司馬遼太郎のレビュー一覧
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1975年に書かれたものらしい。
司馬遼太郎の文章を読むのは初めてだ。読みにくさを先に挙げておきたい。
まず登場人物がひたすら多い。
事実と感想と感嘆などが混合されていること。
時勢も、現代の話になってタクシーで墓参りにいったり、阪大在籍時代の話になったりしながら幕末の話にもどる。
ただ、最初に、小説のようなエッセイのようなものとして書き始めている宣言があるため、咎め抜き通すことはできない。そう断っている以上、そのような構造の文章になるのは織り込み済みで、読者にリテラシーが求められるのだ。
断片的に知っている松下村塾の吉田松陰のことを掘り下げたいために読み始めた。若くして散った維新の獅子たちのうちの一人だ。 -
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美濃を征服した斎藤道三だが義理の息子義竜の反乱にあい死亡する。斎藤道三の天下統一の夢は義理息子である織田信長と弟子のように可愛がっていた明智光秀へと受け継がれていく。信長は斎藤道三の窮地を救うため兵を出すも屈強な美濃兵に惨敗し、その後も美濃への侵攻は失敗を繰り返す。そんな中駿河の今川義元が京へ上る最中に奇襲をし見事打ち破ることに成功。一方明智光秀は斎藤道三から逃げてお万阿へ自身の美濃での生活を伝えるように指示して京へと逃げることとなる。自身の立身を考えながら世間を放流するうちに足利将軍家の側近細川藤孝と関係を持つようになり足利将軍を再度復興させることに尽力する。一時は朝倉家に身を寄せるもの将軍足利義輝が松永久秀に暗殺される事件が発生したことで運命が変わる。次期将軍の資格がある義輝の弟覚慶の救出作戦に参加してさらに身分が上がっていく。
義竜の反乱後美濃は安定していたが義竜の急死後乱痴気騒ぎばかりしていた息子竜興に不満のある部下の竹中半兵衛が稲葉山城を占領、藤吉の部下となり織田信長は美濃を制圧することに成功する。
作者は信長より光秀のことが好きなんだなと読んでて感じる。光秀の信長に対する嫉妬がすごいしその気持ちが後の事件につながってくるのか。 -
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土岐頼芸を引き立てて美濃を統一する庄九郎の後半が描かれている。小守護で藤左衛門こと長井利安を謀反人とて討つが美濃地侍の反感をかい道三として一度出家するも彼の人望や同門の日護上人の運動で再度美濃に舞い戻る。頼芸を欲に没頭されるために城を奥地へと移動させ自身は金華山に城を築き磐石の体制を整えていく。頼芸の弟たちや息子頼秀らが反乱を起こそうとした際にもすぐに鎮圧し、頼芸自身も追い出し名実ともに美濃の主となる。隣国尾張の織田信秀は幾たびも美濃に出兵するが斎藤道三の策略により連戦連敗するところでおわり。
庄九郎のすごいところはやっぱり身軽さ、京と美濃を健脚で移動することが彼の活躍を支えていると思う。あと美濃に比重を置きつつも山崎屋のことしいてはお万阿のことを生涯かけて気にかけているのも律儀だなと。
このあと信長が出てくるが話の展開が楽しみ。 -
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ネタバレ「剣は理から入るほうがいい」
というのが、周作の一貫した教授態度である。この若い流祖は、他の剣客のように哲学的用語をつかったり、剣と宗教と混同したような虚喝(こけおどし)な神秘的態度をいっさいとらない。
「剣は理である」
という態度を一貫してとった。剣禅一如とか神仏の現示などというようなことは口にもしなかった。
その点「小天狗鞍馬流」という流名の宗家を名乗っている鹿子木一閑の兵法に対する態度とはひどくちがうといっていい。
この点について一閑のさしまわした人物らしいのが、
「いかがでありましょう、剣はついに神仏の境地のものであると申しますが」
と、周作の存念をきいた。このころにはすでに周作の剣法は古来の剣法がもっていた神秘的権威をひきむしろうとするものだという評判が、世上に流布されている。
「その神仏の境地というものを、私はまだ知らない」
と周作は正直にいった。
「あるいは年をかさねれば私もそういう境地に達するかもしれないが、達したところでそれは剣法とは別のものだろう。憲法はあくまでも理である」
「しかし」
と、その者は神秘的立場から駁論してきたが周作は笑って、
「下駄の職人でも法華信者もあればそうでない者もある。法華を信ずればいい下駄がつくれるかといえばそうでもなかろう。いい下駄をつくる作らぬというのは、法華を信ずることと別のものだ。神仏の境などといっても撃ちあいに負けてはなにもならない」
といった。
この言葉は、伝統的な立場をとる鹿子木一閑に対し、そのまま挑戦の言葉になった。
戦国末期以来、ひさしく停滞していた剣法は、周作の剣理によってあたらしく再組織され、万人が上達しうる道が発見された。このことは世間が待ち望んでいたことでもあったのだろう。諸藩でもこれが問題となり、あらそって周作を指南役に招こうとした。
が、東条一堂は、
「浪人でいよ」
といった。登場自身がそうであった。一藩の需官や指南役になれば影響するところはその藩だけでしかない。浪人の自由な境涯においてこそあたらしい思想は天下に流布せしめることができるのだ、というのが東条一堂の意見であった。
周作はその通りにした。
諸藩はやむなく藩費による留学生として藩士を送り、周作に対してはそれらの教授料として捨て扶持をあたえた。尾張、加賀、肥後熊本、伊勢津、備後福山といった藩が、そういう関係を周作と結んだ。
周作の編みだした体系の特徴は、剣術教授法の一新にある。
「凡才でも一流たりうる」
という法であった。このため水戸藩の剣術水準は飛躍的にあがった。
周作には、子が多い。
もともと剣技は天分に俟つところが多いため、多くの剣客の子は必ずしも剣客になることができないが、周作の子どもたちだけは例外であった。
「それが北辰一刀流の特徴だ」
といわれた。教授法の理論がすぐれているため、普通の素質でも天才的な域にまでひきあげることができる、ということの現実の証拠となった。
司馬遼太郎は坂本龍馬、高田屋嘉兵衛などの合理主義精神をもつ人物の技術的能力に着眼して、その異能の人が歴史を衝き動かし、その流れを変えるに至る人生軌跡を好んで描いている。
すぐれた鉄砲の技術者、雑賀孫一が奇数の鉄砲集団の技術を諸大名に売り込んで活躍するありようをとらえた「尻啖え孫市」、西洋の軍事技術を重視し、ミニエー銃、ガットリング機関砲を積極的に導入した、越後長岡藩の開明的な河合継之助を描く「峠」、医学と蘭学という技術学問に通じた長州藩の西洋式の軍事技術者、大村益次郎を通して、革命期に登場する人間と技術という主題を鮮明に映し出した「花神」など、数えあげると、〝技術史観〟による小説は実に多い。〝技術史観〟は、わたくしの造語で、司馬文学を解き明かすキーワードだ。(磯貝勝太郎) -
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ネタバレ周作は、天性の合理主義者らしい。
古来、兵法というものは、その本質が徹底的な合理主義でできあがっているにもかかわらず、どの流儀も、流祖が神の啓示によって一流をひらいたとか、あるいは伝書の表現は組太刀の名称にも神秘的な名をつけたりして、外装を事々しい宗教性で包んでいる。
(それが不快だ)
と、周作はかねて思い、
(自分は、そんなまやかしや誇張のない兵法を確立しよう)
と念願していただけに、柏手のような呪術めいたしぐさをすることや、仏神に、接近することを、自分に禁じていた。
(絶対者(おおきいもの)に随喜し、それに魂をあずけ、究極にはそれに同化してゆくことによって人間の自在の境地が出来、心境が天地のひろさにひろがり、剣に無碍の境地が確立する、ということはわかるが、それも齢をとってからのことだ。いま、左様な境地をもてばかえってわが剣を誤る)
ときびしく思っている。いま周作がすべきことは、剣の運動律を創りあげること以外に何物もない。それをあいまいにする神仏などへの信仰は、毛ほどもあってはならない、とこの若者は思っている。
秋が暮れ、冬がきた。やがて松戸で正月を越した。
周作は中西道場で修業中、自ら学びつつもその内側で独創的な教授法を工夫しつつあったので、それが大いに近在に喧伝され、門人が飛躍的にふえた。
松戸の近在の農夫や町人だけではない。下総にある佐倉藩、小見川藩、多胡藩、関宿藩、生実藩といった小藩の藩士のなかで、藩のゆるしをもらい、わざわざ松戸に宿をとって入門してくる者さえ出てきた。
浅利又七郎ひとりが看板だったころにはなかった現象である。
松戸で、年を越した。
春が過ぎ、夏がきた。周作が松戸に帰ってきて一年もたたぬというのに、下総松戸の名物といえば剣術、という評判がしきりと喧伝されるようになっている。
「浅利道場の小先生に学べば、他道場で五年のところが三年で上達する」
という評判が江戸にひびきわたるようになった。
周作は、自分でも他人を教えるようになってから気づいたことだが、かれには、剣の先人たちがかつて持ったことのない特殊な才能があるようであった。
分析の能力である。既成の兵法から原理をさぐりだし、その技術をこまかく分析し、いったんばらばらに解体してしまってからあたらしく組み立てるという能力であった。
(悪魔の能力だな)
と、われながらおそろしくなるときがある。兵法とは伝統技芸である。
流祖は神のようなものだ。伝書は神の書であり、それを汲む師匠は司祭者の神聖をもっている。
弟子は、ひたすらにそれを信奉するだけでいい。疑問をおこしてはいけないし、それをおこすことほど不道徳はない。
厳として、この世界はそうなっている。背く者は謀反人である。が、周作は、つい意識することなく流儀の技法を分析解体してしまい、あたらしく再組織してひとに教える。
だから門人にとってはひどくわかりやすいのである。
余談だが、古来、兵法の流祖というのは無学な者が多い。それが一流を興し、伝書をつくりあげるとき、学問のある禅僧などに頼んで剣の「教義」を書いてもらった。
自然、文章が晦渋で、なにが書かれているのかわからぬものが多い。わからぬことがむしろ尊げにみえる、という点も兵法教義の晦渋さのねらいにもなっている。