃色にたなびいているのは、いかにも初夏の感じです。そこに、大みみずガイル。一抹の寂しさも感じてしまうのは、私の個人的な、みみずへの思いのためなのかもしれませんね。
木耳(きくらげ)ーームースーロー(卵、木耳、春雨、豚肉、長ネギを炒め合わせる中華のお惣菜)が食べたくなった。(食べたことない)
半夏生(はんげしょう、はんげしょうず)ーー
愉快系季語ー浮いてこい(お風呂の中などで遊ぶおもちゃ。中に空気が入っていて水に浮いてくることから、この名がある)・木の葉髪(晩秋から初冬の時期は、髪の毛が抜けやすいので、まるで木の葉が散るよう)・蛙の目借時(かわずのめかりどき:春に蛙がなく時期は、なんとなく眠い。蛙に目を借りられているようではないか)
素敵系季語ー春うれい、夜半の秋(よわのあき:秋の夜の中でも、いっそうふけわたった雰囲気である)・淑気(しゅくき:お正月の、和やかでめでたい感じ)
半夏生は、七十二候で言うと「夏至の末候」に当たる期間のことです。ちょうど梅雨が開け、田植えも周期になる時期ですが、同時に、その頃に生えるドクダミ科の植物のことも、「半夏生」と言うのです。時期と、植物と、両方の意味を持つ季語なのです。植物の半夏生は、水辺に生える、60センチほどの高さになる多年草。明るい色のは、白い穂のような花、名前の通り、素敵な植物です。ーー昨日まで、「全くどんどん増えて、邪魔だなあ」ちお思っていましたが、今日は折り取ってガラスの容器に刺し、一つ、愛でてやることとしましょうかね。
新米ーー歳を食ったなあと思う機会、川上さんが思うのは、「お米をやたら食べたくなったことと、お醤油味を求めるなったことです」。以前は、ご飯よりも、麺類が好き。ところが、あるときはっと気づくと、買い置きしておいたパスタが、ちっとも減っていないではありませんか。鳥や豚をフライパンで焼くときには、いつの間にか最後に必ずお醤油を十と鍋肌に滴らせるようになっているし、肉じゃがは以前のような白っぽい色ではなく茶色に染まっています。 ああ、ようやくアジアの、日本の人間になることが、できたんだ、と思いました。
案山子(かかし)ーー案山子は、神様の依代だという説を、随分前に聞いたことがあります。新生児は、神様が運んできてくださった命だとすれば、友達の細君のお里の、真夜中の田んぼに立っているカカシの一つに、今しもその命を運んできてくださった神様が休んでいらっしゃるのかもしれないな、なども思ったりして。
時雨(しぐれ)ーー「時雨」という言葉が、冬の間の寒い時期の、降って速水、病んではふる、物寂しい飴を刺すことを、はっきりと知ったのでした。しぐれ、という音の響きも美しいのですが、時雨、という感じも美しい。時折ふり、時折やむこの雨を、ずばり「時雨」と当てたのは、一体いつの時代の誰だったのでしょうか。
やがて、「時雨」が季語であることを知り、派生季語にも出会いました。「夕時雨」は、冬のすぐにくれる夕刻の時雨。灯った明かり越しに時雨をみている光景が目に浮かびます。「小夜時雨」は、夜の時雨。夜時雨、ではなく、小夜時雨であるところが、いいのです。ちなみに、「小夜」の「小」は言葉の調子を整えるための窃盗ご。「村時雨」は、少し強めの時雨が通り過ぎる様を表します。元々は「郡時雨」だったそうですが、現在は「村」の字を当てています。以前は、村に時雨が降っている光景なのかなと勘違いしていたのも、懐かしい記憶です。「片時雨」はあるところは降っているけれど、あるところは晴れている様。狐の嫁入り、という言葉もありますが、これは一年中使う表現。冬のこの時期だけは、片時雨、と呼びたい。狐だって、冬に寒い日に嫁入りするのは、躊躇うかも、と思うからです。
神の留守、大根
たくわん(祖母がなくなり、おばあちゃんのたくわんが食べられなくなった、と嘆いていたところ、お母さんが漬物をつけるのがうまかったことに対抗心を燃やして「漬物入門」に乗っていたレシピでつけたもの、ということを伝えたエピソードが好き)
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む(金子兜太)ー兜太のこの句、先の太平洋戦争のことを読んだものでしょうか。母と祖母の間にもあった、小さな「戦い」。葬儀の日、常々姑を煙たがっていた母は、さぞサバサバしているかと思っていたのですが、意外なくらいしょんぼりしていました。おばあちゃん、亡くなっちゃったね。ささやいた母の声は、少し震えて、しめっていました。
枯枝ーー枯木。枯蔓。枯芝。枯尾花。「枯〇〇」という季語が、俳句にはたくさんあります。冬になると、たくさんの植物は、歯を落とし、しぼみ、しんと静まりかえります。その姿を、「枯〇〇」と表現したわけですが、ここで注目すべきは、「枯」とついているからといって、マイナスイメージの季語である、というわけではないということです。青々としたときには、その勢いを。そして、茶色く枯れたときには、その寂寞とした静けさを。それぞれの持ち味を、差別せずに、ただありのままによしとする。それが、季語の精神なのだと、俳句の専売に教わりました。確かに、青々と茂っていたあたたかい季語のものに比べ、冬の景色の中にある植物は、茶色じみているし、水気をなくして小さくなってしまったように思えます。けれど、その姿をも愛でよう、というのが、俳句の心意気なのです。どんどん歳を食ってきて、精神の老化が身に降りかかってきている今改めて考えると、「その精神、素晴らしいですぜ」と、手を叩きたくなります。どうも最近、「人はいつまでも若くなければ」という風潮が強いような気がするのです。せっかく時を重ねて、それなりの侘び寂びを醸し出していい年齢になってきたのに、いつまでもツルツルはりはりとしていなければ女にあらず、という圧力を感じるような。
こたつーー「廃れつつあるもの」としてわかり人はかなり、姿を消しつつあることを寂しく思っているようなのです。「エアコンがあるから、いいんじゃないの?」と聞いたのですが、若い人は首を横に振り、「温まるためだけじゃなくて、こたつにはこたつの空間があるんです。あの一種、やる気を全て削ぐ空間。グダグダになっちゃうこたつの空間が、ものすごく恋しいです」とのこと。
炬燵出ずもてなす心ありながら(高浜虚子)わかる…。一度入ったら、2度と出られないこたつ。たとえお客がきjたとしても。炬燵は魔と快楽の暖房具。忙しない現代にこそ、残しておきたい道具ですよねと、若いひとと頷きあったことでありました。
春隣(はるとなり)ーー春を待ちかねる冬位頃よりも、もう少し春に近くなった頃の季感といえばいいでしょうか。すぐそこまで春は来ていて、その気配があちらこちらに感じられるのです。半分凍っていた小川の流れが、サラサラと軽い音に変わったり、木の根が膨らんできたり。冷たい一方だった風が、ほんの少しだけ何かの匂いを含むようになったり。窓越しに刺す日の光が、前よりも力強くなったり。でも、まだ春じゃない。この感じが好きです。やがてくる柔な金物を待つ、安心感。けれど、どこか頼りない心細さも少しあって。小さい頃から私は、楽しい時そのものよりも、その時を待っている間の方に、心弾みを感じることが多かったのです。 -
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ネタバレいつだって家族の中心にいたママが
病気になって死んでいくまでと、
都が本当に愛していた人は、弟の陵だったこと。
時々尋ねてきてくれる武治さんのこと。
パパは本当のパパではなくて、
ママの兄だったこと。
互いを思い合う姉と弟。
その思いは恋を超えている何か。
p39ママが
都たちが子供の頃の話をしているとき
当時は理解できなかったけれど、なんとなくママがわざとふざけているようにわたしは感じられた。
後年、ママは、子供を育てるなんてこと、不真面目にでもやらなきゃ、たまらない苦行だわよって打ち明けて
じゃあ、わたしや陵を育てるのも苦行だったのかと都が聞けば
いいえ、苦行じゃなかったわ。だって、不真面目に育てたからね。
って言うところが印象的で
粋なママだなあって、面白かったなあ。
自分とはあまりにもかけ離れている状況で
なんだかあんまり共感はできないのだけど
彼らの心情や文章の作り方書き方が絶妙で
うまいなあ、って。本当にすごい。 -
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ご当地ソングというのがあるが、ご当地小説も興味あるもので。
川上弘美『真鶴』
まさにそう、ご当地小説である。川上弘美氏(96年115回芥川賞)という作家も初だから興味があり、さらに地名にも反応して文庫版化なったのでさっそく読んだ。
「代表作」と帯にあるから芥川賞の『蛇を踏む』や他の作品を読んでいなくても、この方の雰囲気が解かるのか?そうだとすると、幽玄的な幻想の場面が色濃く深層心理に迫る、それでいてふんわり感がただよう作風だ。
ストーリーは失踪した夫を探して「東京」と「真鶴」往還して半島を彷徨う主人公の物語り。失踪した夫が「真鶴」と手帳に書き残したのが唯一の手がかりだったから。といっても『ゼロの焦点』のようなミステリ展開ではないけれども。
さまよう主人公には幽霊のような「ついてくるもの」がある。幻覚を見てしまう、その姿は失ったもの、去ったことを受け入れられない深い悲しみが表されている。
わたしがもっとも興にのったのはもちろん地名。わたしも「往復」もしていたし、そこが共感かも(笑)細かに述べられている風景、情景はその通りである。
それが小説の雰囲気をかもすなら、『ゼロの焦点』の能登半島と同じように観光誘致になる。しかし、江ノ島や鎌倉と同じにここも昔から東京近辺の手軽な遊興地ではある。いまさらである。
歩けるちいさな半島、突端の鬱蒼とした森、その下に集まる魚の宝庫の漁場。海の端の魚料理店数々。小説には出てこないが「小松石」の産地(といっても希少になったらしいけど)。その他源頼朝関係の史跡などいろいろ。
小説は半島をさまようことがメイン。発端、「京」という主人公がひとりで真鶴半島にて「鯵料理」を食する場面がある。
鯵たたき定食を頼んだ。
細かく叩いたものではない。親指の先ほどに切った鯵に、紫蘇とみじん切りの生姜をのせ、ぜんたいにねっとり歯ごたえがあるのは、あらかじめ醤油をからめてしばらく締めたからにちがいない。魚の粗でだしをとった味噌汁と大ぶりの茶碗に山に盛ってあるご飯と余さず食べた。
ひっそりとした海端の魚料理屋。窓には鳶やかもめが飛ぶ姿がみえる。ものさびしい。
だが、主人公が半島をさまように際して腹ごしらえするようでなんだかおかし味も感じる。しかしこの素朴な鯵料理はうまそうだよ。
そう「鯵」は安くておいしい!活きのいいものは尚、うまい!
刺身が一番だけれども、「たたき」各種類もいいし、叩いたものの磯辺揚げ、小鯵の南蛮漬け、アジフライ、干物、数え上げたらきりがない。
わたしが一番好きなのは活きのいいものを三枚におろしてさっと塩し、さっと酢で締めたもの。外側がすこし白くなって中身が生がいい。それを胡瓜の塩もみとまぜ合わせ、上にしらがねぎ載せ、すだちの絞り汁と醤油をたらす。紫蘇の大葉や生姜など刻んでをごちゃごちゃ入れないのがわたしの料理。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ留津とルツという女性のそれぞれの人生が比較するように書かれていて、
これは、一人の女性のパラレルワールド・・
この本を借りたときには、登場人物が森へ行くのかな‥と思っていたのですが、
一人の女性の生まれてから60歳までの人生を(男女、特に夫婦がテーマかな?)
淡々と読み進めていくうちに人生は、森を歩くようなもの・・という言葉で、やっと気が付きました。
森に入っていくときは、1本道だけど、目の前には幾本の道が伸びていて、どこへ向かって歩いていくか、その道がどうだったかなんて、その時はわからなくて、
歩いて行ってみて、振り返り、あれこれと考えあぐねるもの。
小説は、ほとんどが40代半ばまでにページが割かれていて、そのうちに第3、第4のルツが登場してくるので、多少整理が必要になるもの・・
なんといいますが、人生50歳を前にすると、日常に起きることなんて大してなくて、特に男女の色恋なんて、到底、エネルギーも失われていく年代で(大方・・)
少しずつ、森の出口に向かって(人生の終結)身辺を振り返って、少しあがいて見せて・・。
この小説は、60歳で終わっているけれど、今や 人生100年時代・・健康寿命が80歳としても、
このあと20年、健康でいられるという保険がないまま、ルツは、今後どうやって過ごしていくのか・・しら。