司馬遼太郎のレビュー一覧

  • 坂の上の雲(四)

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    正岡子規も亡くなり、戦争の色が濃くなる四巻。事実か私見かは謎だがなかなかの分量で乃木希典と伊地知幸介の指揮官としての無能ぶりにページが割かれていた。以前に乃木神社を訪れた時に受けた印象と真逆だったため不思議な感じがした。

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    2026年03月22日
  • 新装版 北斗の人(下)

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    ネタバレ

    「剣は理から入るほうがいい」
     というのが、周作の一貫した教授態度である。この若い流祖は、他の剣客のように哲学的用語をつかったり、剣と宗教と混同したような虚喝(こけおどし)な神秘的態度をいっさいとらない。
    「剣は理である」
     という態度を一貫してとった。剣禅一如とか神仏の現示などというようなことは口にもしなかった。
     その点「小天狗鞍馬流」という流名の宗家を名乗っている鹿子木一閑の兵法に対する態度とはひどくちがうといっていい。
     この点について一閑のさしまわした人物らしいのが、
    「いかがでありましょう、剣はついに神仏の境地のものであると申しますが」
     と、周作の存念をきいた。このころにはすでに周作の剣法は古来の剣法がもっていた神秘的権威をひきむしろうとするものだという評判が、世上に流布されている。
    「その神仏の境地というものを、私はまだ知らない」
     と周作は正直にいった。
    「あるいは年をかさねれば私もそういう境地に達するかもしれないが、達したところでそれは剣法とは別のものだろう。憲法はあくまでも理である」
    「しかし」
     と、その者は神秘的立場から駁論してきたが周作は笑って、
    「下駄の職人でも法華信者もあればそうでない者もある。法華を信ずればいい下駄がつくれるかといえばそうでもなかろう。いい下駄をつくる作らぬというのは、法華を信ずることと別のものだ。神仏の境などといっても撃ちあいに負けてはなにもならない」
     といった。
     この言葉は、伝統的な立場をとる鹿子木一閑に対し、そのまま挑戦の言葉になった。

     戦国末期以来、ひさしく停滞していた剣法は、周作の剣理によってあたらしく再組織され、万人が上達しうる道が発見された。このことは世間が待ち望んでいたことでもあったのだろう。諸藩でもこれが問題となり、あらそって周作を指南役に招こうとした。
     が、東条一堂は、
    「浪人でいよ」
     といった。登場自身がそうであった。一藩の需官や指南役になれば影響するところはその藩だけでしかない。浪人の自由な境涯においてこそあたらしい思想は天下に流布せしめることができるのだ、というのが東条一堂の意見であった。
     周作はその通りにした。
    諸藩はやむなく藩費による留学生として藩士を送り、周作に対してはそれらの教授料として捨て扶持をあたえた。尾張、加賀、肥後熊本、伊勢津、備後福山といった藩が、そういう関係を周作と結んだ。

     周作の編みだした体系の特徴は、剣術教授法の一新にある。
    「凡才でも一流たりうる」
     という法であった。このため水戸藩の剣術水準は飛躍的にあがった。
     周作には、子が多い。
     もともと剣技は天分に俟つところが多いため、多くの剣客の子は必ずしも剣客になることができないが、周作の子どもたちだけは例外であった。
    「それが北辰一刀流の特徴だ」
     といわれた。教授法の理論がすぐれているため、普通の素質でも天才的な域にまでひきあげることができる、ということの現実の証拠となった。

     司馬遼太郎は坂本龍馬、高田屋嘉兵衛などの合理主義精神をもつ人物の技術的能力に着眼して、その異能の人が歴史を衝き動かし、その流れを変えるに至る人生軌跡を好んで描いている。
     すぐれた鉄砲の技術者、雑賀孫一が奇数の鉄砲集団の技術を諸大名に売り込んで活躍するありようをとらえた「尻啖え孫市」、西洋の軍事技術を重視し、ミニエー銃、ガットリング機関砲を積極的に導入した、越後長岡藩の開明的な河合継之助を描く「峠」、医学と蘭学という技術学問に通じた長州藩の西洋式の軍事技術者、大村益次郎を通して、革命期に登場する人間と技術という主題を鮮明に映し出した「花神」など、数えあげると、〝技術史観〟による小説は実に多い。〝技術史観〟は、わたくしの造語で、司馬文学を解き明かすキーワードだ。(磯貝勝太郎)

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    2026年03月18日
  • 新装版 北斗の人(上)

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    ネタバレ

     周作は、天性の合理主義者らしい。
    古来、兵法というものは、その本質が徹底的な合理主義でできあがっているにもかかわらず、どの流儀も、流祖が神の啓示によって一流をひらいたとか、あるいは伝書の表現は組太刀の名称にも神秘的な名をつけたりして、外装を事々しい宗教性で包んでいる。
    (それが不快だ)
     と、周作はかねて思い、
    (自分は、そんなまやかしや誇張のない兵法を確立しよう)
     と念願していただけに、柏手のような呪術めいたしぐさをすることや、仏神に、接近することを、自分に禁じていた。
    (絶対者(おおきいもの)に随喜し、それに魂をあずけ、究極にはそれに同化してゆくことによって人間の自在の境地が出来、心境が天地のひろさにひろがり、剣に無碍の境地が確立する、ということはわかるが、それも齢をとってからのことだ。いま、左様な境地をもてばかえってわが剣を誤る)
    ときびしく思っている。いま周作がすべきことは、剣の運動律を創りあげること以外に何物もない。それをあいまいにする神仏などへの信仰は、毛ほどもあってはならない、とこの若者は思っている。
    秋が暮れ、冬がきた。やがて松戸で正月を越した。
    周作は中西道場で修業中、自ら学びつつもその内側で独創的な教授法を工夫しつつあったので、それが大いに近在に喧伝され、門人が飛躍的にふえた。
    松戸の近在の農夫や町人だけではない。下総にある佐倉藩、小見川藩、多胡藩、関宿藩、生実藩といった小藩の藩士のなかで、藩のゆるしをもらい、わざわざ松戸に宿をとって入門してくる者さえ出てきた。
    浅利又七郎ひとりが看板だったころにはなかった現象である。

    松戸で、年を越した。
    春が過ぎ、夏がきた。周作が松戸に帰ってきて一年もたたぬというのに、下総松戸の名物といえば剣術、という評判がしきりと喧伝されるようになっている。
    「浅利道場の小先生に学べば、他道場で五年のところが三年で上達する」
     という評判が江戸にひびきわたるようになった。
     周作は、自分でも他人を教えるようになってから気づいたことだが、かれには、剣の先人たちがかつて持ったことのない特殊な才能があるようであった。
     分析の能力である。既成の兵法から原理をさぐりだし、その技術をこまかく分析し、いったんばらばらに解体してしまってからあたらしく組み立てるという能力であった。
    (悪魔の能力だな)
     と、われながらおそろしくなるときがある。兵法とは伝統技芸である。
     流祖は神のようなものだ。伝書は神の書であり、それを汲む師匠は司祭者の神聖をもっている。
     弟子は、ひたすらにそれを信奉するだけでいい。疑問をおこしてはいけないし、それをおこすことほど不道徳はない。
     厳として、この世界はそうなっている。背く者は謀反人である。が、周作は、つい意識することなく流儀の技法を分析解体してしまい、あたらしく再組織してひとに教える。
     だから門人にとってはひどくわかりやすいのである。
     余談だが、古来、兵法の流祖というのは無学な者が多い。それが一流を興し、伝書をつくりあげるとき、学問のある禅僧などに頼んで剣の「教義」を書いてもらった。
     自然、文章が晦渋で、なにが書かれているのかわからぬものが多い。わからぬことがむしろ尊げにみえる、という点も兵法教義の晦渋さのねらいにもなっている。

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    2026年03月18日
  • 街道をゆく 8

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    (2021/9/1)

    「街道をゆく」シリーズ。

    単純に熊野の紀行文かと思ったら、主として「若衆」という(日本)独特の風習への関心であった。大陸からの儒教文化とは決定的に違う、日本の文化習俗の原点を見る。

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    2026年03月07日
  • 坂の上の雲(二)

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    前の巻に比べると出だしが冗長な感じがしたが、子規の項からまた疾走感が出てきて読み応えがあった。
    「中道は支持されにくい」という文章、選挙の後だけに納得。
    かきがらがついたら落とさないとならないという真之の言葉は心に残る。

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    2026年03月05日
  • 胡蝶の夢(一)

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    読み始めました。
    4巻のうち1巻目なので、これから面白くなるのかなという感じ。伊之助が人間臭くて良いです。ところどころ荘子が出てくるのも、タイトルの伏線回収をしてくれそうで期待です。

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    2026年03月01日
  • 翔ぶが如く(九)

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    片山潜 大山巌 大山綱良 黒田清隆
    会津の敵が薩軍。官軍ではなく。ここが面白い。戊辰の復讐。
    P160上代の隼人が翔ぶが如く襲い、翔ぶが如く退いたという集団の、、、

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    2026年03月01日
  • 翔ぶが如く(九)

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    西郷は大いなる欠落者であったという司馬の考えに頷くところがあった。
    何故、人吉で自害しなかったのか。
    西南戦争に参加した会津藩出身者の悲哀に涙が落ちる。

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    2026年02月20日
  • 翔ぶが如く(一)

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    西郷隆盛の人となりや西郷を取り巻く人々の様子を描いており、幕末から明治までの様子を立体的に知ることができた。司馬遼太郎作品は、カメラを引き気味で撮っているような描写が多く、全体像を知るにはちょうどいい。

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    2026年02月16日
  • 坂の上の雲(六)

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    ネタバレ

    旅順を攻略した日本軍は、北方で黒溝台会戦に臨んでいた。ストーリーとしては狭間にあたり、大きな戦闘はあまり描かれない巻だが、明石元二郎によるロシア内部の革命勢力への働きかけ、いわゆる諜報行為が入念に描かれ、これが日本の勝利に大きな意味を持つ。ロシア政治の腐敗はたびたび言及されてきたが、その機にうまく乗じて内部からも国を壊そうとした日本軍には、やはり時の運があったと感じさせられる。

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    2026年02月15日
  • ペルシャの幻術師

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    好きな作家である司馬遼太郎のデビュー作ということで買って読みました。
    鉄木真を「テムジン」と読ませるのがすごい。
    1冊まるごと、蒙古ストーリーだったら良かったのに残念。

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    2026年02月05日
  • 街道をゆく 40

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    かつて住み、自分で運転して(自己開車)全島周った景色を思い出しつつ読んだ。
    阿里山、赤嵌城、烏山頭水庫、知本温泉などなど、あゝなつかしい。

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    2026年02月05日
  • 世に棲む日日(一)

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    幕末の長州藩について
    知りたいと思った。
    吉田松陰と高杉晋作、
    二人の若者の人生と
    苛烈な旅に出た。

    「世に棲む日日」は長編だ。
    全4巻。そのなかに
    吉田松陰と高杉晋作の
    短くも波乱万丈な人生が
    余すところなく語られている。

    吉田松陰。長州藩で生まれる。
    29歳で処刑される。

    高杉晋作。長州藩で生まれる。
    28歳で亡くなる。

    吉田松陰は
    文政13年8月4日、
    1830年9月20日に
    長州萩城下松本村で
    長州藩士である
    杉百合之介の次男として生まれる。

    叔父で山鹿流兵学師範である
    吉田大助の養子となり、兵学を収める。

    大介死亡ののち、
    叔父の玉木文之進が開いた
    松下村塾で薫陶を受ける。

    9歳で明倫館の兵学師範に
    就任するなど才能を発揮し、
    松下村塾でも塾生を指導する。
    この塾から、
    高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など
    多くの人材が輩出され、
    まさに明治維新の長州における
    揺籃期を作り上げた。

    その人生は行動力に満ちている。
    兵学を極めながら、その限界を知り、
    西洋の兵学を学ぼうとする貪欲さに満ち、
    さらには江戸に出て多くの人々と交流し、
    幕府の命令に背いてでも、
    アメリカに密航としようと試みた。

    尊王攘夷の礎を築いた
    長州藩の思想的偉人であり、
    幕府に背いたことにより、
    最期は獄中で死すが、
    その思想は塾生たちに
    脈々と受け継がれていく。

    高杉晋作。
    天保10年8月20日、
    1839年9月27日に
    長州萩城下菊屋横丁で
    長州藩士である
    高杉小忠太の長男として生まれる。

    学の才能があり、
    吉田松陰の松下村塾に学ぶ。
    師の松陰が捕らえられた際は
    江戸で獄中の師の世話をした。

    防長一の美人とされた
    雅と結婚する。

    しかし、家には落ち着かず、
    藩の所有する丙辰丸に乗船し、
    江戸へ渡ったと思えば、
    すぐに海軍を辞め、
    江戸で剣術の稽古や
    人々との交流を行う。

    さらに長崎から中国に渡り、
    世界情勢を知る。

    帰国後は長州藩で吹き荒れた
    尊王攘夷運動に加わり、
    江戸や京都で活動を行う。

    長州藩は関門海峡において
    外国船砲撃を行うが、
    これが米仏の怒りを買い、
    下関戦争で惨敗する。

    晋作は
    この後、下関防衛を任され、
    志願兵による奇兵隊を結成し、
    防衛に当たるも、
    すぐに総監を辞める。

    京都で尊王攘夷で
    勢いがあった長州藩だったが、
    おごれる平家久しからずやで
    薩摩藩と会津藩による
    八月十八日の変で追放される。

    晋作は脱藩し、京都へ潜伏するが、
    帰郷後、脱藩の罪で投獄の身となる。

    英仏米蘭の4か国連合艦隊が
    下関を砲撃し、占拠されると
    晋作は赦免され、和議交渉を任される。

    しかし、長州藩内には尊王攘夷が吹き荒れ、
    そのなかで外国と講和するなどは
    もってのほかとされ、
    長州藩上層部の日和見により、
    危険を感じた晋作は逃亡する。

    この時期、長州藩は
    藩内では尊王攘夷派が主流を占め、
    一方、外国からの圧力と
    江戸幕府からの長州征伐の動きがあり、
    立ち行かない状況にあった。

    長州藩は幕府への恭順止むなしとする
    俗論派が台頭していたが、
    晋作は逃亡先から舞い戻り、
    わずかな兵で功山寺で挙兵。
    追いつめられていた奇兵隊たちも
    加わることにより、
    俗論派の首魁である椋梨 藤太を排斥して
    藩の実権を握る。

    直後、晋作は伊藤俊輔(伊藤博文)とともに
    英国渡航を試み、長崎に向かうが、
    ここでトーマス・グラバーに諭され、
    渡航を断念する。
    さらに下関開港を勧められ、
    その動きを見せたが、
    尊王攘夷派・俗論派の両派に命を狙われたため、
    再び、逃亡する。

    時機を見て舞い戻った晋作は
    再度の長州征伐に備え、
    防衛強化を進める役割を命じられ、
    丙寅丸を購入する。
    さらに薩長同盟の礎を築いていく。

    そして、第二次長州戦争、
    いわゆる四堺戦争で
    海軍総督として戦闘指揮を執り、
    幕府軍を敗走させている。
    この敗北が決定打となり、
    幕府の権威は失墜し、
    大政奉還へとつながっていく。

    この戦争直後、
    晋作は肺結核を患い、
    下関で療養するも死去した。

    辞世の句が有名だ。

    おもしろき こともなき世を
        おもしろく

    吉田松陰と高杉晋作。
    長州藩の二人の若武者は
    短い間にみるみる
    成長を遂げていくのが
    驚異的に思えた。
    30歳にもならない、
    若さでそれぞれに事を成し遂げる。

    幕末という時代に、
    長州藩が果たした役割は
    この思想と実践の
    男たちによるものだ。

    のちの明治新政府の
    要人たちは
    この時点では
    まだ若造なのが
    さらに興味深い。

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    2026年02月01日
  • 新装版 箱根の坂(中)

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    今川家の後継者問題を解決する。
    結果、今川氏親から駿河国の「興国寺城」を拝領。

    氏親は、北川殿(千萱)と今川義忠の子供。
    幼名は竜王丸(りゅうおうまる)。
    1476年に父義忠は戦死。

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    2026年01月31日
  • 竜馬がゆく(五)

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    池田屋の変を新撰組以外の目線で見ることがなかったので新鮮だった。
    長州藩、薩摩藩それぞれの性格が知れた。

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    2026年01月29日
  • 義経(下)

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    司馬遼太郎の長篇。
    源頼朝と源義経を軸に、源氏が平氏の天下を覆して鎌倉幕府の基礎を築いていく様を描いた小説。

    義経は、父・義朝が平氏との争いに敗れたことで、身分を隠して鞍馬山に入れられ、そこで幼少期を過ごす。元服後、奥州藤原氏に一時滞在した後、挙兵した頼朝の下に参集した。

    義経は生まれながらに天才的な武将・軍略家であった。その素質によって木曾義仲を破り(一ノ谷の戦い)、続いて屋島と壇ノ浦の戦いで、戦力的に圧倒的不利だったにも関わらず、平家追討を成し遂げた。

    しかし、義経はその軍才とは裏腹に、致命的に政治感覚がなく、それが故に最終的には頼朝に殺されてしまう。

    義経には感嘆すべき勇敢さはあっても、人心の表裏を考え、世間を思惑し、配慮し、自分の保身を考えるという感覚が危険なほどに未熟だった。そのため、異母兄であった頼朝に危険視され、排除されてしまったのだ。

    彼はその裏表のなさと情の深さによって、(著者曰く)日本ではじめての人気者になった。これがどこまで真であるかはさておき、現在でも人気があるのは間違いない。
    ただし、政治的革命を目指す頼朝の信頼を得るには、考えなしで不安定過ぎたのだ。

    ここから得られる教訓は、人は生まれ持った才能だけでは世に憚ることはできないということだ。自らの才能を俯瞰的に自覚し、その上で戦略を設計し、着実に実行しなければ天下はとれない。

    反対に、先天的な才覚は乏しかったが、執念深くこれに取り組むことができた頼朝は革命を成すことができた。

    また、この時代の武士たちは、我々がイメージするような人情深く、忠義に厚く、名誉を重んじる姿とは異なる。忠義や義理よりも実利を重んじ、利害で動く。
    だからこそ、頼朝の戦略は上手くいったのだ。

    我々が武士に抱くイメージは、江戸後期、安定した政権下で支配階級、一種の貴族的階級となったことで生まれた価値観だということだ。

    これは興味深い事象だと感じた。

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    2026年01月26日
  • 人斬り以蔵

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    武士として生きるというのは、なかなか厄介だと思った。『おお、大砲』では、江戸時代の格式ばった(ある意味)アホらしいしきたりに笑ってしまいつつも、現代でもそういう部分が残っているなぁと新鮮に感じられた。

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    2026年01月24日
  • 豊臣家の人々 新装版

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    わりと俯瞰的に書かれてることもありそれほどのめり込むという感じにはならなかったが政治的でおもしろい。周りはずいぶん振り回されたかもしれないが、何より家柄の時代に諸説あるが百姓程度の人間が一代限りとはいえ天下を取ったんだから大したものだ。

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    2026年01月19日
  • 新史 太閤記(上)

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    上巻では秀吉の出世が中心で、秀長の登場はごくわずかですが、秀吉の人物像が多く描かれていました。特に、「猿のやり方」を見て信長が驚く場面、最初から最後まで調略と謀略で動き、合戦はその一部に過ぎない、の描写が印象に残ります。秀吉のずる賢さと人の心をつかむ巧みさ、普通の武将とは違う魅力があるようです。竹中半兵衛とのシーンも多く、ドラマもあわせて楽しみたい。

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    2026年01月17日
  • 関ヶ原(下)

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    なるほど。
    いつの時代も、義より利。関ヶ原とは裏切りの戦さであったとの知識でしたが、それはこういう世界線の中で生まれるものだったのかと。
    よく理解できました。

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    2026年01月05日